東雲に追われて 3
息が、続かない。
吸っているのに、足りない。
喉が鳴る。空気が薄いみたいに、うまく入ってこない。
それでも足は止めない。
止めた瞬間に、終わるから。
商店街のアーケードに飛び込む。
シャッターは半分以上閉まっていて、明かりもまばらだ。
蛍光灯の白い光が、床に長く伸びている。
誰もいないはずなのに、どこかに視線を感じる。
走るたびに、足音が反響する。
バン、バン、バン――
その音に、もう一つ重なる。
バン、バン、バン!!
後ろから。
同じリズムで、いや、それ以上に荒く。
彼女も全力で走っている。
振り返らなくてもわかる。
呼吸の音が近い。
靴が床を強く蹴る音が、すぐ後ろで弾ける。
「……はっ、はっ……!」
喉の奥で音が鳴る。
胸が上下するたびに、痛みが走る。
足が重い。
さっきよりも、明らかに動きが鈍くなっている。
それは――彼女も同じはずなのに。
足音は、消えない。
むしろ、離れない。
距離が、維持されている。
――なんでだよ。
歯を食いしばる。
限界に近いのは、同じはずなのに。
なのに、彼女は追ってくる。
止まらない。
諦めない。
自分を、逃がさない。
アーケードを抜けると、今度は細い路地が続く。
古い建物が並んでいる。
壁が近い。逃げ道が少ない。
足を踏み外せば、すぐに転びそうな道。
それでも走る。
壁に手をつきながら、体を支えて、無理やり前へ。
その時――
背後で、何かがぶつかる音。
ガンッ、と鈍い音。
振り返る。
彼女が壁に肩を打ちつけている。
一瞬だけ体勢を崩している。
それでも。
すぐに立て直す。
顔を歪めて、痛みをこらえて。
そのまま、また走り出す。
スピードを落とさずに。
その姿に――
胸の奥が、嫌な形で締めつけられる。
痛いはずなのに。
苦しいはずなのに。
それでも追ってくる。
そこまでして――
「……なんでだよ……」
言葉が漏れる。
わかっているくせに。
理由なんて、もう。
*
「痛っ」
彼女が小さく声を上げた。
その時も、似たような顔をしていた。
少しだけ眉を寄せて、でも大げさにはしない。
「ほら、言ったじゃん。気をつけろって」
「大丈夫だって」
そう言いながら、彼女は手を引っ込めようとする。
指先に、ほんの小さな傷。
赤い線が、うっすらと浮かんでいる。
料理中だった。
キッチンに立って、並んで。
特別な日でもなんでもない、普通の夜。
「大丈夫じゃないだろ」
手を取る。
彼女の手は、少しだけ冷たかった。
指先に触れると、わずかに震えているのがわかる。
「消毒するから、じっとしてろ」
「平気だって、それくらい」
「いいから」
少しだけ強く言うと、彼女は黙る。
そのまま、こちらを見る。
じっと。
何かを確かめるみたいに。
でも、すぐに視線を外して、
「……優しいね」
と、小さく言った。
「普通だろ、これくらい」
「普通、ね」
彼女は少しだけ笑う。
「じゃあさ」
「ん?」
「私が、もっと怪我したらどうする?」
軽い調子で言う。
冗談みたいに。
だから――
「そりゃ、もっとちゃんと手当てするよ」
深く考えずに、そう答えた。
「ふーん」
彼女は頷く。
それで終わると思った。
でも。
「じゃあさ」
もう一度、同じ調子で続ける。
「私が、いなくなりそうだったら?」
その言葉だけが。
少しだけ、重かった。
空気が、わずかに止まる。
「……は?」
意味がわからなくて、聞き返す。
彼女は笑っている。
いつも通りに。
「なんでもない。変なこと言たわね」
そう言って、話を切る。
そのまま、何事もなかったみたいに料理を続ける。
あの時の自分は、深く考えなかった。
*
「……っ!」
現実に引き戻される。
足がもつれる。
今度こそ、踏ん張りが効かない。
体が前に倒れる。
地面に手をつく。衝撃が腕に走る。
痛い。
でも、それどころじゃない。
すぐに立ち上がろうとする。
足に力が入らない。
震えている。
限界だ。
体が、動くことを拒んでいる。
その間にも――
足音が迫る。
止まらない。
彼女も限界のはずなのに。
それでも、止まらない。
「……はっ……はっ……!」
彼女の呼吸が、すぐ近くで聞こえる。
荒い。
苦しそうな音。
それでも――近づいてくる。
立て。
立て。
無理やり体を起こす。
足が震える。
それでも走る。
引きずるようにでも、前へ。
振り返る。
彼女がいる。
すぐそこに。
顔は汗で濡れている。髪が張り付いている。
息は限界まで乱れている。
それでも目だけは、強くこちらを見ている。
執着。
それに近い何か。
いや――
それだけじゃない。
もっと複雑で、壊れかけた感情。
「……っ!」
目が合う。
一瞬だけ。
その瞬間、体が凍る。
逃げなきゃいけないのに。
逃げたくないような、感覚が混ざる。
――違う。
首を振る。
走る。
逃げる。
もう、止まれない。
止まったら――
きっと。
全部、終わる。
夜の路地を、二人の足音が乱暴に駆け抜けていく。
互いに限界に近づきながら。




