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第8章「魔王、チュートリアルに来る」

 その朝、天使さんの顔色が悪かった。


 普段キラキラしている肌がマットになっていて、ファンデーションの仕上げを間違えた美容系インフルエンサーみたいになっている。


「魔王が来ます」


「おはよう、天使さん。ごはん食べた?」


「食べてません聞いてください。魔王がここに向かっています」


 スープを差し出したけど受け取ってもらえなかった。相当切羽詰まっている。


「あの魔王が? わざわざここに?」


「はい。スライム軍がいくつかの拠点を制圧した報を受けて、発信源であるこのチュートリアルに直接乗り込んでくると」


「へぇ。うちの子たち、目立っちゃったんだ」


「目立っちゃった、じゃないです!」


 天使さんが叫んだ。この人が声を荒らげるのは珍しくなくなったけど、今日のは本気の響きがあった。


「……ひよりさん。魔王は本当に危険です。外の世界では勇者たちが束になっても止められなかった相手です」


「うん」


「なのに、なぜそんなに落ち着いているんですか」


「だってここ、チュートリアルだし」


 天使さんが一瞬きょとんとして、それから額に手を当てた。


「——ああ、レベル制限。そうでした。チュートリアルエリアに入った者は全員レベル1に弱体化される」


「でしょ? 魔王もレベル1。うちのスライムたちと同じ」


「同じにはならないと思いますが……」


 まあ、理屈の上ではそうだ。来るならこの場所のルールに従ってもらう。それだけ。


 ——異変が起きたのは、昼過ぎだった。


 空が暗くなった。


 比喩じゃなくて、本当に暗くなった。草原の向こうから紫色の靄がにじみ出して、空の青を塗りつぶしていく。スライムたちがざわざわと身を寄せ合った。住民たちも広場に集まってくる。


 靄の中から、足音がした。


 現れたのは、黒いローブを纏った長身の男だった。フードの奥に赤い目が光っている。——禍々しい。でも少しフードがでかすぎて片方の目しか見えていなくて、そこはちょっと間抜けだった。


「我は魔王——」


 ずん、と魔力の圧が降ってきた。


 ——はずだった。


 びりっ、と空気が震えて、何かがバチンと弾けた。紫の靄がぱっと消えた。空が一瞬で青に戻る。


 ——あ、この音。初日に短剣を包丁にした時にも聞いた。集落が大きくなった頃にも。たぶん、チュートリアルのシステムが「想定外です」って文句を言っている音だ。


 システムのレベル制限が発動したのだ。


 魔王が立ち尽くしていた。自分の手を見下ろしている。握って、開いて、もう一度握って。


「……なんだ、これは。力が——」


「レベル1になったんだよ。ここ、チュートリアルだから」


「なに?」


「全員レベル1。魔王も勇者も関係ない。そういうルール」


 魔王の赤い目がこっちを向いた。さっきまでの威圧感はなくなって、フードの奥の表情は困惑に近い。


 その隙にスライムたちが動いた。


 土スライムたちが壁を作り、水スライムたちが周囲をぐるりと囲み、火スライムたちが警告のようにぽっぽと光る。新人たちのスライム防衛陣形。転生者が来るたびにやっているやつだ。


 魔王が手を振った。魔法を放とうとしたのだろう。——何も起きなかった。レベル1で撃てる魔法なんてない。


「……馬鹿な」


「ね、お茶でも飲まない?」


「は?」


「座って話しましょうよ。立ち話もなんだし」


 魔王が完全に固まった。台本にない展開に出くわした時、人は同じ顔をする。人じゃないかもしれないけど。


「——何を企んでいる」


「企んでないよ。単にお茶が淹れたてで美味しいから」


 料理スライムが絶妙なタイミングでお茶を運んできた。土器のカップに薬草茶。天使さんが初めて飲んだ時に「意外と美味しい」と言った自信作だ。


 魔王は受け取らなかった。スライムの壁に囲まれたまま、赤い目でこちらを睨んでいる。


「お前が、ここの長か」


「長っていうか……いつのまにかそうなっただけだけど。私はひより。元OL。そっちは?」


 魔王は答えなかった。


「まあいいけど。——ねえ、とりあえず座ったら? 地面冷たくないよ、このへん日当たりいいから」


 お茶をテーブルに置いた。


 魔王は座らなかった。しばらく立ったまま、周りのスライムの壁を見ていた。


「……こいつら、俺を怖がらないのか」


 あ、「我」じゃなくなった。


「レベル1だからね、今」


「…………」


 魔王はゆっくりフードを下ろすと、テーブルの前に座った。若い男の顔だった。たぶん二十代。目の下に隈がある。なんか覚えのある顔色の悪さだ。あれだ、繁忙期の私だ。


 お茶に手を伸ばすまで、しばらくかかった。一口飲んで、何も言わなかった。でも二口目を飲んだから、たぶん嫌いじゃなかったんだろう。


 ぷるるが魔王の足元でぽよんと跳ねた。魔王がびくっとした。世界を恐怖に陥れた魔王がスライムにびびっている。


「大丈夫、挨拶してるだけ」


「…………」


 ぷるるは気にせずぽよぽよしている。たぶんお茶のおかわりを催促しているだけだ。


「で、この後どうするの」


「…………」


「帰るとこあるの?」


「……余計なお世話だ」


「あるならいいんだけど」


 魔王が黙った。お茶のカップを両手で持ったまま、何も言わなかった。


「ないなら、ここにいれば?」


「……何?」


「ここ。チュートリアル。レベル1でいいなら住めるよ」


「……俺は魔王だぞ」


「元魔王でしょ、レベル1の。うちは元OLがトップやってるし、気にしなくていいよ」


 魔王がお茶を持ったまま固まった。今日この人が固まるの三回目だ。


「……正気か」


「うちの住民、全員に同じこと言われてるから。大丈夫、だいたいみんな三日で慣れる」


 スライムたちが壁を解除し始めた。料理スライムがもう一杯お茶を淹れている。空気を読む力だけで言えばうちのスライムたちは世界最強だと思う。


 魔王は何も言わなかった。


 ただ、お茶を飲み終わるまで立ち上がらなかった。


 ——その夜。


 みんなが寝静まった後、私は焚き火の前に一人で座っていた。


 帰るとこあるの、と聞いて、あの人は答えなかった。余計なお世話だと言ったくせに、お茶は二杯飲んだ。


 まあ、いいか。うちは来る者拒まずだし。元OLだろうと元魔王だろうと、お茶を出して「ここにいれば」と言う。それしか私にはできない。


 私は別に強くない。戦えない。前世のスキルは議事録とエクセルだ。ここが平和なのは、スライムたちが頑張ってくれて、天使さんが調整してくれて、住民たちが協力してくれたからだ。私はただ、ここが好きで居座っただけの元OLだ。


 焚き火がぱちっと鳴った。


 ——その時、足元に温かい感触があった。


 ぷるるだ。膝にくっついている。今日はずっと私のそばにいた。魔王が来た時も、お茶を出した時も、離れなかった。


 暗がりの中で、ぷるるの体がゆっくりと色を変えていた。ピンクじゃなくて、青。みんなを送り出した夜にも、こんな色になっていたことを思い出す。


「……ぷるるはわかるんだね。私がなんか気になってる時」


 ぷるるがぷるっと震えた。いつもの小さな震え方。


 でも次の瞬間、ぷるるの体の形が変わった。


 体の上のほうに、小さな突起が生まれた。手——のようなもの。丸くて短い、スライムの手。その手が、ぺたっと私の指に触れた。


 それから。


「——ひ」


 声がした。


「よ」


 声だった。ぷるるの声だった。


「り」


 ひ、よ、り。


 三つの音。ぷるるの最初の言葉。私の名前。


 ぷるるの体が淡く光って、色がまだらに揺れて、少しだけ形が変わった。丸いだけだった体に、手のような突起と、頭のような膨らみと、何かになろうとしている輪郭ができた。


 第2段階。形変わり。


 ぷるるの「役割」を、私はずっと知らなかった。水を運ぶでも、火を守るでも、建物を作るでもない。でもぷるるはずっと、最初の日からずっと、一つの仕事をしていた。


 ——そばにいること。


 私の指に触れているぷるるの手が、あったかかった。


「……ありがとう、ぷるる」


 ぷるるがぷるっと跳ねた。体がほんのりピンクに戻った。


 焚き火が暖かい。空を見上げたら星が見えた。前世じゃ見たことないくらいたくさんの星。


 ——うん、大丈夫だ。


 明日の朝ごはんを作って、お茶を淹れて、「やってみる?」と聞く。それを続ける。それしか私にはできないし、それでいいんだと思う。


 翌朝。


 魔王がまだいた。広場の端っこで、膝を抱えて座っていた。寝てないっぽい。眠れなかったんだろう。


「おはよう。朝ごはん食べる?」


「……」


「味噌汁はないけど、スープならあるよ」


「……もらう」


 三日で慣れる、と言ったけど——この人はもう少しかかるかもしれない。でもいい。急がない。ここはチュートリアルだ。時間だけはある。


 翌朝、料理スライムが魔王の前にもスープを置いた。聞きもせず、当たり前みたいに。魔王が固まっていたけど、料理スライムはもう次の配膳に行っていた。


 三日目。ユウトくんが魔王の隣に座って「魔王って農業とかやります? 人手足りないんすよね」と言った。魔王が「……は?」と返した。たぶんこの人がここに来て初めて発した、攻撃でも威嚇でもない言葉だった。


 五日目。スライムたちが建てた小屋の一つに、いつの間にか魔王の寝床ができていた。誰が作ったのか聞いたけど、「あいてたから」としか返ってこなかった。


 それから一週間後。


 魔王が畑の前で立ち尽くしていた。


「この土は痩せている。魔力を注げば——いや、レベル1だが、微量であれば——」


「やってみる?」


 魔王がこっちを見た。赤い目が少し戸惑っていた。


「……いいのか」


「うん。うちの畑、人手が足りないんだ」


 魔王が畑に手をかざした。レベル1の微弱な魔力でも、元が桁違いだったからか——苗がぐんと伸びた。大根の葉っぱがぶわっと広がった。


「ちょっと、育ちすぎじゃない?」


「……加減がわからん」


「加減がわからん農業って大丈夫なの」


 魔王の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑った、というには小さすぎるけど。初めて見る表情だった。


「——農業大臣」


「は?」


「あなた今日から農業大臣ね。任命。スライム議会の権限で」


「議会に諮っていないだろう」


「事後承認でいける。たぶん」


 農業大臣・元魔王が深くため息をついた。


 魔王のため息は天使さんとは違って禍々しい響きがあるはずなのに、なぜかちょっと安心した音に聞こえた。

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