第9章「チュートリアルは終わらない」
朝日が昇ると、スライムたちが動き出す。
赤いのが焚き火台に火を入れて、青いのが井戸から水を運んで、茶色い四角いのが昨日の雨で緩んだ塀を直している。出張組も全員帰ってきて、広場はまたいつもの賑やかさに戻っている。手のような突起が生えた料理スライムが、土器の鍋でスープをかき混ぜながら「あつい、あつい」と楽しそうにこぼしている。
この光景を見るのがもう何百回目かわからないけど、毎朝ちゃんと「いいなぁ」と思う。飽きない。
「おはよう、ひより」
元魔王——もとい農業大臣が、両手いっぱいの野菜を抱えてやってきた。大根が私の腕より太い。魔力で育てるとこうなるらしい。大根に魔力って要る?
「おはよう。今日も大根すごいね」
「昨晩、少し魔力の注ぎ方を変えてみた。どうだ、見事だろう」
「見事っていうか、もはや丸太だよそれ」
農業大臣はふふんと鼻を鳴らした。この人が外の世界で何をしてきたか、私は詳しくは知らない。聞いてもいない。でも、大根を見せる時の顔は、ここに来た日とは全然違う。
元魔王と大根の太さの話をしている。人生何が起こるかわからない。死んでからも。
広場のテーブルに朝ごはんが並ぶ。スライムスープ——スライムが入っているんじゃなくて、スライムが作ったスープだ。最初に来たユウトくんがこの名前をつけた時、ぷるるが三日間ピンクにならなかった。反省して改名しようとしたけど、当のスライムたちが気に入ったので定着してしまった。
転生者の住民たちも続々と集まってくる。ユウトくん、元商人、元占い師、元なんとかの姫。みんなチュートリアルに来て、スライム料理を食べて、「ここでいいか」と言って残った人たちだ。
「いただきます」
みんなで手を合わせる。この習慣は私が持ち込んだ。スライムたちも真似して、体全体をぺこりと沈ませる。何に祈っているのかはたぶん誰もわかっていないけど、全員でやると楽しいからやっている。
それでいいと思う。
朝ごはんを食べていたら、空から見慣れた白い翼が降りてきた。
「おはようございます」
「天使さん、おはよう。ごはん食べた?」
「いえ、今日は報告があって——先にそちらを」
天使さんが、珍しく改まった顔をしていた。金髪が朝日を浴びてきらきらしている。朝日がなくてもきらきらしているけど。
「天界に最終報告を提出しました」
「最終報告?」
「はい。外の世界も、スライムたちと勇者たちの奮闘で落ち着きを取り戻しました。残っていた拠点も次々と——まあ、その話は長くなるので割愛しますが。要するに、『チュートリアルエリアが、世界で最も平和で豊かな集落になりました』と報告しました」
スープを飲む手が止まった。周りのスライムたちも、住民たちも、なんとなく静かになった。
「……天界、なんて?」
天使さんが、ふっと力を抜いた。今まで見た中で一番人間くさい笑い方だった。
「『好きにさせなさい』と」
一拍の沈黙。
それから、広場が沸いた。
スライムたちがぽよんぽよん跳ね回り、住民たちが歓声を上げ、ユウトくんは大根を掲げて「お祭りだ!」と叫んでいる。大根を奪われた農業大臣はぽかんとしていた。
広場の隅で、テツがぱたぱたとページを揺らした。
「かんがえた。こたえが でた」
「お、テツ何の結論?」
「いるところが いるところ」
哲学の結論がそれでいいのかはわからないけど、なんかいいなと思った。
天使さんが騒ぎの隣に腰を下ろして、差し出したスープを受け取った。初めて会った日、「お茶出せないけど」と言ったのを思い出す。お茶どころかスープもパンも出せる場所になった。
「天使さん」
「はい」
「初めて会った日、名前聞きそびれたままだったなって」
天使さんがスープの入った土器のカップを両手で包んだまま、少し黙った。
「……私も、ずっと言いそびれていました」
それから、穏やかな声で言った。
「——ですが、天使さんのままでいいかと思っています。今は」
「そう?」
「ええ。役職名ですらない、あなたがなんとなくつけた呼び名ですが。……悪くない」
天使さんがスープを一口すすった。「美味しい」と小さく言ったのが聞こえた。
その時、足元でぽよん、と小さく跳ねる音がした。
ぷるるだ。朝からずっと私のそばにいたぷるるが、いつもと違う跳ね方をしていた。体の色がゆっくり変わっていく。ピンクでも透明でもなく、いろんな色が混ざり合って虹色になっている。
「ぷるる?」
天使さんがカップを置いた。目が大きくなっている。
「……第3段階」
「え?」
「名変わりです。自分で自分の名前を選んだ時に起きる、スライムの最終進化。記録上は存在だけが示唆されていて、実例は一つもありません」
「名前を選ぶって……」
「自分が何者であるか、自分で決めるということです」
ぷるるの体が光った。ふわっと、朝日より柔らかい光が広がって、広場の全員が振り返った。
光が収まった時、そこに小さな人型がいた。手のひらサイズ。透明感のある体に、ほんのりピンクの頬。丸い目がまっすぐこっちを見ている。
「ぷるるも、ぷるるがいい」
はっきりした声だった。
「ひよりがくれたなまえ。ぷるるは、ぷるるになる」
——ぷるる、という名前に、深い意味はなかった。
初日に会った時、ぷるぷるしてたから、ぷるる。それだけだ。でも私はそれから毎日、その名前を呼んだ。なんでもない日に、なんでもない声で、何百回も。
この子は——その一回一回を、全部、大切に思ってくれてたんだ。
……ああ、そうか。
レンガたちが「ひよりのせかいを まもる」と言って出て行った時、なんで私のために、って思った。
私にできることなんて何もないと思ってた。お茶を出して、名前を呼んで、「欲しいなあ」ってつぶやいて、「やってみる?」って聞いて。私にとっては「それしかできない」だったけど、みんなにとっては——。
視界がちょっとぼやけた。スープの湯気のせいだと思う。たぶん。
「……ありがとね、ぷるる」
「ひより、すき」
ぷるるが私の肩にぴょんと乗った。小さくて、あったかかった。
天使さんがぷるるを見て、嬉しそうに笑った。——天使の笑顔はやばかった。直視したら浄化されそう。
「……報告書、もう一枚増えますね」
「何枚目?」
「数えるのはやめました」
輝いてた笑顔がちょっとひきつったのは、たぶん気のせいだ。
朝ごはんの片付けが終わって、みんながそれぞれの仕事に散っていった後。私は草原の端っこに歩いていった。
あの看板がまだ立っている。
『スライムを1体倒して先へ進もう!』
初日に見た時と同じ字。同じ木の看板。ちょっと日焼けして色が変わったけど、ちゃんと立っている。
足元には、農業大臣がくれた花の苗がある。チュートリアルの土と相性がいいらしくて、もう小さな蕾がついていた。
短剣で看板の周りの土を耕す。この短剣も初日からの付き合いだ。包丁になったりスコップになったり、本来の使い方を一度もされていない不憫な子。
穴を掘って、苗を植えて、青いスライムに水をもらって、ぎゅっと土を押さえた。
看板は抜かない。このまま残す。
だって、新しく来る転生者が読むものだから。看板を読んで、きょろきょろして、スライムを見つけて、倒そうとして——そこに私が出ていって、「お茶飲む?」と声をかける。それがここのやり方だ。
ただ、看板の足元に花が咲いていたら、ちょっとだけ「ここ、いい場所かも」と思ってもらえるかもしれない。
立ち上がって、土を払う。
振り返ると、遠くに集落が見える。煙が上がっている。スライムたちが動き回っている。農業大臣が何か叫んでいる。たぶんまた大根の話だ。
肩の上でぷるるが、ぽよんと跳ねた。
「ひより、今日は何する?」
「うーん、そうだね」
空が青い。
ものすごく、青い。
初日と同じ、嘘みたいに澄んだ青。
「——とりあえず、お茶でも淹れようか」
チュートリアルは終わらない。
終わらなくていい。だって私は、ここで暮らすと決めたのだから。
どこかで、天使さんが報告書に「進捗:完了」と書いている気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これにて本作は完結です。
次回作でも、またお会いできましたら嬉しいです。




