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第6章「外の世界の危機」

 天使さんの表情がくらい。天使が暗い顔すると宗教画みたいになるからやめてほしい。


 いつもは私にいじられても苦笑いくらいはしてくれるのに、ここ数日はため息すら出ていない。


 その日、天使さんは朝一番に来た。お茶を差し出したけど、受け取らなかった。天使さんがお茶を断るのは初めてだった。


「——外の世界が、ちょっとまずいことになってまして」


 いつもの広場じゃなくて、焚き火から少し離れた草原の端。天使さんは私にだけ話しに来た。いつものパターンだ。天使さんが報告して、私が「ふーん」と言って、天使さんがため息をつく。


 でも今日の天使さんは、いつもと違った。


「魔王の勢いが止まらないんです。勇者たちも頑張ってるんですが」


「大変だね」


「魔王に対抗できる見込みもなくて……」


「……それ、私に言ってどうなるの?」


「チュートリアルを出て、世界を救う手助けをしていただけませんか」


 いつか言われるだろうなとは思っていた。


 でも、天使さんの顔を見たらわかってしまう。お茶を断った時点で気づくべきだった。この人は、頼みたくて頼んでいるんじゃない。他にどうしていいかわからなくて、ここに来たのだ。


「それ、私の仕事じゃないし」


「……ですよね」


 天使さんがあっさり引いた。食い下がると思っていたのに。


「わかっています。あなたに戦う力がないことも、ここを出る気がないことも。ただ——ここが楽しいだけに、何もしないでいるのが——うまく言えないんですが——」


 天使さんが言葉に詰まっている。珍しい。この人はいつだって整った敬語でぴしっと話す人だ。


「……うん、天使さんは外の世界も見てるもんね」


「……はい」


「でも私は、スライムたちに『行け』とは言わないよ。一度も命令したことないの、知ってるでしょ」


 天使さんは頷いた。もちろん知っている。ずっと見てきたのだから。


「だから——」


「ひより」


 声がした。振り返ると、レンガがいた。


 いつからそこにいたんだろう。四角い茶色のスライムが、地面をとんとんと叩いた。


「そとのせかい。たいへん?」


 私たちの話を聞いていたのだ。天使さんがレンガを見て、少し迷ってから頷いた。


「はい。大変です」


 レンガが少し黙った。それからホムラのほうを向いた。ホムラがぽっぽと光った。シズクがぷるぷると震えた。マッスルが「ふんっ」と力こぶを作った。テツがぱたぱたとページを揺らした。


 何かを相談している。スライムたちだけの、言葉にならない会議。


 しばらくして、レンガがこっちを向いた。


「ひよりは、ここがすき」


「うん」


「ここは、ひよりが つくった」


「みんなで作ったんだよ」


「ひよりが、いたから。みんな、ここにいる」


 レンガが地面をとん、と叩いた。


「ここは、ひよりのせかい。ひよりのせかいは、そとのせかいの、なかにある」


 ——あ。


「ひよりのせかいを まもるには、そとのせかいも まもる」


 レンガが言い終わると、スライムたちが一斉に跳ねた。ぽよん、ぽよん、ぽよん。賛成の跳ね方。議会で何度も見たやつだ。


「いく。まもる」


 ホムラが光った。


「いく」


 シズクが震えた。


「ふんっ!」


 マッスルが力こぶを作った。


「いくことの いみを かんがえる。ここで」


 テツは行かないらしい。でも考えてはくれるらしい。哲学者なりの参加の仕方だ。


 スライムたちが自分から言い出している。私が命令したんじゃない。私が頼んだんじゃない。この子たちが、自分で考えて、自分で決めたんだ。


 嬉しかった。と思う。たぶん。


 でも、喉の奥がきゅっと詰まったのは、嬉しいだけじゃない。この子たちを外に出すのだ。あの、ぷるぷる震えていたスライムたちを。私が名前をつけて、一緒にお茶を飲んで、一緒に議会をやった子たちを。


 ——止めちゃいけない。自分で決めたことを止める権利は、私にはない。


 気がつくと、騒ぎを聞きつけた住民たちが広場から集まってきていた。


「何かあったんですか?」とユウトくん。


 レンガが地面をとんとん叩いて説明した。カタコトだけど要点は伝わったらしい。ユウトくんの目が変わった。


「俺も手伝います。準備とか、できることあるでしょ」


「物資の調達なら任せなさい」と元商人がすかさず言った。


「星は——」元占い師が空を見上げた。「星は、行けと言っている。ような気がする」


「ような気がする、でいいの?」と元姫。


「占いなんてだいたいそんなものよ」


 草原の端で始まった話が、いつの間にか広場に移って、みんなが自分にできることを話し始めている。誰に言われたわけでもなく。


 私は——何をすればいいのかわからなくて、突っ立っていた。手が空いている。足も空いている。全部空いている。レンガは戦術を考えている。ユウトくんは作戦を相談している。元商人は物資を数えている。みんな動いている。


 私だけ、何もしていない。


 ……お茶でも淹れよう。


 焚き火の前に座って、お湯を沸かして、少し離れたところから見ていた——みんなが動いている広場を。


 天使さんも隣にいた。しゃがんで、同じものを眺めていた。


「……頼みに来たつもりだったんですが、必要なさそうです」


「私はここにいるよ。帰ってきた時に、お茶が冷めてたら嫌でしょ」


「……そうですね」


 天使さんが苦笑いした。


「……お茶、飲む?」


「いただきます」


 今度は受け取ってくれた。


「……天使さんさ」


「はい」


「最初に会った日、こんなことになると思った?」


「思うわけがないでしょう」


「だよね」


「スライムを一匹倒すだけの場所だったんですよ、ここは」


「一匹も倒してないけどね」


「一匹も倒していませんね」


 二人で焚き火を見た。スライムたちが準備を始めている。ユウトくんがレンガと作戦を相談している。元商人が荷物をまとめている。


 土器のカップを両手で包んで、天使さんがふうっと肩の力を抜いた。この人がここに来るようになって初めて見る、ゆるんだ顔だった。


 それから三日間、チュートリアルは出征の準備で忙しかった。


 レンガが戦術を練り、ホムラとシズクが連携の訓練をし、マッスルが石を持ち上げる回数を増やし、テツが「せんじゅつとは なにか」と考え込んでいた。住民たちはスライム用の携行食——水を含ませた薬草玉——を作ったり、外の世界の地図を天使さんからもらって確認したりしていた。


 私は——お茶を淹れていた。


 それしかできないから。でも、準備で忙しいみんなが焚き火の前に来てお茶を飲んで、ちょっと一息ついて、また戻っていく。それでいいと思った。


 出発の前夜。


 レンガが私のところに来た。


「ひより」


「うん」


「ここ、たのむ」


「うん。任せて」


 レンガが地面をとん、と叩いた。ありがとう、の意味だと思う。


 ぷるるが私の足元でぷるっと震えた。体が青みがかっていた。いつものピンクじゃなくて、しずんだ青。


 ……私が心配してるの、わかるのかな。


 ぷるるは行かない。行くとも言わない。私のそばにいるだけ。


 ——それが、この子の答えなんだと思う。

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