第87話 欺瞞の魔法陣――例外の歩法
深夜の王都。その地下深くを這うように伸びる水路は、悪臭と暗闇に包まれていた。
水音だけが響くその道を、黒い外套を深く被った一行が音もなく進んでいく。
「止まってください」
先頭を歩いていたミレアが、突如として足を止めた。
彼女の薄紫色の瞳は、暗闇の先、分厚い石壁の向こう側を正確に見透かしている。
「十秒後、前方の十字路を右から左へ、三人一組の巡回が通ります。魔力センサーを携帯しています」
その言葉と同時に、クラウスが動いた。
無音で杖を振り、空中に複雑な文様を描き出す。人工魔法陣。それは瞬時に彼らの周囲を覆うように展開され、淡い光を放った直後に完全に透明と同化した。
光の屈折による視覚情報の改竄と、完全な音の遮断。
直後、十字路の右側から、魔石の灯りを持った看守たちが現れた。
彼らはレインたちのすぐ目の前を通り過ぎていく。足音と鎧の擦れる音が響くが、看守たちの目にレインたちの姿は映っておらず、センサーも反応を示さない。
看守たちが左の通路へ消えるのを確認し、クラウスが魔法陣を解除する。
「よし、予定通りだ。ミレアの目が機能している限り、地下三階までは完全に素通りできる」
クラウスの緻密な計算と、ミレアの精密な探知。
二人の力が合わさることで、国家の最高機密である地下牢獄は、まるで彼らのために用意された安全な散歩道と化していた。
階層を下る階段を抜け、地下二階、地下三階と順調に潜行を続ける。
いかなる厳重な警備も、巡回の死角とタイミングを秒単位で把握されては機能しない。彼らは一度も剣を抜くことなく、ついに中層と下層を隔てる巨大なゲートの前へと辿り着いた。
「ここから先は、僕の魔法陣だけじゃどうにもならない」
クラウスが忌々しげに舌打ちをする。
通路を完全に塞ぐようにそびえ立つ、重厚な鋼鉄の扉。その表面には隙間なく魔力障壁が張り巡らされており、物理的な鍵穴すら見当たらない。
「扉の内部に、超重量の特殊な鍵が三つ噛み合っています。さらに、表面の障壁は触れた瞬間に警報が鳴る仕組みです」
ミレアが探知した構造を口にする。
魔法で破壊すれば警報が鳴る。だが、触れることすら許されない。まさに難攻不落の絶対障壁。
「俺の出番だな」
レインが静かに前へ出る。
警報の鳴る魔力障壁を前にしても、一切の躊躇なく右手を伸ばした。
「おい、レイン!」
アルトが焦って声を上げるが、遅い。
レインの手は、魔力障壁の表面に触れ――いや、触れていなかった。
彼が干渉したのは、障壁の接触判定そのもの。手が障壁を突き抜けているというのに、障壁の術式は何も触れていないという結果を受け入れ、沈黙を保っている。
レインの手はそのまま鋼鉄の扉をすり抜け、内部の機構へと到達した。
彼には鍵の構造など分からない。分かる必要もなかった。
ただ、扉を固定している噛み合っているという関係性を、空間からズラすだけ。
重い金属音が、扉の内部で三度響いた。
障壁も警報も作動させないまま、絶対に開かないはずの超重量の鍵が、物理法則を無視して外れ落ちた。
「何度見ても、理不尽極まりない力だな」
クラウスが呆れたように息を吐く。
レインが扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
国家が誇る絶対の防壁は、例外の存在の前ではただの薄い板に過ぎなかった。
「行くぞ。最下層はもうすぐだ」
開かれた扉の先、さらに深い暗闇へと、反逆者たちは足を踏み入れた。




