第85話 王剣の無属性――反逆の殿
境界の地下都市は、既に戦場としての体を成していなかった。
逃げ惑うレジスタンスの兵士たちを、ヴァルガの放つ容赦のない業火が舐め尽くす。熱波から逃れようと死角へ飛び込んだ者たちも、這い寄るセリスの水の鎖によって悲鳴を上げる間もなく縛り上げられていく。
国家の最高戦力。その絶対的な暴力の前に、拠点に敷かれた防衛線など薄紙よりも脆かった。
「ここまでか」
巨大な結晶を抱えたレインたちの前に、一つの巨躯が立ち塞がる。
ディオル・セイン。レインの育ての親であり、ただ戦いの基礎を叩き込んでくれただけの老人。
彼は背中を向けたまま、拠点最深部の岩壁に隠された術式を起動した。重い岩の扉が滑るように開き、暗い一本道が口を開く。
「レイン、お前たちはその結晶を持って行け。ここの連中は俺が引き受ける」
「じいちゃん、あんたも一緒に」
「馬鹿を言え。誰かが足止めをしなければ、全滅するだけだ」
ディオルは静かに腰の剣に手をかけた。
「いいか、よく聞け。その結晶の印は、俺たちの手では外せない。だが、王都の地下牢獄。その最下層に、あらゆる魔器と異能を無効化できる特級異能者が囚われている」
その言葉に、クラウスの顔色が変わる。
「結晶の暴走を抑え、機能を完全に殺せるのはそいつだけだ。国をひっくり返したければ、そいつを連れ出せ」
それが、師が示した次なる道標だった。
「お喋りは終わりですか」
冷酷な声と共に、セリスの放った無数の鎖が空間を埋め尽くすように襲い来る。
同時に、ヴァルガが嗤いながら極大の炎の渦を放った。逃げ場など存在しない、純粋な質量と熱の暴力。
だが、ディオルは動じない。
静かに、剣を抜き放つ。
彼が展開したのは、炎でも水でもない。属性変換を一切伴わない、ただ純粋な魔力だった。
極限まで圧縮された無属性の魔力が、ディオルの肉体と剣身に高密度に纏いつく。
空間が微かに歪むほどの魔力密度。それは、魔法の基礎中の基礎である身体強化の極致。
ディオルが一歩を踏み込む。
ただそれだけで、彼の足元の岩盤が放射状に沈み込み、砕け散った。
そして、剣を一閃する。
放たれたのは、魔法ではない。ただの剣撃。
だが、その一振りから生じた絶大な風圧と剣気が、襲い来る極大の炎を空間ごと真っ二つに両断した。
左右に分かたれ、霧散する炎。その奥から迫るセリスの強固な鎖も、極限強化されたディオルの超反応と剣閃の前に、触れることすら叶わず次々と粉砕されていく。
ただ極め抜かれた基礎の理が、七騎士の放つ理不尽な魔法を完全に凌駕した瞬間だった。
「なんだと」
ヴァルガが驚愕に目を見開く。
ただの無属性魔法。それだけで自身の炎を切り裂いた目の前の老人に、苛立ちよりも先に得体の知れない悪寒を覚えた。
ディオルが剣を下段に構え、静かに呼気を吐く。
その淀みのない洗練された構えと、属性を持たない規格外の魔力密度。それを見たセリスの冷徹な瞳が、不意に大きく見開かれた。
「その構え……それに、その純粋な魔力の密度。まさか」
セリスの言葉に、ヴァルガもハッとして老人の顔を凝視する。
歴史書でしか見たことのない、大戦を終結に導いた英雄。公式にはとうの昔に死亡したとされている、先々代の騎士団長。
「馬鹿な、王剣ディオル・セインだと。生きていたというのか」
驚愕する七騎士の双璧。
だが、ディオルはそれに答えることなく、背後のレインへ鋭い一喝を飛ばした。
「行け! お前の異常は、こんな所で無駄使いするな!」
振り返ったディオルの瞳には、決して譲らぬ覚悟が宿っていた。
相手は国家の最高戦力二人と、無数の軍勢。いくら彼であっても、生きて帰れる保証はない。
レインは奥歯を強く噛み締め、踵を返す。
「死ぬなよ、じいちゃん」
「誰に向かって口を利いている」
国家の絶望をたった一人で引き受ける、巨大な背中。
それを網膜に焼き付けながら、レインたちは結晶と共に、地下通路の深い暗闇へと駆け出していった。




