第68話 反転――拒絶の片鱗
八体に増殖した魔器の猟犬が、四方八方から一斉に襲い掛かる。
単なる幻影ではない。一体一体が確かな質量と殺傷能力を備えた怪物だった。
『ブラストウィンド』
ラグの放った不可視の暴風が、二体を吹き飛ばす。
アルトが踏み込み、迫る牙を躱すと、雷を纏った正拳突きで一体の頭部を粉砕した。
だが、砕け散った猟犬の死骸は青白い光となって消滅し、すぐさま別の場所から新たな実体を伴って再構築されてしまう。
「キリがない! 倒してもすぐに補充されるぞ!」
アルトが忌々しげに額の汗を拭う。
ユークが土の壁で防衛線を構築し、リュシアが後方から絶え間なく支援魔法を送り続ける。だが、無限に湧き出す波状攻撃に、陣形は少しずつ削られ始めていた。
混戦の中、後衛で目を閉じていたミレアが、極限まで探知の精度を引き上げる。
(熱源も質量も、八体すべて同じ。でも、何か違いがあるはず。分身と本体との間に)
脳内に、八体の体内を巡る魔力回路が精密な図面となって浮かび上がる。
刹那、彼女の探知が微かなズレを捉えた。
「見つけました! 一番右奥、倒れた倒木の上にいる個体です!」
ミレアが鋭い声を張り上げる。
「他の七体は魔力で構成された肉体ですが、あの個体だけ結晶の波長が僅かに深く、重いです。あれが本体です!」
その声に、本体が反応した。
自らの正体を見破ったミレアを最大の脅威と認識したのか、本体は周囲の分身を囮にし、異常な速度でミレアの首筋へと一直線に跳躍する。
「ミレア!」
ユークの叫びより早く、ミレアの前に立ちはだかる影があった。
レインだ。
飛びかかってくる醜悪な猟犬を前にして、レインの瞳に底知れぬ暗い感情が渦巻いた。
(人を素材にしておきながら、獣にまで埋め込むか)
他者の命をただの部品として消費する、国家の理不尽。ミレアを資源と呼び、狩り立てようとする狂気。
静かだが、泥のように重く冷たい怒りが、レインの思考を黒く塗り潰していく。
(気に食わない)
いつもなら、迫る牙の軌道をズラす。
だがこの瞬間、極限まで昂った感情が、レインの能力の根源をねじ曲げた。
干渉ではない。
目の前にある事象そのものを、世界から拒絶する。
猟犬の牙が、レインの肩口に噛み付いた。
いや、噛み付くはずだった。
牙は、レインの肉体に触れる寸前ですり抜け、そこに彼が存在していないかのように空を切った。
すかさずレインが右手を伸ばす。
その手は、分厚い毛皮も強靭な骨も一切の抵抗を受けず、水面に手を入れるかのように物理法則を無視して肉体の奥深くへと透過していった。
「消えろ」
レインの指先が、体内深くに埋め込まれた結晶を直接掴み、握り潰す。
鼓膜を劈くような断末魔が響き渡った。
核を砕かれた本体が崩れ落ちると同時に、周囲を取り囲んでいた七体の分身がノイズのようにブレて消滅していく。
静寂が戻った森の中で、クラウスだけが息を呑んで硬直していた。
眼鏡の奥の瞳が、信じられないものを見たというように震えている。
(軌道をズラしたんじゃない。敵の物理攻撃は彼をすり抜け、彼の手は敵の肉体を無視して内部に到達した)
いつものような、空間や軌道への干渉ではない。物質という認識そのものの完全な拒絶。理の根底を覆すような、事象の反転。
不意に、レインが短く息を吐き、瞬きをした。
獲物の死骸から引き抜いた右手を見つめ、彼自身も微かに戸惑ったような表情を浮かべる。泥のような黒い怒りは既に霧散し、いつもの平坦な瞳に戻っていた。
「レイン、大丈夫ですか!?」
駆け寄ってきたミレアの声に、レインは手を下ろして振り返る。
「ああ。お前が本体を見つけたからな」
普段通りの抑揚のない声。
だが、クラウスの脳裏には、今しがた垣間見た異常性のさらなる深淵が、未知の領域に対する強烈な衝撃として焼き付いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この“異常”を一緒に見届けてくれる方は、
ブックマークで応援していただけると嬉しいです。




