第55話 残火ーー象徴の喪失
呼吸が、熱い。
先ほどまでの爆発はない。だが今のヴァルガが放つ圧は、それよりも遥かに致命的だった。
「一点を外すのが関の山か。ならば、空間ごと潰せばいい」
ヴァルガは剣を振るうことさえやめた。
『イグゾーストアッシュ』
掌をレインに向ける。それだけで、周囲数メートルが“ 沸騰した檻”と化した。
逃げ場がない。
ズラすべき実体がない。ただそこに存在するだけで、体中の水分が奪われ、意識が遠のいていく。
レインの感覚が、逃げ場のない環境そのものに沈黙を強いられていた。
膝が地面を叩く。土さえも熱せられ、指先が焼ける。それでも、レインはミレアから視線を外さなかった。
(……動け……まだだ)
意識の輪郭が溶けかける。必死に思考を巡らす。
その時、レインの視界が歪んだ。
自分を焼き殺そうとする膨大な熱圧。その“流れ“が、彼の手のひらに吸い寄せられるように収束し始める。
――拒絶ではなく、抱擁。
掌の上に、異常な密度の光が生まれた。
周囲の熱圧を強引に一箇所へ閉じ込め、一転して極寒となった中心に、赤黒く拍動する“核“が形を成す。
「……喰らえ」
咆哮と共に、その核を放つ。
光の尾を引くそれは、ヴァルガが展開した障壁を、紙細工のように無造作に貫通した。
不快な金属音が響く。
自身の熱を極限まで押し固められた一撃が、ヴァルガの深紅の装甲に直撃した。
「……っ」
七騎士の巨体が、初めて数歩後退した。
深紅の胸当に、蜘蛛の巣状の亀裂が走り、白い煙が上がる。
場が、凍りついた。
学園の最底辺とされた少年が、絶対的な正義の象徴を“押し返した“のだ。
「……やってくれる」
その一撃は、確実に“効いていた”。ヴァルガの兜の奥で、瞳の輝きが変わった。
それは、羽虫を眺める目ではない。
目の前の存在を“敵“として、正しく排除すべき脅威として再認識した猛獣の光。
ヴァルガが背の魔器――『大剣グラム』に手をかけ、初めて両手でその柄を握りしめた。
音にならない振動が空気を震わせる。
先ほどまでとは比較にならない、禍々しい魔力が剣身に収束していく。
次の一振り。
それが放たれた瞬間、この丘ごと、自分たちは存在の塵になる。
「もういい。貴様を殺して死体を持ち帰るのも手間だ」
ヴァルガが静かに歩を進める。
「やめて」
掠れた声が、焦土に響いた。
レインの前に、小さな影が重なる。ミレアだった。
「ミレア、逃げ――」
届かない。彼女は震える膝を必死に抑え、ヴァルガを見上げた。
「私が行けば、この人たちは殺さない?」
ヴァルガの足が止まる。その瞳に宿るのは慈悲ではない。ただの勘定だった。
「抵抗をやめるというなら、無駄な掃除をする必要はない。それが最も効率的だ」
「分かった。行きます」
絶望が、場を支配した。
立ち上がれないラグとユーク。そして。
「なんで、だ」
アルトが、震える声で呟いた。その拳は、一度もヴァルガに届かなかった。
自分が憧れ、目指してきた正義の象徴。その男が今、少女を事務的に、何も感じない顔で連れ去ろうとしている。
家が焼かれないのは優しさではない。なるべく痕跡を残さず仕事を終えるための方策に過ぎない。
アルトが信じてきたものが、音もなく崩れていった。
「レイン」
ミレアが振り返る。その瞳に浮かんだ涙が、一筋の光となってレインの胸を刺した。
動く力が残っていない。
「座標固定。転移」
ヴァルガが淡々と紡ぐ。足元に魔法陣が展開され、青白い光が二人を包んだ。
一瞬。
熱波とともに、二人の姿が音もなく消えた。
後に残されたのは、静かな丘だった。夕闇が迫る中、何も起きていなかったかのように。
レインは、力の入らない拳で地面を叩いた。
ただ、焦げた土の匂いだけが鼻を突く。
一矢は報いた。
だが。
――まだ、終わっていない。




