第49話 接触――観測の交差
城下町の空気は、喧騒に満ちていた。
休日。
学園から外出許可が出て、三日が過ぎた。
広場から伸びる大通り。並ぶ屋台。
途切れることのない人の流れ。
その中を、レインは一人で歩いていた。
(……多いな)
特に目的はない。
ただ、外の空気を吸いに出た。それだけだ。
行き交う人の波。
ぶつかることはない。
意識せずとも、位置が噛み合う。
流れに身を任せれば、自然と隙間が見える。
――ただ、それだけのはずだった。
「よくこんな人混みを、無神経に歩けるな」
横から声が落ちた。
ラグだ。
いつの間にか隣に並んでいる。
「別に。歩いているだけだ」
短く返す。
「いや、普通は酔うだろ。この密度は」
「そうか。気にしたことはない」
事実だった。
どこへ行くとも決めていない。迷いようがない。
「それが一番重症だって言うんだよ」
ラグが呆れたように笑う。
後ろには、ユークがいた。軽く肩をすくめている。
さらに少し離れた位置。
クラウスがいた。
隠す気のない、鋭い視線。
分析。観察。
(……相変わらずか)
レインはそれ以上、気に留めないことにした。
そのとき。
「――あっ」
短い悲鳴。
人の流れが、一箇所で淀んだ。
一人の女性が立ち尽くしている。
手元。空になった手。
直後、視界の端。
人影が滑るように、雑踏の中へと消えていく。
(……スリか)
速い。
だが、見えている。
(……左。三歩先で路地に入る)
レインは一歩、踏み出した。
最短距離。
相手が消える前に、その背を捉える。
――その、直前だった。
「――右。抜けるよ」
声。
すぐ近く。だが、完全に死角。
反射的に、思考より先に体が動いた。
進路を、わずかに修正する。
次の瞬間。
人の隙間から、男が飛び出してきた。
ぶつかる――はずだった。
だが、レインが踏み込んだ位置が、男の予測をわずかに上回った。
肩が外れる。
当たるはずの衝撃が、空を切る。
「っ……!?」
男の足がもつれた。
自らの勢いを殺せず、そのまま石畳に叩きつけられる。
レインは迷わず、その腕を掴んだ。
逃がさない。
男の短い抵抗。
それも、すぐに止まった。
「……終わったか。早いな」
ラグが追いついてくる。
ユークは周囲を警戒し、女性のもとへ財布を届けに向かった。
レインは、男を捕らえたまま、視線を動かした。
さっきの声。
あのタイミング。
そこに、一人の少女が立っていた。
ラベンダー色の髪。
少し乱れた毛先。
薄紫の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「……」
何も言わない。
ただ、見ている。
(……今の指示)
正確すぎた。
まるで、男がそこから出てくることを「知っていた」かのような。
「今の発言」
クラウスが歩み寄る。
その目は、獲物を定める時のそれだ。
「タイミングが早すぎる。逃走経路の確定には、本来なら観測のラグが生じるはずだ」
少女は、首をわずかに傾けた。
「そう?」
「君は、男を見ていなかった。だが――」
クラウスが言葉を切る。
レインと少女を、交互に視線で刺す。
「迷いがなかった」
少女は、少しだけ考えるように目を伏せた。
そして。
「視てたよ」
あっさりと、そう言った。
「全部」
曖昧な言葉。
だが、その瞳には奇妙なほどの説得力がある。
「範囲は」
「この辺り、一帯」
軽い口調。だが、内容は異常だ。
ラグが割り込む。
「おいおい、それじゃあこの通りの人間全部を視てるってことか? 無茶だろ」
「無茶じゃないよ。視えてるんだから、仕方ない」
当然のように、彼女は返す。
レインはそのやり取りを聞きながら、少女を注視した。
(……ズレがない)
立ち居振る舞い。視線の置き方。
あの一言で、この場の状況を完全に支配していた。
「……今の」
別の声。
イリスがいた。
最初から、少し離れた位置で事の顛末を見ていたようだ。
「あなた、じゃないよね」
レインに向けられた言葉。
だが、その矛先は少女にも向いている。
「その動き。前提が、私たちと違いすぎる」
少女が、イリスを見た。
ほんの一瞬。
視線が交差する。
沈黙。
数秒の後、先に視線を外したのはイリスだった。
何かを測りかねている。そんな顔だ。
「おーい、何盛り上がってんだ?」
通りの奥から、アルトがやってきた。
軽く汗を流している。修行帰りか。
「ちょっとしたトラブルだ。今片付いた」
ラグの言葉に、アルトは一瞬だけ状況を俯瞰する。
倒れた男。周囲の野次馬。そして、レインたち。
「……面倒ごとか」
小さく息を吐く。
詮索はしない。だが、違和感だけは共有している。
少女はその空気に気圧される様子もなく、レインを見据えた。
「……あの」
鈴を転がすような、小さな声。
全員の視線が、彼女に集まる。
「一つ、お願いがあるんだけど」
少しだけ間を置いて。
言葉を慎重に選ぶように。
「外、出る予定……ある?」
「外って、郊外のことか?」
ラグが即座に反応する。
「うん。薬草を、取りに行きたくて」
静かな口調。
必要なことだけを伝える、簡潔な言葉。
「危険はあるのか。護衛が必要なほどに」
ユークの問いに。
「少し、ある」
嘘のない、正直な答え。
クラウスが、眼鏡の奥の目を光らせた。
「同行しよう。興味深い」
即決。理由は明白だ。
この少女を「観測」する機会を逃すはずがない。
「まあ、面白そうだしな。付き合うぜ」
ラグが笑い、ユークが溜息をつきながら剣帯を直す。
「時間はある」
アルトも短く応じた。
最後に、視線がレインに集まる。
それが当然であるかのように。
「……別に、構わない」
短く返す。
断る理由もなかった。
少女は、小さく頷いた。
「ありがとう」
柔らかい、響き。
それだけで、会話は終わった。
名前すら、まだ知らない。
だが。
不思議と、不快な感覚はなかった。
人の流れが、また動き出す。
何も変わらない、城下町の喧騒。
その中で。
ほんの少しだけ。
世界の理が、静かに噛み合い始めていた。




