第105話 虚無の跡地――反逆の刃が向く先
夜風が、不自然なほど静かに吹き抜けていた。
先程まで国家の巨大な闇である要塞、大結晶が存在していた場所。
そこには今、巨大な山脈を丸ごとお玉で抉り取ったような、一切の瓦礫すら残らない虚無のクレーターだけが広がっていた。
「理解不能ね」
イリスが、底知れぬ空間を見下ろしながら呟く。
クラウスに至っては、早々に分析を完全に放棄し、無言で手帳を閉じていた。
空間ごとすべてを無に帰す力。それは魔法の常識も物理法則もすべて置き去りにした、神の御業に近い暴挙だった。
「あー、頭使って疲れた。寝る」
だが、当のレイン本人は大きなあくびを一つこぼし、気怠げに首を鳴らした。
世界の前提を壊した直後とは思えないほどの日常的な態度。そのあまりの落差に、張り詰めていた仲間たちの緊張が毒気を抜かれたように解けていく。
一行は虚無の跡地から離れ、静かな森の中で野営の準備を始めた。
「展開、『リカバリーフロウ』。……もう少し癒やしますね、『ヒール』」
リュシアの温かな光属性魔法が、アルトやユークたちの傷と疲労を優しく包み込んでいく。
アルトは焼け焦げた自分の手甲を見つめ、苦笑交じりに口を開いた。
「俺が命懸けで百発積み重ねた一撃より、お前のその、デタラメな一発の方がヤバいって、どういう理屈だよ」
「さあな。俺もよく分かってねぇ」
レインは自分の右手を不思議そうに見つめた。
「ただ、猛烈にイラついただけだ」
「反転覚醒だろうな」
焚き火の向こう側から、ディオルが静かに口を挟んだ。
元最強の騎士の言葉に、全員の視線が集まる。
「異能は、稀に一段階上の次元へと至ることがある。魔法には存在しない、異能者だけの特権だ。自身の能力への深い理解や成長による通常の覚醒と、極限の負の感情の昂りをトリガーとして、能力の性質そのものが裏返る反転覚醒だ」
(通常の覚醒)
ミレアがハッと息を呑む。
彼女の脳裏に、かつて光刃のルクスと死闘を繰り広げた際、自身の探知能力が未来予測の領域にまで届いた記憶がフラッシュバックしていた。
一方、レインは無言のまま自らの内側にある感覚を探る。
(負の感情)
脳裏をよぎるのは、執拗に命を狙ってきた猟犬たち。ルクスとの極限の戦闘。そして先程目の当たりにした、要塞の底に積み上げられていた無数の結晶化された命。
この世界の非道な前提に対する静かな激怒が、彼の中で「関係性を受け入れて干渉する」能力を、「前提そのものを拒絶する」力へと変質させていたのだ。
焚き火から少し離れた場所で、ミレアが一人、星空を見上げていた。
レインが足音を立てずに隣へ並ぶ。
「消えました」
ミレアが静かに言う。
先程まで大結晶に渦巻いていた異能者たちの悲鳴や絶望の残滓が、彼女の探知の網から完全に消え去っていた。
「あの地獄ごと終わらせてくれて、ありがとうございます。彼らも、ようやく解放されたと思います」
深く頭を下げるミレアに、レインは視線を逸らして頭を掻いた。
「別に。あそこの前提が気に食わなかったから、消しただけだ」
誰かのためじゃない。恩着せがましいことを嫌う彼なりの不器用な優しさに、ミレアは微かに微笑んだ。
休息も束の間、焚き火を囲む仲間たちの前で、ディオルが真剣な表情を作った。
「大結晶とデミウルゴスの心臓が消滅した。王都のコルセアは、なりふり構わず我々を排除しにかかるだろう」
その言葉に、全員の顔つきが変わる。
「実は、現在の国王はすでにコルセアの魔器による強制力で精神を支配されている。王室すらも、完全に奴の操り人形だ」
ディオルの口から明かされた国家の最高機密に、ユークが息を呑む。
再現できないものは支配する、というコルセアの狂気は、ついに国家の頂点すらも食い破っていた。
「だが、完全に意識を食われる直前、国王は正気を保った僅かな隙を突き、私に密書を託していた。コルセアを討て、とな」
その言葉が、反逆者たちに明確な大義名分を与えた。
残る根源はただ一つ。王都へ潜入し、支配者コルセアを直接打倒すること。
「だが、王都への道中には残る七騎士、いや、それ以上の化け物である副団長、統槍のレオニスと、団長、終極のゼルハが必ず立ち塞がる」
国家の最高峰たる二つの絶望。
その重圧を前にしても、もはやアルトたちの瞳に怯えはなかった。
レインは燃える焚き火を気怠げに見つめながら、ぽつりとこぼす。
「国の一番偉い奴が助けを求めてるんだろ。なら、大義名分はこっちにある」
立ち上がり、夜空を見上げた。
「さっさと一番デカい前提をぶっ壊して、この面倒な話を終わらせようぜ」
それは、世界の理を書き換える例外の、静かなる宣戦布告だった。




