第80話 結婚生活、最大の試練 前編
女子トイレの個室で、驚愕の検査結果を目の当たりにした俺は、ただただ愕然としていた。
「つ、使い方……間違ってないよな……? ……え……こ……これ……これって、本当なのか……???」
い、いいいいやいやいやいや!!!
も、もしかしたらこの検査薬の初期不良か何かの誤作動かもしれない!!
そうだ! 科学万能の現代とはいえ、市販の検査薬だって100%確実ってわけじゃないはずだ。そうに違いない!!
――神宮寺製薬、特別検査室。
俺は、今、見たこともないハイテクな機械仕掛けの検診台に座らされていた。
真桜さんが手にしているのは、何やら細長いセンサーのような超音波…?エコー…?の検査器具。
……これ、もしかして…あそこに、突っ込むの?
「ゆか姉ぇ、ゆっくり息を吐いて〜リラックス!」
「は……はい……っ」
俺はガタガタと震えながらも、言われた通りに深呼吸をして身体の力を抜いた。
「それじゃ、検査器具入れるからね〜。痛かったり苦しかったりしたら、すぐ言ってね」
ズヌヌヌ……。
「ひゃっ!!! ぃ、ひぃっ……!!!」
変な声が出た。
こここ、これが……産婦人科の、リアルな妊娠精密検査なのか……!?
数時間後
仕事を文字通り音速で切り上げて、文字通り顔色を変えて飛んできた翔。
そして俺と真桜さんの三人で、モニターに映し出された精密な検査結果を凝視していた。
「…………いるな……」
「いるね〜!大体6週間くらいかな!」
真桜さんが嬉しそうにモニターを指差す。
映し出されているのは、子宮内部の鮮明なエコー動画だ。
白黒の画面の真ん中あたりに、小さな、本当に小さな黒い点のような影が見える。
これが……俺と、翔の……赤ちゃん……?
どうやら…最新の精密検査をもってしても、俺は本当に
翔の子を妊娠してしまったらしい。
「し……し、翔……俺……できちゃった……みたい……」
モニターの黒い点を見つめたまま、俺は隣に立つ夫の袖を恐る恐る引いた。
「あばばぱば……!! あばはあばばは!!! ににににに妊娠!?!?……?」
(そうみたいだな、体調は大丈夫か?)
「!? し、翔!! 大丈夫か!!?」
「!? だ、大丈夫だ!! ちょっと、ほんの少し動揺していただけだ」
(いかん……! あまりの衝撃に、発言と脳内の思考が逆になってしまっていた!!)
「ちょっとどころじゃないじゃん兄ぃ」
真桜さんが突っ込む中、翔は長い呼吸を繰り返した。
「………ふぅ。裕香、体調の……ほうはどうなんだ? 自覚症状や実感はあるか?」
「う……うーん……実感って言われるとまだなんとも……
ただ、最近やけに眠くてだるいな、とか……あと、少し熱っぽくて風邪かなって思ってた」
「そうか…………よし、わかった。俺は今から父さんへ連絡を入れる。明日、緊急の家族会議だ。……正直、一度データを整理する必要がある」
あまりにも淡々と事務的にスマホを取り出した翔に、真桜さんが不満そうに唇を尖らせた。
「兄ぃ〜、冷たくない? 子供ができたんだよ? もうちょっと、わーい! ってみっともなく喜んだらどうなの?」
「真桜。これははっきり言って、リサイクルタンパク質研究の、延いては現代医学の根幹がひっくり返る大事件だ。……それに、今後の選択について、まずは何より裕香としっかり話し合いたい。いいか? 裕香」
「う……うん! もちろん!」
「ふーん、まぁいいけどさ」
「俺はひとまず、確認しておきたい情報と過去の臨床データがあるから先に部屋を出る。裕香……また、後でな」
「う……うん……、また……ね」
ウィーン……
そう言い残して、翔は足早に自分の個人研究室へと去っていった。
「えー……なんかさっぱりしてるね兄ぃ。もうちょっと、やったー! ってお祭り騒ぎしてもいいのに」
「あはは……翔からしたら、学者としても初めてすぎる事態だから……。でも、わ……私も正直……いざ現実になると、ど……ドッキドキで動揺してる……」
胸の鼓動を抑えながら、俺は翔が去った自動ドアを見つめていた。
神宮寺製薬、翔の個人研究室。
ガチャ、と分厚いセキュリティ扉が閉まり、
完全な密室になった瞬間…
「………妊娠……裕香が……妊娠……俺の……子……を……?」
「うぉあわあああああああああああ!!!! やったぁぁぉぉぉぉおおお!!!!!!!! まじかあああああ!!! まじか!? うそだろ!! 妊娠したのか!!! ついに!!!!?」
「おおおええええええええおおお!!! マジか!! くぅぅぅ!!! ついに……!! ついに!! ! 俺達は……!! あの裕香と俺は……親に……!! なるのか!? お父さん、お母さんって呼ばれるのか!!?」
あまりの感情の洪水に理性が消し飛んだ天才科学者は、防音完備の研究室の中で、突如としてプロ顔負けのブレイクダンスを踊り狂い始めた。
激しいステップを踏み、重力を無視した鮮やかなムーンウォークで床を滑り、前転、バク宙を華麗にキメる。
さらにその勢いのまま床を蹴り上げ、フィギュアスケートも真っ青のトリプルアクセルから、空中2回宙返りを完璧に美しく着地させた。
「はぁ、はぁ、ふぅ……」
数分間、喜びを舞い踊り、物理的に感情を発散させた翔は、何事もなかったかのようにネクタイを締め直し、いつもの冷徹な天才の顔に戻った。
「ふぅ……感情の発散は、これくらいでいいな……
俺だけが独りよがりに喜んでも仕方ない。まずは、裕香にこの子を産む意志があるかどうかだ。元が男だったお前にとって、どれほど恐怖か分からないからな。……彼女の意志を、無視するわけにはいかない」
ーーーー
翔のあの研究室での狂気じみた喜びのダンスを知る由もない俺は、その夜、翔と共に家へ帰った。
「明日の家族会議でゆっくり話そう」ということで、あえて多くは語らず、お互いに早くベッドに入ったのだけれど……
――なんて、簡単に眠れるわけがなかった。
静かな寝室に響く翔の穏やかな寝息を聞きながら、俺は暗闇の中で不安に押し潰されそうになっていた。
パジャマの上から、自分のお腹をスリスリと優しくさする
膨らんではいないし、実感も全くない。
でも、この中に……確かに新しい命が『いる』らしい。
「…………妊娠……俺、本当に、大丈夫……なのかな……?」
元は男だったこの身体。いくら完璧に女に再構築されたとはいえ、未知の領域に対する底知れない恐怖が、胸の奥でぐるぐると渦巻いていた。
次の日
神宮寺製薬、研究室の最奥部。
そこには、お義父さんだけでなく……なぜか、海外出張中のはずのお義母さんが、何食わぬ顔で座っていた。
「母さん!? い、いつ帰ったんだ!?」
「真桜から連絡が来てね。急遽、会社のプライベートジェットで飛んで帰っちゃった♪せーじゅ、実はね!裕香ちゃんーー」
「あー! 待て待て! 俺から直接言うって ……ったく、なんで母さんはもう知ってるんだ……」
「う……うむ。一体どうしたのだ……? 2人とも」
事情を全く飲み込めていないお義父さんの前で、翔が深々とため息をついた。
――そして、数分後
「ま、ままままま、まじまじか!? まじか?? まじなのか!? ふふふふ、2人とも……!!」
おぉぉ……あの、常に冷静沈着の聖十郎社長が、見たこともないほど挙動不審に動揺しとる……!いや、付き合ってる報告以来だったか。
それに引き換え……
「改めて直接聞くと、本当に凄いことね! 裕香ちゃんのお腹に子供がいるなんて!」
こちらは、めちゃくちゃテンションが高くて目がキラキラしている。
「と……父さん。そういうことだ……検査結果に間違いはない」
「む、むぅ……そういう……ことなのか……」
(な……なんてことだ……いや、生態学的には当たり前の結果と思った反面……いざこうして目の当たりにすると……これは……人類の常識が、根底から変わるぞ……!)
「それで、ゆかっち、兄ぃ。……これから、どうするの?」
きた…いや、当然だ。
避けては通れない、一番大事な質問。
この問いに対する答えを……俺は昨日の夜、暗闇の中でひたすら、ひたすら考えていた。
「…………………翔……」
「裕香……俺は……」
翔が俺を気遣うように言葉を濁す。多分……翔も同じことを考えてくれていたのかもしれない。元・男である俺に無理はさせられない、と。
でも……こればかりは、俺が、自分の口から先に言うべきだ!!
俺はぎゅっと拳を握りしめ、みんなの顔を見据えた。
「翔……俺……産むよ」
「「「!?!?」」」
「裕香……? ……本当、なのか……?」
翔が、震える声で俺の顔を覗き込んでくる。
「うん……結婚して……欲が出ちゃったのかも。この幸せな毎日に、もっと家族が増えたらいいなって……」
「…………裕香……!」
翔の瞳に、一気に熱いものが込み上げる。
「俺も欲しい。俺も、お前との子供が欲しい……!俺達の手で……この子を元気に誕生させよう……!」
「う……うん……! 頑張って……みる!」
「やったぁぁーー!! ゆか姉ぇがママになるんだ! 私、ついに叔母さんになっちゃうんだね!」
真桜さんが飛び跳ねて喜び、お義母さんも上品に手を叩いて微笑んだ。
「ふふふ……! 私はお婆ちゃんになるのね! 裕香ちゃん……! これから色々と覚えることが増えるわよ!」
「ひ……ひぃ……っ。が、がんばります……」
「翔…裕香くん…君達がそう決めたならば、親として、科学者として全力で応援する。ただし……」
「あぁ……わかってる。これは世界を揺るがす、かなりの極秘案件だ。幸い、ここには十分な最高峰の施設と知識がある。リサイクルタンパク質を母体のサポートに応用できないか? 父さん」
「非常に重大な案件だ。我々はついに、人類の可能性を大きく変える扉を開けてしまったのかもしれない……。、しかし母体と胎児に対しての臨床サンプルが少なすぎる。まだ実験段階の域を超えていないな。まずは微量からの投与で……いや、万が一の副作用の可能性を考慮すると……」
あーでもないこーでもないと専門用語を並べ立てて議論を始める理系男2人。
すると、それを見ていたお義母さんが、あからさまに呆れたような深い溜め息をついた。
「はぁ……一人の女が、命を懸ける覚悟を決めたっていうのに……聖十郎も翔も、これだから頭でっかちは…」
「ほーんとっ!! まずはゆか姉ぇの気持ちを全力で応援するのが先でしょ! かのーせーがー! とか、ふくさよーがー! とか、難しい理屈ばっかり並べて……バカみたい!」
こんなにも綺麗に、男女ではっきりと意見が分かれるものなのか……
ま、まぁ、お義父さんと翔の『医学的な安全への配慮』も、お義母さんと真桜さんの『気持ちへの寄り添いと配慮』も、どちらも俺を想ってのこと。わからない気はしないんだけど……
「こ……こうなったら……やってやるぞ……!」
最強すぎる家族たちの愛ゆえの大騒ぎを見つめながら、俺は自分のお腹に手を当てた。
俺だって、元は男だ……! 根性で乗り切ってやる……!!
絶対に、元気に……産んでやる!!
――数日後
プルプル……プルプル……
「おぉぉ……慎重に……慎重に……! この子は……俺が守る……!」
俺は神宮寺製薬の研究所のデスクから、
扉へ向かってそぉ〜〜〜っと……それこそ1歩歩くのに数秒かけるレベルですり足で移動していた。
「……裕香。そんなにゆっくり歩かなくても、普通にしてて大丈夫だぞ?」
(鉄骨渡りみたいな歩き方になっとる……)
「う……うん、そうなんだけどさ! でも、俺の中に命があるって考えると……もう、動きの一つ一つで……子供に何かあったらって思うと、怖くてさ……!」
俺はガチガチに身体を強張らせたまま、ひたすらペンギンのようにプルプルと廊下を進み続けるのだった。
「由緒正しい神宮寺家の血筋に…俺の遺伝子が…混じってしまった…」
「いや、そんなこと言うな。うちは保守的な名家とかじゃないんだから。……あぁそうだ裕香、これを渡しておく」
「ん……これ? ……!!? これは!!」
翔から手渡された一冊の小さな手帳。
あ……これ、ドラマとかで妊婦さんが持ってるって言われているやつ……!
『母子健康手帳』と書かれた表紙を見た瞬間、一気に「妊娠」という事実のリアリティが増して、指先が震えた。
「一応、息がかかっている信頼できる産婦人科に通っているという『表向きの設定』になっている。だが、実際の健診自体はうちの極秘設備でやってくれ」
「はは……あはは……俺……やっぱり本当に、ママになるんだな……」
「おう……俺も、パパになるんだな……」
翔は少し照れくさそうに笑い、俺の肩をギュッと優しく抱き寄せた。
「裕香。一緒に……というか、お前の身体に一番強い負担を背負わせてしまうことになるが……二人で、がんばるぞ……!」
「……お……おうっ!」
というわけで、俺の波乱万丈な妊婦生活が本格的に幕を開けた。
幸いにも、ここは世界最高峰の神宮寺製薬。最先端の設備がフル活用できるらしい。
それにしても、製薬会社なのになんで産婦人科レベルの治療やエコー設備が完璧に揃ってるんだろうか…
そして、俺は経験者であるお義母さんから、マタニティライフの『特別指導』を受けたのだが……
が……まてまてまてまて!
妊婦って……めちゃくちゃ大変だぞ!?!?
まずは食事制限!
カフェインだめ! お刺身だめ! 生卵だめ!! アルコール……もちろんだめ!!
うぅ……仕事終わりのコークハイが……
さらに、過度な身体の負担もだめ! サウナもやめたほうがいいらしい!
そして、風邪薬などの服用も超慎重にしなければならない。
この辺の薬学的なサポートは、お義父さんと翔が完璧に調整してくれるらしいのがせめてもの救いか……
これを……この制限だらけの我慢の生活が……およそ10ヶ月続くって……嘘だろ……?
その日の夕方
俺は残業なしで業務を早めに終わらせ、一人で先に帰宅した。
「ふぅ……約1年弱……無事に乗り切れる……かな?」
リビングのソファに深く腰を下ろす。
色々説明を受けて母子手帳まで貰ったけど、自分の身体の変化なんてまだ全然ないし、正直未だに信じきれないままだ。
少し休憩した後、翔が帰ってくる前に晩御飯の準備に取り掛かる。
「さて、今日は肉じゃがにするか」
俺は鍋に牛肉、じゃがいも、人参、玉ねぎを突っ込み、割り下を入れてコトコトと煮込み始めた。
うん、意外と普通の生活ができてるじゃん!
もしかして、妊娠って思ったより大したことないのかな!?
……なんて、余裕をぶっこいていた、その時だった。
コトコトと煮える肉じゃがの、甘辛い醤油と牛肉の脂の香りが……フワリと鼻を突いた瞬間。
「…………うっ……う……ぇ……、なに……こ……」
胃の底から、得体の知れない強烈な吐き気が込み上げてきた。
俺はすかさず火を止め、トイレへ猛ダッシュする。
「うぷっ……おぇ……気持ち……悪っ……なにこれ、こんな……突然……」
便器に縋り付きながら、俺は激しくむせ返った。
舐めていた……。本当に……『妊娠』という洗礼を……
『つわり』……
それはまるで、脂っこい焼肉を限界までドカ食いした直後に、山道の激しい車酔いに見舞われたような……この世の終わりみたいな絶望感だった。
俺は、冷たいトイレの床から、一歩も動けなくなっていた。
「う……うぅ……無理だ……おぇ……っ」
便器に顔を伏せて、一体何分が経ったのだろうか……
二日酔いなんて、全く比べものにならない。
胃袋を直接鷲掴みにされて雑巾絞りにされているような……もう、ただの地獄だった。
ガチャッ…
「裕香、帰ったぞ〜……って、裕香……? ………裕香!!」
異変に気づいた翔が、慌てた足音を立ててトイレへ駆けつけてきた。
「う……うぅ……翔……気持ち……悪い……」
「裕香! しっかりしろ! 今運ぶからな!」
「う……待って、翔……俺、いま吐いたばかりで……汚いから……っ」
「静かに! あんまり喋るな……! 大丈夫だ、もう俺が来たからな」
俺が汚れていることなんて一切構わず、翔は俺の身体をひょいっと抱き上げ、リビングのソファへと運んでくれた。
手早くタオルで口元や身体を拭いてから、翔は冷蔵庫へ向かい、ドリンクゼリーのようなパウチと小さな錠剤を取り出してきた。
「つわりが始まったんだな……ひとまずこれを飲んでくれ。すぐに楽になるから」
俺は……朦朧とする意識の中、気力を振り絞ってそれを口に含む。
少し柑橘系の爽やかな味……これなら、ギリギリ……飲める……。そして、渡された錠剤も一緒に水で流し込んだ。
「はぁ……はぁ……翔……ごめん……晩御飯……」
「そんなこと気にするな。……気分はどうだ?」
「わからない……少し休む……」
「ああ、今は横になって楽にしててくれ。後のことは全部俺に任せろ」
そう言って、翔はつわりの原因となった『作りかけの肉じゃがの鍋』を匂いが届かない別の部屋へ運び出し、手際よく換気や掃除などの家事を始めてくれた。
「う……うぅ……ごめん……翔……」
俺は……申し訳なさに胸を痛めながらも、翔の優しさに甘えて、ただただ目を閉じて眠るしかなかった。
数時間後
「あ〜……だいぶ楽になった……。ありがとう……本当にありがとう……翔」
「よかった……。神宮寺製薬の研究室で作った、妊婦用の特別製だ。効き目も市販薬とは段違いだし、胎児への副作用も一切ない。安心してくれ」
先ほどの、この世の終わりみたいな気持ち悪さが、嘘のようにすーっと消えている。
やっぱり、世界随一の神宮寺の薬は次元が違った。
「突然来たんだ……肉じゃがの匂いを嗅いだ瞬間に……悪寒と吐き気が……」
「まぁ、症状や時期は人によるが……裕香の身体が、今は正常に妊娠の過程を経過しているという証拠だ。……大変だったな、よく頑張った」
翔が、俺の頭を優しく撫でてくれる。
「う……うん。それにしても……妊娠って、こんなにしんどいものだったんだな……」
俺はソファの上で小さく息を吐きながら、改めて自分の中に宿った命の重さと、これから続く未知の戦いへの覚悟を噛み締めていた。
翔の献身的なサポートのおかげで、俺はなんとか日々の生活を成り立たせていた。
しかし――
妊娠して8週目。
ここからが、本当の本当の『マタニティライフ』の始まりだった。
朝9時
「………………暇だな…………」
本格的なつわりが始まり、俺は神宮寺製薬での仕事を休職することになった。
翔からは「とにかく身体を安静にすること」と厳命されており、俺は一日中ベッドの上でダラ〜っとしていた。
なんだろう…「一日中寝てていい」なんて言われたら大喜びしてたはずなのに。
いざ「何もするな」と言われると、逆に「何か生産的なことをしなければ……!」と焦燥感に駆られてしまう。
「………とりあえず、水分はしっかり飲まねば……」
俺はのそりとベッドから起き上がり、冷蔵庫へ向かって歩き出した。
その瞬間。
「うっ……! ……おぇっ……!」
何の前触れもなく、猛烈な吐き気が込み上げてきた。
肉じゃがの匂いを嗅いだわけでもないのに! 何もないのに!
あ……朝から……これ……!??
こんなの……仕事とか家事とか、そういう次元の話じゃない!
俺はトイレに駆け込み、その後フラフラになりながら神宮寺特製の薬とドリンクを胃に流し込んで、またベッドへと倒れ込んだ。
「あ〜……しんどい……。匂い関係ないじゃんか……」
神宮寺のチート級の薬があってなお、つわりというのはこれほどまでにキツいものなのか……
夕方
翔は俺の体調に合わせて、最近は仕事を早く切り上げて帰ってきてくれるようになっていた。
「翔……ごめん……。俺、今日、本当に何もしてない……」
家は散らかったままだし、掃除も……ご飯の用意も……何一つできずに一日が過ぎてしまった。
家で待っている妻として、情けなくて涙が出てくる。
「でも、薬と栄養ドリンクはちゃんと飲んだんだろ?」
「うん……なんとか……」
「それじゃあ、俺達の子供の命を守るという一番重要な『仕事』は完璧に果たしたな。裕香、今日もお仕事お疲れ様だ。引き続き、安静にしててくれ。何かあればすぐに駆けつけるからな」
翔は俺の頭を優しく撫でると、俺の代わりに夕飯の支度や家事を全てこなし始めた。
「うぅ……翔……ありがと……」
俺は……なんて……なんていい旦那さんを持ったんだろうか……。
妊娠して10週目。
ようやく、ピーク時よりも比較的つわりが楽になり始めていた。
俺はベッドで寝転がりながら、スマホをポチポチと眺めていた。
暇つぶしに『妊娠』や『妊婦』の体験談について調べていたのだが……
「うわぁ……俺のあの地獄のつわりですら、世間的には『楽なほう』なのかよ……。ひどい時は水も飲めないとか、日中吐きっぱなしで入院とか……ひぇぇ……」
世のお母さんたち、凄すぎるだろ……鉄人か?
俺が画面を見てドン引きしていると、寝室のドアが開いた。
「裕香、体調はどうだ?」
「あ、うん。今日は結構マシになった! でも相変わらず食べ物の匂いとかには気をつけなきゃいけないけど……さっぱりしたものなら、食べられないことないかな」
「そうか……。今、何か食べたいものはあるか?」
「あー……えっと……実は……なぜか自分でも分からないんだけど……」
俺が言い淀んでいると。
ガチャッ!!
「やっほー! ただいま〜! ゆか姉ぇ元気してる?」
「あ、真桜さん……! なんとか生きてます……はは」
「あまり大声を出すな真桜。裕香は今つわりの真っ最中でデリケートなんだ」
「知ってるよー、私も検査データ毎日見てるし。あ、ゆか姉ぇ、途中で『フライドポテト』買ってきたけど、いる?」
真桜さんが、お馴染みのファストフード店の紙袋をヒョイっと持ち上げた。
ジャンクな油と塩の匂いが、ふわりと部屋に漂う。
「おおおいおいおい!! 真桜……! つわりで苦しんでる妊婦に、そんな脂っこいものをだな……!」
「あっ……! 真桜さん……っ! ありがとう! いただきます!」
「えっ? ……だ、大丈夫なのか? 裕香」
俺は、勢いよく紙袋から温かいポテトを取り出し、無我夢中で口に運んだ。
カリッとした食感、強めの塩気、そしてジャンクな油の旨味……旨い!!!!染みる!!
「うん……! なんか……無性にこういう『塩っ気』がほしいというか……これなら割と平気で食べられる……なんでだろ」
俺も正直、不思議でたまらない……
さっぱりしたうどんや和食ですら匂いで気持ち悪くなるのに……この脂っこいフライドポテトだけは、無限に食べられそうな気がする。妊婦の身体って、本当に不思議だ。
「ふっふっふ……! 兄ぃもまだまだだね! 妊婦さんの謎のポテト欲求は常識なんだから。……で、兄ぃもいる?」
「たった1回当てたくらいでドヤられてもな。……貰う」
結局、ベッドの周りで三人揃ってポテトを齧りながら、俺たちは他愛のない家族の時間を過ごすのだった。
そんなこんなで、神宮寺家の優秀すぎる兄妹と両親の全力サポートに支えられ、俺は……過酷なつわり期をなんとか乗り切り、我が子を守り抜くことができた。
その努力に応えるように、俺のお腹も少しずつ、ふっくらと丸みを帯びて膨らんでいった。
妊娠して20週目。
神宮寺製薬の特別検査室にて、お義父さん直々のエコー検査を受けていた時のこと。
「うむ。順調に成長しているな……流産のリスクは、これでかなり低くなったと言えるだろう」
「つ……つまり……?」
「世間で言うところの……『安定期』に入ったということだ。ひとまずはお疲れ様、裕香くん」
「あー…………よ、よかったぁ……! ありがとうございます……! お義父さん……」
俺が安堵で深く息を吐き出すと、隣でずっと手を握っていた翔も、心底ホッとしたように相好を崩した。
「裕香、本当によくここまで頑張ったな……!」
「いやいや! 翔や真桜さん、お義父さんやお義母さん……神宮寺製薬の皆が全力で協力してくれたおかげだよ……!」
妊娠が発覚してから、およそ4ヶ月。
エコーモニターに映る赤ちゃんは、もうしっかりと人間の形に成長していた。
「翔……それで、胎児の『性別』なんだが……」
「あー、父さんすまない。その結果は『裕香にだけ』教えてやってくれ。裕香、俺は先に家へ帰って待ってるからな」
「あ……うん! ケーキ屋さんに予約してるの受け取ってから帰るから、待ってて!」
言うが早いか、翔は足早に検査室を後にしてしまった。
「む……? 自分の子供の性別にまったく関心を示さずに帰るとは……すまない、裕香くん。我が息子ながら恥ずかしい……。それに、こんな時にケーキとは……?」
「あ〜……! 違うんです、そういうわけじゃなくて……! 実は近頃、『ジェンダーリビールケーキ』っていうサプライズ発表が流行ってて……。翔、ああ見えてそういうイベント事とか、サプライズ的なことが好きで……」
俺は慌てて、ケーキの中身の色で性別を発表するのだという事情を、お義父さんに説明した。
「なるほどな……。私の時とは随分と価値観が変わったものだ。……しかし世界を変えるような特異点の中心にいるというのに……傍から見れば、ただの順風満帆で幸せな、普通の若夫婦だな。……素晴らしいことだ」
その夜
俺は予約していた真っ白なデコレーションケーキを引き取り、自宅のリビングの机に置いた。
「翔……! 準備ができたぞ……!」
「おう……! じゃあ、カットするぞ……!」
ゴクリ、と翔が喉を鳴らし、緊張した面持ちで包丁を握る。
そして、真っ白なケーキにゆっくりと刃が入れられ、断面がパカッと開かれた。
中からこぼれ出てきたのは色鮮やかな『ブルーベリー』だった。
「お……男……!! 男の子か!! 俺達の子供は!!」
「正解!! 男の子だよ、翔!」
そう。俺のお腹の中で育っている子供は、男の子だ。
し……正直言うと、めちゃくちゃホッとしている自分もいる……!
だって、俺の『女歴』なんて、高校の途中で女の子になってからまだたったの4年そこそこなのだ。
同性として、女の子に『女の子としての生き方』を教えてあげられる自信は……ぶっちゃけ、俺にはない!
でも、男なら……! 前世??で一応18年間やってきた実績があるし! ま、まぁ、多少のことは教え……られる、はず!?
「そうだよ、男の子! エコーでも結構はっきり見えた! 翔譲りの立派な……サイズが……」
「まてまてまて! 今はそういう下ネタの空気じゃないだろ!笑 ははっ……でも、そうか。家の中が賑やかになりそうだな……!」
「しかし、不思議だよな。男と……元男から……男が産まれるって。やっぱり遺伝子なのかな……?」
「いや、生物学的な遺伝子で言えば、今の裕香の遺伝子は『女』そのものだ。だから、奇跡でもなんでもなく、普通の男の子だよ。……しっかり強く育てなくてはな。神宮寺家の名に恥じぬように……!」
「翔の教育……。なんか、口ではスパルタなこと言ってるけど、なんだかんだめちゃくちゃ甘やかして過保護になりそう……!」
「甘いのは、裕香にだけだよ」
「ふふっ、なにそれ……」
そんな、幸せで他愛のない談笑をしていた、その時だった。
――ポコ……
――ポコッ……!
「あわわわわ……!!!! し……翔!! い、今!!」
「も……もしかして……!?」
「うん……! 蹴った!!! 俺達の子供が!! 元気っぽい!! わぁぁあっ!! 嬉しい……!!」
「おおおおおおお!! よっしゃぁ!! やったな!! 裕香!!」
確かに……確かに感じた!!
俺の子宮を、内側から小さな足で強く蹴られた、命の感触!!
自分の身体の中に、自分たち以外の確かな命が息づいている。
こんなに……こんなに……感動するなんて!
俺の中にもこんなに温かい『母性』があったんだな……!




