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第80話 結婚生活、最大の試練 後編

妊娠して28週目。


無事に『安定期』と呼ばれる時期に入り、エコーで性別がはっきり分かるくらいに赤ちゃんも大きく成長した。

俺のお腹もすっかりふくらんで、今では誰がどう見ても『妊婦さん』そのもの。


普段着る服も、お腹周りを締め付けず動きやすい、ゆったりとしたワンピースが中心になった。


先日には、みんな信じられないくらい忙しいはずなのに、神宮寺家の家族総出で神社へ『安産祈願』にも行ってくれた。

つわりの地獄のようなピークも越えた

赤ちゃんもしっかりお腹の中で育っている。


これでやっと、穏やかで安心なマタニティライフを送れる!!開放だ!!




……な〜んて、思っていた時期が俺にもありました。


そんなわけが、なかったのだ!!!!!!

いや……妊婦の生活、ここから先はまた別のベクトルで『苦行』の連続だった!!


まず、お腹が大きくなるにつれて、日常生活がまともに送れなくなる!

ちょっと動くだけで、すぐに息切れがする。


足の爪を切るのも一苦労だし、仰向けで寝るのもしんどい。とにかく身体が……重い! 重すぎる!!


さらに俺を苦しめたのが……『ホルモンバランスの乱れ』だ。

元が男だろうとなんだろうと、妊婦の身体は容赦なく俺のメンタルを削ってくる。どうしようもなくネガティブな感情に支配されがちになってしまったのだ。


「もし、俺が下手に動いて転んだりして、この子に何かあったら……」


そんな不安が突然押し寄せてきて、情緒は最悪…

ほぼ毎晩のようにボロボロと泣いてしまう日々。


それでも翔は、俺が夜中に泣き出すたびに目を覚まし、文句一つ言わずに背中をさすって支え続けてくれた。


本当に……こんな旦那で助かった。翔がいなかったら、俺はとっくに心が折れていたと思う。


まあ、唯一の救いといえば、つわりが終わって色々な食事を楽しめるようになったことくらいだろうか。


その日の昼下がり


俺はリビングのソファでダラダラと横になりながら、スマホをポチポチと眺めていた。


「ふむふむ……『マタニティマーク』ね……。うぉっ……なんだこれ、ネットだとこんなに荒れてんのかよ……」


妊婦に対する謎のヘイトや厳しい意見。日本はこれだけ豊かになったはずなのに、どこか窮屈でギスギスしている。

俺は少し嫌な気分になりながらも、さらにスクロールして調べていく。


「うわぁ……こっちはこっちで、ママさん側も結構荒れたこと言ってるな……。『旦那が役立たず』『女だけこんな思いして苦労する』『男はずるい』……。ま、まぁ……身体しんどくてストレスも溜まるし、ホルモンバランスもバグってるから、言いたくなる気持ちも痛いほど分かるけどな……」


そんな中、俺は掲示板のひとつの書き込みにピタリと目を止めた。


『男も妊娠の辛さを経験して欲しい。男が妊娠すればいいのに』


ここに……いますよ!!! 男として生まれて、女になって、現在絶賛妊娠の辛さをフルコースで味わって苦しんでる『元男』が、ここにいます!! 世界に俺一人だけだろうけど!!!


「……っと、ここらへんでやめとこ! 翔にも『あんまりネガティブなネットの意見とか調べるな』って言われてるしな……」


俺はパタンとスマホを閉じ、大きく膨らんだ自分のお腹を優しく撫でた。


「ひぇぇ……予定日まで、あと3ヶ月もあるのか……。妊婦って、本当に、信じられないくらい大変なんだな……」


全国のTS作品を愛読する者達に告げる……

TSした主人公が、最後に妊娠を発覚させてハッピーエンド! という展開は最近のラノベや漫画だとありがちだが……その『後』の過酷な生活を、リアルに想像したことがあるだろうか……?


女体化して可愛い! メス堕ち!やん!赤ちゃんちゃった!♡

……だけで終わるほど、現実は甘くない。

結構エグいし、グロいし、しんどいし、汚いのだ……!!


ピンポーン……


「あ、はーい」


大きくなったお腹を庇いながら、俺はゆっくりと玄関のドアを開けた。


「裕香さん、おはようございます。わざわざお出迎えありがとうね!」


「い……いえいえ! こちらこそ……今日もよろしくお願いします!」


笑顔で立っていたのは、40代のとても上品で素敵な女性

前川さんだ。


翔が仕事でどうしても遅くなる日は、この人が家に来て身の回りのお世話をしてくれている。


ただの有能な家政婦さん……ではない。

この人は、元々は海外でバリバリ働く神宮寺製薬の超優秀な研究員だ。


なんと、かつて行われた俺の『極秘人体実験』のプロジェクト担当の一人であり

そして、俺が前野裕介から女の子になった時に用意された『前川裕香』という戸籍上の母親なのだ!


いや、ただの架空の設定かと思ったら、実在する人物だったのかよ!!

最近知ってめちゃくちゃ驚いたんだけど。


しかも、プライベートではすでに2児のママさんらしい。

そんなエキスパートな人を、翔は「裕香の精神的なサポートと身の回りの世話には、事情を全て知っている女性が必要だ」と言って、わざわざ海外の重要なプロジェクトをキャンセルさせてまで、俺の専念サポーターとして手配してくれたのだ。


……いくらなんでも、権力の使い方がエグすぎる。

畏れ多いことこの上ない。


「今日の体調はどうですか?」


「あ、大丈夫です……なんとか」


「それはよかった。それじゃ、すぐに朝ご飯作りますね。座って休んでいてください」


「お……お願いします!」


手洗いうがいを済ませた前川さんは、手際よくキッチンに立ち、栄養満点で消化に良い朝食をあっという間に作ってくれた。



朝食を終え、掃除や洗濯などの家事もテキパキと終わらせてくれた数時間後。


俺は一息ついている前川さんに、温かいお茶を出した。


「あら、ありがとうございます。でも、裕香さんはご自身の身体を一番大事にしてくださいね?」


「い……いえ、お茶を入れるくらいしかできませんし……。その、えっと……お、お母さん……?」


「ふふふ。無理しないで、『前川』でいいですよ」


俺が恐る恐る戸籍上の呼び方で呼んでみると、前川さんはフフッと優しく微笑んだ。


「まぁ……私も、あの実験が無事に成功して以降はずっと海外の研究所にいましたし、こうしてお会いするのは本当に久しぶりです。……でも、本当によく、ここまで健やかに生きてくれました。ずっと、会いたかったんですよ。裕香さん」


「あはは……そんな……大げさな……」


不思議な感じだ。本当に、親身になって愛されているということが、言葉の端々から温かく伝わってくる。

あくまで『設定上の母親』に過ぎないはずなのに。


もし、俺にこんな風に優しく心配してくれる本物の母親がいたら……もっと幸せな人生だったのかもしれないな、なんて。

少しだけ、胸の奥がキュッとした。


「所で、今は何か……不安に思っていることや、気になる事はありますか?」


前川さんの優しい問いかけに、俺は少しだけ俯いて、正直な気持ちを吐いた。


「そ、そうですね……なんだかんだ、やっぱり……怖いです。……前川さんの、初めての出産って、どんな感じでしたか……?」


「うーん……私は元々子供が欲しかったですし、無痛分娩だったんですけど……そりゃあもう、凄まじく大変でしたね」


「ひぇぇ……」



「ごめんなさいね、脅すようなことを言ってしまって。でも、基本的には誰に聞いても同じような回答になると思いますよ。命を産み落とすんですから、大変じゃないわけがないんです……」


前川さんにそう優しく諭されつつも、俺の胸の中はやはり拭いきれない不安に満ちていた。


「私……元々、女性じゃありませんし……。ネットでは『男が出産の痛みを経験すると、ショック死する』なんて話も見たことがあって……」


そんな弱音をこぼすと、前川さんはきょとんとした後、クスッと笑った。


「あぁ、それは迷信ですよ。医学的な根拠なんてありませんから」


「え……? そうなんですか?」


「はい。そもそも、出産の痛みを他の手段で体感・代用するなんて、そう簡単にできるものじゃありませんからね。ははっ……!」


「それとね……裕香さん。元々が男だったとか、そんなことは関係ありませんよ。貴方は今、とても大変で、とても大事で、途方もなく重大な事を成し遂げようとしているんです。だから、頑張るのが『貴方一人だけ』である必要はないんですよ」


「……」


「私も含めて、神宮寺製薬……文字通り『総出』で貴方をフォローします。安心してくださいね」


その、あまりにも力強く温かい言葉を聞いて……俺はふっと、肩の力が抜けるのを感じた。


そうだ。

余裕が無くなると、ついつい自分一人だけで見えない恐怖と戦っているような錯覚に陥っていた。


でも、俺には最高の旦那である翔を始め、真桜さん、お義父さん、お義母さん、そして目の前にいる前川さん……一緒に戦ってくれている無敵の味方達がたくさんいるのだ。


「ありがとう……ございます……。なんだか、凄く安心しました……!」


「ええ! 一緒に頑張りましょうね!」


前川さんとのお茶を飲みながらの温かい雑談は、気づけば夜の八時まで続いていた。


ガチャッ


「ただいまー。裕香、調子はどうだ?」


「うん……! だいぶ良い方だよ。おかえり……翔」


リビングのドアが開き、仕事から帰ってきた翔が顔を出す。


「あらあら。うちの『義理の息子』が帰られましたね」


「ま、まぁ……戸籍上の設定ですがね。……すみません、前川さん。今日もありがとうございました」


いつもはクールな翔が、前川さんの前では少しだけタジタジになりながら頭を下げる。


「いえいえ。私もかつてのプロジェクトの一員ですし、こうして裕香さんと再び深い関わりが持てたことに、心から感謝しているんですよ。……それじゃあ、私は今日はこれで失礼しますね。裕香さん、またね」


「はい……! 本当に、ありがとうございました!」


前川さんは、俺たちに優しく微笑み残して帰っていった。


「翔、お茶淹れようか?」


「いいのか? 動いて」


「ふふっ、それくらいするよ……!」


俺はゆっくりとした足取りでキッチンへ向かい、温かいお茶を二つの湯呑みに注いだ。

湯気と共に漂うお茶の香りと、俺を心配そうに見つめる翔の視線。




お茶を飲みながらの雑談も落ち着き、俺はふくらんだ自分のお腹を優しくさすりながら、ふと気づいたことを口にした。


「しかし……こうして実際に自分が妊娠してみると、俺、もう『TSモノ』の同人誌でよくある『妊娠エンド』の作品……純粋な目で見られなくなったな。その後の過酷な現実を想像すると、ヒロインが可哀想で大変そうで……」


「まぁ、同人誌や漫画はそういう『リアルで泥臭い部分』はだいたい端折って描くからな。数年後にポンッと子供がいる結末になっていたりするし」


「だなぁ。男だった昔は、『男が女になって身ごもる……そそる〜!』なんて呑気に思ってたのに。ははっ……」


乾いた笑いを漏らし合っていると、翔は湯呑みを持ったまま、ジッと裕香のお腹を見つめていた。


(すまん……裕香。お前がそんな真理に到達している一方で、俺は絶賛、この『現実の状況』に興奮を覚えている……!)


(かつての一番の親友が、TSして本物の女になって……女の子の身体に戸惑い、生理を迎え……色々な女物の服を着て……最終的に、俺に堕ちてくれて……結婚して……そして今、俺の子を妊娠している……! ほ、ほぼ『役満』じゃねぇか!! TSラブコメの至高のハッピーエンドの!! おおお!! ここに……本物の……!)


「……翔? どうした、急に黙り込んで」


「……いや。なんでもない。お茶が美味いなと思って」


(……だが、今の裕香の地獄のような苦労を考えたら、こんなこと口が裂けても言えねぇな……俺の心の中だけの秘密にしておこう……)


天才科学者は、自らの内に秘めた『限界オタクの業』を、静かに心の奥底へと封印したのだった。




そして、さらに日が経ち

妊娠して32週目。


俺のお腹は、いよいよはち切れんばかりに大きくなっていた。

しかし人間の適応能力というのは凄いもので、身体の重心の変化に慣れてきたのか、不思議と少しだけスムーズに動けるようにはなっていた。


今日は、久しぶりにみんなで集まる日。


かつてよく入り浸っていたあのファミレスに、白石さん、桐谷さん、神崎さんが集まってくれるのだ。


「よっと……本当に大丈夫か?」


「うん。真桜さんも一緒について来てくれるし、久しぶりに皆に会いたいから、行ってくる!」


玄関の上がり框に座った俺の足元で、翔が屈み込んでスニーカーの靴紐を丁寧に結んでくれている。


大きなお腹がつかえて下を向けない妊婦にとって、この些細なサポートが本当にありがたい。


「いこいこ! ゆか姉ぇ! そんじゃ兄ぃ、いってくるねー!」


「おう、道中気をつけてな。裕香を頼んだぞ」


真桜さんにマザーズバッグのような大きな荷物を持ってもらい、俺たちは外へ出た。


ファミレスまでは歩いていける距離だ。……が、やっぱり妊婦の身体にはなかなか……しんどい……!


「ひ、ひぃぃ……っ、ふぅ……」


「大丈夫? 無理しないでちょっと休もっか!」


途中で足が止まってしまう。

で……でも、このままだと待ち合わせの時間に遅れちゃう……!


「急ぎかい? 真桜さん。よければ、送ってこうか?」


突然

道の脇にスッと音もなく横付けされた黒塗りの高級車から、低い、けれど穏やかな声がかけられた。


「あー! 塚本さんお久です!! というか、大っぴらに外に出てきていいの?笑」


「へ……? 塚本……さん?」


真桜さんは知り合いみたいに軽く手を振っているけど……誰だ、この人……?


年齢は50代くらい。ビシッとした黒のスーツを着こなしているが、なんというか……『裏の仕事』が死ぬほど似合う、底知れない風格のある男性だ。只者じゃないオーラがビンビンに出ている。


「裕香さん、初めまして。塚本です。……私は、君を知る人間の一人だ。どうか、安心してくれ」


「え……えええ!? わた、私を知っている……!? は、初めまして!!」


俺を知っている……ということは、神宮寺製薬のプロジェクトの人!?ほんとに誰?!

わからん!! 俺が知らないだけで、あの実験の裏には関係者が思ったより多いのか?


「この人は、ちょっと仕事の都合で詳しく教える事はできないんだけど、絶対悪い人じゃないよ! 人相は極道みたいに悪いけどね!」


「えええぇ………?」


「ははは、仕事柄人相は悪い方がいい。初見で相手に強い印象と威圧感を与えられるからな」


うん……まぁ、絶対に『表の人間』じゃない、只者ではないことだけは痛いほど分かった……。


時間もないし、背に腹は代えられないということで、俺たちは塚本さんとやらの車でファミレスまで送ってもらうことになった。


「でも珍しいね、塚本さん。どうしたの? わざわざ声かけてくるなんて」


「まぁ、私も今回限りにするよ。……ちょっと、どうしても『今の裕香さん』を一目見ておきたくてね」


「え……私ですか?」


塚本さんは、バックミラー越しに俺の顔を、そして大きくなったお腹を、ひどく細めた優しい目で見た。


「うん、とある一件で君を担当させてもらった。…元気な子供が産まれてくるといいね」


(あの『竜鬼会の件』から……ずっと遠目に安否を見守っていたが……すっかり顔色も良くなったね……。本当に、心からホッとしたよ)


「は……はぁ……。お気遣い、ありがとうございます……?」


事情が読めない俺が首を傾げていると、真桜さんがクスッと笑った。


「ふふふ。ゆか姉ぇは、自分の知らないところでも、本当に色んな人に支えられ、見守られて生きてるんだよ」


「なるほど…」


塚本さんという謎の紳士の送迎もあり、俺たちは無事に待ち合わせのファミレスへと到着した。


「よっと……」


俺と真桜さんが店に入ると……指定のテーブルには、すでに懐かしい二人の姿があった。


「なははは!! 久しぶりだ! 真桜! ゆかっち!! 先輩ママだぞ〜!」


「懐かしいわね……二人とも……!」


「わー! ヒカ! レイ! 久しぶり! 元気してた!?」


満面の笑みで手を振ってくれたのは、桐谷さんと白石さんだ。


「おおおお、お久しぶりです! 会いたかったぁ! ……って、お二人ともご結婚されたから、今は『桐谷さん』と『白石さん』で呼んじゃややこしい……かな?」


「なはは!! 気にしなくて大丈夫だ!」


そう、桐谷さん(旧姓)はすでに2歳の子供を育てている、この過酷な妊娠・出産体験をくぐり抜けた偉大なる『先輩ママ』なのだ。そして白石さん(旧姓)も、少し前に晴れて久我さんと結婚したばかりのホヤホヤ新婚さん。本当にめでたい!!


「私も、全然今まで通りの呼び方で大丈夫よ。……裕香さん、もうすっかりお腹が大きくなったね……! 体調の方はどうかな?」


「大丈夫……です! みんなに支えてもらって、なんとか……」


「そうそう! 神宮寺家の新しい家族だからね! 私たちも全力でサポートしてるよ。……あれ? あまねっちは?」


「んー、あいつはわざわざフランスから帰国してくれてるからなぁ〜。もうすぐ来るんじゃないか?」 


その言葉の直後


ウィーン……


自動ドアが開く音がして、背の高い、オーラのあるスラリとした女性が歩み寄ってきた。


「うわ…みんな全然変わんない……っと、ゆかっちは……凄い変わってるけど」


「あまねっち〜! こっちこっち!」


神崎さん……! わざわざこの日のために、フランスから飛んで帰って来てくれたんだ……

これでついに、かつてのメンバーが全員揃った……!!


「久しぶり。ゆかっちは今、何週目?」


「32週目ですね……」


「そっか。元気に生まれるといいね。翔くんとゆかっちの子供……絶対に可愛いよ」


「そりゃそうだ! なはは!」


「ええ……。本当に、母子ともに元気でね」


「甥っ子ちゃーん、みんな待ってるからねー!」


すでに子供がいる者。

新婚の者。

海外の第一線で活躍している者。

そして大きなお腹を抱えている俺。


あの頃とは、全員が全く異なる環境にいる。

それなのに、このメンバーが顔を揃えれば、不思議と高校時代のあの頃と同じテンションで笑い合うことができた。


美味しいご飯を食べながら、とめどなく溢れる思い出話と、これからの未来の話。

本当に最高に楽しくて、温かい時間だった。


苦しくも、たくさんの人たちに支えられ、元気を貰い……俺はなんとか乗り越えていった。




妊娠して36週目。


俺はついに臨月に入った。神宮寺製薬の研究室にて、海外から帰国したお義母さんから、今後の最終的なスケジュールを説明される。


「それじゃ、裕香ちゃん。明日入院しましょっか」


「は……はいぃ……」


入院……ついに、この時がきた。

俺のお腹はもう、いつ産まれてもおかしくないくらいパンパンだ。


生まれるまでの期間を、万が一の事態にも即座に対応できる最高設備の整った『特別病室』で過ごすことになった。


「ふむふむ、ほんとうに順調でよかったわ。これなら促進剤もいらないし、自然分娩でいけるわね! 本当に頑張ったわね、裕香ちゃん!」


「ありがとうございます……! あの、ところで……その……やっぱり…………切るんですか?」


俺が恐る恐る尋ねると、お義母さんは悪びれもせずに頷いた。


「うん、切るわよ。裕香ちゃん小柄だし」


あああああああぁ……なんてこった……

俺のこの小柄な体格ゆえに、出産時に……あそこを……ちょっと『切る』らしい……。


い……いやだぁ……ッ!! なんでだよ!! 人類、もっとポンッて楽に産める構造に進化してくれよ!!


「ふふっ、大丈夫よ。うちの技術は世界一。麻酔の効果も段違いだから、痛みはほとんど感じないわよ」


「そ……そうですか……」


いわゆる無痛分娩とはいえ、多少の違和感や鈍い痛みはあるらしい。

神宮寺製薬の英知を結集しても、出産という行為そのものが『命がけ』であることに変わりはないようだ。


「私なんか双子だったけど、ほら、この通り跡も残ってないわ」


そう言って、お義母さんは腹部を際までチラリと見せてくれた。

確かに、手術の跡どころか、出産を終えた特有のシワ一つすら見当たらない……が、そんな事を気にする余裕も無くなり…


「…………………」


俺は、迫りくる出産の恐怖に、身体を震わせていた。


ギュッ


優しく、母のような温もりで、お義母さんが俺をハグしてくれた。


「怖いよね。大丈夫……私たちがついているから」


「……はい」


ほんの少しだけ……心の中の氷が溶けて、安心した。




夜…

ひとまず、今夜は自宅で睡眠、翔に報告する。


「と……ということで……明日……研究室の病棟へ入院します……」


「お……おう……ついに……か……」


「…………翔……ごめん……」


「ん?」


俺は、今まで隠していた本音を吐き出した。


「やっぱり……怖い……俺……怖い……ッ!! もしかして、死ぬのかな……?」


ここまでみんなに支えてもらって、こんなことを言うのは本当に申し訳ない。でも、俺が子供を産むなんて……女歴すら4年そこらなのに……。


世界最新の設備があっても、不安で押しつぶされそうになる。

怖い、怖い……正直、今すぐにでもここから逃げ出したい……!


翔は、何も言わずに俺を強く……でも、お腹の子供を圧迫しないように、最大限の配慮を込めた優しさでハグしてくれた。


「裕香……絶対に死なせない」


「翔ぉ……っ!」


「俺が……俺たちが……守る。裕香も、子供も。そして……無事に、できるだけ負担なく……出産させる。約束する。大丈夫だ……絶対大丈夫……」


翔の鼓動が、胸から伝わってくる。

俺の不安を吸い取るような、力強い言葉。


「うん……うん……ッ! ごめん……! ありがとう……! 頑張ってくるよ!!」


やっぱり、俺には翔が一番安心させてくれる。

翔の腕の中で、さっきまでの震えが嘘のように消えていくのを感じた。


その夜、俺はこれ以上ないほど深い、穏やかな眠りにつくことができたのだった。



数日後

俺は研究室内の特別病棟へ入院していた。


そこは病院というよりは、「高級ホテルに最新鋭の大学病院と最先端の研究施設を融合させた」かのような、あまりにも規格外な空間だった。


大きな窓からは夜景が一望でき、温かみのある木目調の内装と青々とした観葉植物が、殺殺風景な病室の気配を完全に消し去っている。


「裕香〜、お水持ってきたぞ」


「ありがとう! 助かる……。なんか思ったより……ラフなんだな、出産前って」


「まあ、あとは産むだけだからな。それまで心身ともにリラックスしてもらうことが何より大事だし。……あ、そうだ。裕香、子供の名前なんだが、いくつか案があってな」


これから命がけの出産を迎えるというのに、病室にはどこか穏やかで、心地いい余裕が満ちていた。


俺と翔の子供の名前……そんな未来の話を、今まさにこの場所でしている。


夫婦でゆったりと横になれる大きなソファベッドの隣には、今はまだ、ぽつんと空っぽのベビーベッドが静かに佇んでいた。


ここに……間もなく、俺たちの子供が入るのかな……?

ひえぇぇ……神様、どうか無事に産まれますように……!


心の中で祈るように、俺は再び自分のお腹を愛おしくさすった。


――その日の、深夜。


病室で横になっていた時だった。


突如、お腹の奥がキューッ……と不自然に張る、独特の強い感覚が俺を襲った。


「……んっ?」


それから30分後、また同じ痛みが這い上がってくる。さらにその15分後。また。

間隔が規則的に、そして確実に縮まっていく。


「こ、こここ……これって、ついに『本番』がくるのか……!?」


俺は震える手で迷わずナースコールを押し、助産師さんを呼んだ。


「はいはーい、ちょっとNST測りますね〜」


NST……胎児心拍モニターと呼ばれる機械を装着し、子宮の収縮と赤ちゃんの状態を計測する。

結果、赤ちゃんは極めて元気だが、子宮口の開きはまだ2cmほど。「今日はこのまま様子見ですね」と言われ、俺は嵐の前の静けさのような、極限の緊張感の中で夜を明かすことになった。


翌朝、午前5時。


「うぐ……っ、ぎぎぎ……いだだだ……っ!」


ベッドの柵をギチギチと握りしめる。今度は、昨晩とは明らかに痛みのリズムも次元も違う!!


計測するまでもない。きっちり10分おき。紛れもなく、本陣痛の始まりだった。


この時点での子宮口は3cm。

そして、午前9時。

陣痛の間隔はついに5分まで縮まり、腰をハンマーで砕かれているような凄まじい痛みが容赦なく押し寄せる。


「う、く……痛い……でも、大丈夫、俺は……大丈夫だ……っ!」


必死に根性を呼び起こし、脂汗を流しながら耐える。子宮口は5cm。


「それじゃあ、麻酔を入れますね」


助産師さんの合図とともに、ここで待望の『無痛分娩』が開始された。


背中に細いカテーテルを挿入し、神宮寺製薬が誇る最高品質の麻酔薬が投与されていく。それから10分ほど経つと――


「え……? あれ……っ!?」


さっきまでの、世界が引き裂かれるような激痛が、嘘のようにスーーッと遠のいていった。

無痛分娩……神宮寺の科学力、マジで凄すぎる……!!

だが、完全に感覚がゼロになるわけではなかった。


お腹がギュウッと収縮する圧迫感や、赤ちゃんが回旋しながら、俺の骨盤をグイグイと力任せに押し広げて降りてきているリアルな感触は生々しく残っている。


例えるなら、内臓が股からズニュッと出てきそうな、経験したことのない奇妙な恐怖感。


だけど、痛みが劇的に抑えられているおかげで、パニックにならずに驚くほど冷静でいられた。


午後…まだ出産は終えておりません…

え……? まだ……? うそ……もう陣痛が始まってから5時間は経ったよね……?


なかなか開かない子宮口に焦りを感じ始めた、その時だった。

そこからは、文字通り一気に展開が進んだ。子宮口が7cm、8cm、9cmと急速に開いていく。


そして――


パシャッ……!


「ひゃっ!?」


「破水しました!」


助産師さんの鋭い声が室内に響く。羊水が弾けると同時に、子宮口は一気に全開の10cmへ達した。


「もういきんで大丈夫ですよ!」


いよいよ、テレビや漫画で何度も見たあの『分娩台』へと上がる。


「裕香ちゃん、ごめんね」


「力まずにね」


お義母さんが素早く麻酔を追加し、お義父さんが長年培った神業のような手技で切開を行う。最先端の医療技術のおかげで、恐怖していた痛みはほとんど感じない。


そこから、ついに最後のいきみが始まった。


「はい! 深呼吸して! ……息を止めて! いきんで!!」


「ひ…ひぃ……はぁ………!」


ひっ、ひっ、ふー、だ!! 本物だこれ、リアルひっひっふーだ!!!


俺は助産師さんの声に合わせて、10秒間、全身の力を込めて下腹部に力を集中させる。一度力を抜き、また10秒。


それを繰り返すたびに、愛しい命が、すぐそこまで近づいてきているのが分かった。


「頭が見えてきました!」


隣では、翔が破裂しそうなほど強く、俺の右手を握りしめていた。


「裕香……頑張れ……!! 頑張ってくれ!」


「あ……ああ、あああああああ!! 死ぬ!! 無理無理無理無理!! だずげでぇぇぇ!!!」


頭では冷静なつもりなのに、本能的な恐怖でめちゃくちゃな絶叫が口から飛び出す。


「ゆか姉ぇ!!! 頑張って!!!」


分娩室の隅から、真桜さんの必死の応援も聞こえる。

激痛というわけではない。だけど、何かが破裂しそうな、とてつもなくヤバい鈍痛と圧迫感が俺の身体を支配する!!


む、無痛分娩は!? あれ!? そりゃあ痛みはかなり無い方なんだろうけど、それでも普通に痛いがくる!!



で……でも……! でも、ここで諦めるわけにはいかない!!


「ぐっ、ぅうううううううう!!! お願いっ……!!! 」


もうすぐだ。もうすぐ、この子に会える……!

俺は、絶対にやりきるんだ!!!!





ぶあわぁっ……!!!


「…………っ」


温かい、大きな何かが身体から抜け出た瞬間、一瞬だけ、脳の回路が焼き切れたように意識が真っ白に飛んだ。


一瞬、本当に死んだのかと思った。……だけど、遠のいていた意識の輪郭が、次第に周囲の音を拾い始める。


「……………あぁ……っ!」


「……………ぎゃあ……っ!」





「え……へ……生きてる……??」


静寂を破り、鼓膜を震わせたのは――。


「――おぎゃあああ!! おぎゃあああ!!! おぎゃあああ!!!」


力強い、世界で一番美しい産声だった。


「裕香ちゃん、よく頑張ったわね……!! 元気な男の子よ!」


「ふぅ……。本当によく頑張ったな、後は任せなさい……! 止血!」


「あ……あぁ………よ、よかった……」


お義母さんが、産まれたばかりの我が子を優しく抱き上げ、俺の顔の近くへと見せてくれた。


真っ赤な顔をして、一生懸命に小さな手足をバタつかせながら元気に泣いている。


たしかに……たしかに、俺のお腹の中にいて、俺がこの世に産み落とした、俺と翔の子供だ。

よかった……。やっと、やっと会えた……。

そのあまりにも力強い産声が響き渡った瞬間。


特別病棟を包んでいた張り詰めた空気が、劇的に、そして世界が一変するほど優しく変化した。


世界を震撼させる超技術を開発し、常に冷徹なトップであり続けた研究者たちも。

国家機密を裏で操り、世界の列列強と渡り合ってきた天才たちも。

この瞬間だけは、その大層な肩書きも、背負ってきた重荷も、すべてをその場に置いてきていた。


響き渡る我が子の産声に、お義父さんが、お義母さんが、そして義妹の真桜が、息を呑むようにして立ち尽くしている。

彼らの瞳に浮かんでいるのは、偉大な科学者としての冷徹な眼光ではない。


たった一人、新しい命を心の底から歓迎する『家族』としての、涙に濡れた無垢な歓喜だった。


「う……うう……裕香……お疲れ様……」


「ゆか姉ぇ〜〜!!! おめでとう!!」


俺の手を握ったまま、ボロボロと大粒の涙を流して泣いている翔。


その隣で、同じように顔をくしゃくしゃにして号泣している真桜さん。


……ああ、そっか。

元・非リア男子高校生、前野裕介…

前川裕香になり、神宮寺裕香になった俺は


みんなの愛に支えられて、最高の旦那様と一緒に最高の奇跡を、やり遂げたんだ。


あ、あぁ……俺は、頑張った……よな? 流石に……頑張ったよな……??


今回ばかりは、自分を心の底から褒めてやっても……いいよな?

一仕事を終えた安堵感の中で、俺はそんな風に思っていた。

少し体調が落ち着いた頃、綺麗にしてもらった赤ちゃんを、改めてこの腕に抱かせてもらった。


「可愛い……。翔、俺たちの……子供、だよ……」 


「あぁ……ああ! そうだな、裕香……! ほら、すごく元気だぞ……!」


腕の中の小さな命を愛おしそうに見つめながら、俺は翔が考えてくれていた名前を、そっと口に馴染ませるように呟いた。


「名前……えっと……そうだ。……『越世えつせ』だ」


「初めまして……越世。これから、3人で一緒に暮らそうな」


俺たちは、あらゆる事象を超えてきた。

社会を……常識を……そして、性別をも。

だから、この子には、それらをさらに飛び越えて羽ばたいてほしい。そう願って――『世を越える』、越世。


ちょっと中二病っぽい響きかもしれないけれど、神宮寺家から産まれた期待の超新星だ、これくらい大げさでドラマチックな名前の方がちょうどいい。



ようやく、ようやく俺の長かった妊娠生活が終わり、

一安心…………





なんて、やっぱりさせてもらえなかった!!!!!


出産を終えたというのに、身体のあちこちが痛い! 例の切開の傷跡がズキズキ痛む!!

おまけにエネルギーを使い果たしてヘロヘロだし、凄まじい貧血で目眩がする!!



あーー……ママになるって、産んだ後までずっと命がけなわけ!? とほほ……


でも、その辺の肉体的なダメージは、神宮寺家の最先端医療テクノロジーですぐに完治したんだけどさ

無事に退院!越世と翔と合流!やったー!

今度こそ!! ついにすべての苦難から解放!!!



されるわけがなかった!!!(2回目)


出産という大仕事が終わった次に待ち受けていたのは……

そう、地獄の『育児』スタートである!!!


いや、これはこれで本当に、想像を絶する大変さだった。

夜泣きは強烈だし、せっかくお乳を飲んだと思ったら盛大に吐き戻すし、そもそも何に怒って泣いているのかさっぱり分からないし!!


越世は可愛い。もう、めちゃくちゃに可愛いよ!?

でも、それと同じくらい、新米ママとしては毎日が未知の恐怖の連続だったのだ。


だけど、出産してからの翔のサポートは、それこそ執事かプロの保育士かというレベルで完璧だった。


初めての父親のはずなのに、ミルクのお湯加減、あやし方、オムツ替え、抱き方まで、全てがパーフェクト。


夜泣きが始まれば音速で対応し、俺を起こさないように、わざわざ一階の部屋へ連れていってあやす徹底ぶり。


翔だって会社の重要案件で死ぬほど忙しいはずなのに……というか、いつ寝てるの? 大丈夫なのかな?

でも、翔は

「ここからは俺に任せろ」

という言葉を残しこなしていった。……ありがと…


それに、真桜さんも頻繁に家に来ては育児を手伝ってくれた。

本当に……本当に神宮寺家の面々には助けられっぱなしだった。



そんなこんなで、怒涛のドタバタ育児に追われながら、さらに3年の月日が流れた。


高校を卒業してから3年。そこからの3年間は、以前よりもさらにあっという間だった。


神宮寺製薬はついに『臓器の完全再生技術』の確立に成功し、以前にも増して世界の常識をひっくり返す超巨大企業へと成長を遂げていた。

そんな世界の変革をニュースで横目に見つつ、俺は今、のどかな公園の芝生の上で、我が子と走り回っていた。


「ママー! こっち! こっちだよー!」


「ま……待ってぇ……っ! 越世、早いって!」


ひ……ひぃ……っ。だめだ、20代半ばの身体が、現役バリバリ3歳児の無尽蔵な体力に完敗している……!


可愛い我が子と追いかけっこ……というか、この子、3歳児にしてはいくらなんでも足が速すぎないか!?


「わわっ!?」


お調子に乗った越世が、自分の足をもつれさせて派手に前方へ転びそうになる。

あ、まずい! 俺の距離からは、どうあがいても間に合わない――!


「よっと……!」


スッ、と影が差したかと思うと、見覚えのある白衣の腕が、地面に激突する寸前の越世を華麗に空中キャッチした。


「あ……ありがと、翔……。助かった……」


「あんまり無理するなよ、裕香」


いつの間にか仕事を切り上げて迎えにきてくれていた翔が、越世を抱っこしたまま、呆れたように苦笑する。


「ま……まぁね。こんな、お…いや、私でも、母親として出来ることくらいはやってあげたいなと思って」


「十分、母親としてやってくれてるよ。……それにしても、もう俺の前でも『私』って言うつもりなんだな? 別に今まで通り『俺』でもいいんじゃないのか?」


「うん……ちょいと母親らしくなろうかなって。越世には綺麗な言葉遣いになって欲しいし、ママが『俺』って言ってるのは、教育上ちょっとアレかなって……」


「そうか」

(……裕香の『俺っ子属性』が消えていくのは、少し寂しい気もするがな)


心の中でそんなマニアックな名残惜しさを抱きつつ、翔は腕の中の息子を見つめた。


「越世。ママの言うことは、しっかり聞くんだぞ」


「はーい、パパ!」


き……聞き分けが良すぎる……! 3歳児にしてこの聡明さ、やっぱり神宮寺の天才遺伝子なのか……?


「あはは……足は速いし、頭はいいし、おまけに容姿まで整ってて……。やっぱり、翔の血が濃く受け継がれてるね……」


いや、とても良いことなんだよ? 遺伝子的に、俺より翔に似てくれた方が将来も安泰だし

だけど……母親として、ほんのちょっぴり寂しいというか、悲しい自分もいたりする。


「そんなことないぞ? ほら、越世をよく見てみろ」


「ん……? 見ろって、何を……?」


俺が首を傾げると、翔の腕から降りた越世が、芝生の上で得意げに胸を張った。


「ママー! えつせ、今からでんぐり返りするから、よーく見ててね!」


くるんっ。

小さな身体が、芝生の上を綺麗なフォームで一回転する。


「ママ、見てた!?」


「見てたよー! すごいね、上手上手!」


「それじゃあ、次パパ! いくよ!」


ぐりんっ。今度はさらに勢いよく回ってみせる。


「おおー、すごいな越世。天才だ」


翔が拍手を送る。俺はその様子を見ながら、翔の肩を小突いた。


「…………いや、やっぱりこの運動神経と上達の早さ、完全に翔の遺伝子じゃん」


「うーむ、やはりお前は分かってないな、裕香」


「え? どういうこと?」


「俺も真桜もさ、物心ついた頃から自分の才能に絶対的な自信があった。だから、わざわざ親に『褒めてもらおう』なんて、これっぽっちも思わなかったんだ」


「え…………?」


「越世にも確かに才能はある。しかし、俺や真桜みたいに自惚れることなく、必死に『親に見てほしい、褒めてほしい』と愛情を求めている……お前にそっくりだろ、この愛嬌は」


――ハッとした。

言われてみれば、確かにそうだ。

この、大好きな親の目を惹きたくて、全力で愛情を求める無垢な姿。


かつて……孤独だった子供の頃の、俺にそっくりだ。

そうだ。俺も、本当は両親に、こうやって「見てほしい」って、ただそれだけをずっと言いたかったんだ――。


胸の奥から、温かい感情が決壊して涙が溢れそうになる。

間違いない。この子は……俺と、翔の子供だ。俺の遺伝子も、俺の心も、ちゃんとこの子の中に生きている。


「ママー! 見てるー!?」


笑顔でこちらに手を振る我が子に向かって、俺はたまらなくなって駆け出した。


ギュッ……!!!


「うん……! 見てるよ……! ずっと、ずーーっと見てるからね……! ママは、越世のことが世界で一番大好きだよ!!」


小さな温かい身体を、壊れないように、けれど全力で強く抱きしめる。

越世は一瞬驚いたように目を丸くした後、最高の笑顔で俺の首に小さな手を回してきた。


「やったー! 越世も、ママがだーーい好き!!」


「パパも、越世のことが大好きだぞー」


微笑ましい俺たちの様子に耐えかねたのか、足早に駆け寄ってきた。

そして、俺が抱きしめている越世の頭を、大きな手で愛おしそうに撫でる。


すると、腕の中の小さなルーキーは、にんまりと無邪気な笑みを浮かべてのたまった。


「えつせもパパ好き! ……でも、ママのほうが、もっと好き!!」


「なんだと……!?」


「はは……この、好きになったら一直線な熱量は、やっぱり翔にそっくりだね」


「い……いや、これは絶対に裕香似だな。俺は人前でそんな、好き好きなんて大声で言わない……!」


「え……ええぇ!? 私だって人前じゃ言わないよ!」


「ママのほうが好き」と言われてムキになる旦那様と、巻き添えを食らって顔を真っ赤にする妻の俺。


そんな風に、絵に描いたような円満な夫婦漫才(?)を繰り広げていると、にぎやかな足音が芝生を踏みしめて近づいてきた。


「お! いたいた! えっくん!」


「あ、まおねぇさん!」


声の主は、義妹の真桜さんだ。そして……驚いたことに、その後ろからは、かつてファミレスで集まった懐かしい顔ぶれが揃って現れた。


白石さん、桐谷さん、そして神崎さんまで!


「おー! ゆかっちのおチビちゃん、また大きくなったな!」


「はわわわわわ……!! か……可愛いっ……!!」


「え……ええ! 本当に……!! なんて可愛いの……っ!!」


「あ、ありがとうございます……! ほ、ほら越世、お姉さんたちにご挨拶して!」


俺が促すと、越世は俺の服の裾をぎゅっと握り直しながらも、しっかりと顔を上げてお辞儀をした。


「えつせです。こんにちわ!」


「おお! 利口だぞ!!」


「3歳児……にしては、ずいぶん滑舌がいいわね……」


「うーむ……これは間違いなく、翔くんの子供……」


お……俺も、我が子ながら本当にそう思う…


「そういえば、桐谷さんのところのお子さんは、もう5歳になるんだっけ?」


「そうなのだ!もうわんぱくで手が付けられないぞ! 毎日家の中が戦場だ!」


そ……そりゃあ、あの桐谷さんと飯田くんの子供だしね……戦闘力高そうだな……。


「でも、来年には2人目が欲しいなーって思ってるんだ!」


「おお! ヒカ、頑張るねぇ」


「ええぇ……すごい、もう2人目……」


白石さんと神崎さんは、すっかり越世に夢中になっていて、芝生の上で屈み込んでいる。


「見てて! でんぐり返り……できた!」


「あらあら……上手ねぇ……! 本当に頑張り屋さんなのね」


「この、何でも一生懸命に頑張る感じは、ゆかっちそっくり……!」


そ……そうなのかな? 自分の似ているところを見つけてもらえると、なんだか少しくすぐったくて、だけど無性に嬉しい。


「あ、あれ? そういえば……翔は?」


気づけば、さっきまで隣で拗ねていたはずの旦那の姿が消えている。


「ん? 翔くんなら、あっちの男子会の方へ合流しにいったぞ?」


桐谷さんが親指でグッと差した方向を見て、俺は目を丸くした。

な……なんてこった……! 男子メンバーも含めて、全員この公園に集合してたのかよ!


少し離れた木陰の下

そこでは、翔、飯田、そして久我の3人が、腕を組んで集まっていた。


「大きくなったなぁ、翔んとこの子供も」


飯田が、遠くで女子たちに囲まれている越世を見ながら、しみじみと口を開く。


「ああ、もう3歳だ。今は早くも、女子たちを完全に虜にしているな」


「はは、さすが神宮寺の血筋だね。早くもハーレムを築いているよ。それにしても、仕事の方は大丈夫なのかい? いま神宮寺製薬って『臓器の完全再生技術』の件で、世界中からとんでもない注目を浴びていて大忙しのはずだろう。よくそんなに休みが取れたね」



「うちは『家族優先』が絶対の鉄則だからな。どんな国際会議よりも、裕香と越世との時間が最優先だ。……それより、久我よ。お前の方は……どうなんだ?」


「お! 久我の話、俺も聞いてぇ!」


ニヤニヤとニキビ面の飯田が割り込んでくる。翔と飯田の2人に左右から詰め寄られ、久我は観念したように、頬を少し染めて「ふぅ……」と小さく息を吐いた。


「な……内緒にしておいて欲しいんだけどね。……実は、やっと『安定期』に入ったばかりなんだ」


「おお……っ!!! まじか!!!いつの間に!!」


「おいおい、そりゃめでてぇな!!」



白石のお腹の中にも今、新しい小さな命が宿っていたのだ。


「ありがとう。僕も、そのうち父親になるんだね……。なんだか、まだ不思議な気持ちだよ」


「まぁな。父親と言っても、いざなってみると意外と自分自身は変わらないぞ?」


若きパパ3年目が先輩風を吹かせる。すると、それを聞いた飯田パパ5年目が待ったをかけた。


「父大先輩の俺からしてみたら、そりゃちげぇぞ? 5歳あたりからマジで、大変になってくるからな!」


「お前んとこは、手を焼きそうだな、まぁ今から覚悟しておかないとな」


「……だね」


かつて高校の教室でバカ話をしていた男たちは、今や立派にそれぞれの大切な家族を守るための『パパトーク』で熱く盛り上がっているのだった。



夕方

にぎやかだった仲間たちとも解散し、俺は翔、そして越世と合流して、3人で並んで家路についていた。

夕日に照らされた帰り道、俺たちの影が3つ、優しく地面に伸びている。


「パパ、おてて!」


「おう」


「ママも、おてて!」


「あ…うん!」


真ん中を歩く越世が、小さな手で、俺と翔の手をそれぞれぎゅっと握りしめた。

左右から繋がれた大きな手にぶら下がるようにして、越世が嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる。


「今日、楽しかったね、越世」


「うん! えつせ、真桜ねぇさんも、みんなもだーい好き! ……でもね、やっぱり、パパとママが、せかいでいちばん好き!」


夕暮れの空に、我が子の無邪気で、何よりも愛おしい声が響く。


「……聞いたか、裕香。世界で一番、だってさ」


翔が、少しだけ得意げに、だけど愛おしさが堪えきれないといった様子で俺の顔を覗き込んできた。


「うん、聞いた。……よかったね、パパ」


「ああ、ひとまずここまでお疲れ様だ」


「こちらこそ…これからも…」


俺たちは、お互いに顔を見合わせて、クスッと笑い合う。

男として生まれ、ひょんなことから女の子になり、世界の常識をひっくり返すような大騒動に巻き込まれながら、必死に駆け抜けてきたこれまでの日々。

当時は毎日が必死で、怖くて、未来なんてどうなるか分からなかった。

だけど、今なら胸を張って言える。

繋がっていく命があって、隣には世界一頼もしい旦那様がいて、そして、何にも代えがたい温かい親友たちがいる。

これからの未来、越世が大きくなるにつれて、きっとまた新しいドタバタや苦労が待っているんだろう。


でも、俺達神宮寺家なら、どんな未来だってきっと『越えて』いける。


「よし、今日の晩御飯は、越世の好きなハンバーグにしようか!」


「えつせ、手伝う!玉ねぎきざむ!」


「俺も手伝うよ、裕香」


「ありがとう…!助かるよ!二人共」


私のどこまでも愛おしくて最高の新しい日常は、これからもずっと、幸せに続いていく。





ご愛読ありがとうございました。

pixivに、少しだけその後の話を載せてます。

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