第8話 半信半疑と真意
部屋に取り残された夫人らは、小町が置いていった書類を遠慮がちに覗き込んでいた。未だ現実に戻れていないようなそんな感覚で、伯爵を除く三人は何とも言えない表情だ。
小町は、己が想像した地雷以上の――それはもう巨大な爆弾を投下して去って行った。
「日本でモトクロスをやってみたいんです。その計画を纏めた資料を置いておきます。目を通して頂いて、後日感想を聞かせて下さい」
そんな事をサラサラと淀みなく言ったかと思えば、昼を抜いたせいで腹が減ったと前置いて、夕食を早めにとりたいのだと伯爵の許可を取り付けた。そうしてコックに伝えに行くからと、颯爽と部屋を出て行ったのである。
よって四人は、その書類と共に部屋に取り残される形になった。
「何のつもりなの」
ジェニファーがボソリと呟き、それをきっかけに、夫人と姉妹が思い思いの言葉を口にする。
本気ではない事を神に祈りたい気分だと言う夫人。なかば呆けたまま、何なのだと呟くアリッサ。ジェニファーに至っては、妄想にしたってあんまりだと、現状を理解しようとすらしていない。
しばらくそんな呟きが続き、その後沈黙が訪れた。
伯爵といえば、ソファーに深く体を沈め、難しい表情で考え込んでいる。夫人が夫にならえば姉妹もそれにならい、皆がそれぞれに考え込んだ。
再び訪れた長い沈黙を破ったのは、夫人の声だった。
「あなた、ご覧になって下さいな。そこにあの子の真意があるような気がするわ」
頷いた伯爵が書類に手を伸ばそうとすると、すかさずジェニファーが引ったくった。両手で書類を抱き、本人も当惑した様子で口を開く。
「ごめんなさい、つい……。でも、どうしても聞いておきたくて。あの子が言った事が本気なら、お父様は賛成なさるの?」
あまりにも安直な質問に、伯爵の眉間のシワが一層深くなった。
この二番目の娘は義理の妹を理解しようとすらしていない。それどころか、自分たち夫婦が小町に関して甘いと思っているのだ。養子である娘に浅慮になり、何でも許すのだと。
そしてそれを、小町を攻める言い訳にしようとする。甘い部分があるのは認めるとしても、理解しようしない態度を認めるわけにはいかない。
「それを渡しなさい、ジェニファー。コマチは安易な事を口にする子じゃないよ。少なくとも、そうしたいと思ったから、わざわざ資料まで作ったんだと理解してやってほしい。賛成するかしないかは、今判断すべき事ではない」
言い終わると同時にドアをノックする音が響き、執事頭の声が届いた。伯爵の返事を待ってイーノクが顔を出す。早くなった夕食の時刻を告げにきたのだ。
用件を済ませ早々に退室しようすとする執事を、伯爵が呼び止めた。夕食後にこの部屋へ来るように命じると、執事は直ぐに了承し、一礼して部屋を出て行った。
姉妹に目を向けた伯爵は、おもむろに告げる。
「夕食後、君達もここへ来なさい。ちゃんと話をしよう。それまでは、この話題を口にしないこと。いらぬ勘繰りを入れないこと。口にすれば使用人達の耳に入ってしまうのだと、常に頭の隅に置いておきなさい」
姉妹は鷹揚に頷いた。
「よし、では部屋へ戻っていいよ。僕達も余計な詮索をしないよう、夕食までに頭の中を整理しておくから。あの子は、後日返事をくれと言っていたんだ。まだ考慮する時間はある」
そこで言葉を切り、上の娘と目を合わせ、唇の端を上げてみせる。
「ボーイフレンドの件は、コマチと話をする事を奨めるよ。レディーとして、穏便にね」
そう言った伯爵は、己の頬を指先でトントンと叩いて見せる。その途端、何の事か察したアリッサは、真っ赤な顔をして慌てて部屋を出て行った。妹もその後を追い掛ける。
ゆっくり考え事をしたい伯爵にまんまと追い出されてしまったというのに、二人は全く気付いていなかった。伯爵の考え事とは、むろん小町の投下した爆弾についてである。
◇◇◇◇◇◇
いつもの落ち着いた夕食だった。約束通り、誰も小町に詰問する事はなかった。伯爵夫妻と二人の姉妹は、夫妻の部屋で執事が来るのを待っていた。
話題はやはり小町の事である。
「あの子、たいしたものだわ。自分が落とした爆弾なんて知らんぷりだもの。感心しちゃう」
「君にそっくりじゃないか。さすが親子だと僕も感心してるよ」
二人の姉妹が何か言いたそうにしているが、口にする事はなかった。きっと親子という言葉が納得いかないのだろう。
「あら、嬉しいわ。私に似てるなら、素敵な旦那様を見つけてくれるはずだもの。今はバイクが恋人のようだけど」
「違いないね。でも今日の様子だと、珍しく子息に対して興味を持ってるようだ。父として複雑な気分だけど、君の楽しみの為にも協力するよ」
「そうしてちょうだい。ねぇ、アリッサ。プレザンス子爵のご子息は、そんなに素敵なの?」
惚気で始まった会話の中に認めてはいけないものを交えていたが、姉妹は気付いていなかった。互いに目を合わせ、夫妻の惚気にうんざりした思いを伝え合っていた。
姉は肩を竦めてみせ、対する妹は見開いた目をグルリと回してみせる。そんな時に子息の話題を振られたものだから、慌てて向き直り大袈裟なほど頷く事になった。
「ええ、とても素敵よ」
「素晴らしい人だわ」
同時に返事をして顔を見合せる。話し始めたのは上の娘だ。
「王子様のようなの。背が高くて男らしくて、顔立ちもとても甘いのよ。笑うと目尻が下がるんだけど、それが本当に素敵。瞳は海の色よ。見つめられると吸い込まれそうになるんだから。お母様もきっと好きになるわ」
この姉が子息のどこに好意を寄せているのか、理解するのに容易い内容だ。
「姉さんってば、彼の事が本当に大好きなの。あまりに好き過ぎて、話すだけで緊張しちゃうらしくてね、内容がどこかに飛んでいっちゃうんですって」
可愛らしいでしょうと誇らしげに姉を見やる妹の方も、どうかと思う。
夫人は思わず“がっかり”と呟きそうになった。もっと内面的な長所が聞きたかったのだ。姉はその長所が分かっておらず、妹に至っては、そんな姉を可愛いと片付けてしまうあたり、やはり“がっかり”だと思う。アリッサと子息との交際は、これでは期待できないだろう。
夫人の内心に気付いた伯爵は、声を上げて笑っていた。実に面白そうに。
「大学での彼の様子を知っているかい? アリッサの友達に、彼と同じ大学の子がいたと思うんだが?」
アリッサと子息の共通の友人の事だ。姉にくっついているジェニファーも、もちろんその人物から彼の情報を得ており、嬉々として仕入れた内容を披露してみせる。
「大学でも人気者らしいわ。とても優しくて女性には熱狂的なファンもいるそうよ。でもそれを鼻にかけたりしないから、男性からも慕われているんですって」
まだまだ続く子息の話に、伯爵はおとなしく耳を傾けていた。夫人といえば、姉妹の話に相槌を打ったり、笑いを交えて意見を言ったりと、それはもう興味津々である。
次第に、男性はこうあるべきだと盛り上がり、入室した執事にも気付かない様子だ。
伯爵と執事は互いに苦笑し、女性陣の会話が終わるのを待った。白熱する異性の話にしばらく待ってみるが、終わる兆しはなかなか見えず、ついに痺れを切らした伯爵が一つ咳払いをして口を挟んだ。
「そろそろ始めようと思うんだが……いいかな、レディー達?」
途端に押し黙った女性陣は、執事頭とその息子であるフレデリックの姿を認め、怪訝そうに首を傾げた。
なぜここに、小町付きの執事がいるのかと。
その意味を正確に汲み取ったフレデリックは、同室している経緯を述べた。
「お館様の了承を得た上で、こちらでの話に参加するようにと、コマチお嬢様から言いつかって参りました。不躾ながら、同席させて頂きたく思います」
既に入室しているのだから、伯爵は承知したのだろう。
「用意周到ね」
夫人はまたしても感嘆の言葉を口にした。
小町の発言が、いよいよ現実味を帯びてきたのである。そう思いはしたが口にはしない。それを見極める為にここに集まったのだから。
「フレデリック。あなたは、あの子の計画を知っているのね? その前提で話を進めてもいいのかしら?」
「おっしゃる通りです、奥様。その事については、事前に知っておきながら、お知らせしなかったことをお詫び致します」
真面目なこの執事の事だ。詫びねば気が済まないだろうと下手に口を出さず、夫妻は鷹揚に頷いて見せた。
ホッとした様子でフレデリックは経緯について話し始めた。
「コマチお嬢様には不敬ではありますが、私は夢想の事だと捉えておりました。資料を預かり一通り目を通してみて、ようやく半信半疑といった心持ちになったほど、当初は信じておりませんでした」
己の心情を淡々と語る執事の声に、皆が静かに耳を傾けた。
「その資料はお嬢様が作られたもので、一月程前に預かったものです。目を通しておくようにと」
夫妻にはその時の様子がありありと想像できてしまった。今日の自分達のように、この執事も当惑した事だろう。
「同時に、然るべき時に声を掛けるから、資料のコピーをとっておけとも命じられておりました。コピーに関しては本日昼頃、お嬢様の申し付けで、父に――イーノクに、伝言と共に渡しております」
話を聞いた伯爵はイーノクに目を向け真偽を確かめた。視線を受けた執事頭が頷き、伯爵も頷いて応じてみせる。
「伝言の内容を聞いてもいいかな?」
伯爵に問われ、フレデリックは小町に言われたままの言葉を口にした。
「本気だから、と」
その言葉を最後に、室内に静寂が訪れた。
フレデリックは主に命じられていた役割を終え、ようやく肩の力を抜いたのだった。小町は執事をこの場に送り出す際、こんな事を言っていた。
「後はイーノクに任せればいい。ただし、私の気持ちを代弁できると思った時は、必ず発言すること。あなたは数少ない私の理解者よ。自信を持って、思うままに発言してきて」
フレデリックは思う。彼女は天性の人たらしだと。
誰しもそんな事を言われれば、無条件に嬉しいものだ。意図していようがいまいが関係なく、嬉しいものは嬉しい。
そんなところは育て親である伯爵にそっくりだと。
「お館様、そちらをご覧になりましたか?」
イーノクが指したのは小町の作った資料だった。
「もちろんだ。全て頭に入っている」
「さようでございますか。では、そちらの書類は奥様へ。お嬢様方にはこれを」
イーノクが姉妹に差し出したのは、資料の数ページを抜粋してコピーしたものだ。計画の日程と流れ、それに関する特記事項が記されている。姉妹は食い入るように見始めた。
日本へ発つまでにしておかなければならない事から始まり、そのおおよその期間も記されていた。項目は多岐に渡り、日本の高校への編入試験も載せられている。いくつかの学校の名前があり、特徴は別紙にと記されていたが、姉妹の手元にはそのページのコピーは含まれていなかった。
執事頭は、姉妹の理解に及ぶ範囲を選定してコピーしていた。主人である伯爵が、姉妹の前では金銭面の話を控えている事も承知している。資料の中のその部分に関して、主人の意向を尊重し、もちろん伏せてある。実に有能だ。
姉妹の手元の資料には、日本へ渡ってからの予定も綴られていた。免許を取り、高校に通いながら柔道も習いと、モトクロス参戦までの計画がとても細かく記されている。
二人の姉妹が目を通し終えるのを待って、イーノクは口を開いた。
「いかがでしょう。コマチお嬢様の真意は伝わりましたでしょうか?」
伯爵は息を吐いてソファーの背にもたれた。皆、薄々は感じていたが、この資料を前にして明白となった。娘達にも伝わった事だろう。
家族全員が小町の意思をしっかりと汲み取った今、賛否を尋ねるのは容易いが、決断するには早すぎる。判断するための材料を揃えねばならない。
資料を見た限り条件は全て揃っているように思えるが、姉妹にはそれを知る術がない。書類の上での言葉では、そこに至る経緯まで汲み取る事など到底無理な話なのだ。
「アリッサ、ジェニファー、それに君も。提案なんだが、後日、コマチを呼んで話をしてはどうだろう。判断に足る内容をあの子の口から聞くべきだと僕は思う。その際、それぞれが思った事を言い合うべきではないかな。今ここで決断するには材料が足りないように思うんだ。だからこそ補う必要がある」
皆の顔を見渡せば、思い思いに頷いていた。姉妹も当初の困惑ぶりは鳴りを潜め、落ち着いているように見える。
これなら十分に考えをまとめる事ができるだろう。
伯爵はビジネスの話をする時のように、淡々と話をまとめていった。
「ありがとう。では後日、あの子を交えてゆっくり話ができる場を設けよう。それまでに、聞きたい事や不安な事は整理しておいてほしい。スケジュールを調整して、日程については前もって連絡を入れるようにしよう」
そこまで言って姿勢を正し、厳格な表情を作ってみせた。
「くれぐれも他言無用だ。あの子と話す場まで、この件を口にする事は許さない。これは家長命令だから厳守してくれ」
念押しでそう言えば、皆誠意ある頷きを返してくれた。
結局、フレデリックが小町の言葉を代弁する機会は訪れないまま、その日は解散となった。
一方、当の小町はというと、執事を送り出した後シャワーを浴び、早々にベッドの中に潜り込んでいた。今日一日、いろんな事が唐突に起こったせいか、精神的に疲れているように思う。
寝る前の読書の時間も忘れ、寝息を立て始めた。
こうして波乱の一日は幕を閉じっていったのだった。




