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二輪の騎士  作者: 小町
序章
10/84

第9話 プレザンス子息

 数日の間、小町は非常に穏やかな時間を過ごした。あの義姉達が無駄に絡んでくる事はなく、使用人たちも普段と変わりない一線を置いて。

 一方で、伯爵夫妻が時折、意味深な視線を送ってくる事はあったが、何も言っては来なかった。夫妻の心中を自分の発言が掻き回しているかと思うと、どうしても胸は痛むが、後悔はなかった。

 煩わせている事に違いなく、そんな現実に目を背けながら講義を受け、その後バイクに乗る日常を過ごした。

 その日は休日だった。講義は休みで、朝から柔道の鍛錬に励んでいた。

 ケヴィン・J・プレザンスは、あれから訪ねて来ない。あの日、交際できない理由を知った彼は、しばらく考え込んでいた。何を言われるかと構えて待ったが、彼が口にしたのは、たわいない世間話だった。日本に行くのだと言った小町の言葉には、何も言わないまま帰って行った。

 すっかり寛いだ風で世間話をして盛り上がり、やがて立ち上がった彼は、また来るよと爽やかに告げて去ったのだ。

 不思議な事に、彼が訪ねて来ない事を寂しく感じていた。初めて会って、たった数時間話をしただけの相手だというのに。

 また来ると言ったのにと、未練がましい非難の言葉が度々浮かぶ。

 夫妻には子息に好意を持っていると告げたが、これほど彼の訪問を楽しみにしている自分に戸惑いもしていた。

 こんな事は初めてだった。異性に好感を持っても、己の淡白さゆえに進展した試しがなく、交際する以前に距離を取られるようになる。そんな相手に対して、興味もすぐに薄れていく。

 皆、自分の表面しか見ていない。家柄や容姿に惹かれただけ。彼も他の人と同じだったというだけのこと。落ち込む必要なんてない。

 気を緩めると子息の事を考えてしまい、そんな自分を叱咤して気持ちを切り替え、鍛練に励んだ。

 朝から日本人講師の指導のもと、数名の生徒と共に、敷地内の一角を使って練習していた。騎士という存在が身近にあった頃、剣の練習場として使われていた空き地がある。その脇にある建物を使わせてもらっている。

 詰所として使用されていた建物らしく、一階にあるこの部屋は、泊まり込みや夜警当番の仮眠所として使用していた部屋だそうだ。そのため、広さも高さもそれなりにあった。

 ただし、既存の状態のまま使うには難があったため、補強や修繕を重ねて稽古場にしたというわけだ。本格的なものではないが、稽古をするには十分な施設と言える。もちろん、伯爵の了承は得ていた。

 裸足に道着姿の小町は、体格の良い女性を相手に、打ち込みと言われる練習をしている。

 正面に立つ相手の胴着を掴み、投げる直前までの行為を、ただ繰り返し行うという稽古だ。相手の襟まわりの胴着をしっかり握り、もう一方の手で腕の胴着を掴む。体をひねるように体勢を変えながら、自分の背中へと背負うような感覚で相手の体を力一杯引き寄せるのだ。

 とはいえ本気で力を入れた事はない。自分の怪力具合は十分に分かっているつもりだ。そんな事をすれば、どんな惨状を招くかは目に見えている。

 無心になり、何度も何度も打ち込みを繰り返していた。

 パンパンという手を叩く音が響き、日本人独特の訛りのある声が終わりを告げる。もう二時間近く経っていた。

 本来なら昼近くまで行う稽古だが、この日は講師の予定があるため、この時間までと告げられていた。

 体の力を抜いて気を緩めた時だった。背後から視線を感じた。振り返りたい衝動を抑え、練習相手に礼をする。

 この視線には馴染みがない。執事ではないだろうと振り返れば、ケヴィン・J・プレザンスが戸口に寄り掛かり、視線を送ってきていた。

 来てくれたのだ!

 内心の喜びを隠して講師の所へ向かい、来週の予定を確認する。生徒達が着替えに行ったのを見送り、入口に置いているスポーツバッグへ歩み寄った。

 なぜか、その上に出していたはずのタオルが見当たらない。出し忘れたのかとバッグに手を伸ばした。

「やぁ、元気かい?」

 タオルを持った手が横から伸びてきた。目を向けると、子息が爽やかに笑い掛けてくる。

 挨拶などせず礼だけ言ってタオルを受け取り、首回りに伝う汗を拭って改めて彼と向き合った。

「つれないね、疲れたのかな?」

 ニヤリと笑い、そんな事を言う。小町も同じように笑い返した。

「なかなか来ないから、もう寄り付かないものだと思ってたわ」

 もう一度来てほしいとも思っていた。思っていても口にはしない。

「待ってたみたいな口振りだね、驚いたよ。これは脈ありだと思ってもいいのかな?」

 嬉しそうにニコニコと笑いながら彼が言う。だが、からかうような様子も見てとれた。どうやら、一度ふられた相手との会話を楽しんでいるようだ。

 問いには答えず、素知らぬ顔で黙々と汗を拭ってみせた。

「君は、その……女性にしては、珍しいスポーツを好むんだね? 意外だな」

 先程までの大胆な態度はすっかり鳴りを潜め、偏見と捉えられるのではないかと、恐る恐る口にしたようだった。

 そんな彼のギャップに吹き出しそうになった。意図して笑わせようとしているわけではないだろうが、それがかえって好ましく、つい本音がこぼれそうになる。

 来てくれて嬉しいのだと。

 だが期待させてはいけない。そう分かっているから、本音の変わりに可愛いげのない憎まれ口を叩いた。

「残念ね。清楚で可憐なお嬢様なんて、ここにはいないの。私の事をそんな風に思ってるなら大間違いよ。程遠いわ」

 何せ伯爵からも、お転婆だと言われてしまうくらいなのだ。

 スポーツバッグに手を伸ばしたが、伸びてきた手にさらわれていった。男性らしい大きな手だった。

 当たり前のようにバッグを肩に掛けた子息は、得意気な表情を浮かべていた。呆気にとられた小町は、ポカンとその様子を眺めた。

「戻らないのかい?」

 我に返れば、彼はまた不敵に笑いかけてくる。カッコつけて荷物を持ったつもりだろうが、そんな得意気な様子を見ると、ついつい冷やかしたくなる。

「シャワーを浴びて戻る予定なの。バッグを返して頂けるかしら、王子様?」

 皮肉れば、彼は上げていた眉をすっかり下げきってしまった。ずるりと肩からバッグを下ろし、実に悔しそうに先に戻ると呟いて、トボトボと去って行った。


 ◇◇◇◇◇◇


 シャワーを浴び、半乾きの髪をタオルで押さえながら歩く。屋敷に戻ってみれば、応接室で執事と子息が何やら話し込んでいた。

 小町に気付いたフレデリックは、一礼して部屋を出て行った。

「何を話してたの?」

 聞いても返事はなく、咎めるような表情をした子息が歩み寄ってくる。

「ちゃんと乾かしておいで。肩が濡れてしまうよ」

「いつもの事だもの。これでいいの」

 行け、行かないと問答を繰り返したが、溜め息を吐いた彼が折れてくれた。困った子供を見るような眼差しだったが、気にはしない。実際、四つも年下だ。

「とんだ頑固者だな、君は」

「あなたも負けてないわ」

 年下の自覚はあっても、こだわるつもりはない。彼が気にしていないのだから、これでいい。

 促されてソファーへ座ると、彼も隣に腰を下ろした。なぜかタオルを取り上げられ、すっぽりと顔まで覆うようにして掛けられてしまう。

「?」

 キョトンとするうちに、彼が小町の髪を乾かし始めた。それも豪快に。

「…………」

「…………」

 何が起こっているのか分からずにいた。無言の彼が、ワシワシ、ワシワシと小町の頭を乾かしている。

 嬉しいやら恥ずかしいやら……それを誤魔化したくて……

「犬になった気分よ」

「乾かしに行けと言ったろ? 君が悪い」

「こんな事、フレデリックにもさせた事ないわ」

「君の侍従には同情するよ。僕だって女性の髪を乾かした経験なんてないんだ。妹の髪もね」

 ブーたれて文句を言えば、ピシャリと彼も切り返してくる。それはそれは不機嫌そうに。

 怒らせてしまったのだろうか。

 少しだけ首を動かし、ぎこちなく視線を送ってみる。すると仏頂面の彼は、目を合わせもせず手を伸ばし、タオルの端で小町の視界を塞ぐ。

「……怒ってるの?」

 恐る恐る尋ねてみた。こんな風に異性の不機嫌な態度を見るのも初めてで、声を掛けるのにも勇気がいった。それなのに答えは返ってこない。

 しばらく沈黙が続き、彼は無言で手を動かしていた。

 耐え兼ねた小町は、ご機嫌取りをしてみる事にした。義姉達をなだめる時、伯爵がよく使う手だ。

「ねぇ、せっかくの美形が台無しよ?」

 そう言ってみても返事はない。こうなると小町にはお手上げだった。親しくなれたと思ったのに、嫌わたのだろうか。何か策はないかと、あれこれ考えてみたものの、全く思い付かない。

 いつの間にか髪を伝う滴が落ちなくなり、視界は明るくなっていた。

 横目で様子を窺えば、長い足を組んだ彼は、その上に肘をのせて頬杖をついている。まるで見たくないと背けられてしまった顔は、こちらからは窺う事ができない。

 こんな時間を過ごしたいわけじゃない。せめて、友人になることはできたはずなのに……

「ごめんなさい。忠告は聞くようにするわ」

 言いながら顔を伏せると、ソファーが微かに振動しているのに気付いた。何の揺れだろうと元を辿れば、ケヴィンの肩が揺れている。

 小刻みに、クックッと。

「笑ってるのね!?」

 聞かずとも、彼は肩を震わせて笑っていた。

「信じられない! 私、本気で不安になったのよ!? 嫌われたと思ったわ!」

 バシンッとソファーを叩いて抗議したが、ついにケヴィンは、声を上げて笑い始めた。

「ハハッ。最高だねっ!」

 悔しいやら恥ずかしいやらで、自分でもわけがわからなくなっていた。何か文句を言ってやろうにも言葉が出てこない。ありったけの眼力で睨み付けても、彼は可笑しくてたまらないと体を折って笑う。

 そんな時だった。

 バンッと大きな音をたててドアが開き、二人は同時に振り返った。

 そこには――キラキラと瞳を輝かせる夫人と、苦笑する伯爵、そして渋面のイーノクが立っていた。

 勢い良く開けられた扉は伯爵の手で跳ね返りを押さえつけられ、前進せんとする夫人の腕は、伯爵のもう片方の手によって捕らえられている。

「奥様、扉が壊れてしまいます。ノックもなしに開けるものではありません」

 イーノクにたしなめられ、夫人が口を尖らせる。それでも、なおも前進せんとしているようで、ついには伯爵に両手で押さえつけられていた。

「だって、楽しそうな声がするんですもの。交ぜてもらいたくって、つい……。ちょっとあなた、退いてくださいな。彼が見えないじゃないの!?」

 どうやら子息の訪問を聞きつけ、会いに来たようだ。

 その様子を見た小町は溜め息をもらした。これではレディー以前の問題である。もはや野次馬ではないか。

 扉の隙間を縫って義姉達も顔を出した。耳ざとい義姉達の侍女は、ケヴィンの訪問を直ぐに知らせた事だろう。

 ふいに立ち上がったケヴィンが、夫妻に歩み寄って行った。颯爽と歩く後ろ姿は堂々たるもので、まさにプリンスだ。今被っているのは、自信家と好青年のあの奇妙な仮面に違いない。

 義姉達に軽く目を向けた彼は、そのまま伯爵へと歩み寄り、穏やかに挨拶を交わしている。

「お会いできて光栄です、エインズワース伯爵。ケヴィン・J・プレザンスです。初めまして」

「レナルドと呼んでくれ、ケヴィン。こちらこそ会えて嬉しいよ。プレザンス子爵は元気かい? しばらくお会いしてないんだ。……あぁ、妻のスザンナを紹介するよ」

「あなたばかり話してずるいと思っていたところよ。初めまして、ケヴィン。アイリーンの息子がこんなにハンサムだなんて驚いたわ」

「光栄です、エインズワース夫人。母をご存知なのですか?」

 言いながら夫人の手の甲へ唇を寄せる。いちいちキザな所作も、彼がすると嫌みに感じないのが不思議である。

 夫人はトロンとした目でその様子を眺め、ふやけきった口調で独身時代の思い出を語り始めた。完全に好青年に騙されてしまったようだ。夫人の話によると、ケヴィンの母とは学生時代の級友なのだそうだ。

「そんな所で話していないで、こちらにいらして下さい、お母様。姉さんだって待ってるんだから」

 焦れったそうに口を挟んだのは、下の義姉のジェニファーだ。姉妹は既にソファーへ腰を据えていた。

 名を出された上の義姉が、ジェニファーの横で恥ずかしそうに顔を伏せる。実に女性らしく、愛らしい仕草である。

 当たり前のようにケヴィンが小町の隣に座ると、義姉達が忌々しそうに横目で睨んできた。しかし彼も小町も、そんな姉妹を気になどしなかった。

「廊下まで笑い声が聞こえていたわ。とても楽しそうだったから、ついドアを開けてしまったのよ。何の話をしてたのかしら?」

 興味津々といった風で夫人が体を乗り出すものだから、給仕をしていたイーノクが慌てて身を引いた。咎める視線を受けたところで、夫人は全くお構いなしだ。

 小町は先程までのやり取りを思い出し、ジロリとケヴィンを睨み付けた。怒らせてしまったと思いご機嫌とりまでしたというのに、当の本人はあの状況を楽しんでいたのだから。

 対してケヴィンは飄々としたもので、肩を竦めて見せるだけ。夫人の奇行のおかげで場が和んだのをいい事に、うやむやにしてやろうという魂胆なのだ。

 含むような笑みを向けてくる。

 まだ怒っているのかい?

 そんな声が聞こえてきそうだ。この場は丸く収めてくれと、そう言うのだろう。

 二人が視線で会話しているように見えたのか、小町を睨みつけていたジェニファーが、媚びるような笑みを顔に貼り付け、わざとらしく話題をかえた。

 結果、彼女自身が墓穴を掘る事になったのだが、その事に当人が気付いたのは、ずいぶん後の話だ。

「そう言えば、ケヴィン。今日はどうなさったの? 私達に用があるだなんて。お父様達にも声を掛けたようだけど、どういったお話かしら?」

 怪訝に思った小町は、ケヴィンの横顔を盗み見た。どうやら一家は、子息の見物に集まったわけではなく、彼の呼びつけに応じて集まったようだ。

 何のために?

 妙な予感を覚えた。だがそれはあり得ない。そんなはずはない。

 数日前には、バッサリと彼をふったのだ。一言だけで済ませたが、理由も告げてある。だから、そんな予感が間違っている。

 しかしケヴィンは、小町に向かって不敵に笑んでみせ、義姉達を相手にして思わせ振りに話を切り出した。

 小町の頭の隅で警鐘が鳴り始めた。

「彼女へのリベンジに来たんだよ」

「リベンジ?」

「そうなんだ。この前お邪魔した時は、彼女にやられっぱなしでね、尻尾を巻いて帰るハメになったんだ。実は、さっきも道場で二敗目を挙げてしまって……おかげで不甲斐ない思いを味わってるところさ。だからリベンジにね」

 義姉達は不思議そうな顔をしていた。意味を理解できないのだ。

 小町に目を向けたケヴィンは続けて言った。

「さっきのここでのやりとりは、君の完敗だろ? これで僕は一勝二敗で、次に勝てばドローというわけだ。今日は、確実にドローに持ち込みに来た。負けが続くのは癪なんだ」

 警鐘が次第に大きくなる。

 この先を聞きたい。彼の口から。

 だが聞けば、自分の気持ちに歯止めが掛けられなくなる。聞きたいが、聞きたくない。

 ケヴィンのとりとめのない話に、義姉達は怪訝な表情を隠しきれていない。その一方、夫妻は落ち着いた様子で耳を傾けていた。

「前にも言っただろう? 手強い相手に闘志がわいたって。あの時とは僕の心境も随分変わってしまったから、改めて宣戦布告しておこうと思ってね。言っとくけど、僕は必ず君に勝つよ」

 警鐘と合わさるようにして、心臓も早鐘を打ち始めた。胸の内では、なおも葛藤が続いている。

 今後の事を考えるなら、聞いてはいけない。でも聞きたい。

 心地いい低い声が言葉を紡ぐ。聞きたくて、聞いてはいけない言葉を。

「エインズワース伯爵。僕は彼女と、将来を約束したいと思っています。今日は正式な申し込みをしたくて、夫妻にお会いしに来ました。婚約を認めて頂けますか?」

 義姉達の息を飲む気配が伝わってくる。ケヴィンは穏やかな目で小町を見ていた。

 照れて、はにかんだ彼の眼差しは、ひどく甘いものに思えた。少しだけ頬を赤くして彼が言った。


「これでドローだ」


 ◇◇◇◇◇◇


 空はすっかり暗くなり薄い月が浮かぶ頃、夫妻は寝室で今日の出来事について話していた。

 応接室での一件は、子息と小町の様子に、心が満たされた時間だった。互いに刺激し合い、強く惹かれ合っているのが見てとれた。

 子息の発言の後、小町はしばらく沈黙していたが、我に返った様子で婚約などできないと言い始めた。それに対して子息は落ち着き払い、距離が離れるのは寂しいが、たいした事ではないと言い聞かせていた。

 日本に行くからと小町に交際を断られたのだろう。そんな子息に、夫妻が好感を抱いたのは言うまでもない。

 しばらく二人は口論を続けていた。上の娘はその様子を見るのが辛いのか、二番目の娘を連れて部屋を後にした。夕食の時間にはしっかり下りてきていたあたり、立ち直るのは時間の問題だろう。

 子息は夫妻の目も忘れ、小町の説得にかかっていた。

 君は僕をどう思っているのか。君以外には考えられない。他の男に盗られたくない。いきなり婚約の何が悪い。

 思わずこちらが恥ずかしくなる様な口説き文句を言ったり、開き直ってみたり、とにかく思い付く限りの説得を試みているようだった。しかし小町の意思は固く、頑として首を縦に振る事はなかった。

 二人のやり取りを思い出しながら、求愛って素晴らしいわねなどと自分の世界に浸っている妻に、伯爵が話し掛けた。

「僕は交際を認めたいと思ってる。君は?」

 現実逃避中の妻は、トロンとした目で伯爵を見返し、私もよと答えた。そんな妻に根気よく問いを重ねていく。

「彼に協力してあげるべきかな? コマチはとても手強いからね」

 対して妻は頷いただけだ。沈黙が続いた後、今度は探るように問い掛けてみる。

「コマチが交際を拒む理由には、君も気付いているんだろう?」

 夫人の顔つきが真剣味を帯びた。

「そうね……。あの子は、この国での将来を考えていないのよ、きっと。……帰って来ないつもりかしら」

 とても悲しそうな、寂しそうな顔をして言う。やはり妻も懸念していたのだ。

 実の娘同然の養女は、日本に渡った後、この国に戻ってくるつもりがないのだろう。一時的な帰国はするだろうが、この屋敷で皆と暮らす将来を思い描いてはいない。認めたくはないが、ほぼ間違いない。だからこそ、好意を寄せる相手に応えられないでいる。

 小町の性格上、距離を気にするとは思えない。もちろん子息もだ。

 ケヴィンの父であるプレザンス子爵も、上流階級に身を置く者の一人だ。長期休暇の度にヨーロッパ各地を訪れ、パーティーに参加したり、冬はスキーを楽しんだりと、のんびりとした休暇を家族揃って過ごすはず。

 そんな環境で育っている子息にとっては、距離など大した問題ではないだろう。確かに日本は遠いが、上流階級の住人にとっては、その過程でさえも楽しみのうちなのだから。

 小町が交際を断る理由を、子息はどう捉えているのか。あの子がイギリスでの将来を考えていないのだと、ちゃんと理解しているのだろうか。それとも、そこまで深い話をしていないのか。

 やはり、近いうちに小町とは話をしなければならない。同時に、切り札も準備しておかなければ。

 あの子が日本へ行った後も、その想いをイギリスに繋ぎ止める事ができる切り札を。

 小町が己の存在以上に大事にしているもの。人でも物でも、この際何でもいい。

 弟が乗っていたバイクは……残念ながら切り札にはならない。亡くなった家族の思い出は、図らずとも、あの子に贈ったバイクが思い出させる事になる。他の何かだ。

 そうやって思案し始めた時だ。

「子息には交際を認めてあげるべきよ。コマチは断っていたけど本心じゃないのは分かっているし、彼は本気だった。このまま好きな子が海外へ離れて行くなんて可哀想よ。婚約は無理でも、せめて交際くらいはできるはずだもの。……でもそれでも、思い出を作る時間は限られてしまうのね。切ないわ」

 夫人の言葉に伯爵はヒントを見出だした。しばらく考え込み、やがて妻へと茶化すような目を向ける。

「君の中では、コマチが日本へ行くことは確定しているんだね。それに、子息にもかなり好意的じゃないか」

「そうなの、すっかりファンになってしまったわ。素敵な子だったもの。内面的にも、あの子に相応しいと思ってるのよ。アイリーンにも会いたくなっちゃった」

 そこで言葉を切った夫人は、真剣な眼差しで話し始めた。自分自身に言い聞かせるかのように。

「あの子が日本へ行くのは……止めようがないじゃない。資料には否定する要素なんてなかったもの。きっと、前々から準備をしていて……計画は完璧なのよ。何が何でも、あの子は日本へ行くわ」

「…………」

「止めようとしたって、聞いてくれないでしょうね。不安要素を挙げるのだって、起こるかどうかも分からない事件や事故だけ。否定するのは私達の私情だけよ。分かっているでしょう?」

 伯爵は頷いてみせた。夫人の柔らかな髪をすくって唇を寄せ、分かっているよと言葉を返す。

「明後日、時間を空けて、あの子と話をしよう。家族サミットだ。子息も同席させようと思ってるんだが、君はどう思う?」

 問うと、伯爵が何を企んでいるのか察した夫人は、ニッコリと笑ってみせた。

「いい案ね。でも……前もって準備をしておく必要があるわ」

 こうして二日後、子息の大学の講義が終わるのを待って、家族会議をする運びになった。

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