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二輪の騎士  作者: 小町
第四章
81/84

第78話 焦燥

 モソモソと体を起こした小町の眼前に、ディクシードが片膝をつく。草を払い、土を落とし、かいがいしくも世話をやき、終始うつむきがちの娘が立ち上がる時には、手を伸べて助け起こす素振りさえ見せた。

 その様を目にした要人達のほとんどの者が、主君の亡き妹君――エフィオラ姫を思い出すことになった。何ごとにも無頓着な第一王子が、唯一慈しんでいた妹君の存在を。

 「――悪かった」

 謝罪の言葉をディクシードが口にしたのは、そんな時だった。娘の掌の赤みを認め、恥辱に耐えさせた事実を詫びたのである。誰をも気にかけようとしない男が見せた、稀少な姿だった。

 他者を慈しむことも、己の非を認めることも、これまで、そんな姿を見せたことがなかったのだ。七年前、御仁の左腕を斬り落とした、あの時でさえも――

「悪いように捉えるなよ、ハンソン。あの方は、あれでよいのだからな」

 側近の肩をねぎらいを込めてたたき、御仁が告げた。するとヘインズは猛禽のごとき目を細め、主人を睨み付ける。

「あの時もあなたは笑っていらした、腕一本で止まったのだから安いものだと仰って。どれほどの屈辱を味わったことか、あなたには分かりますまい」

 いいや、よく分かる、と胸中で思うにとどめ、御仁は苦笑して見せた。

「あの方の怒りは国をも潰してしまわれるのだ。止まったことを良しとせねば先には進めんだろう。それとも王都のように、枷をはめようと足掻いてみるか。やがては朽ち果てるというのに、私には無駄としか思えんが」

 主君を我が子のように慈しんできたお方は、そう言って穏やかにヘインズを諭した。

 ――闇に囚われるなよ、ハンソン。

 ――多くの人命を失ったのも事実、多くの人命を救えたのも事実。救われた命と腕一本が同じ価値を得たのだ、安いものではないか。

 御仁は己の腕を失った直後でさえ、ヘインズを諭したのだ。止血を急ごうと、血眼になって布を裂く臣下の手を取って。

 この方にすれば私も多くの子の一人だろう、と、ヘインズは思う。兄弟げんかはよせと言われているようにも聞こえ、不快でしかなく、眉根を寄せる。

 あの凄惨な場を目にして以来、決して許さんと、憎しみと怒りは常に心の隅にある。落ちないカサブタとなってこびり付き、痛みと痒みをもたらしてくる。

 それもすべて察しているのか、御仁はもう一度、側近の肩をポンポンとたたき、話は終いだと言わんばかりに視線を他に移した。いつまでもこの議論は続くからだ。

「コーエンのやつも、また肩を落としておるようだ。あやつに非はないというに、困ったものだ。おおかた自信を欠いておるのだろうが、もう少し殿下の尚早に対する憤りを覚えてくれればよいが……ダニロほどとは言わんがな」

 マルセナに来てからというもの、消沈するばかりの辺境伯は、ああ見えて、他国に名の通った武将なのである。“オルダスにコーエン伯の弓あり”と恐れられるようになったのは、あの男が爵位を継いでからの話で、射た弓はことごとく、敵将の頭部を貫いてきた。

 オルダスの城砦を守るにふさわしいからこそ、国境地を単身で預かっている身であるのに、他国の者には容赦を知らない男は、どうにも自国の事になると自信を欠く悪癖があった。持ち前の石頭をもってして、我は強し、と思いこんでくれればいいものを。

「行って檄してやると言いたいのでしょう、御仁。どうぞ行かれるとよろしい。こちらはこちらで近衛に一喝せねば気がすみませんし、それに……この惨状を戻さねばなりませんので」

 乱戦後のような野営地のありさまを眺め、ヘインズは忌々しく毒づいた。

 近衛の抜剣が遅れたことも腹が立つが、このありさまにも腹が立つ。盆はひっくり返り、食糧は飛び散り、倒れた篝火が敷き物の数枚を燃やす、という惨状である。せめてもの救いといえば、火の粉が天幕に移らなかった事ぐらいのもので、敷物は既に鎮火の作業に入り、近衛が尽力している。

 それもこれも全て、第一王子の暴走が招いた結果としか思えないヘインズだった。

「ここ最近の殿下は、ずいぶん落ち着いたとレイゼン殿が称しておりました。オーディリック殿も同様のことを述べていたはずですが……私は、そうは思いません。ひとたび激昂すると怒りに支配され、抑制がきかなくなる。理性そのものを失うなどと、あの頃となんら変わらない」

 激昂するに値することがあったのは事実だ。七年前の一件では、ディクシードの妹君エフィオラ姫が亡くなったのである。

「“怒り”、か」

 愚痴にも聞こえる側近の話を聞きながら、御仁はふと思ったことを口にした。

「あの一件は確かに、殿下の怒りに起因しておろうが、果たして今回のこれは――」

「違うと仰いますか」

 ヘインズが問うと、かの人物はしばらく考え込み、口元を引き結んで言うのだ。

「私には“焦り”のように思えるよ、ハンソン。こたびの殿下は理性を取り戻しておられた。それが証拠に、氷塊を作ろうとなさったのは一度のみ。以降は剣だけで物を申されていた。それに……見てみろ、誰一人として己が首を落とした者はおらん」

 まことに主君が理性を失っていたなら、この場にいる誰もが、今頃は生きてはいまい。

 あの時の王都の惨状のように……

 御仁は、そのような見解を口にするのだった。


 ◇◇◇◇◇◇


 同刻――


 野営地の惨状を片づけるため、多くの兵が慌ただしく奔走するそばで、天幕の影に隠れたとある一団は、密やかに囁き合っていた。

「なんということか、よもやあれほどお怒りになるとはっ」

「娘の傷に起因しておると聞くが、たった一つの傷で荒れ狂ってしまわれる」

「いささかどころか、常軌を逸しておいでだ。化け物であれば、コーエン卿をも食い殺すおつもりだったのやもしれん」

 騒動を聞きつけ、すぐそこまで足を運んでおきながら、いっさい加勢しようとしなかった彼らは、ことのしだいを終始、天幕の影から恐れおののいて見物していただけであった。阿呆の巣窟、ボルコフ卿一派である。ディクシードの激昂そのものが権力主義の一団をすくませるのに十分であったのだ。

 ランバートなどははなからこの連中をあてにしておらず、逆に出しゃばって出てきたところで、どさくさに紛れて斬りつけていたかもしれない、と、後々口にしたことだ。

「よほどの執着であろう。お怒りを鎮めてしまわれたのだ」

「化け物の怒りは断じて買うものではないということか?」

「おいっ、化け物化け物と何度も口にするな! どこぞかに耳を立てる者がおれば、われらが化け物の不興を買うことになるっ」

 化け物、化け物、と自分たちが禁句を連発していることにも気づかない阿呆ぶりである。身分にしか取り柄のない哀れな阿呆たちであったが、そんな阿呆たちでも重大な問題には気づけていた。

 化け物が執着する娘を明日には連れ去る予定であるのだ。実行したのち、もしも首謀者にボルコフの名が挙がってしまえば、化け物の不興を買うのは自分たちとなり、食い殺されてしまうやもしれん、と、そのように思い至っている次第だ。

 ある意味、結果として、コーエン卿は“見せしめ”という役割を見事に果たせたとも言えよう。当人にすれば不本意だろうが。

「閣下、いかがなさいますや。予定は予定として、好機そのものを別な機にゆだねてみては」

「昨日の今日ともなれば、殿下のお怒りも増すばかりでありましょうからな」

「ほとぼりが冷めたあとでももはや構いますまい。ここはひとまず、ジェトラーめに伝令を走らせてはいかがか。日を改めようぞと」

 腰巾着たちは、なんとも間の抜けた進言を繰り返すのである。

 日程を改めるというのは、それすなわち後日には実行する、ということであって、われらの閣下様とて怒りはすまい。猶予ができるなら、その間にうまいこと口実を作り、実行後の保身のために何らかの策を巡らせておけるやもしれん。数日たてばもしかすると、われらの閣下様の怒りも鎮まり、悪事に加担することから逃れられるやもしれん。

 そのような思惑に憑りつかれ、人さらいを悪事だと認めておきながら、己の保身にばかり走る阿呆どもであった。

 満面の笑みか、あるいは強面か、彼らのボスであるボルコフ卿が、“うむ、数日後としよう”、と間抜けにも気付かず口走ってはくれまいか、と、彼らは彼らで期待してやまないのである。

 あれやこれやと囁きながら待っている崇拝者たちに対し、彼らのボスは非情にも眉を釣り上げ、ほんの少しだけ声を荒げた。

「どいつもこいつも間の抜けたことばかり抜かすな! 貴様らは遠駆けにでも行くつもりかっ!? 考えに考え抜いた上でこの機を好機と見定めたのだぞ、あの程度のことで引き下がれるかっ!」

 当然と言えば当然のお叱りであった。決して馬を駆って遠出するわけではないのだから。

 だがしかし、このボルコフという男は、阿呆の中の阿呆なのである。阿呆の中でも格が違うのである。阿呆である上に、さらには自身の武勲に陶酔できるお人であるから、主君の暴走を目の当たりにしておきながらもなお、“あの程度”、と吐き捨ててしまえる勇ましさを持っておいでであった。

 天幕の影にこそこそ隠れ、ひそひそと密談をかわし、そこらへんのことをまとめてすっかり棚の上に放り投げ、傲岸不遜に吐き捨ててしまえるお人がボルコフである。みなぎる自信の根拠というのも格が違うゆえなのだろう。なんなら、殿下よりも腕に覚えがあるわっ、と、本人は思っているかもしれなかった。

 ランバートがこの場にいたなら、無言で主君の眼前にお連れして申し上げたはず。一太刀あびてこい、ついでに、己の胴体に別れを告げてこい、と。

 かくして阿呆の巣窟にひそむ住人どもは、恐れの対象を彼らの閣下様に切り替え、平身低頭の体で従うのである。いよいよ窮地かと焦りを自覚した者など、ジェトラーを除く腰巾着六名のうち、新参者の準男爵ただ一人、というあり様だった。


 ◇◇◇◇◇◇


 悪かったと詫びを口にしたディクシードに、小町の返事はなかった。俯きがちとなって目を合わせず、伸ばされた手も拒み、己の力で立ち上がった後も、徹底して無言を貫いていた。そこに拒絶の意思を見てとったのは居合わせたパリスぐらいのもので、すれ違いざまに呟かれた彼女のセリフを聞き取ったのも、この人物だけだった。

「――二度と、しないで」

 たったそれだけの、あまりにも短い一言である。ディクシードに向けて放たれた彼女からの忠告である。


 こんな使われ方は二度とごめんだ。二度と暴走するな。二度目はないと思って――


 きっとこの娘は、あらゆる意味あいを含ませ、意図してそう言ったに違いないとパリスは思う。さぞや主君には効いただろうと。

 現在パリスは、小町を連れてディクシードの天幕に戻り、彼女の裂傷を手当てしていた。もちろん、しぶしぶながらである。

 あれから以降も、小町は一言も口をきかなかった。パリスの問いには必要最低限に応じるが、決して口を開こうとせず、頷くか首を振るかで意思を示すのである。横柄というよりむしろ、従順な素振りに見えたし、なぜかパリスにだけ応じてみせるのだ。どうにも調子を狂わされたパリスであったが、彼女にとっても主君の暴走はこたえたに違いと思う。意に染まない使われ方をしたのだから、なまじ気が強い性質ゆえに反動は大きかっただろうと。

 かといってこの男は、彼女の醜態をさらした行為について、詫びを入れてやる気など全くなかった。馬乗りになって平手を食らわされた記憶も新しく、あまつさえ、彼の主君に痣を残して暴き立ててみせたのは、他でもないこの娘がやったこと。アレンやガッセを投げ飛ばしたのもこの娘であって、好き勝手やってきた者に対し、詫びを入れてやるほどお人良しではない。謝罪を要求されれば考えたところだが、今のところ、その傾向もない。よって、これ以上、がらにもないことを口走るつもりは毛頭なかった。

 先刻の騒動ひとつとってみても、ことの発端は小町の流血なのである。それさえなければ主君は暴走せず、今頃パリスも、こんながらにもない手当てなどしなくて済んでいたはず。

 なんで私が……

 と、パリスは不服に思うわけだ。被害者はこっちだと。

 ランバートもランバートである。この娘の母親代わりはあの男なのだから、手当てを買って出てくればいいものを、お前がやれの一言で去るとはっ。避けるのもいい加減にしろと言ってりたかった。

 そもそも女人禁制の軍において、軍医というのも当然ながら男であるから、当然の流れとしてその軍医に小町の処置を頼もうとすると、即座に主君が拒否し、パリスにやれと命じてきた。いいやランバートが適任だ、と主張するも、当のランバートがそそくさと辞退したせいで、結局、パリスにおはちが回ってきた。普段は小生意気な娘も、こんなときばかりはお前でいいと従順そうに頷くのだからタチが悪い。辞退しにくい雰囲気ができあがってしまった、というわけだ。

 刻限がせまった会議をひかえ、立場上、手配しなければならないことが山とあるはずが、なにもかにもが腹立たしく、イラついて思考がまとまらず、居心地が悪いパリスであった。目を付けた双子の様子も探っておきたかったというのに。

 何度目かも分からない盛大な嘆息を吐きながら、パリスは傍らの包帯を手に取ると、騒動の元凶となった娘の腹廻りに慎重に巻き付けていった。彼女は非常にしおらしく、膝を抱えてされるがままとなってある。それさえも腹立たしい。

 イラつく原因は、何ももろもろの経緯だけではない。この娘の痩躯もその中で抜きん出る要因となり、イラ立ちを通り越し、忌々しくさえあった。

 脱ぎっぷりこそ爽快なものだったが、潔く脱いだ彼女は、なんと、骨と皮だけ……

 見苦しいほど痩せ細った肢体。鶏がら――

 さしもの女体を見慣れている男も驚愕し、言葉を失ったほどである。まるで貧困街で食いつなぐ幼児のような肉付きで、腕も、肩も、背も、腰も……あらゆる骨が浮き出てしまっていた。妙げな下着こそつけ、しっかり胸元は隠してあるが、表の方にもろくな肉が付いていないと一目でわかる。下肢も折れそうに細いはず。

 よくもこの肢体で動き回れるものだ! つつけば折れるとはこのことだ!

 と、これがパリスの印象であった。日頃から細い細いとは思っていたが、よもや男装の下にこれほど異様な痩躯を隠していようとは、さすがのパリスとて想像だにしていなかったのである。

 彼女の口は日頃から闊達であったし、振る舞いも貴族特有の凛としたものであったし、フラつくことも、うずくまることも、ひ弱そうな素振りは微塵も見せることがなかった。それどころか活発すぎるほど活発な印象を周囲に与え、女にあるまじき怪力の持ち主だと強調してきた。そして何より、底なしともいえる生気の持ち主でもある。

 いったいどこの誰が、これほど見苦しい痩躯を隠していると勘付くものかっ!

 骨ばかりの肢体を目にしたが最後、たちどころにどんな男の性欲も萎えよう。食をすすめこそすれ、性を満たそうなどと血迷えるはずもない。よほどの狂人でなければ雄としての本能を失うことだろう。たとえ、我が主君であっても。

「――あなたが城に来て、かれこれ一週間ほどでしょうか」

 記憶を遡ってパリスが問うと、小町はこっくりと頷いた。

 つまり、この娘と面識を持って一週間になる。

 初めてまみえた時――

 果たして彼女は、これほどの痩躯だったろうか?

 いや、たしかに細かったが、鶏がらではなかったはずだ。女体に精通する己の感覚は、そう告げている。主君が担いだ女人は胡蝶のような装いで、さらには黒い布地も相まって、印象としては強く残ってあるのだ。見間違えるはずもない。

「女性の容姿をとやかく言う趣味はありませんが、近頃、急にお痩せになったのでは?」

 この問いには、今度は無言が返ってくる。頷くことも首を振ることもなく、いつものように無神経な男だと睨みつけてもこない。

 それでも、パリスには確信がある。彼女が異様に痩せているのだと。なぜなら、女官や近衛の証言があるからだった。配膳した食事は残さず食べると、女官たちはパリスの元に言いつけに来る。図々しい、ガメつい、という不快感を顔に出しながらだ。そして、近衛騎士は皆が皆、口を揃えてこうも言う。女にしては大食だ、と。

 しっかり食をとっていながら、一週間足らずで痩せたことになる。ありえない――

 痩せ細る己の身体に気付いていながら、彼女自身に打つ手立てがない、といったところか。わが主君にしても然りだ。さんざん担いでおいて、あの方が気付かないわけがない。

 裂傷の処置を軍医ではなくパリスにやれと命じたのも、口外を懸念してのことだろう。パリスの口の固さなど主君も承知している。ランバートも似たり寄ったりの信頼を得てあるが、あの男は情に厚く、処置を任せることで負担になる可能性がある。そうなれば綻びも生じる……

 なるほど。

 どこか合点がいったパリスである。

 その後も彼は、自分の感覚に間違いないかどうか、矛盾点を巧妙に隠しながら小町に質問を投げていった。彼女はディクシードと同じような反応を示した。隠すべきこと、知られたくないことには無反応を見せるのである。主君の反応を熟知しているパリスにとって、そこから答えを導き出すのは面倒ではない。彼女も嘘を嫌う性質なのだ。

 手当てを終える頃になると、矛盾点はほぼ消化できてあった。新たなシャツを小町の脇に置き、つと対価の石を眺めやる。彼女が肌身につけていた品で、処置が終わるまで外しおけと命じたものだ。

 国守の手からディクシードの手に渡り、この娘の手に渡った対価の石――

 彼女の生気を吸い上げる石――

 厄災を招かぬために与えられたはずが、痩躯の元凶となっている可能性が多分にある。これでは客人たる娘が罪人のようではないか……

 国の庇護をつかさどる聖獣にどのような思惑があるのか……

 なぜ主君は、放置してあるのか……

「この石は預かっておきます」

 石を手にしてパリスが立ち上がると、それまで力なく応じていた娘は、我に返った様子でパリスを振り返り、睨みつけてきた。返せと主張しながらだ。

 案の定の反応であるが、醜態をさらしてまで取り返そうとはしない。彼女の眼光には焦りの色が見えてあるのに。

「殿下にも問いたいことがある。預からせていただきたい」

「返して」

「すぐにお返しすると言っても?」

「…………」

 問答など無用といった風で彼女は手を突き出した。返せ、この手に返せと言わんばかりに。

 しばらく二人は睨み合うことになった。

 この石が対価の役割を持たないことなど、パリスはとっくに承知していた。石そのものが布石として与えられたものなのである。“魔物の餌”と“石の解放者”という二つの役割を彼女に持たせ、この地に連れてくるために主君が与えた布石。おそらく彼の主君は、切り落とした己の髪を対価として差し出すつもりなのだろう。

 あの忌々しい国守にっ!

 パリスにとって、国の庇護をつかさどる聖獣は、もともと疎ましい存在でしかない。どれほど助けを求めても、どれほど主君が願っても、絶大な力を持ちながら、決して人界の理を侵そうとしなかった獣だ。人の世の問題は人の手で片をつけろと、ずっと静観し続ける獣――

 七年前の王都の一件でも、それを痛感させられた。

 なにが聖獣だっ! なにが神の使いだっ! 全てを知りながら、何ら手を伸べてはくれなかった。それを今さら、なんだと言うのかっ!?

 ただでさえ疎ましいというのに、ここにきて憎悪さえ覚えるパリスである。その憎悪が一瞬、普段の冷静さをパリスに欠かせてしまった。布石ならば奪ってやろうかと、そう思ってしまったのである。

「ここで奪えるなら好都合でしょうね。みすみすあなたを国に帰すとでも?」

 腹立ちまぎれに言いながら……

 ふと思い至るわけだ。パリスが相手にしている娘が、対峙するには最も冷静さを欠いてはならない娘だということに。

 いやはやまったく、石を奪って上々とするところだ。危ない危ない。

 小町を牽制しながら脳内で忙しく検証を重ねることになった。つまるところ、彼女相手に石を奪うことが上策と言えるか否かを。

 結果、懸念すべきことが山とあることに気付く。一時的に石を奪ってみても、たしかに時間は稼げるだろうが、それ以前に、先立つ問題が勃発してしまうのである。娘が返せと主張しているのだから。

 単純な想定として、この鶏がら娘に返せと跳びかかられ、一騒動が起こる。あるいは、この娘が石を奪われたと主君に泣きつき、そこで一騒動が起こる。この二つであった。そして、そのどちらでもない場合、泣き寝入りをしないのが小町という娘で、必ず何らかの報復を考え、奪い返しに来る。するとこういう問題も生じることとなる。

 後に控えた最後の会議に乗り込もうと画策し、騒動を引き起こす。乗り込んだら乗り込んだで返せと息巻き、武将達を巻き込んで騒動を引き起こす。乗り込めなかった場合も何らかの騒動を引き起こし、パリスの隙を狙う。

 その他の想定をいくつか考慮してみるも、どれをとっても一波乱が待ち受けている気がする。ひとたび小町が絡むと、必ず騒動に発展するわけだ。それらの騒動を解決したのち、ようやっと新たな手を打つことができるが……果たして、それほどの猶予があるのか……

 対価の石から当の小町へ視線を投じたパリスは、彼女の目に抵抗の意思を認め、チッと舌を打った。そして胸元から時計を引っ張り出し、蓋をあけて時刻を確認し、盛大に舌を打った。

 まったくもって腹立たしいことに、会議の刻限がすぐそこに迫っていた。これでは諸々の手配に追われ、時間を欠く余裕がないっ!

「時計……?」

 何やら小町が呟くが、パリスはそれどころではない。確かに、時計というのは高価な品で、異国の民には珍しい品であろうが、稼ぎのいい男からすれば取るに足らない物であり、諸々の問題に比べれば、それこそ取るに足らないものなのである。

 さっさと蓋を閉じて胸元に時計をしまいこんだパリスは、先立つ問題に対処するべく、対価の石を小町の眼前にぶら下げて見せた。

 騒動など起こされてたまるかというのだ!

「返せと仰るならお返ししましょう」

 まさか返ってくるとは思っていなかったのか、驚いた様子で目を見張る娘に向かって、どのみち明日は必要となりますし、と、もっともらしく付け加えておく。この娘が石の開放者として適任なのは疑いようがないのだから。

 とはいえ、忠告も必要だった。不安を煽ろうとも、そちらも知ったことではない。事実は事実として忠告しておかなければ、取り返しがつかなくなってからでは遅い。もはや彼女の身は、それでいいとは思えない痩躯だった。

「あなたの生気は強い。本来ならばこの石で対処することを妥当とするところですが、それ以前に、あなたの体力がもつかどうかを考慮すべきだ。鏡をご覧になってはどうです? どう見ても限界は近いと思いますが?」

 健全な人間にとっても脅威となる石だ。その痩躯で生気を吸わせ、いったい、いつまでもつと思っているのか。

 パリスの忠告をしかと理解しているはずが、見るからに健全でない娘は、再びその石を身に付けようと腕を伸ばし、パリスの手から対価の石を奪っていく。自然とパリスの語気も強くなる。

「あなたは直に立てなくなるっ、数日ともたない! それでもいいのですか!?」

「…………」

「国に帰るのではないのかっ! その痩躯で帰路につけると!?」

 痛みをもたらすセリフを容赦なく投げつけてやっても、娘は脅威となる石を首にさげ、新たなシャツに袖を通していった。

 何ごともない、聞こえない、と言うかのように……

 どうして他人の身を案じなければならないのかっ! 当人が案じようとしないのにっ!

 ついにパリスは放棄した。

 何を言っても無駄なのだ。それならそれで、こちらが何らかの手を打たねばなるまいっ! 盗伐後に石を与えぬようにしてやるっ!

 踵を返して天幕を出ようとした、その時である。

 消え入りそうな声がパリスの名を呼び、ついつい足を止めた男はそちらを振り返った。

「パリス……ありがとう……」

 抱え込んだ膝に頭をつけ、項垂れる娘の姿を目にすることになった。

 泣いているのだろうかとパリスは思った。そしてこうも思った。

 いったい、何に対しての礼なのか、と。


 ディクシードを止めてくれてありがとう。石を返してくれてありがとう。この身を案じてくれてありがとう――


 捉えようは豊富にある。どうせまた、あらゆる意味あいを含ませ、意図してそう言ったに違いない。

 彼女を想う主君や、情に厚いランバートならまだしも、酷薄な自分にその手が効くと思っているのかっ!?

 無性に腹立たしさを覚えたというのに、なぜかパリスの口は、またがらにもない事を口走った。

「横になりなさい、あなたには休息が必要です」


 ◇◇◇◇◇◇


 もろもろの手配をしつつ、ディクシードの所在を近衛から聞き出したパリスは、その後もいくつかの気掛かりに手を打ち、探りを入れさせ、丘を登り始めた。そこに彼の主君がいる。

 登りながら不備がないかと考えている途中、体躯のいい人影が下ってくるのが見えた。ランバートである。

「――様子はどうです」

「あいも変わらずだ、一言も吐かん。そっちはどうなんだ」

 一から十まで説明する必要がないのはこうも楽なものかと、パリスはつくづく思う。

「こちらも似たり寄ったりです。多少は口をききましたが」

「多少ってのはなんだよ、多少ってのは?」

 話題は当然、ディクシードと小町である。

 普段であれば、主君に絡むことをパリスが気にかけるが、今回は逆となった。そのあたりの経緯はさておき、パリスは、小町の裂傷の具合や処置の際の様子について、ランバートに話して聞かせた。ざっと要点を押さえればいいのだから、こちらもかなり楽なものだ。

「焦りとみました」

「ここに来てか」

「ええ、ここまで来てです。国守をそこに捉えておきながら、なんらかの問題に捕らわれている、といったところでしょうか。あれほどの裂傷にも、痛みも心当たりもないと首を振りましたから、おそらく――」

「呪いの反動、か?」

 いやはや、本当に楽。

 ランバート本人は剣だけが取り柄と自称するが、頭のキレも他者から抜きんでているのは明白である。本人に言ったところで世辞だと勝手に解釈し、真に受けないところも好ましい。

 ひとしきり感心する一方で、パリスは、おやと眉を上げた。目の前にいる男も現在、別な“呪い”の件に囚われていたはずである。もしや、腹をくくったのだろうか。

 ともあれ、鷹揚に頷いてみせた。あの娘の裂傷は呪詛が絡むとしか思えないのだ。

「あくまでも推測の域をぬけませんが、ほぼ間違いないでしょう。行使した結果か、受けた側なのか、国守なのか、コマチ本人なのか。そのあたりのことは不明ですが、どの可能性も多分にある。ですが結果として、あの二人が想定したよりも進行が早く、焦りを感じているのではないかと」

「動かすな、か……。どうにも繋がってやがる」

 苦い表情を浮かべてランバートも頷いた。

 彼らの主君は、小町を動かすなと命じている。動けば動くだけ呪詛に蝕まれていくと仮定するなら、本日の大聖堂から以降、パリスとランバートが抱えこんだ疑惑についても繋がってしまう。

「焦ってんのは間違いないだろうさ。コーエン卿には悪いが、あの尚早はディクシードの焦りが招いた結果としか思えん」

「同意です、ランバート。殿下自らが綻びを生じさせたのです、むしろ今回の尚早は殿下にとって相応だったと考えるべき」

「裂傷と呪詛か。そりゃ国守との謁見を望むわけだ。王都の許諾なんぞ待ってりゃ、いつになるか分からんからな。どうりで……妙に急ぐと思っちゃいたが、これで理由がハッキリした」

「猶予などないと殿下には分かっていたでしょう。このまま放置すれば彼女の身は悪化の一途をたどる。あの二人にとって、最も国守に近付ける明日は好機でしかないのですから、逃そうはずもありません。動くとするなら明日、それもおそらく、殿下ご自身です」

 小町の裂傷と痩躯、ディクシードの暴走。どちらも焦りが見えている。そしてあの二人にとっては、悲嘆の原因でもある。間違いなくディクシードは動く。

 パリスの言い分に全面的に頷いたランバートであるが、そこでふと思い至った。

「待て待て。そうなると黙ってねぇ連中がいるんじゃねぇのか? 得体の知れん娘が“泉”に行こうってんだ、あの要人方が傍観なんぞするはずがねぇ」

「まったく……今さらですね、あなたという人は。当然ながら、足並みそろえて阻みにくるでしょう。それでも殿下の意思は固いのです。もともと強行突破を念頭に置いていたぐらいですから、そうなることに抵抗もない。むしろあの方なら、最初から阻止される筋書きも想定してあったでしょうし、事実、突破など造作ないのですよ」

「って、おまっ、平然とぬかすなっ! また暴走する気なんだぞ!?」

「ですから今さらなんですよ、ランバート。おおかたそうなります。要人方が黙って行かせると?」

「……クソッ」

 明日、盗伐を終えたあと、続けざまにディクシードと剣を交えることになるとパリスは言う。強行を目論むならば、騎士として阻止する立場にあるのだから。

 だがランバートは、阻むこと自体に抵抗があった。泉に向かう理由に察しがついてしまった。

「何とかならんのか、お前のキレる頭で……何とかよ」

「なりませんね。どれほど私の頭がキレようと、殿下の意思を変えるなど不可能です。せめてコマチがしおらしければ、要人方に泣きついて同情を買う手もあったでしょうが、もはや手遅れ。あれほど派手に口論したあげく、先刻の騒動の原因がコマチにあるのですから、怒りこそすれ同情などするはずがない。ましてやあの娘が泣きつくとも思えませんし、要人方を説得するような時間もない。直に会議ですよ」

 さしものランバートは黙り込んだ。全てパリスの指摘どおりなのである。とてもではないが、曲者ぞろいの武将達をわずかな時間で説得できるとも思えない。

 つまり、ディクシードとの交戦は避けられない……

「なにも斬られてやることはないと、そうは思いませんか、ランバート」

「……あ?」

「明日になれば必ず殿下は動きますし、最後には殿下が泉にたどり着くことになる。何者を斬り捨てようとコマチを優先するでしょうからね。先刻の騒動にしかりです。だからといって、我々がむざむざ斬られてやることもない」

「…………」

「阻止する側にはまわらず、乗り込んでやりましょう。ことのしだいを暴きに、泉へ」

 心の迷宮に入りかけていたランバートであったが、パリスのセリフに驚き、何とも言えない表情で相棒を見やった。

 共に乗り込もうぞ、と言われた気がする。

「俺も、か……?」

 まさかといった心境である。

 ガーデルードの森を進むには、国守の許しが必要である。さもなくば踏み込んだが最後、二度と外には出られない。そんなことはランバートも承知であるが、そんなものを得た覚えはない。

 信仰において、ランバートは決して敬虔とは言えなかった。むしろその逆で、神への冒涜ともとれる悪態を吐き捨てることがよくあるのだ。職務で聖堂に赴くことはあっても、それを除いては一切ない。神の使者たる国守に謁見などと滅相もない。

 そんな男の意に反して、残念なことにパリスは頷いた。どこか厳めしく、どこか皮肉気に、そして半笑いとなる。それはそれは、ランバートの反応を楽しんでいるかのように。ここにきてやっと相棒を冷やかす余裕を取り戻せたパリスだが、対してランバートは恐々であった。

「冗談、かよ?」

 および腰で問う体躯のいい男に、パリスは皮肉気に問い返した。

「天刑が下るとでも? 私も敬虔とは言えませんので安心してはどうです? あなたはついて来ればいいんです。嬉しいことに、私はいつ何時でも謁見できますから、この点においてはあの聖獣に感謝してやりましょう。王都への建前など言うにもおよびません。ついでに、冗談でもありません、乗り込みます」

 ランバートには通告も同然だ。もっと冷やかして遊び倒してやりたいパリスであったが、刻限も迫っていた。

「腹を括っておくことですね。殿下を迎えに行きます、あなたは天幕の方を」

 さっさと話題を変えてやるも、相棒はまだ、非現実的な現実に向き合えずにいた。うわの空で妙な応答をするや、そのまま立ち去ろうとするものだから、パリスにすれば気が気ではない。

「待ちなさい、ランバート。いいですか、ボルコフはもとより、よくよくコマチにも注意しておきなさい。近衛にきつく命じておくといいでしょう。あの娘、今はまだおとなしく見えますが、何らかのきっかけを得れば直ぐにでも本来の調子を取り戻すはずです。イーダが良い例でしょう」

「…………」

「言っておきますが、私のこのキレる頭をもってしても、あの娘の焦燥がどんな騒動を引き寄せるのか、分かったものではありませんよ。気を引き締めてかかりなさい」

 そこまで言われ、ランバートの意識はようやくもとあった問題へ戻ってきた。ボルコフが何かしら仕掛けてくるかもしれない、小町が会議に乗り込んでくるかもしれない、と、パリスは言いたのである。盗伐後の問題よりも、まずは、こちらの問題に対処しなければならない。小町には特に注意が必要だろう。これ以上、要人方の不興は買うべきではない。

「しおらしく、だな。動かさんようにしねぇと」

「ええ、もちろんです。必要とあらば縛り上げても構いません。呪詛の件を踏まえるなら、決して動かしてはなりませんので」

 まったく、喜劇か悲劇か。どちらにしても、茶番劇にする気はない。ランバートも厳めしく頷いてみせた。

「ボルコフならガッセが先陣きって動く。だが会議の方は……あいつらじゃ、コマチに乗せられかねんな。ジニアスんとこの連中も本性は知らんだろうからな。ハンソンを借りるか?」

 小町の見張り役として、御仁の側近に付いてもらおうかと言うのだ。

「上策でしょう」

 あのヘインズであれば――猛禽の目であれば、なんとかなるだろう。パリスも頷いた。

 ひとまずの対策を講じ、どちらからともなくその場を後にしようとする。そこでランバートは、パリスを呼び止めた。

 状況報告や対策も重要だが、こちらの問題も重要だった。

「コマチのやつ……ディクシードのあれを、何か聞いてきたか?」

 暴走の経緯を問うたかではなく、この場合、主君の正体について聞かれたか、という事であった。パリスにはしっかり伝わってある。

「いいえ、何も」

「なら、やっぱ気づいてやがるのか……」

「おそらくは……」

 今度こそ二人は、同じ道の別な出口へと歩き始めた。主君がいる丘の上へ、小町が待つ中腹へ。

 ディクシードの両翼と呼ばれる二人の役割も、元に戻りつつあった。

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