第77話 怒りと暴走
「ここに貴殿をお連れしたのは、わが兵がこの地に幾人いるかを問うためであったのだ」
コーエン卿は小町の推測に舌を巻きながらも、なぜ丘の上まで登ってきたのか、本来の目的を口にしていた。おそらく娘は知らんであろうから思い知らせてやろうという腹積もりは、彼女の話を聞いたあと変化している。
せっかくここまで登って来たのだ、もし知らぬなら知っておいてもらいたい、と。
頭の固い武将にも、少なからず心境の変化があったのである。
「この野営地にでしょうか?」
ほんの少し首を傾げて小町が問うと、辺境伯はいかにもだと頷いた。
「こたびの指揮権でひと悶着あった理由の一つに、我が軍の兵力があってな」
小町は無言で聞いていた。兵力の問題も、なんとなく察していたのである。
指揮権が身分差で決まるなら、そもそももめる必要はない。同等の身分の人物が二人以上いる場合にのみ主張しあえばいい。この度の討伐であれば、八名の武将のうち、最も身分の高い御仁をディクシードが退けたため、残る七名の中で上位の伯爵位を持つコーエン卿が必然的に指揮権を得る格好になる。国境地を預かる人物ともなれば指揮に精通しているのは当然で、申し分ないはず。もめる要素などむしろどこにもない。
だが小会議の際には、ディクシードもランバートももめることを想定して話をすすめ、小町はもろもろの情報を含めて、兵力差も重要なのだろうと結論付けた。そうなのかと聞いてみたところで、二人は答えてくれなかったけれど。
「我が軍は他よりも見劣りするのだ。さて、コマチ殿、あの下の陣だが、あそこにオルダスの兵がどれほどいると思われるか」
コーエン卿が指したのは、丘を下りきった先で天幕を張る陣だった。身分の高い者が丘の中腹に、下の平原地には衛生兵や歩兵といった兵が天幕を連ねている。
「正直なところ存じません、伯爵様」
嘘なく答えた小町に対し、コーエン卿は厳めしく頷いた。
「歩兵がおよそ百七十だ。上の陣には騎兵が三十。総軍二万のうち、たったの二百。せめて騎兵で占めておれば良かったが、ほとんどを歩兵で構成しておる。それゆえ指揮権を主張できなんでおった」
「二百…………!?」
小町は驚きを隠しきれなかった。少ないだろうと予想はしていたが、まさかそれほど……
「その様子では少なかろうと察しておいでたようだが、具体的な数までは知らんかったのであろうか」
「ご指摘の通りです、伯爵様。兵の構成についても存じませんでした」
「うむ」
どこか満足そうに辺境伯は頷いた。そうしておいて、再び野営地を眺めて言うのだ。
「コマチ殿、貴殿の推測どおりなのだよ。王都へは陳情に出向いておったゆえ、千を超える兵を連れておらんかったのだ。一つに、ある程度の兵を連れるとなると、どこぞかへの進軍と捉える者もおる。無用ないさかいは避けねばならん。もう一つに、陳情ごときに多くの兵を欠けんかったというのが本音だ。領地の対処に……既に多くの者が出払っておってな。犠牲者も見過ごせん数が出ておる。ただでさえ人手が足りんというのに、騎馬隊の中から有能な将を奪うことは避けたかった。かといって、主力の騎兵ばかりを連れて出ることもできん。せいぜい二百を連れるのがやっとでな」
件の決断をどこか自嘲じみて語る辺境伯の口調には、王都に対する憤りややりきれなさがにじみ、領地の対処と口にした時には、既に犠牲となった兵をしのんでいるかのようだった。
「明日は二百のうち……いったい幾人を連れ帰ってやれるのか」
コーエン卿の口から気弱なセリフがついて出ていた。他の武将達の前では決して出ないセリフである。総軍指揮を任されたものとして、あるまじきものであった。
しかし小町にとって、この辺境伯に指揮をとってもらえることを、感謝せずにはいられないセリフでもあった。
「そうお思いでいらっしゃるなら、やはりあなた様は、指揮官に相応しい方です、コーエン伯爵様。殿下の判断も私の憶測も、すべて見誤ってはおりませんもの。明日は、どうか……一人でも多くの兵を連れ帰って下さいませ」
己の矜持ばかりにとらわれず、兵や民を思い遣ってくれる。それはとても、重要なこと。
威風堂々たる辺境伯との対話は、小町には実りあるものとなった。
少しでもこの方の役に立ちたい、自分に何かできる事があるなら、と。
同時に、歯がゆくもあった。“保証”が、まだ帰ってきてくれないでいる。確かな保証だと確信が持てたなら、この場ではっきり断言することができたのに。
奪っってしまったものを、あなた方に必ず返すと、約束できたのに……
この時の小町には、いまだ懸念は懸念として残ったままなのであった。
◇◇◇◇◇◇
さて、ディクシード付近衛騎士たちである。
コーエン卿が小町を連れて天幕を離れてからというもの、とくに年長者たちは、たいそう気をもんでいた。
あの娘の突飛さ、気性の荒さ、毒の吐きようときたら、そこらの女の域をはるかに超えており、彼女の破天荒さを身をもって体験してきたのだ。
「妻もたいがい突飛だが――」
「胡蝶もたいがいわがままだが――」
「マリーもたいがい気は強いが――」
イバンス、リディオ、ガッセと続き、付け加えるセリフは必ず、“小町ほどではない”、という文句となる。それぞれが別な女人を思い浮かべたわけだが、三名分を足し合わせたところで小町に匹敵するはずがない。
あのコーエン卿を相手に、もしや妙な言動をしてみせ、かの方の肝を抜いてしまうのではないか、それとも怒り狂って平手を見舞うのではないか、まさかミソカスに毒を撒き散らして不興を買うのではないか、と、密やかに囁きあっていた。
――近衛の領分をおかすべからず。
あの場では上官のパリスが目を光らせていた手前もあって、ダニロ男爵の猛追からかばってやれなかった年長者達は、せめてコーエン卿の同行に誰かを付けてやるべきだと思いながらも、こちらもパリスによって阻まれた次第である。
頼りがいのある彼らの隊長が居合わせてくれたなら、上手くことを運べたに違いないが、あいにく、主君の右翼を説き伏せるだけの器量を持ち合わせていなかった。
そこで年長組は、彼女の愛馬の番をすることで、少しの罪悪感から救われようと足掻いていた。ちびちびと酒を飲みつつ囁きあっていると、客人がヒョッコリ顔を出し、彼らの罪悪感を知るや、好々爺然と笑い飛ばしてしまった。
「コマチ殿に振り回されて難儀だと聞こえるが、殿下の近衛の度量とはずいぶんと浅い。年長者がそれでは若い者も知れておるわっ」
このような皮肉りようである。ブライバス卿こと御仁であった。
懐から小さな酒瓶を取り出した御仁は、すすめられてもいないというのに、その場にちゃっかり腰を下ろして酒を一口溜飲し、今度は件の猛将をカラカラと笑いながら皮肉る始末である。
「ダニロも変わらんようだ、猪のごとく突進しおってからに。どれ、ハンソン、あやつの家紋を変えてやろう、紙をよこせ。熊よりもよほど似合いだろうからして、猪の紋を掲げよと突き付けてやる」
「戯言もほどほどになさってください、御仁。絵ごころもないでしょうに」
とバッサリ切り捨てたのは、御仁の側近ハンソン・ヘインズである。苦笑しながらも目が笑っておらず、主人への不満を“猛禽”に例えられる両眼に募らせていた。ここへ来るまでに彼も、さんざん御仁に振りまわされていたからだった。
このお方は武将たちが骨をおって立ててくれた天幕に、“わしは無用と言うておったわ”、と見向きもせず、旗さえも立てず、酔った風を装ってここまでフラフラとやったきたのだ。そのくせ主君の天幕を見るや否や、途端に張り切り出し、片手にペッペと唾をつけて頭に撫でつけ、“愛しいコマチ譲や”、と体裁を整えるのだから始末に負えない。
ここはひとつ、御仁の弟子であるランバートに、“色惚けジジイ”と罵ってもらいたいところであった。
「ところで、ベン。レイゼン殿はどうされているのか。好物にも寄り付いていないようだが」
猛禽に見据えられ、リディオは内心、ヒッとなった。機嫌が悪いと見えたのである。
ベンというのはリディオの姓をなぞらえた年配者特有の愛称であるが、ヘインズは決して高齢の括りには入らず、使いっ走りの青年を呼ぶ時、好んでその愛称を用いる癖があった。
「隊長なら殿下の天幕にいますが……それが、少し様子が変でして。ハンソンさん、座ってくれませんか? あなたに見下ろされると居心地が悪くて――」
「お前も戯言をほざく気か、誰に見下ろされても平気な性分だろうにな。いやなら立てと言いたいところだが、やめておくよ、殿下の両翼に用向きがあってね。見てのとおり、御仁には動く気がないようだから、代わって堰の件を報告しなくてはならないんだ」
その目を主人の頭頂部に滑らせて皮肉るも、当の御仁は素知らぬ風で臣下の嫌味をサラッと流した。
「はて、レイゼンの様子が妙だと言うが、なにか気掛かりでも抱えておるのか? あれにしては珍しいことだが」
何が妙なのか、と問われ、近衛の年長組は顔を見合わせた。
ランバートの愛馬――ドイルの体調が思わしくないようだ、とは聞いているが、いやしかし、ここまでの道中はいたって普段通りだった。馬丁にドイルを預けてからも、彼らの隊長に気遣う気配はない。何事もなかったかのように見える。
普段と違うところといえば、好物の宴会を前にして、好物の酒で喉を潤さず、好物の肉で腹を満たそうとしない、といったところか。おかげで副官のリディオは、たいそう腹が減っていた。
「要するに、食が細くなったと? うむ、確かに妙だな。あれの胃は容易く縮まりはせんだろう。どれどれ、ここはひとつ――」
言いながら、いったん腰を浮かせると見せかけ、御仁は首だけて側近を振り返った。
「行ってこい、ハンソン、あれに檄でも入れてやるといい。お前の檄なら効くだろうて。そうそう、忘れんように言うておくがな、聖堂の堰はあらかた片が付いたと殿下にも伝えておいてくれ」
不機嫌な男のこめかみがヒクつき、それをリディオが目撃した。すっかり低くなった声は、やはり怒気を含んである。
「それで……あなたはどうなさるおつもりですか」
対して御仁は、まったくもって悠々自適なもので、のんびりとした口調で答えるのだ。
「わしはのう、ほれ、マリー譲の容態を、このオズイクめに伝えてやる役目もあるしの。そうこうしておればコマチ殿も戻られるだろうからして、司教の伝言も伝えねばならんのだよ。使者とはなんと時間に追われることか。ああ、いそがしい、いそがしい」
言い終えたころには、側近はとっくにその場を後にしていた。
「まったく、つまらん男だと思わんか、オズイク。ちょっと冷やかそうものなら直ぐに怒りおるわ。冗談の一つも通じんものかね」
思わぬところで話を振られたガッセは、師が不在となったのをいいことに、真顔で忠言した。
「御仁、暴走もたいがいになさってくださいよ。あれは相当、怒り狂ってますから」
イバンスとリディオも、妙に青ざめた顔で頷くのである。
三名ともヘインズを師と仰ぐ騎士であるので、この後どういう展開が待ち受けるのか、想像するに容易かった。彼らの師がひとたび怒り狂うと、当たり散らしにくるのはこの三名のもとなのだ。過去の場合はたいてい、怒りの根源にいるのはランバートだったが、どういうわけか、必ずと言っていいほどヘインズの矛先は三名のもとへ向かってくる。
とばっちりはご免こうむりたかった。冗談ではなく、しゃれにならないのだ。
◇◇◇◇◇◇
待ちわびた女人の声が御仁の耳に聞こえてきたのは、それからたいして時間は経っていなかった。ちょうど報告を終えたヘインズが天幕から出てきた時だ。
御仁が来ていると知り、ランバートとパリスも表に顔を出したわけだが、彼らの耳にも口論が届くこととなり、そちらの方角を揃って見やった。
「――ですから、気に入らないものは気に入らないと言うのです」
「何度も申しておろうが、ダニロ殿は誤っておらんっ! 何がそれほど気に入らんのか! 貴殿もその口で、もっともだと申したであろう!」
「間違いか正しいかではありません、伯爵様。押し付けられるのが気に入らないと申しております。もともとの価値観が違いますのに、あの方はご自分の正義を一方的に押し付けておいでで、不愉快だったと言っているんです」
「不愉快とはっ、それもまた口が過ぎるぞ、コマチ殿! 気に入らんだの不愉快だのと、いくら客人でも女人の身で不敬を振りかざすのは目に余るというものだ! 女人らしく慎まれてはどうか!」
「ですから、それが不愉快だと言うんです。なにかと言えば女だからとあげつらって……女であることを誇りこそすれ、わずらわしいと感じたくはありません。性別なんて選べるものでもないでしょうに、問題視されても困ります。それともこの国には、生まれながらの男勝りがいないとでも仰いますか?」
「屁理屈をこねるなっ、軍の中に女がおる事がそもそもの間違いだと言うておるのだ! 男勝りだろうが何だろうが知ったことではないっ! 禁制なものは禁制ぞ! 事実、この地に女人がおる事を不審がる兵も多くおる、士気を下げておるのは貴殿がここにおるせいではないのかっ!」
「また話を戻されるおつもりですね? でしたら同じことを申し上げますけど、来ているものは仕方がないとお考え下さい。承諾されたのはあなた方のはず――」
近づけば近づくだけ口論の内容も明白となる。どうやら堂々巡りのようだ。
さて、これを予期していた者は、意外なことにその場に多くいた。小町の性分を理解している者、コーエン卿の性分を理解している者、両者がともに多くいたためである。
ある者達はやっぱりかと嘆息し、ある者達は更なるとばっちりを覚悟し、ある者達は普段通りの二人を見て安堵する。そして唯一、小町に対する免疫がない者だけが、これでもかと目を剥き耳を疑うのだった。御仁などは呑気なもので、よっこいしょと重い腰を上げ、やっておるやっておると、面白がってヘラついた笑みを浮かべてさえいる。
皆が皆、それぞれに思うところがある中で、当然ながら、討論している二人にも思うところがあった。
きっかけはこうだ。会議の刻限がせまり、丘を下って天幕へ戻る際のできごとだ。
「ダニロ殿のことを悪う思わんでくれ。兵を思えばこそ、あのように強く指摘せねばおれんかったのだ」
コーエン卿からすれば、ダニロという男もまた、よく兵を思い遣っていると伝えておきたかった。そしてまた、道理というものを理解できる娘さんだと思い直せたおかげで、軍においての士気がどういうものか、この娘さんなら理解できるのではないか、と期待したわけだ。
「悪くなど思っておりません、伯爵様。兵を率いる方であれば、仰っていたことはごもっともだと思っておりますもの。ですが……この装束については、議論の余地などございませんこと、ご理解いただきたく存じます。明日だけに限らず、私は男のなりをしておりますので」
やんわりとした拒絶であった。
小町にすれば、どんな指摘を受けても剣を習うつもりであって、これに関しては絶対に譲る気がない。ヒラヒラと丈の長いものを履いて剣を振るつもりは微塵もなかった。映画やドラマではあるまいし。
適当に誤魔化してやり過ごすこともできただろうが、いずれは誰かの耳に入り、ダニロ男爵が怒りだすのは目に見えている。すでにすっかり本調子となり、この件に関しては、とくにとくにとくに、従順になるべきとも思わなかった。“保証”が確証となった時のために布石を投じておく思惑とも重なった。
彼女のこの主張に対して、コーエン卿は憮然とした表情を浮かべた。つい先刻、頭の中を柔軟にせねばと自らが口にしたばかりだ。しかし、本来の石頭が頑として娘の主張を嫌がってもいた。それはそれ、これはこれ、ではなかろうかと。
最終的に石頭が勝り、娘の主張を正そうとなった。武将らしく威厳を保ってさとしていたつもりが、一向に主張を曲げない若い娘を前にして、しだいに苛立ちが勝りはじめ、今に至る。
辺境伯の厳格な声が響きわたる頃になると、天幕に引っ込んでいた者もついに、何ごとかと顔を出すところとなった。見るものが見れば、どうにも娘の方が冷静で、伯爵を煽っていると気付く者もいたが、残念なことに、コーエン卿に向かって横着な口を叩くと憤慨する者がいた。言わずと知れたダニロ男爵である。
二メートルを超す人型をした大熊が、鼻息も荒く洞穴から出てきたかのようだった。
パリスとランバートは事態を予測していた組に入ったが、めんどうな展開になりそうだと二人して顔を見合わせ、天幕の中を揃って振り返った。大熊はともかく、あの娘の暴走は主君に止めてもらうに限る。
と、そこに、場違いにもほどがある朗らかな声がする。こちらは御仁であった。
「おや、これは、コマチ殿ではないかな? ずいぶんと威勢がよろしいようだが、その様子ではすっかりお加減もよいのだろう。慌てて参ったかいがあった、いや、よかったよかった」
好々爺はどこへ行ったのか、精力みなぎる若々しい武将面で言うのである。口論に夢中になっていた当事者たちも、聞き覚えのある声に我に返った。
「まあ、おじ様っ、いらしていたのですねっ」
打って変わって嬉々とした様子で娘が駆けていく。口論などそっちのけといった風で、彼女の変わり身のはやさときたら……
またしてもコーエン卿は憮然とすることになった。この娘も御仁びいきか、と。
そこに、不機嫌そうなダニロ男爵が寄ってくる。物わかりの悪い娘に更なる灸を据えてやろうと息巻くも、どうにも辺境伯は興がそがれてしまっていた。
「あの横着な物言い、聞くに堪えませんぞ」
「もうよい、ダニロ殿。われらの言い分は伝えてある。コマチ殿が通すか通さんかは別として、しかと伝わっておる」
「別では困るのです、コーエン卿。しかと伝わったと仰るなら、あの娘は通すのが道理というもの。別とはいったい、どう解釈をすればよいものかっ」
「貴殿の言い分もわからんでもないが……」
御仁のもとで楽し気に話す娘を見やり、コーエン卿は嘆息した。
伝わったと確かな手ごたえはあるのに、あの娘は通さんと主張するのだ。理解を示しながら応じる義理はないと、そういうものとも少し違うように思える。
年頃の娘とは、こうもややこしいものだろうか。
詰め寄ろうとするダニロ男爵をいさめつつ、どうしたものかと考えあぐねているところに……
それは、突如としてやってきた。
首筋あたりに、ゾワリと寒気を感じとったのである。
まるで見えない氷塊が突き刺すような殺気で、一気に足元まで突き抜けるや否や、コーエン卿とダニロ男爵は、瞬時にそこから飛びのいていた。
さすがというべき一瞬の判断だった。二人の武将は己が剣に手をそえてあるのだ。コーエン卿は腰の柄に、ダニロ男爵は背に回した大剣の柄に。
突如おそった殺気を前にして、広場に居合わせた者すべてが、殺気そのものに呑まれたかのように静まり返った。
人も、獣も、闇でさえも。
◇◇◇◇◇◇
「――ハンソンッ!」
いちはやく事態を察し、声を荒げたのは御仁だった。側近の名を呼び捨てたかと思うと、自身もまた腰の白刃を抜き去り走り出した。
「殿下だ、お止めせよっ!」
言い終わるよりも早く、白い塊がヘインズの脇をすり抜けてコーエン卿に肉薄する。
ご不興を買うてしもうたか!?
横なぎの一閃を身を引いてかわしたコーエン卿は、次の一撃を己が剣ではじき返した。その斬撃のすさまじさときたら、雷に打たれたかのように両腕がしびれ、あわや剣を落としかけたほどだ。
なんとか体勢を立て直し、迫りくる三つ目の斬撃に備えたとき、ヘインズの剣がそれを防いだ。ディクシードの一撃を寸でのところで受け止めたのだ。
「コーエン卿! お下がりくださいっ!」
叫びながらヘインズは渾身の力をこめたが、対峙した相手はビクともせず、そこに、御仁の白刃とダニロ男爵の大剣が同時に打ち込まれた。神速の刃と大気をも唸らせる豪剣を受け、さすがのディクシードも数歩の後退を余儀なくされた。
が、しかし、その瞳は怒りをはらんで朱に染まり、なおも辺境伯に据えられてあった。深紅の両眼が次なる一撃を見舞うべく、立ち塞がる猛者たちを通り越して狙い定めてあるのだ。
眼前で剣を構え直し、御仁はひたとディクシードを睨み付けた。
「なにゆえ躊躇なされたか!」
御仁の目には辺境伯が体勢を整えるまで、たっぷり猶予があったように見えた。
主君の剣技をもってすれば、今ごろコーエンの首は胴から切り離されていただろう。それどころか、自分の首もダニロの首も側近の首も、揃って地にころがっていたはず。
なぜ手を抜いているのか、それも一目瞭然。
見せしめにするつもりなのだ! コーエンを!
無言の一打が放たれたのは直後だった。片腕の身で主君の一撃を受け止めて流すと、側近が躊躇なくディクシードの背後に迫る。この時すでに、ヘインズの怒りは頂点に達していた。
「片腕でもまだ足りぬとおっしゃるかっ!」
猛禽の狙い定めた正確な一閃が放たれ、ディクシードの腕は切り落とされるはずだった。御仁が失ったものと同じ左腕を落してやろうと、肩の付け根を背後から狙ったのである。
だがしかし、そうはならず、ディクシードは危なげなく身をかわして再び距離をとる。
「なにゆえか、殿下、なにゆえ私を斬ろうとなさるか! 大義ゆえでなく不興と仰るなら、こちらも抗わねばなりませんぞっ!」
コーエン卿が言い終わるとほぼ同時に、ヒュッと何かが空気を切り裂いた。三名の武将とヘインズが飛び退り、ディクシードのいた場所に無地の銀旗が突き刺さる。
事態の収拾をはかるべく、主君の左翼が銀旗を投じたのである。ランバートであった。
――血か……
ヘインズの脇をディクシードがすり抜ける直前、両翼の耳は主君の呟きを確かに聞き取っていた。それまでは静かなもので、外の口論を耳にしてもディクシードに動く気配はなく、静観の体を通していたというのに、それが突然、ひとこと“血か”と呟いたかと思うと、両の眼を真紅に染め上げたのだ。
誰かの流した血が主君の怒りをたきつけたと悟るには十分だった。だが悟ったときには既に遅く、ディクシードの姿は天幕から消え去っていた。
思案する余地もなくヘインズが走り、パリスも直ぐに行動を起こした。小町に向かって駆け出したのである。ランバートの第六感も、彼女の血だと告げてあった。
「まだか、パリスッ!?」
長槍のごとく銀旗を投じたランバートは、あらん限りの声でパリスに問うた。
一方でパリスは、こちらも手間取っていた。
ディクシードの暴走に怒り心頭となり、丸腰の小町が無謀にも突っ込もうとしていたためだ。近衛の年長組三名とジニアスとで取り押さえて制したが、その暴れようときたら、巨漢のガッセを投げ飛ばし、ジニアスに足払いをかまし、イバンスにも邪魔をするなと掴みかかろうとする始末で、機転を利かせたリディオが生気を叩き込んで隙を作り、その後は四人がかりであった。
怪力もここまでくるともはや化け物、とにもかくにも四人が総出で生気を叩き込み、なんとか膝をつかせることに成功した。そこにパリスが駆け付けて彼らを凌駕する生気をお見舞いし、ようやくして少しは大人しくなった。
パリスが見たところ、血の痕跡は彼女の唇に残ってあるが、だがしかし、その血は既に乾ききり、流血と呼べるものではない。主君が嗅ぎ付けるのは、流れ出た生き血が放つ芳香であるのだ!
「まだです、ランバート! 時間を稼いでくださいっ! 探さなければっ!」
「っの、クソがあぁっ!」
悪態をついて抜剣する男を尻目にして、パリスは小町の全身にくまなく目を走らせていった。白いシャツに赤い染みを探し当てたのは、再び暴れはじめた娘に対し、二度目の生気を叩き込んだ直後だった。
ジワっと染みが顔を出したのである。なおも暴れようとする小町に、今度はイバンスが生気を叩き込む。すると赤い染みは、一回り大きくなった。
彼女の脇腹の、やや背中に近い箇所――
おとなしくさせようと生気を叩き込むたびに、その染みはまるで生き物のように、じわり、じわり、大きくなっていく。
不吉なものを感じ、パリスは遠慮もなく小町のシャツをまくり上げた。表現し難い傷がそこにあった。
黒く焼けただれた皮膚……
薄黄色の膿みと真紅の血……
そして、既に剥がれていた皮膚が……赤黒い皮膚の塊が、獣か何かの巨大な舌のように、ぬめぬめと光沢を放ちながら、パリスに向かってデロンと垂れ下がってくる。
「っ!!」
骨ばった肉付きはさることながら、あまりの不気味さにパリスは思わず息を呑んだ。
呪いかっ……!?
あやうく口にしかけたものを呑み込んだのは賞賛に値するだろう。しかし、上官の異変に気づいた四名がその傷を目にすることとなり、ギクリと硬直した。
小町本人は痛みを感じていないのか、緩くなった拘束の隙をつき、なお抗おうと試みるが、意を決したパリスは彼女の痩躯を組み敷いた。
「おとなしくしなさい、傷が広がります」
場違いなほど柔らかな声音が耳元で聞こえ、小町は反射的にパリスを振り返った。怒りと不安と焦り、それらがせめぎ合い、彼女の両の目で揺れていた。
「あなたの血を殿下が嗅ぎ付けたのですよ」
告げた途端、彼女の瞳は一層大きく揺れ動き、焦りの色が強くなった。
「止めてっ、パリスッ! 早くデイックスを止めてっ! 痛くないって言って! お願いだから早くっ!」
誰かが斬られる前に! 犠牲者が出る前に!
どうか止めてくれと彼女は叫んだ。
パリスは、しかと頷いて見せ、彼女の耳元で再び囁いた。
動くな、と。
止めてほしければ決して動くな、と。
「しばらくそのままで。いいですね?」
彼女は思案すらしなかった。パリスの意図など知りもしないだろうに、即座に頷いたかと思うと、言われるまま微動だにしなくなった。無抵抗の意思を認めたパリスは、すぐさま次なる行動に移る。小町の背から退き、自身の所持する短剣を引き抜いて、彼女の裂傷に対して垂直に構えたのである。
「イバンス! 殿下に矢をっ!」
上官の命に躊躇を見せたイバンスであったが、一瞬のことだった。ジニアスの弓を奪い取り、足元に転がった矢を拾い上げてつがえ、目いっぱい引き絞る。
ディクシードに続く一本の道を開くべく、リディオとガッセは既に、主君の包囲網を退けようと走りだしていた。ジニアスも遅れまいと続いた。
◇◇◇◇◇◇
包囲網の中心では、ランバートや武将たちが、ディクシードの前進を踏みとどまらせようと立ち回っていた。
まともな要人の一人――アーセル男爵ことセレジオ卿が駆け付けて加勢にまわり、ランバートの抜剣で本分を思い出した近衛が周囲をかこい、そこにジニアスの部下、要人方の部下までもが加わり――
ディクシードの暴走に対する布陣は着実に整いつつあった。
あとはコーエン卿を陣の外に置きさえすれば、時間を稼ぐことはできる。そちらは御仁とセレジオ卿が立ち回り、主君の剣を受けては流し、コーエン卿を背にかばいながら後退していく。
総軍指揮を預かる辺境伯を守るべく、武将たちも己が剣を振り、ディクシードと交戦していた。
残念なことに、交戦相手は敵将ではなく、彼らの主君である。しかし、多勢に無勢となったディクシードの身を案じる者など誰一人としていない。少しでも手を抜いたが最後、彼らが主君の手にかかり、切り裂かれて絶命する末路をたどるのである。たとえ不本意であっても、一瞬たりとも気を抜かず、全力でかからねばならなかった。
帷子も甲冑もつけず、楯をも持たず、突如として始まった交戦の中、ランバートも己が剣を振るっていた。
ディクシードの暴走は決して初めてではなかった。七年前の王都壊滅の危機も、ディクシード単身によってもたらされたものだ。あの一件を教訓として、第一王子の近衛騎士一同は、有事の際の盾となるよう王都の命を受けているが、その後も何度か暴走の兆候はあって、近衛はその度に役割を全うしてきた。
新兵でもあるまいし、場数をこなしてきたランバートからすれば、ディクシードが暴走するたびに怯んでなどいられない。それでなくともこの男は、部下の身も大事でコーエン卿を守る布陣も大事であるが、そもそも王都の命などクソくらえというもので、剣を振ることこそが本懐だった。むしろ誰よりも生き生きとしていた。
鋼鉄を打ち合わせたランバートは、退きざまにもう一髪食らわせてやろうと地を蹴ると、そこにダニロ男爵の豪剣が唸りを生じて迫ってきた。瞬時に半身を沈めて大剣をいかせ、己が剣を返しディクシードに打ち込む。
大熊の豪剣を受けた主君は、続けざまにランバートの斬撃を受け止め、脳天めがけて飛来するヘインズの一振りを、同じ刃で造作もなく弾き返した。剣技において異名をとる猛者たちの剣を、いともたやすく、三本まとめて返したのである。
「っんの化けもんがあああ!!」
怒号とともにランバートが地を蹴った、その時だった。包囲していた部下たちの一部が、意思を持って動いたのである。道を開くかのように退き、その向こうに見えたのは、イバンスが矢を射る瞬間だった。
放たれた矢は正確に伸び、主君の背を射たかに思えたが、やはりディクシード相手ではそう甘くはない。背後に目があるかのような剣技をもってして、イバンスの矢は一刀のもとに両断されたのである。
だが、目的を果たさずとも、その矢が主君の注意を引くには十分な効力があった。深紅の両眼がひたと据えられた先は、もはやコーエン卿ではなく、小町の背に剣先をあてがえたパリスとなった。
「お引きください、殿下っ! 尚早です! この傷は人の手によるものではありませんっ! コーエン卿によるものではないっ!」
いつになく捲し立てたパリスに対して、ディクシードはようやく勢いを失っていった。しかし相反して、その眼は赤光を失わず、黒みを増していくのだ。憎悪という闇を帯びて。
ランバートは形容しがたい音を聞いた。ギリギリともミシミシとも違う、形容しがたい音だった。ディクシードの剣が――鋼鉄の剣の柄が、悲鳴をあげている。どれほど強く握ろうとも、常人ではそんな音をたてることはないというのに。
「――それに手を出すなと言ったはずだ」
すさまじい猛襲を浴びながら、息を切らせることも声を漏らすこともなかった男が、そこで初めて口を開いたのである。パリスの機転が功を奏した結果と言える。
悪役を買って出るのは側近の性で、パリスは常にそうしてきた。ランバートが盾となる時、彼が矛となり、第一王子の抑止となる。
怒り狂うのは主君のかって――
誰を斬ろうとも主君のかって――
主君の不興を買うのは自分のかって――
パリスは常々、そう思って動いている。
「臓腑を食らいつくすと仰りたいなら、言われなくても承知しておりますが?」
平時通りの皮肉を返したパリスは、微動だにしない小町を見下ろし、短剣を構え直した。
彼女は耐えてあった。己の裂傷に気づかずとも、己の背に何があてがわれてあるのか――それを知りながら静かに耐えてある。地に腹をつけ、頭をつけ、這いつくばって……
普段であれば肘の一発や二発、平然と繰り出す娘であるのに。
どれほどの恥辱だろうか。
どれほどの屈辱を舐めているのか。
冷静に酷薄に、普段通りに思う反面で、忌々しさは募っていく。無様な娘の姿を見下ろしていると、過去の情景と重なってしまう。それも、一人ではなく、二人、三人と、見たくもない過去が。
第一王子でありながら、醜態を是とした我が主君と。
ディクシードのためにと、従順になろうと必死だった妹君と。
そして……
何もできず、見ていることしかできなかった自分も――
小町一人の姿に、三つの過去を見てしまうせい。
いっそ小町を貫き、終わらせてやろうか。あの頃の傀儡となる主君を見なければならないなら、終わらせてやろうか。気位の高い娘には、羞恥の中で生きるより似合いの最後でもある。
仕えてきたのに……
反旗をかかげる時のために、同じ轍を踏むまいと仕えてきたのにっ!
「繰り返す気ですか、殿下。同じ過ちを犯し、あまつさえ……この私にまた眺めていろと!?」
忠言は山とあるが、どうせまたディクシードは、パリスの言など聞こうともするまい。
「憤るのも結構、斬るのも結構……。ですが、何をするにしてもまず、コマチをかえりみてからになさい! 彼女がなぜ耐えていると思いますか!? なにゆえ恥辱に耐えていると!? それもこれも全て、あなたが鎮まるのを待っているからではないのか!? このような使われ方を、この娘が望んでいるとでも仰るか!」
「……………………」
「エフィオラ様と同じ役割を課す気ですかっ、殿下!?」
思い知るべきなのだ! 我が主君はっ!
小町も自分も、そんな役目など望んいないと!
パリスは短剣を振り上げた。
案の定、それは……
ディクシードによって阻まれることになった。目にもとまらぬ速さで剛鉄の剣が飛び、パリスの短剣を弾き飛ばしたのである。
しびれる両の手を下ろし、己が短剣を弾いた剣を眺めやって、パリスはようやくかと嘆息した。ディクシードが自ら剣を手放したことで、混乱を極めた騒動に、ようやく収拾の兆しが見えたのだった。




