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二輪の騎士  作者: 小町
第四章
79/84

第76話 氏名と身分

「バイク、大丈夫ですか? けがしてませんかね?」

 葡萄酒を片手にさげたリディオは、バイクの手入れをする小町の手元をのぞき込んだ。妙に腰を引いてしまうのにも理由がある。教官を頼まれた際に放たれた、鬼娘のセリフが原因である。

 ――けがを負わせたら“スポンジバットでケツ叩き百回の刑”ね。やさし~く叩いてあげる。

 スポンジバットが何かは疑問だったが、あえて聞かなかった。満面の笑みで言ってのける怪力鬼娘と、ケツ叩き百回という多少なりと馴染みのある文句が、あまりに不釣り合いで不気味で、疑問は疑問として残しておいた方がいいと直感が告げたためである。冗談かもしれない、半面、この娘ならケツ叩きもやりかねん、と思ったわけだ。

「ちょっと小傷があるけど」

 小町がチラと視線を投げると、リディオは、つっつかれた亀のように首を引っ込めていく。

「冗談よ、ケツ叩きも冗談」

 笑って言ってみた小町に、本心なのかと胡乱げな目をむけてくる。本心なのに……

 冗談ではなく、小傷は確かについてある。腰に金物をひっさげた男どもが、好奇心のおもむくまま触れるわけで、いくら注意を払ったところで多少なりと傷はつくものだ。それぐらいのことなら小町の想定内であり、許容範囲内であった。

 ダート走行に傷はつきもの。破損していなければ問題ない。走りさえすればいい。直せる。

 もともと金に困っていない小町は、そういうスタンスだった。これに対して、ケヴィンの友人である一樹は、たいそう金持ちを羨んでいたが。

「傷は癒えるものでしょ、安心して? またあなたに教官をお願いするかもしれないもの。ケガなんかに遠慮されてると困るの」

「なら、遠慮なく手伝います」

 すっかり黒い車体に慣れたリディオは、愛着を持ったかのようにバイクの汚れを拭き始めた。そこにイバンスがひょっこりやって来たのは、すぐだった。小町の剣と矢筒を携え、彼もまた葡萄酒を持って子守に加わりに来たのである。

「細い矢筒にしてみました、どうですか?」

 剣を背負うにあたり、小町の課題になったのは、背中で感じる不安定さだった。つまりはダスダス感。矢筒の方が剣よりも太いため、動くたびに中の剣も動き、安定感がまったく得られない。いつ飛び出てもおかしくない状態で、バイクに乗ることを想定した場合、とてもではないが操縦だけに集中できそうにない。そこで試行錯誤を重ねていた。

 イバンスが持ってきた新たな矢筒を背負った小町は、試しに上半身を素早くひねってみた。ダスダス感はずいぶんマシになった。では、明日の走行を想定して……ピョンと飛んでみる。多少の不安定さは残るが、飛び出ることはなく、こちらも許容範囲内である。即席の鞘であるなら上出来といえる。

「ありがとう、イバンス。皮紐もしっかり結んであるし、これならいけそう」

「これでダメだったら布でも詰めようかと思ってました。それかバズに頼んで、口元を狭くしてもらってもいいかな、とか」

 篝火の席で肉をかじるバズを眺め、イバンスは言った。

「手先が器用なんですよ、あいつ。そこらにあるもので適当に間に合わせてくれるんですよね」

「お前ら坊っちゃんとは育ちが違うんだよ、育ちが」

 ガッセが自分のことのように、ふふんと自慢げに鼻を鳴らした。これに対して似た者同士のイバンスとリディオは、面白がった風で顔を見合わせ、ニヤけた表情をつくる。

「肩身がせまないな、イバンス。ついでに耳も痛いときた」

「まったくだね。近衛もいつの間にか貴族出が半分になったしな。このぶんなら、あと数年で俺とお前しか残らんとみた」

「俺だけでいいさ、お前は先に平に戻ってくれ。そうなれば当面のあいだ、俺は一人の甘みを味わえるわけだ」

「せこいな、リディオ、先に出世したくせに。言っとくが願い下げだぞ」

「お前ら、どっこいだって」

 ニヤけたやり取りをガッセが笑いながら一蹴する。するとどうしたのか、突如三名が無言になり、そして真顔になった。

「で、ガッセ。あの双子、どうだった?」

「見込みありか?」

 リディオが手を止めて問えば、イバンスが続く。二人にすれば、この件を聞きたかったのである。

 あの双子は、上官であるパリスとランバートが連れてきたのだ。双子と面識があるランバートは別として、近衛の選任権を持ったパリスが連れてきたとなれば、いくら表向きの理由があったとしても、話はかなり違うものになる。

「聞きたいか?」

 剣を磨いていた手を止め、ガッセはもったいぶってみせた。やりとりを聞いていた小町も事情を察し、聞き耳を立てておく。

「腰が低すぎて肩がこっちまった。俺から言わせりゃまだまだだが……それにしても、あの低さは妙だったな。思うに、パリスさんにこっぴどくやられたんじゃないか?」

「……そうか……なら、見込みなしなのか」

 落胆してイバンスが呟くと、いやいやとリディオが別の見解を示す。

「あのパリスさんだぞ、イバンス。見込みがないやつを叩くか? あるから叩くんだろ」

「そうかね? 基本的に気に入らんやつもやるからな、あの人は」

「確かにな」

 ガッセまでもがどっちつかずである。

「アレンに続くかとも思ったんだが……さて、どういくかね」

「そのアレンとは近衛のアレンかね? 彼もパリスが引き抜いたのかね?」

「ああ、あいつも大学で拾われて――」

 そこまで言って、ガッセはふと小町を見やった。それとなく話に入ってくるせいで、ついつい流されてしまったのだ。

「なんだよ、お前、その喋り方は」

「だってほら、せっかくの雰囲気を壊しちゃ悪いじゃない? へんだった?」

「…………。お前さ、アホだろ」

 すっかりガッセが呆れる一方で、小町は舌打ちしそうな顔をした。彼らの口調に合わせて話に紛れ込み、細かな情報を得てやる魂胆だったのだ。

 これも機密情報なわけ? ちょっと厳戒すぎない? いまいましい箝口令め、と、内心はこうである。箝口令について、今後のために交渉する必要がありそうだ。ランバートか、あるいはパリスのどちらかと。

 ともあれ、ここはひとまず、黙って聞いていればよかったのだ。慣れない喋り方はするもんじゃない。反省。

 めくるめく思考する小町に対し、意外にもガッセの反応は厳戒ではなかった。こんぐらいなら、まあいいだろ、である。ついでに、玉砕覚悟のアレンの株を少しばかり上げてやってもいい。

「まあ、アレンの場合は、あの双子よりも若かったな。十五か十六だったか……。大学からパリスさんが拾ってきたんだ。最初は見習いで、腕が上がってから近衛入りだ」

 ガッセの腹積もりを知ってか知らずか、リディオもイバンスも数年前のアレンを思い出し、懐かしみながら小町に話すのである。

「あの時も、こんな若いのじゃ使えんってのが俺たちの総意だったんですよね。ちょうど今のガッセみたいな感覚ですかね。ヒョロヒョロでしたから、本当に」

「そうそう。近衛候補に名が出たって聞いたときは、どうしてまたパリスさんは、こんなのに目をかけるのかって言ってましたよ。近衛入りは永遠に無理そうだとかなんとかね。それが……稽古の相手を隊長がし始めて、メキメキ腕が上がって――」

「今じゃすっかり、あなた達の弟分よね」

 小町があとを引き取ると、三人はおのおの頷いた。

「隊長の怒声にも怯まんかった」

「パリスさんの毒にも、しごきにも耐えてたし……」

「男のくせに妙な愛嬌があって……殿下に対しても物怖じしないところがある。でもやっぱ、俺の決め手はダリアですかね。稽古場に彼女が来た時にはびっくりしましたよ、義姉だって言うんですから。あの時の隊長の慌てっぷりも見ものでした」

 見せてやりたかったと他人事のように話したリディオに、ガッセが皮肉たっぷりに言う。慌てたのはお前もだろう、と。

「っ、そりゃそうだろっ、ダリアの所の胡蝶には少なからず世話になって――」

「はっはっは、また慌ててやがる、こいつ」

「ガッセ、たぶんまだ世話になってんだよ。いいかげん落ち着きゃいいのに、いい歳してフラフラしてるから――」

「黙れよ、イバンス。お前と違って嫁はいらんのさ。独り身には独り身なりの甘みがあるんだ」

「せめて相手を絞れって言ってんのさ」

 なかなか騒がしいやり取りだった。小町は余計な口を挟まず、おとなしく聞いていた。

 ダリアの想い人を知ってしまった手前、迂闊に話に加われない。ランバートと彼女の間のよそよそしい雰囲気の原因が、そこに見え隠れしている気がした。話を聞く限り、以前は良好な関係だったのかもしれない、と思ったりもする。しかしダリアの口振りでは、ずっと片想いという感じで……

 どちらにしろ、あまりにデリケートすぎて、掘り下げて聞くわけにもいかない。

 聞き役に徹した小町は、その後、コーエン卿が現れるまで、バイクの手入れをしながら相槌を打つのであった。当然ながら、情報収集もかねてある。


 ◇◇◇◇◇◇


 ディクシード付き近衛騎士の体制は、およそ七年前、ディクシードの後見を務めた御仁が隠居を宣言した際に見直され、現体制に近いものがパリスによって築かれた。

 これは、御仁の側近であるハンソン・ヘインズから仕入れた、小町の知りうる限りの事前情報である。そこに新たな情報が加わり、肉付きを増していった。

 パリスが近衛を選任するにあたり、まず着手したのが、隊長職につくランバート・レイゼンの基盤強化である。平民出の男に対し、反感を抱かない者を――つまりは、同じ平民出身者の騎士、十名を選任した。そこにガサン・オズイクの名があった。そして、平民ばかりかと不平を漏らす王都の重鎮どもを黙らせるため、残る二十名の騎士を貴族出身者の中からより抜いた。今度はそこに、リディオ・ベンガッセンと、イバンス・アントネリーが含まれていた。

 バイクの傍で面白おかしく雑談する近衛の年長者たちは、無意識のうちに、こういった情報を小町に提供している。アレンが若かった、のくだりから、自分たちが選任された当時を振り返り、あの時はこうだった、俺の場合はこうだった、と、既に共有している過去を語る。笑い交じりに批判し、皮肉りあい、牽制し、また笑い合う。こういったぐあいだ。

 彼らの話を聞きながら、小町は脳内で情報を整理した。聞いた話を時系列に並び替え、そこにパリスの主観を憶測ながら加えてみると、先のようになった。あのパリスの性格や周到さを思えば、あながち外れているとも思わない。むしろ、しっくりくる。

 終始聞き役となっていた小町だったが、ある程度の情報が整理できると、愛車にシルバーのシートをかけた。リディオが手伝いを買って出てくれ、その間も、ガッセとイバンスのふっかけ合いは続投中であった。時おり一緒になって笑い、作業しながら楽しい席を満喫する。下手な質問をして、男性特有の盛り上がりに水をさすのも嫌だった。

 シートをかけ終え、腰を下ろそうとしたその時、ディクシードの天幕からパリスが出てくるのが見えた。そしてその後ろから、灰の装束をまとった壮年の騎士が二人、続いて出てきたのである。

「コーエン卿とダニロ男爵だ」

 ガッセが声を潜めて告げ、小町はいつの間に来ていたのかと首を傾げた。あまりに楽しくて気付かなかったのである。

 パリスと壮年の騎士二人は、連れだってこちらへ歩いてきており、ガッセ達に緊張が走る。篝火の席の騎士たちにもだ。

「……私、ね……」

「……だろうな」

 頷いたガッセが腰をあげ、リディオとイバンスも続く。

 来るんじゃないかな、と、小町には予感があった。少なくとも誰か一人は、だが……

 それがまさか、武将たちの中でも上の立場の二人が、揃ってやってくるとは。それも、予想以上に早く。

「これって、ディックスに頼んでおいた成果かしら……」

 ひとりごちた小町は、シャンと背筋を伸ばして来訪者を待った。


 ◇◇◇◇◇◇


 アタナシア国の人名と姓は、小町の思う名と姓と同じ役割を持つものだった。名は人の名を、姓は人の姓を指す。姓とはつまり、家の名である。しかしながらこの国では、氏名が同じ場合の区別となる“ミドルネーム”を持つ人が少なかった。同姓同名の人があまりいないのか、はたまた、別の理由があるのかは不明。

 しかし、その少数派のミドルネームには、国の文化ともいうべき特有のルールは確かにあった。やはり区別化である。

 王族であるディクシードの場合、異母兄弟を明確にする必要があるため、母方の姓がミドルネームとなる。一部の貴族の兄弟間でも然りだ。そして、領地を預かる領主たちの場合は、領地名がミドルネームとなる。御仁を例にするならば、かの方の氏名はエドワント・マルセナ・ブライバス卿であり、ミドルネームの“マルセナ”は、マルセナ領主ということを示す。

 さて、この独特のルールも、小町にとっては馴染みがないものだった。ミドルネームは洗礼名であったり故人をしのぶものであったり、あるいは、誰かへの敬意を示すものだと思って育ったからだ。小町のミドルネームの“ダヴィ”が、父のニックネームであるように。

 本日の昼食どき、ランバートからクイズを出された小町は、この国の名を知り、氏名にまつわるルールを知るにいたった。へ~、ふ~ん、と無知ぶりをさらしたアホ娘に、その場にいた者が呆れかえるという顛末があったわけだ。

 それはさておき、ついでに知りえた氏名のルールの他に、もう一つ、爵位名についても教わることができたのは大きな収穫といえる。姓と爵位名が同じ場合、その人物の家柄が建国から続く事実である。

 御仁とコーエン卿を例に挙げ、ランバートが分かりやすく教えてくれたのだが、御仁のべリントンという爵位名は姓のブライバスとは異なるため、何らかの理由で国から与えられた爵位と知る事ができる。そしてコーエン卿の場合は、コーエンという爵位名が姓のコーエンと同じであるため、建国から続く由緒正しき家柄の出自ということになる。

 それはそれは途方もなく、はるか昔から続く家柄なのだそうだ。

 では、ボルコフはどうなのか、と小町は疑問に思った。ヴァノーラ子爵リダ・ヴァノーラ・ボルコフ卿は、ヴァノーラ領の領主。一見して、教えてもらった氏名の定義に沿ってはいるものの、外れているものも含まれていた。爵位にも領地の名が使われてある。

 この疑問に関して、ランバートはこう吐き捨てた。

 ――あの阿呆閣下様は、例外中の例外だろうな。王都に頼み込んで領地の名を冠してんだ。由緒も何もあったもんじゃねぇ、クソッタレ爵位をかぶってんだよ。

 ――クソ乗っけて喜んでやがる。アホとしか言いようがねぇだろ。

 と、昼食の席で、ボルコフ卿をミソクソに罵ったわけだが。


 そんなボルコフとはまったく違い、小町の正面で足を止めた二人の武将は、こちらはともに由緒正しき家柄の出だった。二人の存在そのものが、なごやかだった野営地の一角を緊迫させたのである。

 唯一、ディクシード以外に眼中にない男だけは、とろけそうな笑みを小町に向ける。

「お二方が目通りを希望されておられます。殿下によれば、あなたも同意されていたとか?」

 場にそぐわない甘やかな笑みもこの男からすれば眼中にない。まずは紹介をと前置きをし、パリスは傍らの武人を指した。

「この方は、オルダスの領主、コーエン伯爵グレシーニ・オルダス・コーエン卿にいらっしゃいます」

 失礼にならないよう小町は会釈した。

 この人が……総軍指揮官……

 姓に負けぬ貫禄を持ち、威風堂々たる立ち姿だった。濃い眉に鷲鼻が続き、尖った顎の先に調えられた顎鬚が少し。頭のさきから足のさきまでもが厳格そのものといった風で、厳しい表情と相まって、小町を圧倒する。会釈にもピクリとも眉を動かさない。

 歳は……壮年期の盛といったところか……もう少し上かもしれない……

「そちらのお方は――」

「フォーセットの地を預かるダニロと申すものだ。見知りおきを」

 待ちきれんとばかりに自ら名乗り出たのは、ダニロ男爵イサーク・フォーセット・ダニロ卿であった。苛立ちを隠しもしない非友好的な名乗りである。

 コーエン卿よりも若く、筋骨隆々といったたくましい体格で、見上げるほどの長身である。軽く二メートルを超すのではなかろうかと小町は思う。えらの張った顎と高い頬骨が、野性味をぞんぶんに体現し、猛将と呼ぶに相応しい雰囲気だった。

 こちらも厳めしく眉を寄せ、鋭い眼光で小町を見下ろしていた。さっさと名乗れと言いたげな表情だ。

「小町・ダヴィ・エインズワースと申します。芸のないことしか申せませんが、お会いできたこと、光栄のいたりと存じます」

 まったくもって芸のない余所行きの挨拶である。緊張ゆえの。

 これに歯噛みしたのは、ほかでもない小町だ。いつでもどんな時でも、冷静に物事を観察したい性分であるのに、そうできなかったのだ。ビジネスシーンでも、こんな感覚を味わったことがない。

 こう見えて小町は、イギリスでは若手の経営者である。育て親の伯爵が手をこまねいていたパリへの進出も、フレデリックと切磋琢磨し、なんとか事業を軌道に乗せたと自負もある。取引先も多岐にわたり、相手は総じて小町よりも高齢となるのは必然で、ガキのくせにとバカにされたことは一度二度ではなかったし、養女の分際でとあからさまに見下してくる人とも何度となく渡り合ってきた。

 それがどうしたものか、二人の武将を前にすると、その自負を脆いとさえ感じてしまう。

 相手の出方を見るのとは違う、腹の探り合いとも違う、バカにされているわけでもない。目に見えない気迫のようなものを全身で感じ、知らないうちに――言わば強制的に、緊張を強いられたのだった。

 彼らの眼光に燃えるのは敵愾心だ。

 ライバル相手であっても、こんな感覚を味わったことがない。

 この……肌を刺すような感覚は……

「不躾ながらお聞きしたい」

 ダニロ男爵が口火を切った。腹の底に響く野太くも低い声と、頭上からの威圧感に負け、小町は思わず、一歩後ずさってしまった。

 しかし武将は、構うことなく巨体の上から若い娘を見下ろし、鋭い眼光を彼女の足元へ滑り落とすと、しわだらけのズボンを眺めやり、不快そうに口元をゆがめた。

「見るに貴殿は男のなりをしておいでだが……それを芸とは言わず何と呼ぶのかっ。いつから女ごときが男の真似ごとをするようになったかっ!」

 娘の挨拶を皮肉り、これ見よがしに吐き捨てたのである。

 小町はたまらず、拳を握りしめていた。悔しくて悔しくて悔しくて……

 誰かが必ず指摘すると覚悟はしていたが、悔しさは計り知れなかった。これが現状で、他者から見た小町の立場なのだ。

 近衛が親しく接してくれるのも、主君の客人だから――

 痛いほど痛感した。

「明日は……馬に乗らねばなりません。女のなりでは不向きと存じます」

 歯ぎしりが声になったような調子だが、なんとか耐えて取り繕い、理由を述べた。これに対してダニロ男爵は一層深く眉をひそめた。それはそれは苦々しく。

「ならば明日だけでよかろうものだっ」

 この人物が語気を強めるのも当然ながら腹立たしさからだ。女人禁制の野営地に、わがもの顔で娘がいるという事実に対して。

「お考えになられたかっ、そのようななりで貴殿がここにおる事が、我らの兵にどのような影響を与えるかをっ」

 言われるまでもないと小町は思う。野営地を歩いたのだから。

 たとえ短い距離であっても、兵がどれほど落ち着いていたのか、この目で見てきた。申し合わせたように、誰もが小町とは目を合わさなかった。異質な存在にも動じず、落ち着き払って作業をこなしていて……あれは、見て見ぬふりだ。

 招きもしない客人への不信感を隠すため。ひいては、ディクシードへの不信感を助長させないための、武将たちの統率のたまものだ。

 そんなもの、全て承知の上なのに……

 ここで反論する事が、結果なにを招くか、それも容易く想像できていた。

 あの天幕にはディクシードがいる。小町の尊厳を守るために出てくるかもしれない。必ず護ると約束してくれた人で、近衛やパリスではなく、ディクシードだからできるのだ。親しくしてくれるからといって、近衛の助けを期待してはいけないし、ディクシードを頼るのも間違っている。

 言い返したいのに言い返せず、睨み付けてやりたいのに睨み返せず……

 悔しいやら腹立たしいやら不甲斐ないやら……

 負の感情ばかりが一気に押し寄せ、制御の壁を越えてきそうになって、小町は俯いて顔を隠した。

 そんな彼女の様子はダニロ男爵にも反省の色と見えたが、それでも猛将は容赦しなかった。反論は許さんとばかりに、高い位置から小町のつむじを睨め付け、声を荒げたのだ。

「あえて申し上げてる! 貴殿の耳にも入っておろうが、こたびの盗伐は足りぬ兵で機を迎えたしだいだ。女人には分かるまいが、兵には士気というものがあるっ! ことさら士気を下げる行いを見過ごすわけにはいかんっ! 殿下がお許しになったからと、我らが許す理由がどこにあるのかっ!」

 怒気をはらんだ指摘の数々が、小町に容赦なく刺さる。

 男の真似事など浅慮にもほどがある!

 兵の士気を下げてくれるな!

 主君が許しても、我らが決して許さんぞっ!

 ダニロ男爵の言い分は、血が出んばかりに小町の拳を痛ませ、噛み切りそうな唇に赤い雫を滲ませたのである。


 ◇◇◇◇◇◇


「コマチ殿と申されたか。貴殿にうかがいたき事があって参った、お付き合い願おう」

 厳しい表情を浮かべたまま、コーエン卿は、そう言って彼女を丘の上に連れ出した。

 こちらは決して、手厳しくやられた娘に同情したわけではない。可哀そうに……などと思いもしない。そもそも、ダニロ男爵と同じ憤りを抱える武人は、苦言を呈するために娘との目通りを願い出たのである。ダニロが言わぬなら自分が指摘したところだ。

 御仁に言わせると、そんなコーエン卿は生真面目すぎるのだそうで、“貴殿はせっかく見分が広いのであるから、もう少しその固い頭を柔らかくし、かつ寛容に振る舞いさえすれば、男ぶりが一層上がり御婦人方にたいそう人気がでる“、というのが口癖であった。長らく御仁を支持しているコーエン卿だが、これに対しては、さしあたって大きなお世話だと思っている。

 野営地を一望できる場所で立ち止まった生真面目な武人は、眼下に広がる景色を眺めながら、隣でたたずむ若い娘にどのようにして問うべきかを考え込んでいた。

 ここに来る前、主君の天幕で目通りを願い出ると、かの方は表情をかえず、こう言ったのである。

 ――あれも、お前に会ってみたいと言っていた。どんな話でもいいと食い下がっていたがな。

 ――コーエン、お前はあれに、小言をいいにきたのか。

 そのつもりだった武人は、取り繕いもせず頷いた。下っ端の兵であれば主君の一睨みにすくみ上って首を振っただろうが、これでも、かの方とともに剣を振るった勇将の一人だ。総軍指揮を預かった以上、言うべきことは言わねばならん、のである。

 ――おそれながら、小言などとは思うておりませんぞ、殿下。年若いからこそ苦言を呈する必要があるというもの。御仁の話を聞くかぎり、良識がある上に、まこと人の話をよく聞く娘さんだとか。であればなおのこと、苦言をもよく効くであろうと存じるのですが。

 そう返すと、主君はとんと黙り込んだ。

 隣にいたダニロ男爵が、いいかげん返事を催促しようかと苛立ち始めたころ、ようやっと口を開く。

 ところが、これが全くの見当外れな返事だった。

 ――辺境伯か。

 たったの一言、そう言ったのである。目通りの許可を求めたというのに、可か否かではなく、是か非かでもなく、たったの一言。それも、コーエン卿の身分を一言だ。

 これにはさすがに、どう応じていいのやら、今度はこちらが黙り込まねばならなかった。

 ――あれに聞け、その言葉の意味が分かるか、とな。あれがお前を支持した所以が聞けるだろう。

 ダニロと名の付く大熊は、やっと許可が出たと勇んだが、生真面目な武人には疑問が残った。主君の意図が不明なのである。

「あの、コーエン伯爵様。お聞きになりたい事がおありだと……」

 おずおずといった娘の催促だった。

「さて、どう聞けばよいのやら検討がつかん。考えあぐねておる次第でな」

 そう言って一度は制したものの、会議の刻限が迫っているのも事実。そこでコーエン卿は武人らしく腹を決め、潔く問うことにした。

「“辺境伯か”、と殿下が仰られたのだ。その言葉の意味を貴殿に問うてみろと」

 口にしてみると、なんとも間の抜けた文句である。辺境伯たる自分が、年端もいかない娘に身分の意味を問うのだから。

 問われた娘も澄んだ蒼い目を見開き、キョトンとしている。ほれ見たことかとコーエン卿は己の口を胸中で罵り、この場に御仁がいないことに安堵する。

「辺境の……いえ、その……失礼な意味ではないのですが……コーエン伯爵様が、一番ご存じではないのでしょうか。隣国との国境に接する地を治めておいでだと、そのように聞いておりますので」

 ゴニョゴニョとした口調から、次第にハキハキとした口調で娘は答えた。

「うむ、お分かりであるようだ。……であれば殿下は、いったい何を問えと申されたのか」

「……よく……分かりませんね……」

 二人して考える始末である。

 すると娘が、こう切り出した。

「殿下の意図していものは分かりませんが、伯爵様ご自身の疑問はないのですか? とくに、私に対する疑問ですけれど」

「貴殿へのか?」

「はい、私に関することです。殿下が私に聞けと仰ったのなら、なんとなく、私に絡んでいる事柄だと思ったものですから」

 なるほど、それもまた一理あるように思う。“辺境伯”の意味とは別に、娘に問いたい疑問も確かにあるのだ。

 誰をも挟まず、直接この娘に聞いてやろうと思っていた。

 ――お前を支持した所以が聞けるだろう。

 さて、こちらも何のことやら、さっぱり見当がつかない。

 会議の際、主君が退室する間際に、この娘が思慮深い者に指揮権をゆだねるよう進言したと、かの方自らが口にしていた。他国民の分際で第一王子に進言するなどと小賢しいと、あの場に居合わせた者はそういった反感をもった。コーエン卿も同様である。

 決してあのとき、娘が誰かを名指ししたとは聞いておらず、主君の意向で自分の名が挙がったことを覚えてある。名誉なことだと誇り高く感じたが、主君が退室した後、期待に応えられなかったことに不甲斐なくもあった。

 それがどういうわけか、先ほどの第一王子の口ぶりでは、あたかも、この娘も支持していたかのような……

「聞くが、こたびの盗伐の指揮権について、私を名指しにした覚えはござろうか。直接、それが聞きたかったのだが」

 これを聞きたいがために、コーエン卿はこの場所に娘を連れてきたのだ。この地に我が兵がいかほどいるのか知らしめ、その上で士気を下げてくれるなと苦言を呈するつもりだった。すべての兵が見渡せる場所なら、思い知ってくれるだろうと。

 問うと娘は、なにやら合点がいった様子で頷いた。

 おかしなことだが、まるでその様子は、主君の意図を明確に汲み取ったかのようにも見えた。

「名指しにはしておりません、コーエン伯爵様。ですが、“辺境伯”という身分を持つ方なら、指揮をとるに相応しいのではないかと、失礼ながら、そう言った覚えはございます」

 なんとも豪胆に言ってのけたのである。

 それはもう、先ほどまでの儚さなど、微塵も感じさせない眼光だった。

「おそれながら申し上げます――」

 娘は一方的に断ると、さらに一方的に話し始めた。

 なぜ、辺境伯に指揮権をと述べたのか。

「あなた様が辺境伯でいらっしゃるからこそ、そのように述べさせていただきました」


 それは、数日前のこと――

 作戦の本会議が始まる直前までの話だ。ディクシードとランバートを相手にした小町が、会議に出席できるか否かをコイン投げという大博打で決める前のことだった。

「殿下に指揮権がないことに、勝手に憤慨していたのもあります。勢いあまって述べたのですが、誰を指揮官に望んでいるのか、直接、殿下に問うてみました。自分の立ち位置をはかる上で、指揮官という存在が大きく左右するものだと考えていたからです。でも残念ながら、殿下はまったく答えてくれず、結局、会議に私が同席することにも頷いてはくれませんでした。ですから、少し表現を変えて、このように伝えてみました」

 ――ねぇ、ディックス。もしもね、もしもよ? あなたが誰を指揮官に望んでるのか知らないけど……もしも、私と同じ人を望んでるとしたら、必ず、その人に指揮権をゆだねてちょうだいね。

「殿下と話していると、彼と私が同じ人を望んでいる気がしてなりませんでしたし、たとえ指揮権がなくても、彼には少なからず影響力があることは承知しておりましたので、そのように申し上げておきました。しばらく黙り込んでいらっしゃったのですが、お前は誰を望んでいるのかと問い返されましたから、そこで先のように述べたのです」

 ――辺境伯に。辺境伯の身分を持つ方がお一人だけいらっしゃたでしょう? 私は、その人がいいと思ってる。指揮をとるに相応しい人だと思うもの。

「して殿下は、貴殿に理由を問われなんだか。なぜ相応しいと思うのか」

「もちろん問われましたので、嘘偽りなく、思っていたことを述べさせていただきました。“もっとも思慮深い方だろうからだ、そういう方が一番望ましい”、と」

「……それだけか」

「はい、私が答えたのはそれだけです。あとは何も」

 コーエン卿は少量の顎鬚を指先で撫で、難しい顔で考え込んだ。

 この娘とは面識などない。素性も知らん。それがどうして、思慮深いと思わせているのか。

 頭が固い、生真面目、厳格、といった鼻につく風聞なら承知しているが、思慮深いと好意的なものは聞いたためしがない。

「はて、貴殿は何ゆえそう思われたのか、心当たりがないのだがな」

 対して娘は、神妙に頷いて言うのだ。

「辺境伯のあなた様が、なぜ盗伐に参加するにいたったのか、勝手ながら推測した結果にございます」

 小町のこの推測は、要人方の情報を収集した際のものだ。武将達八名分の情報を書き連ねたわけだが、その紙の中に、“辺境伯”という文字があった。御仁を筆頭にして偉業や異名を持つ武人ばかりで、そんな中でも、その文字が目についたのである。

 辺境って……どれぐらい?

 この疑問から始まり、近衛相手の情報収集の結果、それは直ぐに変貌を遂げた。

 そんな遠いところから盗伐に? どうして間に合ったの? である。

「疑問に思うと探求する悪癖があるものですから、私なりに考えてみました。盗伐に間に合った経緯については……あなた様が、このマルセナの近くに、ちょうどおいでになっていたのではないかと思い至りました。憶測ですけれど、その地というのも王都ではありませんか?」

「…………。その通りだ。王都に、出向いておった」

 苦々しく認めたコーエン卿に、小町はやっぱりだと確信しながらも、一つ頷き返した。

「そちらの理由も、勝手ながら見当をつけております。ご不快でなければ、聞いていただきたく存じます」

「…………かまわん」

「あなた様のご領地は、国内でも最も魔物の被害を受けていると、ある人が申しておりました。それとはまた別の機会になりますが、どこかの誰かが、王都に対する不満をほんの少しだけ漏らしていたのを耳にした覚えがございます。ですから私はそれらを総じ……あなた様がご領地の魔物の被害について、王都まで直訴しにいらしていたのではないかと、そのように思い至った次第です」

 コーエン卿は、まったく応答しなかった。小町の推測が正しいのか、誤っているのか、まったく。

 認めたくないのだろうなと小町も思い、あえて正否は追及せず、コーエン卿が眺めるのと同じように、眼下の野営地を見やった。

 およそ二万の兵が……そこにいるのだ。

「ご領地では大変な被害にあわれておきながら、それでもなお離れるというのは、並大抵のことがなければ決断するものではないと思います。辺境の地から遠路を重ね、はるばる王都に……いく日も……もしかすると、いく月も要したかもしれませんけれど、土地勘のない私には想像できません。ですが、不届きながら、私が仮に領主であるならと考えずにはいられませんでした。果たしてあなた様と同じ決断ができたのかどうか……いくら考えてみても答えは出ませんけれど。遠路を重ねたぶん、領地に残した民を、家族を……案じなければなりませんもの。不安に押し潰されてしまいそうで、決断さえできなかったかもしれません」

 小町にもイギリスで待っている人がいる。小町が目覚めるのを、この数日、ずっと待っている家族がいる。

 辺境伯が下した決断を、果たして自分であればと置きかえてみても、まったく自信がもてない。それどころか家族の事ばかり考え、ほかの人のことなんて考えられるのかどうか……

 この辺境伯を思慮深いと言わず、いったい誰を思慮深いというのか。

「近衛や殿下の話を聞く限り――私が知りうる限りでは、あなた様が武将方の中で、もっとも思慮深い方だと思っております。ご領地への不安や懸念を胸にしまい、この度の討伐にさえ出向いていらっしゃいます。……きっとあなた様なら、領地の民を想うように、同じように兵のことを考えていただけるのではないかと思いました」

 小町が口を閉じると、コーエン卿はようやくして、この娘の言い分を認めたのである。

「感服いたした、コマチ殿。殿下が何を問えと仰りたかったのか、そちらもようやく分かった。貴殿と違ってようやっとではあるがな」

 苦い決断を振り返っているのに、総軍の指揮をとる辺境伯は勇ましく頷き、小町の横で野営地を見下ろして言うのだ。

「なるほど、御仁が小言を言いたくなるのも分からんでもないところになった。私はもう少し、頭の中身を柔軟にせねばならんのやもしれんな」


 ◇◇◇◇◇◇


 その頃、小町が想いをはせた家族は、エインズワース家の一室でこんなやり取りを展開していた。夜食を届けにきた小町付の執事と、小町の婚約者であるケヴィンによるものだ。

「あいも変わらずですね」

「ああ、起きてくれないよ。傷も増えたり減ったりを繰り返してる」

 配膳されたチーズを口に放り込み、ケヴィンは嘆息して最愛の眠り姫の唇を眺めやった。またそこに、噛み傷が開いているのだ。

 それから今しがた執事が通ってきた扉に目を向け、小町の執事に問いかける。

「アリッサはどう? こっちに来ないんだ」

 小町の義理の姉、アリッサの様子を問うたのである。彼女はずっと、向こう側の部屋で待っているのだ。この部屋の主が目を開けてくれるのを、ずっと待っている。

「ずいぶん……お疲れのようです。グレゴリー様をお招きしてみようかと考えておりました。いくらか気分が晴れるのではないかと思いまして」

 グレゴリーとは、ケヴィンの親友でありアリッサの友人――スリージーの本名である。執事はそのスリージーを招き、アリッサの話し相手になってもらおうかと、相談を持ち掛けたのだ。

「いい案だよ、フレッド。あのままで待つより、ずっといいと思う。僕が呼んでみようか? アリッサのためなら飛んでくるはずだからね」

 晴れ渡った空のような爽やかな笑みを返したケヴィンであるが、その笑みも、どこかいつもと違って見えるのは、きっとこの執事だけではない。

 みなが心労を隠していた。むろんフレデリックも。

「アリッサお嬢様は意固地な面がありますから、ケヴィン様が呼んだと分かると、余計なことをしてとツンデレで返してくるのではないでしょうか。ご本人が直接グレゴリー様に会いたくなるよう、それとなく仕向けてみようかと思っています」

「ははっ、フレッド、それがいいよ。彼女は本当にツンデレだからね。それじゃあ、その件は君に任せておくか」

「そうなさってください、ケヴィン様」

 頷くケヴィンに対し、フレデリックは一礼してみせ、退室しようと踵を返した。するとそこで、いつになく声音を落とし、ケヴィンが問うのだ。

「伯爵は……エインズワース伯爵は、まだ……動かないのかな……?」

 消沈しきった問いかけだった。小町をこのまま眠らせておくのかと問いたいのである。一刻もはやく、彼女を受け入れてくれる医療施設を決めてほしい。そんな想いが含まれていた。

「そろそろかと思いますが」

「うん……そうだろうと僕も思ってるんだけどね。……できるだけ早くと、君からも伝えておいてほしいんだ」

「わかりました、重ねて申し上げておきます」

 フレデリックは鷹揚に頷いた。

 侍医を含めた話し合いは、既に何度も重ねており、その都度フレデリックは急いでくれと主張し続けていた。何しろ彼の主人は、目に見えて痩せていくのだ。たったの一週間足らずで……

 必要最低限の栄養は点滴で与えてあるというのに、彼女の痩せ方は尋常でないとしか言いようがなかった。そればかりか、覚えのない痣や傷が、増えたり減ったりを繰り返している。

 侍医も首をかしげるばかりで、もともと細身の体が一日一日と痩せ衰えていくのが目に見えて分かり、それはいつしか、ケヴィンとフレデリックに恐怖を与えるようになっていた。

 もしや明日は……二日後は……呼吸さえ困難になっているのではないか。

 二人からすれば、藁にも縋る想いで伯爵の決断を待っていた。

 退室したフレデリックは、その足で屋敷の外へ向かうと、周囲が無人であるのを確認したのち、石造りの壁によりかかってフーっと長く嘆息した。そうしてズボンをまさぐり、折りたたんだ紙を引っ張り出して目を通し始めた。

 実のところ、小町の受け入れ先は絞り込まれていた。候補は二つあったが、そのうちの一つに脳外科の権威と呼ばれる医師がおり、伯爵はその医師への受け入れを要請している。現状は、多忙な医師からの返答を待っている段で、決定するまでは他言無用となってある。そのため、ケヴィンやアリッサには知らされず、この件を知るのは、伯爵と夫人、執事頭のイーノクと、小町の執事であるフレデリックの四名となっていた。

 じりじりと待つ間、フレデリックは、この医療センターについて、これでもかと調べてみたが、そこでふと、小町の実母の入院先が同じセンターではなかったかと思い至った。当時は別の名だったが、確か、このセンターだったと記憶している。

 いま彼が目を通しているのは、小町が幼い頃に一時的に身を置いていた擁護施設から、苦心して取り寄せた資料の一枚である。そこには、彼女が施設に引き取られた理由が記載されており、両親との死別の経緯についても書かれてあった。

 何度見ても間違いはなく、フレデリックの記憶どおりだった。

 小町の実母は、その医療センターへ向かう途中、車を運転していた夫と共に事故にあい、死亡したと記されてある。どのような理由があって向かっていたのかは不明ながら、たしか伯爵から、検査入院ではなかったかと、そんな話を何年も前に聞いた気がする……

 胸元からおもむろにタバコを取り出したフレデリックは、薄い唇に挟んでシュッと火をつけた。紅く光る先端がジジジと焼け付く音を立てる。

「検査、か」

 小町の入院理由についても、おそらく、“検査のため”、となるはず。妙に……符号のようなものを感じる。

 施設から届いた書類を目にしてからというもの、この符号について考え続け、不吉な予感を隠し続けていた。

 イーノクに――自分の父に……相談すべきか……

 いや、まずは――

「調べてみるか」

 小町の実母の入院理由についてを。

 入院者のリストをあたり、実母の氏名から主治医を割り出してみようか。もしも主治医の氏名が、権威と名高い医師のものと同じなら……

 自分の予感は……

 指先でタバコを遊ばせながら思案にくれ、フレデリックは一つ決心すると、再び口にくわえて吸い込んだ。長かったタバコは、すっかり短くなっていた。

「いいかげん……起きてくれませんか……」

 愚痴なのか呼びかけなのか、彼の言葉は白く濁った煙と混ざりあい、星のない闇夜に吐き出されていった。

ご覧いただきありがとうございます。

第76話『氏名と身分』はいかがでしたでしょうか。

楽しんでいただけたでしょうか。


82話まで先走りすぎて困っている作者でございます。

ここらへんでちゃんと形にしておこうと考え、執筆済みの話をチェックしている次第でござる。

ある程度、追い付けるぐらいまでやっときますね。


では、次話の予告を。

第77話『怒りと暴走』ですが、サブタイトルどおり、いろんな人物が暴走ぎみです。

どいつもこいつも……

という嬉しい悩みのまま書いた話ですので、うまくまとまるか不安。


それでは、次話でお会いしましょう。

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