第69話 帰城
堅牢な城門の上に白い大鷹が腰を据えていた。
「出迎えだ、パリス!」
ランバートが叫べば、大鷹は嬉しそうに高く鳴き、両翼を広げて大きく羽ばたいた。頭上スレスレを低く飛びながら、主人の元へ一直線に滑空する。
見るがいい、この見事な翼を――
まるで、そう言っているかのような迫力の滑空である。
出された腕に舞い降りたイーダは、宿主の肩を嘴でつつき、愛する主人を出迎えた。餌をくれる愛すべき主人だ。
「戻りました、イーダ」
白い胸元を撫で、パリスはあらかじめ構えておいた兎の肉を与えるのである。何とも愛おしげな表情だ。
その一方、先頭で城門をくぐったランバートは、待機している馬丁達の中に、ある男を見つけて驚いていた。パリスの補佐官、ゲイリー・ホセである。
補佐官の出迎えが珍しかったのだ。出迎え不要と教育されているにも関わらず、わざわざ出てきている。もっぱら処務に努める補佐官であるのに。
パリスにしてみれば男になど出迎えられても嬉しいはずもなく、イーダがいれば十分だと言うのだ。それがなぜ、今日に限って出迎えなど……
「どうした、ホセ。急ぎか?」
愛馬から降りながら尋ねた。すかさず待ち構えていた馬丁が手綱を引いて行く。
「はい、レイゼン殿」
「パリスにか?」
問えば、ランバートとパリスの両人にだと言うではないか。
「殿下宛ての書状が届きました。王都からですので、急ぎお報せした方がいいかと思いまして」
王都からだと?
訝ったその時、ちょうどパリスも城門を抜けてきた。ホセを見て驚き、眉間を寄せるランバートを見るや、直ぐさま馬を降りてくる。
「何事です」
「王都から書状だ。それもディクシード宛てだとよ」
「こちらを――」
書状を引ったくったパリスは、裏返して蝋印を確かめた。確かに王都の蝋印である。
これも非常に珍しい事だった。なぜなら、ディクシードに関する王都の指示は、全てパリスに届くようになっているからだ。直接本人というのは……
二人して嫌な予感がし、ついつい顔を見合わせてしまったが、パリスは直ぐに取り繕うのである。
「ホセ、ワーナーから連絡はありましたか?」
「先ほどこれが届きました」
今度は折りたたまれた紙切れである。
「結構。あなたも引き続き、例の男の足跡を当たって下さい」
「分かりました」
矢継ぎ早な指示を受け、ホセはしかと了承した。そうしておいて、もう一つ渡すべき物を出して見せる。それは、小町の部屋に取り付けた鍵だった。
従来なら侍女が使用するための続き部屋。そんな所に鍵など無用なのだが、主君の指示で取り付けたのだ。なぜ必要なのかとパリスは問うたが、主君の回答は得られなかった。
「御苦労でした、ホセ。イーダをお願いします」
「はい」
補佐官の男は慣れた仕草で大鷹を肩に乗せ、城内に消えて行った。
パリスの手元に残るは、王都の書状と、ワーナーからの紙切れとなる。さてさて、どちらが先だろうか。
ランバートが眺める中、パリスがまず開いたのは、ワーナーからの紙切れだった。
パトリック・ワーナー。彼もまたパリスの補佐官を勤める男だ。主にパリスは、城内の処務をホセに、城外にはワーナーという形で指示を出すのである。補佐官は複数いるが、この二人を筆頭にする態勢となっている。
おそらく、ホセとワーナーの両者には同じ指示を与えているはず。
「例の男ってのは誰だよ?」
見当をつけて尋ねたランバートに対して、パリスは紙切れに目を通しながらビルコ・ヘーゼルだと答えた。
「窃盗団のあの青年ですよ」
窃盗団だと? ミゴーで捕らえたあいつか?
脳裏に浮かぶのは頼りなげな若造の顔だ。間者として泳がせる事になったあの若者である。
建国の騎士の一人――ビルコという名を親にもらっておきながら、その道から大きく逸れた親不孝者。
「リディオの言う“寝返りの寝返り”の件ですよ。可能性を潰せるなら早いに越した事はありませんからね。ワーナーにも素姓を調べるよう、シナに向かわせておきました。何か掴んでくるでしょうから」
「……心当たりでもあるのかよ?」
「心当たりと言うほどのものでは……。大学を辞めた経緯に何かしらあると見ています」
「金がらみかね?」
何となくそんな気がして尋ねてみれば、パリスは満足そうに頷いて言うのだ。お前はやはりバカではないと。
「察しの通り、金が絡んでいます。おそらくそれも家族絡みの金でしょうね」
「あ? 家族絡みだと?」
「士官学校に送り出すには、それなりに金をかけなければできません。ビルコの名が示すように、親が子に期待する環境で育っている若者です。辞めた理由が分かれば弱みとして使えるはず」
「……………………」
「そんな目で見ても無駄ですよ。汚い手でも使いますから」
予想通りの答えだったため、小言は控えておいたランバートである。
例え家族が弱みとなっても、この男は飛びついて使う性分なのだ。少しでもディクシードが絡めば手を抜くはずもなかった。
「んで、ワーナーは何だって?」
「金とは別に引っ掛かる事を書いてありますね。シナの自警団へは、ある騎士の紹介で入団したそうです」
「はっ? 大学からの紹介じゃねぇのか?」
「ええ、奇妙ですね。姓は追って報せるとありますが、“ジェトラー”と呼ばれる騎士だと言う事です。これもまた引っ掛かる。ありきたりな名だ」
ビルコ・エストレージア。そして、ジェトラー・クラウビオ。
ともに建国の騎士として広く知られており、英雄にあやかって、その名を子に与えたがる親は多くいる。ビルコの名を持つ男も、ジェトラーを名乗る男もごまんといるのである。むろん騎士の中にも多い。
姓がはっきりしないと何とも言えないが、怪しい事この上ない。
「偶然だと思うか?」
「ビルコ・ヘーゼルに関しては本名でしょう。大学の経歴が残っていますからね。ですが、“ジェトラー”の方は通り名として使っている可能性もあります。……あの若者が今のところの手掛かりである以上、詳細を調べる必要がありそうですね」
「異論はねぇな。俺も当たってみるか?」
「あなたには“騎士のジェトラー”をお願いしようと思います。姓が分かれば報せますので、そのおつもりで。まともな騎士ではない可能性もありますし」
「……………………」
まともじゃない人間はランバートの担当だと言っているようなものだった。
下町の――それも、ゴロつき上がりだと自覚しているランバートだが、誰よりもまともだと自負している。が、ここはひとまず文句を呑み込んでおいた。気掛かりな問題が残っているからだ。
当然、王都の書状である。
不服ながらも互いに結論に達した事で、残る問題は書状だけとなった。今の所こちらの方が大問題。急務だ。
「開ける前に聞いておきてぇんだがな。その書状にこそ心当たりがあるんじぇねぇのか?」
どこか不穏げな物言いにパリスは封から目を離し、ランバートを見やった。睨め付けている。
何を疑っているのか見当はついていた。小町の存在を王都に報せたのではないのかと言いたいのだ。
「生憎ですが、私ではありませんよ」
「…………」
これは事実である。食わせ者だと自覚しているが、今は本当のことを言っている。この書状に小町の名があったとしても、それは決して自分ではない。
しかしながら相棒は不審げな目を向けたままである。信用ならないと言うのだ。溜め息を吐くしかなかった。
「正直、昨晩までは走る気でいましたが、あの娘に先手を打たれたおかげで休戦協定に乗らざるを得なくなりました。王都への報告書でさえ御仁のせいで出せずにいます」
「…………」
「いいですか、ランバート。あなたは知らないでしょうが、昨晩はあれからずっと、御仁の酒に付き合っていました。あのタヌキの部屋から一歩たりとも出ていません。あなたが兵舎に戻りグッスリ就寝している間も、私はタヌキに見張られていたわけです。報告書を書く暇もない。まったくもってあの娘と殿下にしてやられたのですよ」
嫌々ながら事実を話せば、ランバートは訝りながらも信じてやると威圧的に返してきた。パリスの性分からして、負け話をするのは珍しいからだ。
一応、事実だと思ってやる、という程度ではあるが。
「じゃあ何か? テメェも心当たりはねぇんだな?」
「コマチを取り込みたいのは究極の本心です。王都の干渉は私も避けたいところとなった」
「……嫌な予感しかしねぇんだがな」
「そういう予感はあたるものです」
嫌な予感とは一つしかない。
詰まるところ、王都への召集命令である。
パリスを介さない主君への書状は決まってそうなのだ。
「開けてみましょう」
「ああ、開けてくれ。神に祈る」
二人の願望は共に同じものだ。
小町の件はあるものの、何よりも王都には出向きたくない。職務外の個人的な感情だ。
「…………」
「…………」
共に書状を覗き込み、眉間を寄せる結果になった。
やはりだ。やはり召集命令だった。
ランバートの祈りは神に届かなかったのである。口から大量の空気が出て行ってしまう。
「ヘインズに報せねばなりませんね」
「クソッ、タヌキめ。……長期滞在かよ」
「そうなるでしょう」
御仁の長期滞在が確定した瞬間だった。
◇◇◇◇◇◇
額から冷たい何かが流れ込んでくる。まどろみの中にいた小町は薄目をあけた。
「……Mum……?」
「生憎と、お前の母親ではない」
ディクシードの声だ。
驚いて瞬けば、ぼやけた輪郭が彼の形に定まっていく。
近い……
「夢でも見ていたのか」
しばらく考え頷いて見せる。
父と母が居た。とても……懐かしい夢だった。
「思い出せたのか、母の顔を」
「…………」
今度は力なく首を振った。
夢では見えていたはずなのに、現実になった途端スモークがかかり、母の顔だけが思い出せなくなる。父の顔は鮮明なのに。
唯一、母の思い出として残っているのが、二人の馴れ初めのストーリーなのだ。それが小町の中の母だった。
「ここは……お城?」
「そうだ」
眠気を追い払い、マリーの様子を問いながら小町も立ち上がる。出された手を取っても毛布は忘れなかった。
「無事だ。オズイクを残してある」
「……ガッセが一緒ならマリーも安心ね。良かった」
「お前に礼を言っていた。胡蝶もラドロフもだ」
「司教も?」
「討伐では必ず護れと言われている。無事に戻り、聖堂に連れて来いと」
「……そう……機会があればお会いしたいとは思ってたけど……」
「そうか」
ディクシードが一目置いている人だ。ダリアの信頼を勝ち取っている人。きっと素晴らしい人に違いない。話してみたいと思う。
「それで、ここはどこ? 私の部屋じゃないみたいだけど」
「浴場だ」
浴場? という事は、ここは脱衣場?
言われてみればそんな感じた。高価そうな棚や、ゆったり座れるカウチもある。隅にはドレッサーも。きっと衝立の向こうが浴場なのだ。
輸送してくれた事に礼を言っておいた。もろもろの礼も含めて。
「さっさと脱げ」
「は?」
「脱げと言っている。湯につかって毒を流してこい」
毒……
そうだ、毒だ!
「その事だけど、聞きたい事があって」
「後だ。毒を流してからにしろ」
「でも――」
「言っておくが私にも小言がある。ないと思っているなら考えを改めろ。ここで聞きたいのか」
「…………」
睨みつけたが相変わらずの無表情だった。引く気はないようだ。
「分かった、後ね。流してくる」
「ならば早く脱げ。介添えがいるなら――」
「いりませんっっ!」
どうせ脱ぐまで出て行く気はないのだ。向こうで脱げばいい。
フンっと踵を返して衝立に向かい、途中、ディクシードを振り返った。
「ダメ。やっぱり聞いておかなきゃ」
「後だと言ったはずだ」
「先よ、ディックス。大事なことだわ。それに、湯船の中でじっくり考えたいの」
断じて動くものかと頑として言い切れば、彼は黙って促した。早くしろと態度が語っている。
「ランバートも毒だと言っていたわ。大げさだと言い返したけど……もし、私の価値観が間違ってるなら……そんな風に言った事を謝らなくちゃいけない」
「…………」
「毒っていうのは……汚水ということね? 違う?」
水が毒だと聞いた時から、ヘインズとの攻防が引っ掛かっていた。馬小屋で部下達を遠ざけた彼と、一進一退の攻防をしたのだ。水に関する攻防である。
ヘインズは身構えないでくれと言いながらも引く気などなく、こんな提案をしてきた。
――なぜ隠すとは問いません、コマチ殿。いろいろと思う所がおありのようですからね。ですが私も、この件に関しては知っておきたいのです。御仁の志のために。
――互いに、これは知っておきたいと思うものを一問ずつというのはどうでしょう? 一問一答を、交互に。
御仁の水への懸念というものは理解できていたし、その想いの深さは胸を打たれるものがあった。御仁が目指すものは民の安寧だと理解もできていた。
米の流通、自警団の組織化、水への懸念。城外で知り得た御仁の功績は、全てがそこに基づいているのだ。
そんな志を前にして、小町としても出し惜しみするのもどうかと思ったが、イギリスという国がこの世界にないという終着点に行きつかれても困る。できるなら疑惑も抱かれたくなかった。
しばらく葛藤し、結果、彼の提案を呑んだ。もちろん自分の知識には限界があると釘を刺し、ヘインズの承諾を得た上での駆け引きとした。
小町が問うたのは浄化の石についてだ。資源ある鉱石ではなく、ベースは対価の石だという事を知り、発案者が御仁だという事も知った。まさかと思っていたが、外れてはいなかったというわけだ。
対価の石には様々な効果を持たせる事ができるようだった。おそらく、石を管理する王都と国守が絡んでいるはずだが、一問一答に基づき、深くは切り込まなかった。
浴室にある温石も同じ理屈かと問い、あちらは違うと回答を得た。ヘインズからすれば、資源ある鉱石の括りらしい。
数度繰り返した問答で小町が得られた情報はその程度だ。
かたやヘインズの問うてきた内容は、水は水でも“上の水”ではなく、“下の水”についてだった。つまり、下水について。
――水の区別があると仰っていましたが、汚れた水という存在が前提にあっての話ですね、コマチ殿。
さすがに彼は、部下達とは目の付けどころが違っていた。指摘通り、汚水の存在があるからこそ、そこで初めて飲み水の確保という問題が生じるのである。彼はそれを指摘してきたのだ。
――城でご覧になっているでしょうが、あの城は水道の設備が整っています。マルセナの主要な街にも導入が進んでいますから、今後、重点を置くべきは飲み水ではないと御仁は考えておいでです。
――かねてから分かっていた事ですが、問題は汚水なのです。浄化の石を何らかの形で利用できないかと、そこで足踏みをしているところでして……何しろあの石は無限ではありませんからね。
――コマチ殿の国は、汚水の問題をどのように対処されているのでしょうか?
これには小町も返答に窮した。下水管を通って処理場へ運ばれる事は知っているものの、そこでどうするかと聞かれても分からないのである。自国の事ながら勉強不足だった。
出し惜しみするほどの知識を持ち合わせておらず、自分の回答がマルセナ領内の民に影響を及ぼすかもしれないと怖さもあった。責任を問われても、それを負えるほどの覚悟など小町にはない。
結果、専門家ではないので……と逃げた。向き合えるわけがない。
その後は何点か汚水についてヘインズに切り込まれ、答えられる内容のみ答えておいた。自分の中で引き出せる答えは、やはり知れたものだった。情けなくも、その程度だったのだ。
「あの川には汚水が流れているんでしょう?」
「そうだ。工業区と住宅区の汚水だ」
「処理されていない水ね。水が毒だという表現は、そこに基づいているのね?」
「疫病の元凶という考えだ」
「……疫病……」
それを聞いた小町の脳裏には、かつてのイギリスを苦しめた疫病の名がチラついていた。
ペスト、コレラ、チフス……
人間の脅威となった数々の疫病。史実の解釈は人によって様々だが、人種的な大量虐殺や世界大戦といったものよりも、疫病死こそが最も多くの死者を出したと、小町はそう思っていた。
「一昔前になる。疫病の蔓延に苦しむ時代が続いていた。三十年近く前、原因の一つに汚水があるとブライバスが突き止めた」
愕然とする小町に構わず、ディクシードは続けて言った。水が一因だと判明して以来、人々は水を恐れるようになったのだと。湯浴みさえ嫌うようになり、民衆も貴族も王族も、聖職者とて水に怯えるようになった。
毒という表現はその頃から使われているのだそうだ。
「現状は改善に向かっているが、王都が宣言できるほどではない。事実、苦しむ民は未だ多くいる。ブライバスは不衛生こそが元凶だと主張し続けているが、一度浸透した恐怖は、そう簡単に拭えるものではない。民衆は決められた水を飲み、生活を守ることに必死になっている」
「…………」
「近年生まれた子とて影響を受けて育つ。疫病死の惨状を知る親は、水を毒だと言い聞かせて子を育て、それによって子を守る。毒だという思想は決して過去のものではないという事だ」
「でも……待って……お米を育ててた。詳しくは知らないけど、水が綺麗だから育つんじゃないの……?」
「黄金の田園風景は河川の上流に広がる光景だ。汚水への懸念からマルセナ領内の上流域で育てている」
「じゃあ……じゃあ、水難は? これまで水難がなかっただなんて、そんな事はないでしょう? どう対処していたの?」
水難事故は過去にあったはずだ。水路や川に人が落ちた時、いったい、どう対処していたのか。
不穏な考えが脳裏をよぎってしまう。
「浮力のある木材を投げ入れ、船が来るまで待たせておく。あるいは縄を放るかだ」
つまり、船の到着が遅ければ……弱っていく人間を……見殺しにしていた……?
船が通れない所もあるはずで……
「お前の察しの通りだ。マルセナは国内を横断する陸路の中枢にあり、海には面していない」
ランバートが言っていた。海育ちでない限り、泳げる人間などいないと。極端な解釈かもしれないが、水が毒だという思想を前提にするなら、泳げる人間は稀だと考えるべきだ。
マルセナ以外の土地でも、きっと、毒という思想は根付いているはずで……
「つまり……泳げる人はいない……」
「そうだ。木材か縄を使って助けるほかない。出来る事などせいぜいその程度だ」
「…………」
仕方がない事なのかもしれない。毒に飛び込めと誰が言えようか。それも、泳げない人に向かって。
でも……見殺しにする事が……仕方のない事……?
そんなのって……
「これで終いだ。さっさと脱げ」
突き放すようにディクシードが言った。これ以上は問答する気はないと言っているのだ。
「ダメよ、ディックス。水とは別に言っておかなきゃいけない事が――」
「後だ。脱ぐ気がないなら私が脱がそう」
本気で言っているらしく、平然と詰め寄り腕を伸ばしてくる。これには大慌てで逃げるハメになった。
「ままま待ってっ!」
「待たん」
このっ、変態め!!
「見たのよっ! マリーが川に落ちるのを夢で見たのっ!」
早口で捲し立てればディクシードはピタリと制止した。この事実がどれほど重要か察してくれたのだ。
よかった……
これだけは言っておきたかった……
確認しておきたかった……
「ビショ濡れのマリーの姿が……ずっと、頭から離れなかった」
悲しみ嘆くガッセの姿も。
「いつだ。いつ見た」
「彼女が落ちるより前よ。天幕でうたた寝をしてて……その時に」
今ならハッキリ思い出せる。経緯の全てを。
「ガッセとマリーは、川岸で子供たちと遊んでいたの。石投げで誰が一番遠くまで届くか、競ってるみたいだった。それで……マーチが先に落ちて……助けようとして、マリーも足を滑らせてしまった」
「…………」
「マーチを助けたのはマリーよ。夢の中ではそうだったわ。現実はどうなの?」
「……………………」
「経緯なら報告を受けてるでしょう? あなたが聞いた内容と私の夢が同じかどうか……確認しておく必要があるの」
問うても返事はなかった。じっと小町を見ているだけだ。
催促するように名を呼び、そこで初めて認めてくれた。
同じ内容だったと。
「だったら、あの夢は……予知夢ね。あなたが言っていたこと……理解できた気がする」
――訪れるはずの先を読み、ここにない今を覗き、終わったはずの過去を見る。
幼い頃の小町は、この世界でディクシードと共に過ごし、彼の過去を見ていた。その話をした時、彼が言っていた言葉だ。
実感はなかったけれど、今を覗くというのは、あちらの世界を見ている状態を指しているのだと、そんな気がしていた。
今日……天幕で、未来を見た。
ならば、昨夜見た夢は過去だと考えるべきだ。
黒髪の少年は……
ディクシード。あなただ。
自分は、何者なのだろうか……
やはり魔女なのだろうか……
足元が崩れて行くような恐怖が顔を出していた。
「それともう一つ……川の流れが急に止まったの。おかげで泳ぎ着けた。すごく冷たかったけど……あのおかげで泳ぎ着けたわ。あれは……あなた?」
「…………」
やはり返答はなかった。でもたぶん、彼の仕業。
嘘をつかない彼の沈黙の肯定。
「ありがとう、ディックス。いろいろと」
「…………」
「聞いてスッキリしたから、毒を流してくるわね。ずっと見張ってるつもりなの?」
精一杯の強がりを口にした。できるだけ明るい口調を務めて。
エメラルドの瞳に心の底を見透かされている気がして、逃れる為に強がって見せたのだ。
怖い……
ただただ怖い……
自分は人だと言い切れない恐怖。得体の知れないものに近付きつつある恐怖。
そして、狂気。やらかしてしまいそうな、危ない考え方。目にものを見せてやると思える狂気。
恐怖と狂気が小町の中にある。渦巻いている。
ディクシードには知られたくなかった。
彼を煩わせる存在にはなりたくない。
「自室まで戻れるかのか」
ここは初めてだと答えておいた。夜な夜な徘徊していたが、この浴場は初めてだった。
何とかして戻るつもりだと告げると、表に兵を立たせておくと返ってきた。案内を頼めと言うのだ。
「自室に戻ったら燃料だ。引っ張り出しておけ」
「ええ、分かった」
燃料の懸念は……
結局残ったままだ。
大丈夫だろうと曖昧な憶測は出来ても、確信には至らなかったのだ。いかなる状況下でも対応できるように、あちらの世界から取り出すという結論に至っている。
しかと頷いて見せたのに、ディクシードは動かない。
「…………」
無機質な瞳に、大丈夫かと問われているような気がした。
「平気よ、ディックス。私なら大丈夫」
言いながら彼の手を取り、両手でギュッと握る。
「たまに借りるから……だから、大丈夫」
こうやって、あなたの手を借りるから。
揺れそうになったら……
支えになって。
「いつでも貸そう。届く限り、いつでも」
引き寄せられても抵抗なんてしない。しようとも思わない。
ここは唯一、小町が落ち付ける場所だ。
いつも通り冷たく、それでいて落ち着ける腕だ。
落ち着けるのに……
落ち着けているのに……
それなのに体が……
「震えるな」
彼はそう言って、きつく抱きしめてくれた。
◇◇◇◇◇◇
回廊に佇んだパリスは、浴場の扉が開くのを今か今かと待っていた。当然ながら、待ち人は主君である。例の書状やら何やらの件を話しておかなければならなかった。
しばらくして、ようやくディクシードが顔を出した。
「殿下、こちらを」
「…………」
差し出したのは二本の鍵である。
「続き部屋のものです。施工は滞りなく終えたと聞いています。こちらの指示通り、鍵も二本のみ作ったと鍵師から連絡がありました」
「…………」
受け取ったディクシードは、その鍵を眺めながら、裏は取ったのかと問うた。鍵師の証言に裏付けを求めたのである。
問われるかもしれないと、そちらも抜かりなくワーナーに指示を与えておいたパリスだった。
「補佐官が立ち合いましたので、二本というのは間違いありません」
「そうか」
一つは小町のもの。一つはディクシードのもの。計二本。
それ以外に予備もなく、予備を作るなと言うのが主君の指示だった。堅苦しい主君の性質を思えば納得だが、いささか行きすぎた指示内容でもある。
なぜか。なぜなのか。
続き部屋で何をするつもりなのか。
何を隠す為に、これほど頑なな指示を出したのか。
「それから、こちらが王都から届いておりました」
書状を見せれば、ディクシードはわずかに目を細めていた。珍しくも表情を変えたのである。
手にしたそれを見下ろして言う。
「召集か」
「はい」
王都と聞いた時点で見当をつけていたはず。それ以外に書状は届かないのだから。
書状内容は、国内の魔物を一掃せよと命じるものだった。それに合わせて王都に顔を出せと書いてある。出陣の日取りを検討するとあるが、ディクシードの召集日は本日から三日後だった。
さらには、出陣は一週間後が望ましいとさえ記されていた。
明日の討伐を知っていながら暇もなく出陣せよと言うのだ。それも、国内の魔物を一掃するほどの大仕事を、たったの一週間で準備し、出陣させろと。
パリスが要点を伝える間も、ディクシードはじっと耳を傾けるだけだった。
「書状内の全ての要求に否と返すつもりです。討伐地の把握は視察でほぼ終えていますが、被害の大小については比較に至っておりません。どれほどの兵が集い、どの地から向かうべきか検討する必要があります」
検討すべき事柄はそれだけではない。
討伐地が決まれば支援を受けられる町村を選別し、兵の道を確保しなければならない。物資の調達やら衛生品の手配、拠点地となる町村に野戦病院がない場合、仮設も必要となる。他にも山積みの事案を抱える事になるのだ。
相手は魔物、他国の侵攻軍ではない。ましてや小物退治とはわけが違う。掻き集めの兵で出陣するなどと、よほどの緊急事態でない限り有り得ないのだ。
兵の被害及び、民衆への不安材料をできうる限り考慮しなければ、不安が膨らめば内戦の火種になりかねない。既に魔物による被害は増しており、動かない王都に対して民の不満はくすぶっているのが現状だ。不安視する声は騎士の中にも広がりつつある。
命令通り国内の魔物全てを対象とするなら、二か月を要して入念に準備する必要がある。要人達を集い、会議を重ねなければならない。
仮に最初の討伐地に向かいながら次の地を検討するとしても、いくら早くとも一月は必要になるだろう。
それを、たったの一週間というのは……
無謀というもの。
内戦への懸念など、王都の連中は考えもしないのである。第一王子がいるなら、力で抑えつければいいと高を括っている。
ランバートは阿呆どもめと吐き捨てていたが、それも同意の書状内容だった。
「返答はお前に任せる。阿呆に拍車がかかったかと皮肉っておけ」
「分かりました」
ディクシードは内容を読みもせず、書状を突き返した。
主君の信頼を得ているとパリスが自負できるのは、こういった所からきていた。全幅の信頼とはいかずとも、王都とパリスの関係を主君が訝る事は一度もなかった。忠誠を誓ってから、これまで一度もない。
引いては、主君への忠義を疑われていない証。本物だと認められている自負だ。
今のパリスに誇れるものは、その自負しかない。それだけで十分だった。
「ですが、殿下。この書状は読まれておいた方がいいかと思いますが」
「どういう意味だ」
「ご覧になれば分かります」
そう言って封を開け、羊皮紙を手渡してやる。
上から順に主君の目が文字を追い、パリスは黙って待っていた。その時が来るのをじりじりと待つ。
内容は伝えてある通りだが、問題の一文は最後に綴られている。
ほどなくして主君の目がそこに到達したのが分かった。案の定、緑の瞳に冷徹な光が宿る。
血のような赤みが広がって行くのだ。
“国守の客人に謁見を望む。揃って参上せよ”
小町を連れて来いと、そう記されていた。
三日後、ディクシードの召集日に連れて来いと。
「貴様か、パリス」
主君の冷気がパリスの喉を鷲掴んでいた。既に生気を解放して身構えていたパリスは、真っ直ぐに主君を見返し、否と答えた。
疑われる事など承知しており、不本意だとも思わない。むしろ抜け目のない主君ならば、必ず訝ると踏んでいた。
それでこそ我が主君だ。
「私は何も……昨晩は御仁のおかげでいっさい動けませんでしたので……私ではありません、殿下」
事実を述べたが、その目はパリスに据えられたままだ。
もはや赤黒く染まった目を見返す他ない。
血よりも黒く、それでいて透き通る赤い瞳。怒りに燃えた目だ。
おぞましくも妖しく、美しい光彩を放つ。
「ならばボルコフか」
「一概には言えませんが……おそらく」
風聞の可能性はある。小町がディクシードの寵姫だと噂になり、既に数日が経っている。当然と言えば当然だ。
かといって、根も葉もない流言で王都が動くことはない。常ならばパリスに真偽を確かめるはずだが、そういった書状は今現在届いていない。
よって、怪しむべきはボルコフという結論になる。
パリスへの腹いせに小町の存在を王都に報せるなどと、いかにもあの男が考えそうなことだ。ボルコフ当人でないとしても、あちら側の阿呆どもの誰かだろう。他に考えられる人間はいないのだから。
「先だって申し上げたように、書状内容の全てに、否と返答します。コマチの召集に関しても然り」
「…………」
「もはや王都に報せるつもりはありません。……誓って」
内心を見透かそうとする主君の瞳。そこから、次第に赤みが引いていくのがわかった。同時に喉元の冷気も薄れていく。
嫌疑が晴れたのだ……
少なくとも、ディクシードの怒りは収まった。
ボルコフの件はパリスの不始末だと自覚があるため、あの男の処遇を問うまでもなく、自分で片を付けるつもりでいた。
どのみち抹消する予定の老兵だ。オーディリック家の話まで持ち出すような目障りな男。これ以上チョロチョロするなら、機を見て始末してやる。
「コマチには伏せておくのですか?」
「あれは国に帰す。幾度も言わせるな」
伏せておけ、か。
「では、ランバートで留めます」
近衛に知れ渡る事はない。ランバートも心得ており、話したとしても副官のリディオまでだ。特に問題はない。
ヘインズには既に報せていたが、御仁で留めておけと言伝てある。要人達にも報せるなと。
よってこの召集の件は、六名で留める事になるのだ。主君とパリス、ランバートとリディオ、そしてヘインズと御仁の六名である。
明日の討伐を目前にした今、兵の不安を煽る必要などないと、パリスもそう思っていた。討伐後の会議で明らかにすればいい。
肩の力が抜けたパリスは、歩き去る主君の背を見送りながら、自分もまた準備の為に自室へ戻ろうと考えていた。
その時、たまたま目撃する事になった。常ならざる主君の行動を……
ディクシードのその手が、王都の書状を握り潰したのだ。
グシャリと。




