第68話 彼女の夢
チクチク、ヒリヒリ……
そんな感覚が足を伝い、小町の意識は中途半端に覚醒していた。かなり眠いのに、寝ていたのに、眠れない。そんな状態である。
ダリアとコリーヌが手当てしてくれている。岩場で騒動した時、水流に押されてあちこち足をぶつけたから、きっと傷だらけに違いなかった。
こういった傷には、たいていの場合、妙な物が付着するのである。経験上、よくよく承知している。
バイクで転倒すれば砂利や土が。海水浴だと砂。岩場で素潜りを楽しめば貝殻だったりのりだったり、その一部が傷口に付着し、皮膚の下に入ってしまう。傷とはそういうものだ。
早めの処置が一番だという事も分かっているけれど、とにかく眠かった。かといって寝かせてくれと彼女達に頼むつもりもない。好意を無駄にするのが嫌で寝たふりを続けている次第だ。
馬車の外には胡蝶達もおり、開いた扉から話し声が聞こえていた。皆で来てくれている。心配して。
手当て自体に彼女達の好意が詰まっているのだ。
「手慣れたものね、感心しちゃう」
そう言ったのはコリーヌで、ダリアの手元を覗き込んでいた。影を作るなと注意をされても、怖いもの見たさもあって度々覗き込み、叱られてしょげてしまう。
そんな彼女を見て、ダリアは呆れながらも可笑しそうに笑うのである。
「困った子ね、コリーヌ」
「だって……」
「異物は取れたわ。あとは消毒をして包帯を巻けばお終いよ。一人でもできるから、あなたも皆の所へ戻りなさい」
「でも――」
「これでも従軍看護婦を目指していたの。多少の心得はあるのよ。心配しないで」
「…………」
「さあ、行って。皆でマリーの様子を見てきてちょうだい」
「……分かったわ、ダリア」
渋々と言った風で返事をし、コリーヌは静かに馬車を降りて行った。扉の閉まる音が響く。
車内は静まり返り、包帯が擦れる音だけとなった。胡蝶達の声も遠ざかって行く。
しばらく経った頃、ダリアが言った。
「起きているのでしょう?」
「……えっと……ちょっとだけ……」
しどろもどろで答えると、クスクス笑った彼女は、静かになったから少しは眠れそうかと問うてくる。小町を気遣い、胡蝶達を遠ざけてくれたのだ。
「ありがとう、ダリア。手当てとか……もろもろ。ずっと、私を護ってくれていたもの」
彼女にはたくさん助けてもらっていた。様々なことを教えてもらい、それが知識になった。
何よりも大きいのは、民衆の標的にならないよう、胡蝶達を使って護ってくれていた事だ。妬みや皮肉から遠ざけてくれたのだ。近付いた時はさりげなく間に入り、クッション材になってくれた。何度も。
呑気にお喋りやダンスができたのは、彼女がいてくれたおかげだと思っている。胡蝶達に気に入ってもらえたのも、きっと彼女のおかげ。
「察しのいい子ね、あなたは。いいのよ、気にしないで。蝶を護るのは花の役目でもあるの」
「…………」
「情婦と噂になった子がどんな誹謗中傷を受けるのか知っているわ。どれほど世間から嫌われてしまうのか、あたし自身も経験している。違うと否定しても誰も耳を貸してくれなかった。世の中は残忍なのよ」
「…………」
「それにね、あなたは、あたしの胡蝶を助けてくれたもの。あたしの大事な家族を……。だから、手当てはお礼だと思ってちょうだい。これじゃ足りないくらい、とても感謝しているの」
彼女にとって、胡蝶は家族なのだ。マリーも、他の胡蝶も。
それにきっと、料理婦達も家族だと言うのだろう。
「彼女……具合は? お医者様は何て?」
「安静にしていれば問題ないそうよ。毒の影響も吐き気だけで、それも直に治まるそうだし、怪我の処置も終えたわ。でもやっぱり……傷痕は残ってしまうそうなの」
「…………」
「そんな顔をしないで。命には代えられないものだもの。助かった事に感謝しなくてはね」
諭すような口調だった。ダリア自身をも諭すような。
その通りだと思う。何よりも命が大事だ。助かって良かったと考えるべきだ。
「今はね、ガサンがついているのよ。片時も離れたくないみたいで、ずっと付きっきり。落ち着くまで付き添えるようにパリスにもお願いしておくから、安心してちょうだい」
「……ええ、分かった」
蘇生術を施している時のガッセの様子を思い出す。どれほどマリーを愛しているのか察せられるというものだ。心の底から愛しているのだ、彼女を。
付きっきりで看病する姿が容易に想像できた。懸命に尽くしているはず。
夕刻の予定やら何やら、近衛騎士の彼にはみっちりと予定が詰まっているけれど、パリスとて狭量ではない。討伐までに戻るという条件で、付き添いを許可してくれるだろう。ランバートだって、それにディクシードだって、絶対に許してくれる。
「もう少しで終わるから辛抱してちょうだいね。ゆっくり眠れるといいけど」
「大丈夫よ、ダリア。ありがとう」
眠気はある。うつらうつらする感覚は心地がいい。ダリアがいるこの空間も好き。
静かで……
暖かくて……
大好きだ。
「……従軍看護婦を、目指していたの……?」
さっきの話が気になって、率直に尋ねてみた。意外だと思ってしまったから……
従軍看護婦というのは、軍に追随する看護婦の呼称である。戦地や野戦病院等で医療を施す女性のこと。むろん危険が伴い、命の保証もない。その程度のことなら小町にも分かる。
ただ、彼女が目指していたというのは意外だった。彼女は情婦なのに……
偏見だと言われても意外だったのだ。
「聞こえていたかしら?」
「……起きてたから……」
「……そう……」
聞くべきじゃなかったんだろうな。無神経だった。
小町はそう思ってしまった。
「あたしもね、あなたぐらいの歳には、夢は叶うものだと思っていたのよ。努力をすれば必ず叶うと期待ばかり抱いていたわ。……実を言うと、今でも諦めていないの。いい歳なのに、可笑しいでしょう?」
「ねぇ、ダリア。意外だったけど可笑しくなんてないわ。素晴らしい夢よ」
「あなたは優しい子ね。……でもね……叶わないのよ。それが現実というもので、昔から分かっていた事なのに、でもやっぱり諦められない」
――夢というのは……そういうものかもしれないわね……
そう言った彼女の声は、とても落ち着いていた。
「貴族ではないから従軍看護婦にはなれないのよ」
貴族ではないから……?
どうして? どうしてその程度の理由で職につけなくなるの?
小町が抱いた疑問に、彼女は問わずとも答えてくれた。
「マルセナはね、新しい考え方が浸透している所だけど、それでも十分じゃないの。古い思想は根強く残っているわ」
戦地を理解できるのは男だけだという偏った思想だそうだ。古くて厳格なくせ、男性ばかりに重きを置く偏った考え方。
近年になり、従軍看護婦として女性が戦地に向かう事が許されるようになったそうだが、それは、貴族階級の女性に限った事だった。人手不足を緩和する為に仕方なく許されたものであり、その根拠というのも極めて安直な発想からである。
貴族出の女なら、戦地の事情を多少なりと心得ているだろう。
そういう程度の許可だった。
「制度の問題で、あたしの力では覆るはずもないのよ。だから……夢を叶える為には……貴族階級に身を置くしかないの」
「…………」
「つまり……貴族の家の……誰かの、奥方にならなくてはね。愛人では無理。……叶わない夢だと、ずっと分かっていた事だわ」
貴族の中にも素晴らしい男性はいると彼女は言い、それでも、愛した人の妻になりたいのだと薄い笑みを浮かべていた。
誰でもいいわけではない。
心から愛している人と一緒になりたい。
情婦でも、そう思っているのだと。
彼女の話を聞き、制度に対する不満を抱いた。
だって……
人の看護に身分なんて関係ないと思うから……
医療は学んで身につくものであって、そこに身分差が関係あるとはどうしても思えない。ましてや奥方にならないと与えられない職などと、女性の尊厳を完全に無視している。
情婦だって夢を見る権利はある。将来を想い描く権利もある。叶える権利もある。
もちろん、愛した人と一緒になる権利だって当然ある。
それなのに……
「あたしにも……愛している人がいるの」
突然の告白に言葉もなく聞き入っていた。
「夢を見せてくれる人よ。叙爵も直だと言われていて、もしかしたら叶うかもしれないと思わせてくれる人。ずっと……ずっと好きで……でも届かない」
だから、夢は叶わないのだと彼女は言った。
「届きそうなのに届かないの。気付いているのに応えてくれない。……すごく……もどかしい……」
「…………」
「いっそ会えなければ楽なのに、どうしても会う機会があって……とても辛くて苦しくて……彼も、夢も、店も……全て投げ出せたら楽になるのに……。でもやっぱり、彼から離れたくなくて、期待ばかりしてしまう。自分でも困ったものだと分かっているのよ」
「…………」
「どうしてかしらね。あなたになら話してもいいと思えてしまうのは……。あの子達にも内緒の恋なのに……不思議ね」
恋だなんて歳がいがないわね、と彼女は笑う。
「ダリア――」
あまりにも切なそうで、思わず声を掛けていた。すると、その声に被さるようにして勢いよく扉が開いた。
ダリアが振り返って固まり、開けた当人も彼女を凝視したまま静止している。
「わりぃ……」
その人はそう言って扉を閉めた。扉越しに言い訳が聞こえてくる。
胡蝶達の姿がなく、てっきり手当てが済んだものだと思ったのだそうだ。同じ声が直に出立だと告げ、もう一度詫びを言って遠のいて行く。
「いいのよ……ランバート……気にしないで……」
呟いたダリアのその手が、そっと扉に添えられるのを見た。
焦がれるような、すがるような仕草だった。
◇◇◇◇◇◇
軽くノックしてみたが応答はなかった。
静かに扉を開けた御仁は、車中を覗き、やがて肩を落とした。
「眠ってしまわれたようですな、殿下」
ディクシードを振り返って告げ、ゆっくりと扉を閉める。
胡蝶達が小町の手当てをしたと聞き、まだ起きているかと急ぎ赴いてみたが、彼女はグッスリ眠っていた。規則正しい寝息を聞けば起こすには忍びなかった。
「ラドロフ殿、こたびは機会に恵まれなんだな」
苦笑してみせれば傍らの司教はガックリと項垂れてしまう。
ポル・ラドロフとは歳も近く、気心知れた旧知の仲だった。第一王子の後見人となってからは、より親しく言葉を交わすようになり、今でも食事を共にする間柄でもある。
性格が顔に出るとはよく言ったもので、人好きする老司教は民衆からも広く慕われていた。聖ぺルカストロ大聖堂の“顔”と言っても過言ではない男だ。
とはいえ、他の司教には舐められている節がある。出世欲もなく、小バカにされても気にもしない。
そんな変わり者じみた気性も好ましく思うのだ。ゆえに民に好かれるのだと。
「まことに残念です、ブライバス殿。礼を述べておきたかったのですが」
「疲れておいでなのだよ、仕方のない事やもしれん」
消沈する司教の肩をポンポンと叩いた。
ここは一つ、助けてやろうか。そんな風に思えるのは、この男が好ましいからだ。
「どうだろう、ラドロフ殿。機を改めるとして……その機を殿下に委ねてみてはな?」
チラとディクシードを一瞥して見せれば、司教は良い案だと直に食いつき、早々に詰め寄って行く。
「おお、殿下。コマチ殿に言伝を頼めましょうか?」
「聞こう」
「ではこのように。危険をかえりみず胡蝶をお救い下さったこと、まことに感謝しておりますと」
「…………」
「それから殿下には、老いぼれからの頼みが一つ。討伐後にコマチ殿をお連れになっていただきたく」
無機質な瞳が司教をとらえていたが、司教は言伝のみならず、第一王子への要望までツラツラと述べて頭を垂れてみせる。
ふてぶてしくも愛嬌のある男だった。
「傷一つつけるな、か」
「殿下であれば言うまでもありますまい。不躾な頼みだと思われますかな?」
「いや。もとよりそのつもりだ」
ディクシードの返事を聞き、老司教は満足気に頷いて言う。
「それはようございました。今宵はぐっすり眠れるというもの」
司教の隣で御仁もまた好々爺然と頷き、良かったなと旧友に声を掛けていた。
「タヌキどもが」
単調な口調でディクシードが吐き捨てるも、二人のタヌキは顔を見合わせカラカラと笑う。
「何とでも申されませ」
「タヌキとは人に好かれる生き物ですぞ、殿下」
もはや問答など無用だと思ったらしく、第一王子は早々に車に乗り込んで行った。
◇◇◇◇◇◇
「逃げたぞ」
「ええ、逃げましたね」
車中に消える主君の姿をパリスとランバートは遠巻きに見送っていた。心境は二人して同じである。
主君の指摘通り、あの年寄りどもはタヌキなのだ。面の皮が厚いタヌキだ。逃げたくなるのも仕方がないとそう思う。
ああやって主君を転がせるのは、あのタヌキどもくらいのもの。いいげんにしろと叱り飛ばせる相手でもない。
年寄りダヌキは若い人間で遊びたがる習性があるらしい。
「ランバート」
「あ?」
「御仁が呼んでいますよ」
言われるまでもなく、そんなものはランバートの視界にも入っていた。チョイチョイと手招いている。見えないふりをしているのだ。
「テメェを呼んでんだ。行って来い、パリス」
「あなたが行きなさい。御仁の相手はあなたです」
「んなもん誰が決めたよ、ああ? テメェが行け。生憎と俺には何も見えん」
「おかしいですね。同じものを見ているはずですが?」
「タヌキにゃ見えるが人には見えんと言ってんだ。おら行け。さっさと行って追っぱらえ」
互いに応じるのが嫌で不毛な応酬を続けていれば、直にお呼びがかかってしまった。残念ながら二人同時のご指名である。
渋々と歩み寄っていくと、御仁は得意そうに言うのである。
「決めた。今宵の会議、私も同席しよう」
「はぁ!?」
「御仁っ、城に残られると仰っていたではありませんかっ!」
ほら見ろ、ろくてもない事を言い出した。だから応じたくなかったのだ。
またしても二人は同じ心境だった。
日が沈んだ後、ガーデルードの野営地で最後となる作戦会議がある。避難状況の報告、及び、作戦概要の最終確認を兼ねて行うものだ。既にコーエン卿とダニロ男爵は出立していた。
御仁はその会議に同席すると言い出したのである。
「いやな、コマチ殿に直接礼を言いたいのだよ。数時間程度だ、城をあけた所で我が兵は心得者が揃うておる。何の問題もあるまいが?」
「そりゃ問題なんぞないでしょうがね――」
「なんだな、ランバート。その不満そうな口ぶりは?」
タヌキめ! また何を企んでやがるんだ!?
これはランバートの心の声である。
「ブライバス殿。ならば是非とも、私の分の礼も伝えておいて下さらんか」
「もちろんだとも、ラドロフ殿。殿下と私から重ねて述べておく。しかと請け負ったぞ」
二人のタヌキが同調し合い、口を挟む隙もない。
うんざりした様子の相棒を見かねたパリスは、仕方がないと嘆息した。この場合は是と言う他ない。
「分かりました、御仁。急ぎ天幕の手配を――」
「それには及ばんよ、堰の問題がある。片が付いた後に向かわねばならんだろう。少々遅れるが、先に始めておるといい」
「では必要ないと?」
「うむ。必要があれば殿下の天幕にお邪魔するとしようか。コマチ殿もおられるのだろう?」
結局はそれか! このタヌキめが!
これはパリスの心の声である。
ランバートと顔を見合わせ、盛大に嘆息するしかなかった。そんな若者達を見た“タヌキども”は、さも楽しそうに笑っていた。
ここは主君を見習い、早々に引き揚げるべきだと若者達は見切りをつけた。
「……タヌキだな」
「ええ、タヌキです」
「……行くか」
「ええ、行きましょう」
息もぴったりにタヌキに背を向け、同時に歩き出す。逃げるが勝ちだ。
「胡蝶達に挨拶をしてきます。あなたは出立の準備を」
「ああ、分かった」
ひとまず各々の職務に戻ろうとしたものの、ランバートはある物を思い出し、パリスを呼び止める事にした。相棒をその場に残して愛馬の元へ戻り、積荷の中からソレを引っ張り出し足早に戻る。
パリスの元に戻った男の手には、薄茶色の紙袋があった。表情はなぜか仏頂面だ。
「こいつを頼む。さばいといてくれ」
ぶっきら棒に紙袋を渡され、パリスは菓子だと見当をつけた。こういう場合、たいていがそうなのだ。
中を覗いてみれば、案の定、焼き菓子が入っていた。結構な数で種類もさまざまだ。
「珍しいですね、あなたが菓子を受け取るとは。誰からです?」
「もらいもんじゃねぇ。俺が買ったんだ」
「あなたが? それはまた珍しい――」
さてさて、誰に贈る物だったのか。言わずもがな。当然、一人しかいない。
「妙な詮索はすんなよ。コマチの機嫌取りにと思ってダラウの店に寄ったんだが、いらなくなったんだ。さばいといてくれ」
例の彼女にかと思えば、小町にやるものだと言うのだ。不要になったそうだが。
これは……もしや……
「ほう。胡蝶にやってくれと、そういう事ですか。間接的にでも彼女の口にも入る見込みだ。なかなか、抜け目がないですね、あなたも」
ランバートはうんざりだった。そんな事は誰も一言も言っていない。打算などないのである。
「テメェが何を想像しようと勝手だがな、パリス。言っとくが――」
「分かっていますよ。いつものように余計な事は言いませんので安心して下さい。多少口説くだけです」
「……………………」
口説く相手とは、むろんダリアである。
「いつものように挨拶をして、いつものようにあしらわれて終いになるでしょう。相手にもされません。彼女いわく、私のような坊やは眼中にないそうです」
飄々と言ってのけ、そして相棒に正面から向き直った。
いいかげんにしろと怒鳴りつけてやりたい気分だ。
「友人として言わせていただきます。気を持たせまいと避けるのは勝手ですが、彼女はもういい歳だ。いつ身を固めてもおかしくはない。引く手あまたの彼女がいつまでも追いかけてくれるとも限らない」
ダリアは、ある時を境に客を取らなくなった。もう何年も経つ。花冠の称号を持つ彼女にはその必要性はなく、慣例に従って疑いを持つ者などいないのが現状である。
しかし、パリスは知っているのだ。彼女がこの男を想い、ずっと待ち続けている事を。
それなのにこの男は、一向に応えようとしなかった。好意に気付いていながら避け続けてばかりいた。
臆病な男ではない。女を抱けないわけでもない。だがこの男も、いつの間にか女を抱かなくなった。買いに行く金はあるのに、酒につぎ込んでいる。その理由も知っているが、その件とダリアとは無関係だった。
何にせよ、ダリアの好意は変わる事なくランバートの元にあり、ランバートが彼女を避け続ける構図も何年も変わっていない。
パリスにしてみれば白黒ハッキリさせろと腹立たしく感じるのである。
「いいかげん、ケリをつけてやるのも彼女の為ではないですか?」
「……うるせぇ」
「いったいいつまで夢の中を彷徨わせておくのです?」
分かっているだろうに。彼女がまだ、夢を見続けている事を。その想いを託したがっている事を。
「このままなら、いつか必ず逃げられますよ。覚悟しておく事ですね。相手が私でも知りませんから」
「うるせぇっつってんだろっ! さっさと行きやがれっ!」
「…………。またそれですか」
何を言ってもこれだ。いつもこれなのだ。応える気がないなら、現実と向き合わせてやるべきだろうに。
もはやランバートになど見向きもせず、パリスは挨拶を待つ胡蝶達の元へ歩いた。そこにダリアもいる。
この菓子を受け取った彼女は、ランバートからだと知り、それはそれは幸福そうに笑むのだろう。胡蝶達には気付かれないよう、密やかに。
正直なところ、ほんの少しだけ妬ましかった。
◇◇◇◇◇◇
扉の音が聞こえた気がする。
「デイックス?」
何となくそんな気がして尋ねてみた。まどろみから離れ難く、目を開けるのももったいない。
この雰囲気は、たぶんディクシードだ。
見当をつけた小町は気配のする方へモゾモゾ動き、よっこいしょと膝を借りてみた。
うん、正解。この感触はディクシードのもの。体温も低いし、膝の高さもピッタリ。
そして、声もディクシードだ。
「タヌキの次は猫か」
「?」
何だそれ?
意味は分からずとも、自分が眠いという事はハッキリしている。疑いようもなく眠い。
「手、借りていい?」
「膝は無断で借りるが手には断りを入れるのか。どういう価値観だ」
言いながらも、彼の手は小町のそれに重なっている。このひねくれ具合もディクシードだ。
「悪い夢、見ない気がするの」
ギュッと握って答えれば、彼も無言で握り返してくる。
「あなたが追い払ってくれる気がする」
「…………」
「実は……何かしてたりしてね。魔よけ的な何か……」
「…………」
「そんなわけないのにね。……でもやっぱり、そんな気がするの」
うつらうつらしながら喋り、やがて眠気が勝ってきた。
睡魔との勝負はしない主義の小町である。本能に任せる事にしていた。でも、ちょっとだけ粘ってみる。
「ねぇ……あなたは泳げる?」
「…………。流れ水でなければな」
「泳げるの……?」
「あの泉でお前に教わった」
「……私が? ……ガーデルードの泉で……?」
「昔の話だ。もう喋るな」
突き放すような言葉だが、喋らず眠っておけと言われた気がした。都合のいい脳内変換である。
「ねぇ、ディックス」
「…………」
「ダリアの夢……知ってる?」
「知っている。叶わぬ夢だ」
「……何でもお見通しね」
「目ではない、耳だ。パリスと話していた」
赤ずきんのオオカミ? それとも地獄耳ってやつ?
「お前のタヌキ寝入りも直に分かる。猫には不向きだと覚えておけ」
これは……さっきの件を言っているのだ。御仁が覗いた時、小町は寝たフリをしていた。
どこでも寝れるのは特技だが、この世界に来てからは、物音で目覚めるような浅い眠りばかりだった。安全だと確信があればグッスリ眠れるのだが……
臆病者の性である。
「いいかげん寝たらどうだ」
ついに業を煮やしたらしく、ディクシードに毛布を引き上げられてしまった。顔までズッポリ毛布の中。
こうなると睡魔が勝る。それもお見通しだろうか。
眠る直前、ディクシードが毛布を下げてくれた。たぶん、息がしにくいという配慮から。
「Thanks.」
「礼などいらん」
今のは、どういたしましてという意味。
勝手な解釈に満足し、睡魔に意識をあけ渡した。
彼の傍なら絶対に安心だ。
◇◇◇◇◇◇
「お父さん、だれとはなしてるの?」
リビングで電話している父は、とても喜んでいるようだった。だから小町は尋ねてみたのだ。電話の相手が誰なのか、母に。
「アレクよ」
「っ、お兄ちゃん!?」
「そうよ。きっと、いいお話だと思うわ。さあ、小町、ベッドに行きましょうね。明日は待ちに待った海水浴だから、早く寝ておかないとね」
グイグイと母に背を押され、名残惜しくて父を振り返る。すると父はにこやかに笑んでヒラヒラと手を振ってしまうのだ。早く寝なさいと口が動く。
ムクれながらも自室に向かう小町だった。ベッドに潜り込んでもブスくれていた。兄と話したかったのに。
「そんな顔しないで。今日は何の絵本がいいかしら……。茨姫なんてどう?」
「うーん、あのおはなしがいい!」
「あのお話? なぁに?」
「えっとね……ほら、お父さんとお母さんの――」
「馴れ初めの話?」
「うん、そう!」
茨姫も大好きだけど、両親の出会いの話をせがんだ。この話も大好きだ。
二人が知り合った時、母には好きな人がいたという話。
小町がせがむと、母は苦笑していた。またか、と。
「どこから聞きたい?」
「コンチネンタル・サーカス!」
元気よく答えた小町を見て、母は楽しそうに笑う。
世界最高峰のバイクレース。グランプリシリーズで活躍していた父は、母と知り合った当時、ヨーロッパ各地を転戦するコンチネンタル・サーカスに身を置いていた。由来は大陸を移動しながら興業する、いわゆるサーカス団から来ているらしい。
パドックとレースを行き来する日々。ストイックな生活だ。
「デイヴィッドとはスイスで知り合ったのよ。知ってるでしょう?」
「しってるけど、もういっかい!」
一回どころか何度でも聞きたい!
困った子ねと言い、母は話し始めた。
「じゃあ、お母さんの話からにしましょうね」
「うん!」
「お母さんはね、傷心旅行にスイスを選んだのよ。大好きな人と幸せになるのが夢で、何度も告白したのに、ふられてしまったの。今度こそダメだと思って、お母さん、すごく悲しくて寂しかったわ。……だから旅行をして、気持ちを晴らそうと考えたの。スイスを選んだ理由は、アルプスを題材にした女の子の話が好きで、一度行ってみたかったからよ」
「その人のこと、今もすき?」
「……そうね……好きよ。大好きだけど……デイヴィッドの方がもっと好き。心の底から愛してると言えるわ」
決まって好きかと問うと、母は必ずそう答えた。いつも同じ答えだった。
初めて聞いた時はショックで、小町はお父さんの子供じゃないのかと問うた事さえあったけれど、その人の事を微笑んで好きだと言う母の表情が次第に好きになった。
そして父を愛していると言う時の母は、もっと素敵な顔をする。心から愛していると笑みを見ていれば感じられた。言葉通りに。
だから平気になった。
「スイスはね、物語に出てきた世界とは全く違っていて、近代的な国だったわ。だからちょっと……ショックだったのかしらね。お父さんには、お母さんが落ち込んでいるように見えたんですって」
「それでナンパしたんだよねっ」
「そう、ナンパ。今ならそう言うわね。すっごく偉そうで、大っ嫌いになったの。しつこくて、しつこくて、大っ嫌い」
「小町もしつこい人きらーい!」
「ねー、いやよねー」
「ねー」
二人して“ねー”と言い合っていた。するとそこに父がヒョッコリ顔を出した。
「またあの話かい?」
「そうよ、あなたが嫌いだったって話」
「ははっ。傲慢チキなすかした男前って話だね。僕もその話は好きだ。君を射止めたストーリーだからね」
母の隣に腰を下ろし、父が母にキスをする。そして小町にも。
口元を飾る笑みは、いつものように片端だけ上がっていた。不遜げだが、それが父の魅力でもあった。
「それなら次は僕の番だね。シリーズでスペインに来ていたんだよ。オフシーズンに入ったばかりで、ちょうどスイスに足を延ばしてみたんだ。暑い時期だから涼みたくてね。そこでママを見つけたってわけだ」
「びじんだった?」
「ああ、とびきりの美人だった。今もそうさ。みんなが振り返るような美人で、これは声をかけなきゃって直感が言うんだ」
「東洋人が珍しかっただけよ。あの頃は白い目で見られてばかりだったもの」
母は苦笑していた。
「君はそう言うけど、あれは白い目とは言わないよ。近付き難いっていう羨望の目さ。それに、僕だって日本でのレースを何度も経験してる。東洋人を珍しいとは思わなかったね。君みたいな美人には会えてないのが証拠だろ?」
「さぁ、どうかしらね。パドックガールは若くて美人ばかりだものね。私みたいなおばさんとは大違い」
「嫉妬かい?」
「いいえ、全然」
そっぽを向く母の首筋に、また父がキスをする。母はくすぐったそうにクスクス笑いながら肩を竦めていた。
「ナンパは失敗だった。有名人だっていう驕りがあったみたいで、ママには鼻についたんだ。こっぴどくふられたよ。あっちへ行けってね」
「本当に偉そうだったもの。それに強引すぎ。取り巻きもたくさんいたし、“僕の事を知らないの?”、ですって」
「そういう人きらーい。いやなかんじー」
「ねー、いやよねー」
「ねー」
声を揃えて“ねー”と言えば、父は可笑しそうに笑っていた。
「でも結局は、ママはパパの事を大好きになったのさ。めげずにアタックして良かったよ、本当に」
「前の人よりずっと夢中になってたわ。あなたのおかげで彼を忘れられたのよ」
「傷心旅行は大成功ってわけだ。どこに行っても君は自慢の奥さんになった。さんざん自慢したけど、まだまだ足りないよ」
「歳の差はどうやっても覆らないから、あの頃はすごく不安だったの。でも、これだけは言える。あなたも自慢の旦那様よ、デイヴィッド」
「じゃあ、じゃあ、小町は?」
ちゃっかり割り込めば二人は口を揃えて言うのだ。
小町は自慢の娘だと。兄も小町も、二人の自慢なのだと。
「コマチはどんどん君に似てきてる。だから最近よく思うんだ、僕に似たイケメンのボーイフレンドができるはずだってね。もちろん君のように」
「芯が強い所はあなたにそっくりよ?」
「君も気が強いだろ? 見た目とは正反対にね。そのギャップも好きなんだ」
「知ってるわ」
父と母のイチャイチャを眺めるのが大好きだった。
「ねぇ、お父さん。お兄ちゃん、なんてでんわだった?」
ムズムズして尋ねていた。母は、きっといい話だと言ったけれど、小町もそんな気がしていたからだ。
「とびっきりの話さ。来年、上のクラスに挑戦できるそうだ」
「まぁ! 本当!?」
「ホントのホント!?」
「ああ、本当だよ。来週にはテスト走行もできると言っていたよ」
母と一緒になって喜んだ。
兄は既に、最高峰のレースで活躍していた。いくつかあるクラスの中では真ん中だけれど、アカデミーから順当に上がり、ワイルドカード参戦を経て、グランプリシリーズの本戦で走っている。
それが、一番上のクラスに昇格が決まったと言うのだ。
「さすが僕の子だ。てっぺんも夢じゃないぞ!」
「帰ってきたらお祝いしなくちゃ!」
「いつかえってくるの!? 小町もうんとおいわいするっ! プレゼントもっ!」
コンチネンタル・サーカスに身を置く兄は、一年の内ほとんどが国外の生活だった。冬から春にかけてが長期のオフシーズンであり、その時期に一緒に過ごせるくらいだ。
それから、一ヶ月ある夏休みにも、たまに帰ってきてくれる。
「もうすぐ夏のオフに入るから、その時に帰ってくるよ。ガールフレンドを連れてね」
「やったー! エインズリーもいっしょなんだっ!」
「良かったわね、小町。彼女のこと大好きだものね」
「うん! びじんだもんっ!」
きっぱり言い切り胸を張れば、父と母は大きな声で笑っていた。
兄のガールフレンド、エインズリー・ローザ・ハワード。パドックガールとして兄と知り合った彼女は、さすがにそんな華やかな経歴を持つだけあって、スレンダーでとびきりの美人である。
優しくて、お茶目で、それでいて活発。お転婆な小町とはたいそう気が合った。もはや家族の一員のような存在だ。
「はやくケッコンしたらいいのにねっ!」
「はははっ! さすがに気が早いよ。てっぺんが取れてからじゃないとね」
「そうね。実力をつけて、彼女を養えるようにならないと難しいわね。でも……そろそろ婚約してもいいんじゃないかしら? 昇格も決まったんだもの」
「うーん、二人ともまだまだ若いから早い気がするけど、悪くはない提案だね。あの歳で上のレースに昇格するっていうのは、将来の期待値が高いわけだし。それに、ずっとガールフレンドのままじゃ、彼女にも申し訳ないからな」
「これで家族になれるわ、エインズリーと」
「ああ、家族だ」
「やったーーー! やったーーー! エインズリーにもプレゼントだねっ!」
ブランケットを蹴っ飛ばし、ベッドの上でピョンピョン飛び跳ねた。
娘を見て二人は微笑み、見つめ合ってもう一度キスをする。
この頃の小町にとっては当たり前の光景だった。兄とエインズリーがいる光景も当たり前だ。
失う事になるなどと思ってさえいない。幸福な時間は永遠に続くものだと信じ、疑いもしなかった。
これっぽっちも。
◇◇◇◇◇◇
ディクシードは、眠りこける小町の手をそっと撫でた。
「また……痩せたか……」
担ぐ度に変動する重み。わずかな違いも感じ取っていた。それは、着実に軽くなっていく。
ここに運ぶまでが最も軽かった。原因は体を酷使しすぎたせいだ。
鋭く賢い娘が気付いていないわけがない。当人もこの体に違和感を感じているはずだが、それでも、仮の体だと楽観的に捉えている。
ひとたび外にでればこれだ。この有り様だ。
「どうしてお前は、そう突っ走る。なぜ私を待たない」
時もそうだ。
決して待たず、残酷に過ぎる。
サーベル。
もう無理なのか……
これしかないのか……
死を……
胸元に埋めた石を見やり、次いで小町の頬を撫でた。
「お前は今……どんな夢を見ている」
どんな夢を見て、何を思うのか。
全てを知ることができれば、これほど気を揉む事などないだろうに。
鎖に繋ぎ、無茶をしないよう閉じ込めてしまいたいと……
そんな考えを抱かなくて済むだろうに。
好きな事をさせてやりたいと望むことも……
夢を叶えさせてやりたいと思うことも……
それも全て、罪だと言うのか。
表からランバートの声が出立を問うてくる。
戻ろう。私の檻に。
「出せ」
護らなければ。何にかえても……
呪われたこの身がある限り……
ご覧いただきありがとうございます。
第68話『彼女の夢』は、いかがでしたでしょうか?
何とか9月内で4話を投稿でき、作者は一安心しております。
第三章も残すところ、エピローグを含めて2話となりました。
10月中に投稿できるよう、頑張りますね。
4話投稿はかなりハードだったので、マイペースにいこうと思います。
では、次話でお会いしましょう。




