第6話 アリッサとジェニファー
プレザンス子息が去った後、小町はしばらくして腰を上げた。結局、フレデリックは呼ばなかった。
これからが大変だ。伯爵夫妻は納得してくれないだろう。でもだからと言って諦めるつもりはない。
部屋での執事の様子を思えば半信半疑だったようだし、今のところ彼の協力は期待できない。イーノクは立場上、表立っての協力はしないだろうが、隠れて知恵は貸してくれるはず。だから夫妻の説得は自分の力で成し遂げなければならない。
そう思いながらドアを開けた。
パンという小気味いい音と頬への衝撃が同時に襲ってきた。自分の意思とは関係なく、目線が真横へ逸れている。
思いもよらない事だった。待ち構えていたアリッサに頬を張られたのだ。
向き直れば、赤い顔をした義理の義姉が、怒りに満ちた形相で睨み付けてくる。目には決壊寸前の涙を貯め、大きく肩で息をしている。
その向こうには厄介な人物もいた。下の義姉のジェニファーだ。いい気味だと言いたげにフンッと鼻で笑った彼女は、アリッサと同じように小町を睨み付け、声高に言い放った。
「お母様に言いつけてやるわ! 姉さんの彼を誘惑してるって。甘やかされて何でも許してもらえると思ったら大間違いなのよ! お父様も、今度ばかりはお怒りになるわ。泣いたって許してやるもんですかっ」
年の近い下の義姉は、何かある度に小町を罵倒し、夫妻に言い上げていた。もちろん彼女好みの脚色を添えて。
夫妻はその都度彼女をなだめ、小町や周囲の者の話を聞いて事実を確認する。最終的に事実無根の話を咎められるというのに、懲りもせず何度もその言動を繰り返していた。
今のこの状況だって、彼女にとっては全く関係のない話なのだ。それなのにこうしてアリッサにくっついて来ては、二人の問題にしゃしゃり出てくる。
いつもの事だと思った。言い上げられて困るような事はしていないし、夫妻に問われても正直に話すつもりでいる。
この義姉は色恋の話がお好みのようで、小町がどこかの誰かに色目を使っていただの、年下の少年を誘惑しただのと、どうでもいい内容を夫妻に言い上げる。その度にうんざりするのは、何も小町だけではない。
夫妻も実子とはいえ手を焼いているようだった。真偽を確認しなければ納得しないのだと、以前こぼしていた事がある。
心当たりのない事とはいえ、夫妻に対して申し訳なく思う。自分に関する事で迷惑をかけているには違いなく、気が滅入ってしまう。
またかと溜め息をもらすと、すかさずジェニファーが捲し立ててきた。もはやそんな言葉に耳を傾けるだけ時間の無駄だ。
アリッサに目をやれば、睨み付けるだけで何も言ってはこない。顔立ちが整っているだけに迫力があった。言いたい事があるなら、この際ハッキリ言えばいいだろうに。
この義姉は不満や文句があっても、いつも何も言わず蔑んだ視線を向けてくるだけだ。彼女が何も言わなくても、実の妹が代弁してくれるものだから言葉を交わす必要もない。よほど義理の妹と会話をしたくないのだろう。
今も悔しそうな表情をして敵意丸出しの視線を寄越してくるものの、やはり何も言ってはこなかった。
視界の隅にフレデリックの姿が映った。
いつから居たのか。
執事の姿を認めた途端、無性に走りたくなった。こんな気分の時は、バイクに乗って走るに限る。
執事にその旨を伝えようと、アリッサの横を通った時だ。
「あんたなんか、消えればいいのよ」
思わず足を止めて振り返っていた。声の主はアリッサだ。
背筋に冷たいものが走っていく。義姉から視線を引き剥がし、震えそうになる足を叱咤して無理やり歩き出した。
走りに行かなければ。
もうそれしか考えられなかった。
どこまで冷たくなれるんだろう。そう思わせた義姉の視線は、ゾッとするほど冷ややかだった。
走ってくると執事に告げ、自室で着替えて足早に屋敷を出た。
昼食をとっていない事に気付いたが、戻る気になどならなかった。
◇◇◇◇◇◇
走り続けて帰ってくると、フレデリックが待っていた。伯爵夫妻が呼んでいるそうで、溜め息が出た。
夫妻は先週から屋敷を出ており、先ほど帰って来たらしい。確かに近々戻る予定にはなっていたが……
タイミングの悪さに舌打ちしたい気分だった。義姉達にとっては非常に喜ばしいタイミングと言えるだろう。嬉々として泣き付く様が想像できる。
夫妻は、エインズワース家が経営する商業施設に視察に出ていた。伯爵家所有の別荘や城を改装し、スパやホテルとして運営しているのだ。
貴族と言えども時代の流れには逆らえず、所有する城などを一般人に解放し、観光施設として収入源にする家もある。エインズワース家はそれにならわず、スパやホテルを経営することで収入を得ていた。
現在の伯爵が爵位を継いだ頃は、領地内の数ヵ所にホテルを所有している程度だったそうだ。しかし現伯爵の手腕が見事で、数年で施設数を大幅に増やしたのだと聞いている。
目をつけた別荘や城がエインズワース家とは関係のない建造物でも、所有者の貴族と交渉を重ねて買い取り、さらに改装し、各々の土地柄にあった施設として運営するのである。
観光者の多い土地の別荘は、一般客でも利用できるスパを。海外の裕福な人達がバカンスに訪れる地域の城は、会員制のスパホテルを。といった具合にエインズワース家の紋章が掛かった施設は、今ではイギリス各所に点在していた。
最近では、それなりに名の通った貴族がロンドン郊外の別宅を手放そうとするケースも目立ち始めた。維持費の捻出に手を焼いてしまうからだ。そういったいくつかの屋敷も買い取り、有名ブランドにテナントとして貸し出したりもしている。
その目のつけ所を見込まれた伯爵は、別荘などの運営方法をアドバイスすることで、コンサルタント料として収入も得ていた。
無理な買い物はせず、喉から手が出るほど欲しい物件でも我慢をし、確実に収入源に結びつけていく。その手腕は、経営雑誌の編集者から取材依頼が舞い込むほど評価を得ているのだそうだ。
そんな多忙な夫妻の手を煩わせている事実に、やはり胸が痛んだ。視察から帰ってきたばかりの夫妻を待たせているのも事実。
急いでシャワーを浴びて着替えを済ませた。
「フレデリック。義父様の部屋にお義姉様達もいるんでしょう?」
受け取った資料に抜かりがないか確認しながら問えば、普段より少し低めの声で肯定する返事があった。揃っている資料をまとめてファイルに直し、立ち上がり様に執事に目を向けてみる。
思った通り、無表情の下に、何か言いたそうな視線を向けてきていた。彼の鉄面皮にも今ではすっかり慣れ、その下に覗く感情も読み解く事ができるようになった。
「あなたは、この計画を無茶だと思う?」
微かに視線を揺らしたフレデリックが、手にしたアイスバックを差し出してくる。氷を袋に入れてタオルで巻いただけの、お手製の氷嚢だ。これで張られた頬を冷やせというのだ。
「無茶だとは思いません。そこに記されている内容は、お嬢様なら確実に実行できるものばかりでした」
受け取ったアイスバックを頬に当てれば、タオル地から伝わる冷気が火照った頬を冷やしてくれた。目を閉じて、鏡に映っていた自分の顔を思い出す。
頬は少しだけ赤くなっているくらいだ。冷やす程のものではないけれど、フレデリックの思い遣りが嬉しくて、甘んじて受けている。
「本当によろしいのですか?」
執事を見ると、問い掛けるような視線とぶつかった。
最後の確認だ。
覚悟はあるのかと問われている。
いくつもの自問自答を頭の中で繰り返し、最後の答えを口にした。
意思の強さを眼差しにのせて。
思い描く未来を言葉にかえて。
「ええ、日本へ行くわ」




