第61話 井戸と“石”
小分けにした干し草をよいしょと抱えた小町は、横木を跨いでマイロの部屋に入った。
この馬小屋はいくつかの部屋に分かれており、一つの部屋には数頭の馬が一度に収容できる造りとなっている。部屋を区切るのは柱と腰壁のみの簡素なものだが、視界を塞ぐ障害は少なく、奥の部屋まで他の馬を見通せるのが利点である。
小町が入ったのは黒馬がいる部屋だった。よくよく懐いているマイロは、小町の抱えた干し草を何とか引っ張ろうと健闘していた。ガッチリとホールドして抵抗したものの、引っ張られる度に隙間からパラパラ抜け落ち、マイロはそれを咀嚼する。
兄馬のサイロも咀嚼中だ。労働は弟に任せるばかりで、自分は落ちた草を拝借するのだから、ある意味、なかなかに賢い馬だと思う。しかしながら同じ部屋の他の馬達は一向に小町に近付こうとせず、それどころか部屋の端へ逃げていく。
生気が強い者に対し、あからさまな警戒を示していた。蹴られる心配は無用だけれど、どうにもショックは拭えない。
「取って食べたりしないわよ? 私は安全でぇす」
おどけて言えば隣の部屋でヘインズが笑う。そんな彼も馬達に避けられているが……
はいどうぞと豪快に桶の中に放り込んでみても、サイロとマイロが寄ってくるだけだ。他の馬は寄り付こうともしない。仕方がないから、そそくさと部屋を出た小町である。途端に邪魔者はいなくなったと彼らは干し草に寄って行った。
「げんきんな子達ね、まったく」
騎士達の馬とも仲良くなりたいが、この様子ではいつになるやらだ。やれやれと息をつき、新たな干し草を取りに行こうとした時である。
耳をつんざく甲高い声が響き、飛び上がって振り返った。
「レディー、みーっけ!」
「ダメだよマーチ。そんなに大きな声を出したら、馬がおどろいちゃうよ」
満面の笑みのマーチと困り顔のロトが、入口から中を覗いていた。
「だって、ランバートがいったとおりなんだもん。レディーいるもん」
「うん、本当だね……って、ダメだってば。かってに入っちゃいけないんだよ」
話しも聞かずに入ろうとするマーチを、ロトが懸命に引きとめている。表にはヘインズの部下が立っているはずで、許可なく入ってはいけないのだと彼なりに察したのだろう。賢い子だ。
小町がヘインズを振り返ると、彼は心得ていますと頷き、入っておいでと優しく声を掛けた。
緊張した様子のロトはニコニコと嬉しそうなマーチの手をとり、一つ頷いている。よし行くぞ、ボクがしっかりしなくちゃ、と意気込んでいるようだった。
小町の前で立ち止まった二人だが、まず口を開いたのはロトである。それもどこかぎこちない。
「こんにちは、レディー。あの……馬番を、言いつけで――」
「レディーじゃないわ、小町よ。こんにちは、ロト。それにマーチも。そんなに緊張しないで」
礼儀正しい挨拶ができるのは紳士への第一歩である。名前の間違いはともかく、彼は将来、素敵な男性になるに違いない。
屈んで声を掛けると目を見開いている。
「ボクの名前……しってるの?」
「ランバートから聞いたのよ。ここに私がいるって彼から聞いたんでしょう?」
何で知ってるの、表にいたの? とロトは小首を傾げていた。表でランバートに会ったと言っているようなものだが、八つのロトは不思議がるばかりだ。
かたやマーチは頬をピンクに染め……そしてなぜか、マシンガントークが始まった。
「ねぇねぇ、おねえちゃんっ、さっきね、ランバートがねっ! おねえちゃんもみた? こうやってきてね、すっごくカッコよかったんだよ!」
彼女の眼中には、もはや愛しのランバートしかないのは明白となった。小町がその名を出したのが引き金となり、弾丸は発射された。
彼とどんな話をしたのか、彼がどんな事をしたのか、身振り手振りを交えて話すのだが、残念ながら話がポンポン飛躍し、更には大事な部分が抜けていたりと、小さな子供に慣れていない小町は聞きとるのに手間取ってしまう。
見かねたロトが補足を入れてくれ、聞き取りは事なきを得た。とはいえ要約すると簡潔である。
聖堂の正面でランバートを待ちぶせていたマーチだが、意中の人が歩み寄ってきて舞い上がった。颯爽と現れた彼は、“小町が馬小屋に居るから兄妹で相手をしてやってくれ”と言い、頼んだぞと彼女の頭を撫でて去った。
よほどの舞い上がりようだったのだろう。その興奮を思い出し、今現在も舞い上がって降りてくる気配がない。
彼女の話にはディクシードのディの字も出て来ないのだ。それどころか、他の騎士の名も全く出て来ない。“ランバート”、オンリー。
「マーチは彼が大好きなのね」
「うん! やさしいし、ちからもちだし、だいすきっ!」
「みんな好きだよ。ボクのことも、いつも気にかけてくれるんだ。みんなに優しいんだ、ランバートって」
マーチに恋心を抱くロトも、素直にライバルを褒めていた。大きくなったら彼のような騎士になると言って。
なんとも微笑ましい限りだ。
「ところで、お兄さん達は一緒じゃないの? 二人だけで馬番?」
さすがに、こんなに小さなマーチと二人きりなわけがない。きっと兄達も一緒にと言われているはずで、それなのに姿が見えない。
何の気なしに尋ねたのだがマーチの表情が一変した。
プーっと頬を膨らませ、眉を吊り上げるのだ。ついさっきまでは御機嫌さんだったというのに、今度は御立腹な様子。五歳児というのは、こんなにも表情が豊かなのかと一人感心する小町である。
「それがね、あの人から、はなれないんだよ! いっぱいよんだんだよ? でもマーチのことなんてしらんぷりするんだからっ、もう!」
「あの人ってだぁれ?」
「えっとね、うーん……」
「ダリアって人だよ。すごくきれいな女の人でね、ダリアの友だちも、みんな美人なんだ。ボクも呼んだんだけど、ビルコもアートも、それに大人の人も、みんな夢中になって見てた」
ビルコは十歳の四男坊。アートは小町をペチャパイ呼ばわりした五男坊の名だ。それから、ダリアって――
「ねぇ、ロト。その人って、もしかして……ダリア・タウンゼント?」
「うーん、姓までは知らないんだ。みんな、ダリアって呼ぶから。昼に会えるのはめずらしいって、おじさんが言ってた。夕方か夜じゃないと会えないんだって」
間違いない、ダリアだ。花冠の中の花冠。夜の華。
表に出たら会えるかもしれない。
でもたぶん……出ない方がいい。
「コマチ殿、ダリアなら直にここへ参ります。我々も供をしますので、表に出られてはいかがですか?」
やり取りを聞いていたヘインズは、そう言って小町に笑んでみせた。
「ここへ、ですか?」
馬小屋に? わざわざ?
「あの者は、しかと礼儀をわきまえております。国守のお客人を蔑ろにはいたしません。それにあなたは、殿下のお客人でもありますからね。挨拶に顔を出すでしょう」
「でも……」
ボルコフ卿の兵がどこにいるのか分からない。好機を狙っているなら、あまり動かない方が得策だ。自分の身の心配もあるが、何より、ヘインズらの負担になるのが嫌だった。
現状、自分さえ守れない。歯痒いことに。
口ごもる小町を見かねてヘインズは言った。諭すような口調だった。
「そのように軽装で来られたのは、炊き出しの手伝いをと思われたのでしょう? 違いますか?」
「……仰る通りです」
「ならば、そうなさっても良いのですよ。我々とて、あなたが動けるようにここにいるのです。閉じ込めておく為ではありません」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ――」
「分かっております。ですがあなたは、少々気遣いが過ぎる傾向にある」
ズバリの指摘に言葉もなかった。
「我々は、近衛の代役を果たせと御仁からの命を受けた上でここにおります。あなたが思うままに領地を見、そして動けるように、ブライバスは我々を選んだのです」
「…………」
「外へ出ることを咎める者はここにはおりませんよ、コマチ殿。胡蝶らも炊き出しに名乗り出てくれていますから、あなたが手伝いを買って出たところで同意するはずです」
「…………」
どこまでも優しい声音だった。しかしながら、なかなかどうして、ヘインズは小町の性分を見抜いており、えげつない事を言うのだ。
「果たしてレイゼン殿の近衛が相手であれば、素知らぬ顔で表に出られるのではないですか?」
たぶん……いや、間違いなく外へ出る。彼らなら必ず護ってくれると、全幅の信頼があるし……
好き勝手とは言わなくても、自重しながらでも出ていく。負担なんて彼らには考えない。
ヘインズは自分達を近衛だと思えと言外に言っているのだ。信頼に足りないのかと。
そして更には――
「そのような顔をされていては、マーチが不安がります。私があなたを苛めていると思っているやもしれませんね」
言われて彼女を見ると、不安げな表情を浮かべてヘインズを見上げている。
これではお手上げである。完敗だ。
腰を屈めた小町は、彼女の頭を撫でた。
「おねえちゃん、おそとにでられないの?」
「そんなことないわ。ヘインズさん達がいるもの」
笑んでみせれば、彼女はホッとしたように笑い返してくれた。
身を起こしてヘインズに向き直る。
「供をお願いできますか? 馬達の水を汲みに行きます」
「むろん御一緒しますよ」
「それから、ダリアが来たら、手伝いを申し出てみますね。その時もお願いします」
「承知しました」
ほんの少しヘインズの表情に安堵が浮かんでいたが、彼は直ぐにそれを隠した。
「これで我々も、両手を振って表に出られます。ここは……少々臭いますから」
一瞬呆けた小町だが、たまらなくなって吹き出した。確かに臭う。
場の緊張感が和むと、わけも分かっていないだろうにマーチも笑い出し、ロトも笑い始めた。
◇◇◇◇◇◇
「おねえちゃん、おっきなおけだと、おもたくなるよ? だいじょうぶ?」
「平気よ、力持ちなの」
「いたくなっちゃうよ?」
「大丈夫、大丈夫っ」
小さなマーチも小さな水桶を両手に提げ、小町の隣を足早に歩く。その横で彼女を気遣わしげに見守るのは、大きな水桶を抱えるロトである。
「ロト、あなたは大丈夫なの? 体は平気?」
「平気だよ、おじさんちでも手伝ってるんだ。だいぶ力もできたねって、おばさんも喜んでくれるから、ボクも嬉しいし」
「マーチもうれしいよっ。いっぱいあそべるもんねっ」
「うん、そうだね」
笑いながら頷いたロトだったが、その表情には影があるように見えた。自分の体に対する不安が拭えないのかもしれない。
ヘインズや彼の部下も察したようで、ロトの肩をポンポン叩いたり声を掛けて励ましていた。
馬小屋を出て少し歩いた所に井戸はあった。それも、なぜか二つ並びで。ともに木材の屋根が付いているが、なぜ二つもあるのだろう。
「こちらですよ、コマチ殿。飲み水はこちらの井戸です」
「おねえちゃん、しらないの?」
不思議そうに尋ねられ、小町は苦笑するしかなかった。
「ええ、知らなかったわ。井戸水を汲むのは初めてなの」
「うそぉ、はじめて!? どうして?」
どうしてと言われても初めてである。
「レディー……じゃなくて、コマチは良い家の人なんだよ。だから騎士をつれてるんでしょう?」
「そうなんだぁ。おひめさまかぁ、いいなぁ」
お姫様ではないけれど、伯爵令嬢はそうなるようだから間違ってはいない、と思う。でもやっぱり、しっくりこない。
「じゃあ、マーチがおしえてあげるね。あっちはね、のんだらダメな方だよ。あかいのはダメなの」
彼女が指したのは赤布だった。滑車を支える梁材に結わえられている。
どうしてダメなのかと問うと、マーチからは、“どうしてもダメ”という回答しか得られなかった。
「赤布の井戸は、清められていないのですよ。主に生活用水として利用しますが、飲み水ではありません」
補足をしてくれたのはヘインズだった。備え付けの水桶を井戸に放り込み、ロープを手繰りながら言う。カラカラと滑車が回る。
「マルセナ領内の街の井戸は、たいてい二つ掘られています。赤布は古い井戸、布がないものは近年掘られた井戸で、底の一部に“浄化の石”が備わっているのですよ。口に含む場合はこちらを利用します」
浄化の石……? また石?
両の井戸を覗き込んでみたが違いが分からない。特に濁りもなく、同じ水に見える。
石というのは対価の石のようなものだろうか。それとも、浴室にあった“温石”のように、不思議な力を秘めた石なのだろうか。
仮に本当に“石”だというなら、原理がさっぱり分からない。不思議石としか言いようがない。
「そんなにのぞくと落ちちゃうよ、レディー」
「浄化の石っていうのを探してるんだけど……やっぱり分からないわね。どんな石なのかしら……」
もはやレディーという呼称にも慣れてきた小町は、少々残念に思いながら体を起こした。ヘインズの引き上げる水桶が満水となって上ってくる。
「おねえちゃんはジョウカの石をしらないのね。おくににないの?」
「そうね……私の国にはないわね。水の区別はあるけど、水は買うものだと思ってるから」
「えっ!? かうの? どうして?」
「本当に? 買わなくちゃいけないの?」
「おかねもちだから?」
まさかそんな所に食いつかれるとは思っておらず、小町は目を瞬いた。ヘインズも少々驚いた様子で手を止め、小町を見ている。彼の部下からも注視されている気がする。
「そっか……そうよね……」
水を買うという感覚は小町にとっては常識だが、彼らには浄化の石が常識なのだ。
ミネラルウォーターは買わないと手に入らないし、いろんな国に行ったけれど、たいていの場合、“蛇口の水は飲むな”、というルールが鉄則だった。
そういえば日本に行った時、一樹の彼女が水道水も飲めると言っていて、それはもう驚いた覚えがある。アイスランドの水道水が世界で最も綺麗だというのは有名な話で、実際、本当に美味しかったけれど、あの国は自然が豊かで驚きもしなかった。素晴らしきかな天然水、と感動したぐらいだ。
それなのに日本でも……という感覚だった。ビルが建ち並ぶ都心だというのに。
日本全国の水道水は、天然水ではないのに飲める。住宅はもちろん、公園に備わっている蛇口からも飲料水が出る。有害な殺菌剤は入っていないし、イギリスのように硬水でもないから、生活用水と区別する必要はない。
――ミネラルウォーターならコンビニで売ってるしね、私も東京に出てきてからはそっちを買うけど、実家に帰ったら普通に水道水を飲むよ。洗濯もシャンプーも、ぜんぶ同じ水。浄水器もいらないから付けてないな。
――すごい? そうかなぁ? そういうのは分からないけど……でも、うーん、安全だから蛇口から出るんでしょって感じかなぁ。
――逆に小町の反応って、私からすればすごく新鮮だよっ。
一樹の彼女は、そう言って笑っていた。さすが品質保証万全の国だと感心した事だった。
ならば……
この国ではどうなのかと考えてみれば、井戸水と浄化の石が常識となるわけだ。
「お金持ちだからじゃないわ。みんな水を買うのよ」
「うそだぁ!」
「平民でも買うってこと?」
「そうね、みんなよ。だってほら、誰だっておいしい水が飲みたいでしょう?」
早々に話を切り上げるべきだと判断し、そういう事にしておいた。
水一つとってみても掘り下げればきりがない話で、小町もイギリスの水事情なら話せるだろう。だが話すべきではないと思った。ヘインズらの反応が気に掛かるからだ。
詳細に話せば話すだけ、彼らと小町の感覚の違いが明確になり、最終的に、そんな国は聞いたことがないという終着点に行きついてしまうかもしれない。
ランバートや近衛騎士達相手なら上手くかわせるだろうし、彼らもきっとかわされてくれるだろうけれど、ヘインズの部下が相手となればわけが違う。この場では避けるべきだ。
「おいしいかどうかって、どうやってわかるの? 水って、あじがしないよ?」
「ボクも違いはわかんないや」
なんで? どうして? と不思議そうに子供たちは言っていた。山水と井戸水の飲み比べでもしない限り、味の違いは分からないだろう。それに幼い彼らに違いが分かれというのは少々無理な話かもしれない。
不思議がるマーチの頭を撫でた時、聖堂の方から大きな歓声が聞こえてきた。
「何かしら……」
「殿下ですよ、コマチ殿。聖堂に入られたのでしょう」
「……いつも……こんな歓声が?」
ヘインズはしごく当然だと頷いた。あの方は民の期待ですからと。
ここまで聞こえてくるとは――
彼は、今でも光明なのだ。
「よしっ! 私も負けてられないわね。次は私が汲んでみるから、二人とも、コツがあるなら教えてくれる?」
「あ、うん! 出っぱった石があるけど、車がちゃんと引き上げてくれるから、あとは……そうだな、ゆっくりたぐるといいよ」
「ブラブラなるとね、こぼれちゃうんだよ!」
「揺らさないようにね? 分かった、やってみるっ」
浄化の石もろもろを置いておき、水汲みに専念した。
◇◇◇◇◇◇
初の井戸汲み体験は、大成功だった。
一度目は汲んだはずの水が半分になって上がってきた。二度目は要領をつかみ、三度目からは満水の桶に満足な結果になった。
上手だと子供たちに褒められ、大きな桶を両手に持って怪力具合にびっくりされ、たわいない話をして馬小屋へ戻った。互いを気遣いながら水桶を運ぶ子供達は、見ていて本当に癒された。子供は癒しだ。
ヘインズの部下達が手伝ってくれたおかげで全ての馬に水がいきわたり、そうして一段落ついたかと思えば、マーチとロトは兄達をもう一度呼びに行くと言いながら走って行った。元気があって微笑ましい限りだ。
のんびり見送る小町の所に、ヘインズの部下が声をかけてくる。他でもない水の話だった。きっと、子供達がいなくなるのを待っていたのだろう。
本当に水を買うのかと問われ、嘘をつくつもりもなく、素直に頷いてみせた。するとそこに新たな騎士が加わり、皆が口々に言うのである。
「コマチ殿の国は清い水を売るのですか?」
「水の区別はあると仰っていたが、生活用水と飲み水の区別でしょうか?」
「もしや水道の設備が整っているのでは? その水も買われておいでですか?」
「飲み水が蛇口から出るというのは、まさに御仁の理想なのです。是非とも話をお聞かせ願いたい」
中年の騎士達はそう言って興味を隠しもしない。
御仁の理想……か……
米の流通、自警団の組織化、そして水道の整備。
御仁の理想に繋がっているもの――その根幹となるものは、間違いなく民の安寧だ。
浄化の石というのも、もしかして……
ちょっと突飛すぎる発想に、いやいやまさかと自分自身に言い聞かせてみる。
だって、水よ? 水なのよ?
「それほど質問攻めにしては答えようがないだろう」
苦笑して言ったのはヘインズで、困ったものだと部下達に目を向けている。
「お前達の気持ちは分かるが、本来の職務を忘れてもらっては困る。持ち場に戻れ」
「だがな、ハンソン。コマチ殿の話が鍵になるやもしれん。御仁の耳に入れておくべきではないか?」
「御仁が志すものならば我々も同じだ。聞いておくべきだ」
部下達に詰め寄られ、ヘインズはやれやれと嘆息した。
「では聞こう。御仁が水への懸念を示されて三十年を優に越す。未だ志は果たされておらず、道半ばといったところだ」
「ああ、そうだ。だからこそ――」
「まぁ聞け。子供らは直にここへ戻ってくるはずだが……あの方が長年かけて果たせずにいるものを、そのたったの数分程度でお前達が結論にいきつけると?」
「…………」
「…………」
「耳に入れるべきだと承知しているが、だがまずは職務だ。触り程度を話せば、あの方は御自分で動かれる方だ」
「…………」
「…………」
「違うか?」
「……いや……違わんな、ハンソン」
「分かった、戻るさ」
「行くぞ」
「ああ」
しかと耳に入れてくれと部下達はヘインズに託し、小町に名残惜しげな視線を向けながらそれぞれの持ち場へと戻って行く。
結果、ヘインズと小町が残されたわけだが……
「そのように見つめられては、どのような顔をすればいいか困ります、コマチ殿」
「え? ああ、ごめんなさいっ」
一時は水の話題をどうやってかわそうかと思案していたが、今は、助かったと言うよりも――
「なんだか……ランバートに似ていらっしゃるように感じたので……つい」
「レイゼン殿に、ですか?」
「ええ。彼もあなたのように部下を扇動していましたから。あの時も見事だなぁって思ったんです」
カッコ良かった。すごく……
「……そうですか……あのレイゼン殿が、私のように……」
「はい」
ランバートは小町を誘発剤として使った。ヘインズとは目的が違うけれど、部下達を対話によって扇動したのだ。一喝するだけで簡単に部下を動かせる立場にあるのに。
「もしかして、ランバートの指導はあなたが?」
意表を突いたらしく、ヘインズは驚いている。
「近衛をされていたならと思ったんですが、安易な発想かしら?」
「いえ、仰る通りですよ、コマチ殿。近衛の監督官を務めておりました。あなたは、よくよく人を観察されていらっしゃる」
人間観察は趣味のようなものだ。でも、それが重要なのだとエインズワース夫人も言っていた。何を見極めるにしても、まず人を見てからだと。
「とはいえ……レイゼン殿には、私の方が教わる事が多くありましたね」
今度は小町が驚く番だった。そんな小町にヘインズは笑んでみせる。
「御仁に命じられて着任したのですが……その時の私が役割をどう感じたか、コマチ殿なら察していただけるやもしれません」
「……期待でしょうか? ……でも正直、分かりません」
するとヘインズは苦笑しながら頷いた。
「確かに期待はありましたが、本心は違います。“どうして私が?”、です」
「……え……?」
「むろん、二つ返事で応じました。ですが腹の底では、やっと殿下の傍を離れられたのにと不満を感じていたのです。御仁も認めてくれたではないかと」
「…………」
「着任すればしたで、あの跳ねっ返りのレイゼン殿が隊長職なわけですから、それはもうぶつかり合いの応酬です。正直、辟易していました。面と向かって反発してくる部下など過去におりませんでしたから。……今思えば懐かしいものです。“そんなに嫌なら辞めちまえ”と、レイゼン殿に指摘された事もあります」
うわぁ。ランバートなら言いそう。
「私はそういう人間だったんですよ。部下を持つ立場にもありましたし、命じる事にも慣れていました。軍人とは命じれば動くものだと信じて疑わず、自分もまた、命令には何があっても従わなければならないと思い込んでいた」
「…………」
「“俺は、あんたの駒じゃない。一方的に言われて納得ができるか!”と、まあ、レイゼン殿に突っぱねられ、偉そうなことを抜かすなと、日々応酬を繰り返すわけです。想像できますか?」
今のヘインズからは全く想像がつかない。でも、上官の命令は絶対だとする軍の規律は、理解できる気がする。それに対して真っ向からぶつかるランバートの姿も想像できた。
「教える事の難しさを彼から教わったのですね」
「そんなところです。レイゼン殿は……身分を問わずぶつかり合いをする方で、私には理解できない存在でした。御仁にも平気で食ってかかっていくのですから」
「どのようにして解決なさったの?」
「それはまぁ……追い追いに」
今度は小町が苦笑していた。
「ここまで話されておいて、お預けですか?」
「…………。やはり鋭い方ですね、コマチ殿は。確かに解決するきっかけはありましたが……この話はレイゼン殿に悪い。それに、早ければ子供たちが戻ってくるでしょう。時間がありませんので、またの機会に」
「まあ、それは残念ね。とても興味深いお話だったのに」
「本心で仰っていますか? 年頃の娘さんにはつまらない話でしょうに」
「変わっているとランバートにも言われます。でも実を言うと……彼への手札も拾いたいと思っていたの。朝から嫌な話題を振られてばかりで……」
嫌な話題というのは、もちろんケヴィンの話だ。泣くぞと脅しても一時しのぎなのだ。隙を見せると直ぐに振ってくる。ケヴィンの何を知りたいのか、知ってどうするのか、さっぱり意味が分からない。
苦笑すると、ヘインズは納得したようだった。
「なるほど。ここでレイゼン殿の弱みを握って、やり返してやろうと?」
「ええ、そんなところです。でも……本当に興味深いとも思っているの。そういう話を聞いていると、やっぱり、生まれながらの偉人はいないんだなって、そう思えますから」
「生まれながらの、偉人……ですか?」
「……あなたは素敵な紳士です、ヘインズさん。部下を扇動される様も見事で、勝手ですが完璧な方だと思っていました。でも、あなたにも完璧じゃない過去があるんですもの。過去の教訓の上に立っていらっしゃるんだわ。誰だって完璧な人間になって生まれて来るわけじゃない」
「過去の、教訓……」
「ええ」
ディクシードもそうだ。彼は本当に、誰から見ても、心底パーフェクトな人で、彼こそ史実に名を残す偉人なのだ。
だが、そんな彼にも隠したい過去がある。ミゴーでのヘインズの話は、おそらく、そのほんの一辺にしか過ぎない。
「ところで、コマチ殿。先ほどの水の話ですが――」
おっと、危ない。ついつい自分の思考に陥りそうになって気を引き締めた。
ヘインズが部下を遠ざけたのは、たぶんこっちがメインなのだ。聞き出してやろうと考えていたはず。
御仁の志に呼応する騎士は、いったい誰の部下か。言わずもがなだ。
さてさて困った。ヘインズほどの人をどうやって抑えようか。子供たちが戻ってくるまで……
◇◇◇◇◇◇
同刻。コープレイのとある場所。
ある男の元に簡素な封に入った一通の書状が届いた。差し出し人の名はなく、蝋印もないが、開封した形跡はない。
扉を閉めた男の部屋に紙を裂く音が響く。
取りだした書状を開けば、知った男の筆跡が並んでいた。この字を目にしたのも、ついぞしばらくぶりだ。
「いよいよ動けるというわけか、ジェトラー」
長かった。
五年……いや、もっと以前から、この時を待ち続けてきた。
本当に長かった。
「疑わしき娘、か」
可能性があるだけでも満足だ。空振りでも構わない。
そう思えるのは長く待ち過ぎたせいだ。もはや我慢しているだけの現状に心底うんざりしている。
書状を読むにつれ、男の唇は歪な弧を描いていった。




