第56話 U + Ur Hand
甚大な被害が出ている熊本地震。多くの方々が被災し、尊い命が奪われました。犠牲になられた方々に謹んでお悔やみ申し上げるとともに、被災地の皆様、近隣県の皆様が少しでも早く心休まる時がきますようにと、心からお見舞い申し上げます。
「あんた達が、こんなに早く着くからだっ!」
「テメッ、余計な事をっ!」
「だってそうじゃないかっ」
「うるせぇ!! それ以上吐いてみろ、ぶっ殺して――」
窃盗犯達の怒鳴り合いは、そこで途切れた。派手な水音と共に。
尋問官に容赦なく水を浴びせられたからだ。浴びせると言うより、むしろ“ぶつける”と言っても過言ではない。
「うるさいのはあなた方です。女性がいます、過激な発言は慎んでください」
パリスは空になったバケツを放り捨て、小町に視線を投げてみせた。しかし、当の本人は尋問になど全く興味がないようで、マイロの傍で胡坐をかき、上空を見上げながら歌を口ずさんでいる。意味不明な言葉と珍妙な音程は、かすかにパリスの耳にも届いていた。
あの娘も一応は女性。
「今後、物騒な発言があるようでしたら、遠慮なく飲んでいただきますから、そのおつもりで」
本気と察したらしく、滑稽な男どもはヒッと息を呑み、縛られたまま後ずさろうと足掻いている。水は毒だと知っているからだ。頭から浴びる事さえ嫌だろうが、わざわざこの村の水が“清い”と教えてやる義理はない。
先ほど捕らえた若者に視線を戻すと、ゴクリと生唾を呑んだ男は、無言の吐けという圧力に屈し、ポツポツと喋り始めた。
「あんた達が来るのは……もう少し後だと聞いていたんだ。そしたら……万事うまくいったんだよ」
すっかり勢いをなくし、小さな声で言うのである。他の窃盗犯も野次を飛ばそうとはしない。
「聞こえませんね」
吐き捨てるようにパリスは言った。聞こえているが、なお圧力をかける。
「飲みたくなければ聞こえるように喋りなさい。水桶に顔を突っ込んでみますか?」
勘弁してくれとばかりにブンブン首を振り、若者は声をふとめた。
「本当は、あんた達が来るまでに、所定の持ち場に戻る段取りだったんだ。何事もなかったふりをしていれば、誰にも怪しまれずに済んだ。荷を隠して、家の中を誰が見たって違和感がないように……そしたら、本当にうまくいったんだ」
なのに、なのに、あんた達が早く到着したせいで、計画が狂った。
若者は言い、パリスは再び小町を一瞥した。
確かに、予定よりもずいぶん早く到着した。本来であれば、あの娘のとろくさい足並みに合わせ、この村に到着する時刻は遅れたはずだった。そのつもりで予定も立て、この村の自警団にも連絡を入れていたのだ。彼らには、“化け物が到着する”という心構えが必要であり、今回はそれを利用された格好だ。
しかし結果として、それが大幅に前倒しとなった。もしも予定通りの到着となっていたなら、この男が言うように、到着時には異変に気付く材料は完全に消えていただろう。いくら我が主君であっても気付く事はできなかった。
幸運にも、あの娘が気まぐれでマイロを走らせてくれたおかげで、異変に気付けたというわけだ。
魔女が幸運を運ぶとは何たる皮肉だろうか。そんな逸話がどこにあるというのか。人々に恐怖を植え付けるのが魔女だ。厄災と業火による恐怖。それこそが魔女の象徴だ。
それをまさか幸運とは……笑い話ではあるまいに。
もしや、先見とやらだろうか。
「幸運か」
ボソッと呟けば、口元が皮肉な形に弧を描いた。それを見た若者が、またヒッと息を呑む。
恐怖の笑みと映ったのか? バカが。
さっさと吐け。洗いざらい。
「殿下が足を運ぶと知りながら、よくもまぁ大それた計画を立てたものです。あなた方は、あの方の恐れを知らないのでしょうか?」
「…………」
「…………」
「言っておきます。殿下が戻られるまでに、知っている事を全て話していただきます」
主君の手を煩わせるつもりなら、その時は覚悟しておけ。
「異議は認めません。我が身が可愛いなら、順に話すのが賢明でしょう」
そうだろうと若者に問いかければ、観念したように彼は何度も頷いた。
「では、あなたからです。自警団の顔だと聞いていますが……所属を言いなさい」
「……シナだ」
「ならば、情報を流したのはあなたですか?」
「……そうだ」
若者の小さな返答とは別に、依然として、娘の珍妙な歌がパリスの耳に届いている。
◇◇◇◇◇◇
「I'm not here for your entertainment――」
小町は、気に入りのロックナンバーを口ずさんでいた。尋問には本当に興味がないから、気晴らしの意味がある。内容に興味はあっても、尋問方法なんて知りたくはない。だから、そっち方向は見ないようにしている。水音に驚いて振り向いたけれど、今は見ていない。
“見ない”、“聞こえない”と揃ったものの、どうしても、“気にならない"が揃わない。性分であるが困ったものだ。
ランバートから聞いた限りでは、パリスは水責めをしたわけではなかった。失神中の犯人を起こす際、豪快にあびせただけのようだ。さっきの容赦のないかけ方だって、あの程度は許容範囲内である。避難のどさくさに紛れて盗みを働くような輩なのだから、いっその事、バケツごといってしまえとも思う。
当たりようが悪ければ失神どころではないだろうから、まぁ、なしだけど。
とはいえ、パリスならやりかねんとランバートは言い、小町もそう思った。あの男は手段など選ばないだろうと。そこのところは、御仁の兵がいる手前、まっとうな尋問をするというのがランバートの見解で、もしもの時は、ヘインズが何らかの対処をするという事だった。
どのみち、あの青年が全て吐いてくれるだろう。どこか気弱そうだし。
伝令だってヘインズの部下が走り、今後の心配も騎士達がいれば無用のように思える。ディクシードの指揮の元、パリス、ランバート、リディオらが的確に動き、窃盗団は直にお縄になるはずだ。
水責めの心配もなく、今後の心配も軽くなり、よって、とにかく気分が良かった。
ここで得られたものは、とても大きい。騎士達の連携プレー。ディクシードとの会話。皆の迅速な動き。
素晴らしい。
「You don't really want to mess with me tonight――」
この曲は、Uh uh uh uh ……という悩ましげな女性の吐息から始まる曲で、アメリカ出身の女性歌手の歌だ。歌い出しこそ意味深な吐息だが、サビの部分の疾走感が半端なく、大好きだった。歌詞は、男をあしらう女性視点のものだけれど、リズム、音、スピード感は抜群。数年前にヒットした曲で、サビの部分を聞くとバイクに飛び乗りたくなる。
実を言えば小町の歌の好みは、遅れた人間と言われるようなものだった。アリッサとジェニファーからは、そう言って笑われている。けれども、何年代、何年代と区切られる歌は、耳によく残るメロディーがいい。笑われようとも好きだった。
ケヴィンも、古いディスコナンバーを好んでいた。小町に合わせる為に言ったのかと思ったが、彼の部屋にはたくさんCDがあったし、スリージーも彼の歌の好みはオヤジだと言っていた。だから時折、一緒になって昔の歌を口ずさんでいた。
かといって二人とも、若者と括られる世代なのだから、最近の曲も知っている。気に入っている曲も多数ある。この曲は少し古いかもしれないが、ヒット曲であるのだから彼も当然知っていたし、疾走感がいいよねと意気投合した事だった。
個人的には、歌手本人も好きだ。P!NKという名の歌手で、ベリーショートの髪型や、黒いボンテージが似合う女性なんてそういないし、ハスキーな声が魅力の彼女は、たくさんのヒットナンバーの持ち主でもある。アルバムだって持っている。
この歌はその中の一つ、“U + Ur Hand”という曲だった。
「Just stop and take a second――」
小町にしてみれば、ケヴィンの事を思い出して感傷にひたっているわけではない。ウジウジうだうだ悩むのは性に合わず、一晩寝ればスッキリできるタイプの人間だ、と自分では思っている。この歌を口ずさんでいるのは、単純に好きという理由からだった。今の気分にピッタリだ。
楽観的な小町は、窃盗犯らを視界から排除し、綺麗な空だなと、ポヤンと上空を眺めながら口ずさんでいた。あまりの気分の良さに、ついつい体を揺らしてリズムをとりたくなる。
すると青空の中へ、前触れもなくタンブラーが現れた。ずいっと。
「ほらよ、音痴。胡座をかくな」
音痴じゃない。たぶん。
「Thanks a lot.」
「今のは、ありがとうって意味か?」
「そうよ」
「へぇ。当たってたか」
受け取ったタンブラーを開け、水を一口飲んだ。リディオが見せた“捕り物劇”は素晴らしく、興奮そのままに、いっきに飲み干したせいで空になって、呆れたランバートが汲んできてくれたのだ。
彼は年寄りくさい所作で隣に腰を下ろし、小町は歌うのを止めにした。
「テンクサ何だって?」
クスクス笑った小町は、もう一度、“Thanks a lot.”と口にした。彼は、何度も口の中で言葉を転がしていたが、ついに発音に挑戦し始めた。
センクサ、テンクサ、テンクサロ、と。
「どうだ? 近いだろ?」
「んー……近くない」
お手本にと再度発音してみせれば、今度はレロレロ言っている。吹き出したくなる衝動を抑えて、胡坐の上に肘をつき、彼の様子を可愛いなぁと、のんびり見守る事にした。
本当に、可愛い。キュンキュンくる。
きっと彼の恋人は、こういう飾らない所を見て、至上のキュンキュンを味わうのだ。申し訳ないけれど、今は、そのキュンキュンを少しだけ分けてもらおう。恋人がいるならば、だけど。
ああ、癒される。
「だぁ! 分からんっ」
あらま、止めちゃった。ほんの一分たらずで断念したようだ。
「もう止めちゃうの?」
「無理だな。早すぎて舌がもつれそうだ」
「そう? そんなに早くないと思うけど。だってほら、この国の言葉も似たような早さでしょう?」
何せ英語とは、とてもよく似ているのだ。置き換えだってできる。
しかしランバートは自覚がないようで、そうか? と首を傾げていた。
「さっきの歌もサッパリだった。音も妙だったし、あんたが音痴という事がハッキリしたぐらいだな」
「音痴じゃないわよ、失礼ね。あなたにしてみれば聞き慣れない音ってだけよ」
「ま、それもあるかもな。どんな詩だ?」
「えっと……」
バーで絡んできた男の人と、男の人のその手が鬱陶しいと文句を言う詩である。
あんたのお楽しみの為にここに居るんじゃないんだよ。私は一人で酒を飲んで楽しんでるんだから、あんたは自慰でもして寂しく自分を慰めてな。っていう感じで。
これが小町とケヴィンの解釈で、自慰の部分は飛躍しているかもしれない。でもあながち、外れてはいないと思う。“ユー・アンド・ユア・ハンド”というタイトルからして、それを連想させる。
――君なら言いそうだよ。あっちへ行って自分で慰めろってね。で、股間を蹴り上げて終わり。
――股間はともかく、露骨な言い方はしないわよ? 期待させちゃいそうでしょ?
――だったら、投げ飛ばして終わり。でも例えば、絡んでる相手が僕なら、君は何て言って断るんだい? 投げないだろ?
――んー、そうね。こういうのはどう? 私の手と遊んでみる?
――いいね! 最高だよ、それ!
ピロートークでもなんでもないのに、二人して言葉遊びを楽しんでいた。適度な刺激と、適度な甘さ……
おっと、いけない。気が緩むと、すぐにケヴィンの事を思い出している。ランバートにどんな詩かと聞かれていたのだ。
「いい詩よ。すごく」
過激だけどね、と心の中で付け加えておく。仰天するだろうから、そういう事にしておいたのだが、彼は妙なところが鋭い。
「間をとったが、あんた、何考えてた?」
「…………。いい詩について」
「嘘言え。婚約者か?」
「だから、いい詩についてだってば」
「ほう。その歌に思い入れがあるらしいな」
「それ以上言ってみなさいよ。大声で泣いてやるから」
フンっと言い捨てると、彼は複雑そうに眉を寄せ、ポリポリと頬をかいた。泣かれるのが嫌なのだ。
「あー、わかった、わかった。この話はナシだ。機嫌をなおせ」
「もう遅いわよ」
「ったく、あんたが泣くようなタマかってんだ」
「私だって泣きたくなる時もあるわ」
「へいへい、そうですか」
「そうよっ」
せっかく可愛いくてキュンとしたのに、今は全然可愛くない。ムカつく。
ジト目で睨んでも彼は気にする様子もなく、自分のタンブラーからグビグビ水を飲んでいる。
「やべ。俺も汲んでくりゃ良かったか」
どうやら空になったらしく、タンブラーを片目で覗きこんだ彼は、チッと舌を打った。今度は小町が汲んでくる番だと名乗り出たのだが、直に断られてしまった。井戸の水汲み体験がしたかったのに、非常に残念だ。
「あんたは大人しくしてろ。おい、リディオ、水!」
ランバートは、まるで女房にでも頼むかのように副官を呼びつけ、汲んで来てくれとタンブラーを掲げて言った。リディオも面倒臭そうに歩いてくる所を見ると、嫌々ながらでも、ちゃんと応じる気のようだ。
「なんか、奥さんみたい」
「あいつがか?」
「そう。あなたの世話焼き女房」
「ははっ。かもな」
男色家じゃないと文句を言うかと思いきや、ランバートはカラカラ笑っている。小町のジョークを気に入ったらしい。
「残念だわ。リディオのお嫁さん計画は早々に諦めなきゃね。コブ付きだなんて論外よ」
「コブってのは、俺の事か?」
「当然」
「そのコブも欲しいんだろ?」
「嫁入りとは別問題。一夫多妻は反対派だと覚えといてね。一夫一妻に尽きるもの」
たわいない会話を楽しんでいると、リディオがやってきて、タンブラーを無言でむしり取った。その目が上官を見やり、自分で汲みに行けとモノ申していたが、上官はニタら顔で見上げている。
リディオを冷やかして遊びたいと、顔に書いてあった。
「やぁね。ラブラブじゃないの」
「あ? ラブラブ?」
「何ですか、それ?」
同時に尋ねられ、小町は丁寧に教えてあげた。二人の仲睦まじい様がアツアツで、あてられてしまったのだと。要するに、その睦まじげな様をラブラブと言うのだと。
「たちの悪い冗談ですね」
心底嫌そうにリディオは言った。
「お前が世話焼き女房に見えるらしいぞ」
そう答えたランバートは、完全に面白がっている。
「隊長の? 勘弁して下さいよ。男の世話なんてごめんですから」
「おいおい。副官ってのは、世話焼いてなんぼだろうがよ」
「まぁ、否定はしませんけど……どうせ焼くなら、美女のがいいですね、やっぱり」
「悪かったな、美女じゃなくてよ」
「まったくです。出直してくれませんか、性別ごと」
ありゃりゃ、ふられちゃった。
「女装じゃダメかね?」
「…………」
「紅もさすぞ?」
「いいかげん、気持ちが悪いと思いません?」
小町はケタケタと笑っていた。この二人の漫才は、いつ聞いても飽きない。
リディオのノリの良さは完璧で、切り返しだって絶妙だし、うんざりした口調は素晴らしいの一言に尽きる。彼のユーモアのセンスは間違いなく高い。ボケに対する突っ込みなんて、いつだって高得点なのだ。漫才ともなれば満点レベル。
笑わずにはいられない。
「姫君の機嫌が直ったところで……リディオ、水だ、水」
「はいはい。行ってきますよ」
「んで、汲んできたら進展を聞かせてくれ」
「あー、はいはい」
ランバートが何か言うたび、嫌そうに“はいはい”と繰り返すリディオ。なんだかんだ言いながらお世話をするのだから、やはり彼は世話女房である。
ちょっといけない妄想をしそうなカップルだ。お似合いとは言い難いけど。
「言っとくが、男色家じゃねぇぞ」
「分かってるわよ、もちろん」
「あいつの名誉のためにも言うが――」
「リディオも違うんでしょ? 女性が好きみたいね。それも美女だなんて欲張りだわ」
彼もきっと、モテるんだろう。だから堂々と欲張れるのだ。
「面食いだからな、あいつは」
「あなたは? あなたも面食い?」
「…………。…………」
はい、無言。つまんないの。
ちょっとぐらい口を滑らせてくれればいいのに。好みのタイプを聞くぐらい、いいじゃないの。
自分が喋りたくない事は徹底して喋らない主義の小町だが、すっかり自分の事など棚に上げ、あーつまんないとボヤいたのだった。
◇◇◇◇◇◇
暇だ。暇すぎる。
草地にゴロンと寝転がった小町は、一人、ひなたぼっこに興じていた。ランバートとリディオは、二人してパリスに呼ばれ、話の途中で向こうへ行ってしまった。暇つぶしのストレッチも終え、マイロとサイロのブラッシングも終え、喋り相手もおらず、結果、ゴロゴロと暇を持て余している。
本でも持ってくれば良かった。こんなに時間が余るとは、思ってもいなかった。見学ばかりで暇なんてないと思っていたのに。
途中まで聞いたリディオの話では、窃盗団の若者は、パリスにビビりまくり、存分に吐いているそうだ。なんでも、予期せぬスピードで小町が気ままにマイロを走らせたのが良かった、と彼は言っていたけれど、小町にしてみれば褒められたなどと思えなかった。
度々煽ってきたのはランバートだったし、彼の意図だって高見の見物ぐらいのもので、早く到着する為ではない。はっきり言って偶然の賜物であり、運が良かっただけだ。それでもまぁ、小町もランバートもリディオも、皆が結果オーライとして片付けた。運も実力のうちだと言ってみせれば、二人ともその言い草を気に入っていた。
その他に分かったのは、このミゴーの村の他に、ガーデルード近隣の三つの村に、窃盗団が潜り込んだという事だった。どの村にも自警団に成りすました招かれざる客が、窃盗を働くべく、ひそかに潜り込んでいるというのだ。
先に出しておいた伝令は、その村にも順に走る予定であるが、やり口までは伝えられておらず、新たな伝令を走らせるかどうかは、未だ決定していない。
パリスは、根城ごと一網打尽にする気のようだとリディオは言っていた。だから、引き出せる情報を可能な限り引き出し、内容を判断した上で、伝令を追って走らせるつもりなのだろう。あるいは、ディクシードの判断を仰ぐつもりなのか。
どうするつもりなのかしら? と小町が口にしたところでパリスの声がかかり、その後は不明。記章のことや、シナの詰所とやらの話も聞きたかったけれど、こればかりは仕方がない。
今現在も、パリス、ランバート、リディオの三人は、おバカな犯人達の眼前に張り付いている。気弱そうを通り越し、可哀想なほど、パリスを見つめる目が怯えている。
リディオいわく、“泣く子も黙るパリス・オーディリック”という存在が、効果大のようだ。小町の心のメモには、“泣く子も黙るブラックパリス”と変換されているけれど。
「いいお天気ねぇ、マイロ」
あまりにも暇で、ゴロゴロしながら黒馬に話しかけてみた。むろん、返事などない。彼は、柔らかい草を上手に選び、ムシャムシャと咀嚼中である。何度目かの寝返りを打ち、雲一つない青空を見上げていた。
湿気のない草地というのは、ベッドとしては最高だった。衣服が濡れる心配もいらず、乾いた草が付く程度。パンパン叩けばそれで終わりだ。草の匂いも悪くない。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出して目を閉じた。
「本気で寝ちゃいそう」
呟いた時である。近くで忍び笑いが聞こえ、慌てて身を起こす事になった。
いつからそこに居たのか、ハンソン・ヘインズが小町を見下ろし、穏やかに笑んでいた。
一気に目が覚めた気分だ。
「申し訳ありません、つい笑っておりました。私の主人に殿下が申されていた言葉を思い出したものですから」
御仁に? ディクシードが?
「あなたは、猫のようだと」
「猫……ですか?」
「ええ。気ままな迷い猫だと。おそらくは、天真爛漫を絵に描いたような方だと仰りたかったのでしょう」
天真爛漫。それって、どうなの?
冷静沈着が理想である。それにディクシードには、犬だなんだと言われている。非常にビミョー。
「レイゼン殿が随分とあなたを気にしていたので、様子を見に来てみたのです」
で、ゴロ寝をする娘を発見した、というわけだ。
確かに、ひなたぼっこでゴロ寝を楽しむのは、猫の特権かもしれない。
だって、気持ちがよかったから……
言い訳めいた事を思いながら、小町は赤くなって俯いた。さすがに、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「気晴らしの話し相手にと思いましたが、お邪魔でしたか?」
いくぶんか和らいだ口調でヘインズが問いかけてきた。親しみを感じたとでも言うように。
気にかけてもらった事に礼をいい、どうぞと隣をすすめた小町は、衣服についた草を大雑把に払う。するとまたヘインズが笑い、傍らに膝をついて言った。
「そのように叩かれては痛いでしょうに……。髪にもついておりますよ。ご不快でなければ、私が」
「……お願いします」
小町が頷くのを見届けたヘインズは、絡まっている草を丁寧に取り除き始めた。対して小町は、妙にフワフワした気分になる。
ランバートのように雑に扱われる分には平気なのだが、どうもこう、勝手が違う。こんな紳士然とした男性に触れられるともなれば尚更で、どこか夢見心地というか、乙女心というか。
少なくともヘインズは、小町が好む“紳士”であるのは明白だった。ケヴィンに言わせれば、小町のストライクゾーンは広いそうで、何かある度、“気の多い婚約者を持つと大変だ”と冷やかされていたものだが、ヘインズもその対象となったはず。
雰囲気は柔らかく、とても穏やかであるのに、どこかピンとした気配を纏っている人だった。リディオがもう少し歳をとると、きっと、こんな男性になるのではないかと思わせる雰囲気だ。
髪をすく仕種は本当に丁寧で、御仁同様に、奥様や恋人を大事になさっているんだろうなと想像させるものがある。その点においては、結婚願望のないリディオとは大違いだけれど。
首筋に触れる指がくすぐったく、小町が肩を竦めると、気遣わしげな声が痛かったかと問うてくる。
「いえ、平気です。くすぐったくて、つい。それに、慣れていらっしゃるようですもの」
「慣れ、ですか? 言われてみれば確かに……この手の事には慣れているかもしれません。子供が二人おりますので」
「まぁ、お子さんが? おいくつですか?」
「十の息子と、八つの娘が一人。娘の方は最近までお転婆の盛りで、よく走り回っておりました。今でこそ流行り物に興味を持っていますが、あの頃は、結いあげた髪に草をつけて帰ってくることもしばしばで……それで妻に怒られ、私の元に脹れっ面でやって来るのです。懐かしいものです」
語られる話は、非常にのどかで、それでいて慈しみに溢れている。彼がどれほど娘さんを大事にしているか、娘さんが彼をどう慕うのか、目に浮かぶようだった。
とはいえ複雑である。娘さんは八歳で、既にお転婆の盛りを過ぎ、流行に興味を向けている。しかし当の小町は……
「なんだか複雑」
冗談めかして膨れて見せると、ヘインズが笑いながら小町の肩を優しく叩いた。たぶん彼は、そうやって娘さんをなだめているのだろう。
「とれましたよ、たくさん。次に寝転がる時は声を掛けて下さい。上着をお貸ししましょう」
「こんな所で寝るなとは仰らないの?」
「それは私の役目ではありませんので。……私が今でも殿下付の近衛であったなら、そのように忠告もしたでしょうが、今はレイゼン殿とベンに任せておかなくてはなりません」
ベン? そうか、ベンガッセンという姓だから、リディオの事だ。
「でしたら、前もってお借りする事にします」
愛情たっぷりの提案を、ありがたく受けておいた。さすが御仁の兵。完璧な紳士ぶりである。パパぶりと言うべきか。
「ヘインズさんは、近衛でいらしたの?」
「ええ。七年ほど前までは」
なるほど。だからランバートと砕けた話をしていたのだ。ディクシードとも、やはり面識があった。
「とは申しましても、当時から、殿下には近衛など無用とされておりましたから、私が近衛騎士であったとは言い難いものがありますが」
「当時から? という事は、今も近衛は無用だという話があるのですか?」
「むろんです。殿下のお力に敵う者はおりません」
彼はランバートと同じ事を言った。さも当然だと。
では、どうして三十名もの騎士が?
かねてから感じていた疑問が浮かび、ランバートに聞きそびれている事を、少し尋ねてみようかと思った。
その時である。ヘインズが妙な事を言うのだ。
「事実、近衛が不在という期間もありました」
近衛が、不在?
不在と言わなかったか?
「ごめんなさい。聞き間違いでなければ、近衛が不在だったと聞こえたのですが……」
三十名は多いように思う、だからといって、ゼロというのは有り得ない。いくら強くとも、彼は生まれながらの王子である。そんな人物ならば、少なくとも、ニ、三名の騎士は傍にいるべきだろうし、多くても十名というところだ。
ゼロなわけが……
小町の思いとは裏腹に、ヘインズは穏やかな笑みを浮かべたまま、確かに頷いた。
「聞き違いではありませんよ、コマチ殿」
「では、彼を警護する騎士は……一人もいなかったと?」
「はい。私が殿下に付く以前までの話です。その頃は、第一王子の近衛騎士という名誉を預かる者は、誰一人としておりませんでした」
どういうこと?
クエスチョンマークがポンポンポンッと頭上に浮かんでいる気分だ。考えれば考えるだけ、疑問符が増えていく。
「納得されていないようですね。お察しします。殿下に近衛騎士が付くようになったのは、オーディリックの働きが大きいのです。そして、私の主人であるブライバスも」
パリスと御仁が?
更なる情報は、疑問を一層増やしただけで、どこかに結びつくことはない。小町の頭の中はあらゆる情報が交錯し、もはや収拾不可能となった。
ダメだ……
このままじゃ……
「あの、ヘインズさん。私、そういった話は詳しくなくて……よければ、経緯を聞かせていただけませんか? 私のような者でも、知っておいてかまわない範囲でけっこうですから」
「心配なさらずとも、この話は民も知るところ。私が答えたところで差し支えはありません。それにあなたは異国から来られているのですから、御存知ないのも仕方がない」
なだめるように、またヘインズが小町の肩に触れ、そうしたかと思えば、やや低めた声で言うのである。目からは笑みが消え、口元からも穏やかさが消えた。
「しかしながら、込み入った話になります。あなたは誠実を求める方だとブライバスから聞いておりますので、私としても、話すならば正直に話すつもりでおります」
「…………」
「御不快だと感じられる事柄もありましょう。相応の御心づもりは必要かと」
これから語られる話は、単純な話ではない。聞くなら、覚悟して聞け。彼は言外にそう言った。
第一王子に、なぜ近衛騎士が付かなかったのか、という話だ。そもそも小町も、単純だとは思っていない。
そして間違いなく、ディクシードの過去にも触れるはずだ。もしかすると、彼が閉ざしたいと言った過去にも触れるかもしれない。
どちらにしろ、この期を逃すつもりはなかった。
「教えて下さい」
悲惨な話かもしれないと覚悟はしていた。
しかしそれでも、この後ヘインズが語る話は、小町を戦慄させる事となる。
この時の小町には、到底、想像だにできない内容だった。
ご覧いただきありがとうございます。
未だ余震が続いておりますが、このような時期に更新することを少しばかりためらいました。
作者の祖母が大分県のお隣、宮崎に住んでおります。それも宮崎の北部でして、一度目の前震、二度目の本震ともに、大きな揺れを経験したそうです。幸いにも一家の無事が確認でき、作者も一安心した次第ですが、依然として祖母宅にも余震は感じられるようで、深い眠りにつけない日常が続いております。
祖母が大好きで、彼女の背中が曲がったのは、幼い作者を毎日おぶっていたからではないかと思っている作者は、祖母の声を聞き涙が出そうになりました。そんな私に、祖母が言ったのは、「熊本や大分の震源地は、こんな揺れやなかったやろねぇ。生きた心地がせんやろと思う」という言葉でした。
おお、また揺れた。おお、また揺れたと怯えながらも、祖母はそう言っていました。
そんな祖母に対し、「おばあちゃん、なんとか頑張ってね」と、作者はそれしか言えませんでした。恐ければこっちに帰ってこいと言葉はそこまで出かかっていましたが、家族を残して帰ってくるのを良しとしない祖母で……
祖母の言葉を思い出し、私にできる事はないのかと、何度も自問自答を繰り返しています。
一日も早く、被災地の皆様に日常が戻ることを、ただただ祈るばかりです。




