第47話 小会議
ソファーに放り出された小町は、ディクシードをキッと睨み付けた。
「横に抱けって言ってるでしょう!」
「言ったはずだ。上背のある人間を横に抱けば、腰を違えるものだ。縮んでから言え」
ムカつく!
いかにも並みの男の言い分だ。もっともだとも思う。前にも聞いたセリフだが、あの時は本当に並みの男だと思っていた。
しかし今は――
「あなた、私なんかよりよっぽど怪力じゃない! 何が腰を違えるよ! 笑わせないで!」
担がれた事で気付いた事実がある。ついさっきだ。
彼は、怪力な小町がどれほど暴れてみても、がっしりと腰を押さえつけて放さないのだ。それも、たったの片手一本でだ。ピクリともその腕は動かず、暴れれば暴れるだけ、小町の方が辛くなるほどだった。
それだけでも尋常ではないというのに、呼吸を上げもせず、兵舎からここまで歩いてきてもいる。とてもではないが、並みの男ができる所業ではない。
生気でも使っているのかと思ったが、そんな様子も全くない。その証拠に、小町は気絶していないのだ。ランバートの並外れた生気はおろか、騎士達の生気に触れるだけで、呆気なく失神してしまうというのに。だからディクシードは、生気を使っていないのである。
考えてもみれば、ガーデルードの森で魔物に襲われた時、彼は小町を抱いたまま応戦し、魔物を仕留めてもいる。あの時の小町も失神せず、彼に必死にしがみ付いていた。ディクシードは、生気を使わずに魔物を仕留めたという事になる。
たいそうな荷物を片腕に抱きながら、生気を使わずに魔物を仕留めるなどと、果たして並みの男にできるだろうか。
小町の導いた答えは否だった。きっと逃げるだけで精一杯なはずで、応戦など無理な話だ。もしかするとランバートなら多少の応戦は可能かもしれないが、おそらく長くは続かない。泉から歩いてきた後ともなれば、尚更続かない。
つまりディクシードは、常人ならざる怪力の持ち主という事になる。小町と同類――いや、それ以上の怪力だ。
そんな男に腰を違える心配など必要ない。人助けの為なら率先して使うべきだ。少なくとも、小町にとっての助けにはなる……はずだ。
「いいこと、ディックス。今度抱くなら、横に抱きなさい!」
長身の男に向かってビシッと指を突き付け、声高に言い捨ててやる。すると、エメラルドの宝石がスッと細められた。
「何か言いたそうね」
「お前の思惑を当ててやろう」
「…………」
「横に抱かれれば、私の両手が塞がり、その分私に隙ができると考えている」
「っ!」
「際限なく暴れ、その隙をついて逃走しようと考えている」
「…………」
「それに加え、尻を人目に晒さずに済むとも考えている」
ものの見事に言い当てられ、小町はたまらず歯噛みした。この男、やはり脳内を覗いているに違いない。
「よほどその尻に不満があると見える。言っておくが、お前の尻に気を遣ってやる気はない。まぁ確かに、担ぐ私も絶景とは言えん。多少の起伏があってもいいだろうとも思う」
涼しげに小町を一瞥したディクシードは、そう言って視線を窓際へ投げた。テーブルの上には昼食のトレーが準備されている。
「お前の言うアドバイスとやらをしてやろう。よく食を摂ることだ。食の細い者は体も薄い。食わないなら、その尻に望みはないぞ」
「っ! 尻尻尻尻うるさいっ! この変態っ!」
鼻息も荒く窓際のテーブルについた。トレーの上蓋に手を掛けると、待っていましたとばかりに灰色の猫が窓台へ飛び上がる。その後に白猫も続き、中身を見せろと身を乗り出してきた。
つい今しがたのディクシードへの怒りを放り投げ、小町はヘニャヘニャと頬を緩ませていた。いやはや可愛らしい。相手にするなら、可愛げのない男よりも、この猫達の方が断然いいというものだ。
早速パンを千切って置いてやると、我先にと灰色の猫が引ったくっていく。白猫の方は好物を目にして安心したのか、ちゃんと腰を下ろして待っていた。何とも行儀のよろしい姿だが、しかし尻尾だけは、パシンッ、パシンッと窓台を軽快に叩く。無言の催促である。
「はい、どうぞ」
パンを置けば小さな口で咥え、チラッと小町を一瞥した後、偉そうにクンっと顎を上げて見せる。これは、この猫なりの“ありがとう”なんだと、小町は勝手に解釈した。
その後白猫は窓台を飛び降り、ソファーの定位置を陣取って、優雅に寝そべりながらパンを食べ始めた。灰色の猫の方は、次のご相伴に預かるために窓台でハムハムと咀嚼中である。
小町も腹が減っていた。いただきますと呟いてパンを食べた。この城のパンは本当に美味しい。イギリスのパンは、全体的に無味無臭。これほど柔らかくもなく、ジャムやクリームを付けるものがほとんどだ。それで育ってきたイギリス国籍の小町からすれば、何てことはないいつものパンなのだが、きっとこの猫達はお気に召さないだろう。
そう言えば、一樹のガールフレンドと一緒にカフェで食べた日本のパンも、それはそれは柔らかく、ジャムも挟んでいないのにしっかりした味で、かなり美味だった。フレデリックにも食べさせてあげたくて、いくつも買って帰った覚えがある。また食べたいものだ。
いつの間に出て行ったのか、ディクシードの姿はなくなっていた。彼も昼食をとりに行ったのだろう。
広間で食べようと言った時の、あの妙な空気を思い出した小町は、ここで食べればいいだろうにと小さな反感を抱いた。よほど人前で食べたくないのか、はたまた、王族ならではの豪華な食事が待っているのか。
どちらにしろ彼には、誰かと共に食事をするという感覚がないようだ。それどころか、騎士達には、そんな発想そのものがないように見受けられた。
あの場には出先から戻ってきた騎士達も揃っていたが、小町が広間で食べようと口にした途端、皆が一様にディクシードの様子を窺い、警戒しているような、そんな様子を見せていた。主君が食事をするという事の、いったい何にそんな反応を見せていたのか。いまいち理解できない。ただの食事だろうに。
凱旋時にも共に食べる事はないのだろうか。必ずしも天幕の中で食事ができるとは限らないと思うのだが。
何とも不思議な主従関係だと思う。
サラダを口に運んだ小町は、ふと思いついてポケットから紙切れを引っ張り出した。丁寧に広げてテーブルに置き、それを眺めながらまたサラダを食べる。
その紙には、リディオや騎士達から仕入れた要人達の情報を書き連ねてあった。空いた時間に復習しておこうと考えたのだ。
小町は、自分自身の事を記憶力がいいなどと思っていない。少なくとも、見知らぬ人物の事を一方的にツラツラと聞いただけで覚えていられるほど、頭の出来はよろしくない。書いて、読んで、脳内で反復し、それを数度繰り返して覚えていく。
カリキュラムの講師達が覚えが早いと褒めてくれたのは、その成果の賜物であって、決して記憶力が良いわけではない。
紙には箇条書きにして八名分の情報を簡潔にまとめて記入していた。どの人物をとってみても、多くの功績を重ねてきた偉人ばかりで、国から栄誉ある称号を与えられているようだった。もっとも、その称号を聞いたところで、小町にはピンとくるものなど一つもなかったのだが。
「ベリントン侯爵エドワント・マルセナ・ブライバス卿。通称、“御仁”」
特に意図せず、一番上にある名を読み上げてみた。その下にはマルセナ領領主と書いてあり、更にその下に、ディクシードの後見人だったと小さくある。
この八名の箇条書きの中で、やはり一番気になっているのは、その人物のその行である。目にすると、またあの疑問が浮かぶ。
なぜ、王の子であるディクシードに、後見人が必要だったのか――
ディクシードに関する疑問は多く、知れば知るほど深まっていく。増えていく疑問は、王子だからという単純な答えで片付けられるものではなかった。
「ここで止まってちゃダメね。復習にならないわ」
この時間に詰め込めるだけ詰め込まなくては。
気を取り直した小町は、次の行へ目を向けながら、パンを口へ放り込んだ。
◇◇◇◇◇◇
パタンと扉が閉まる音がした。目を向ければ、ディクシードが戻ってきたところだった。
彼はなぜか、大判の紙を筒状に丸めたものと、小さな木の箱を手にしている。箱には見覚えがあった。対価の石を入れていた、あの箱だ。
また石が入っているのだろうか。
「その箱、対価の石が入ってるの?」
「…………」
返ってきたのは無言である。入っているのかいないのか、どちらか答えるだけでいいのに、無言だった。
そんな男は、黙ったままソファーへ腰を下ろし、ローテーブルの上に紙と箱を置いた。
横目で彼の様子を捉えつつ、小町はスープを一口飲んだ。どうせ無視されるだろうと分かっていたが、めげずに声を掛けてみる。ちょっとした期待があったからだ。
「そっちの紙は、もしかして、ガーデルードの地図?」
今度は、そうだと返事があった。無視されなかった事と、彼が期待を裏切らなかった事に喜び、小さく笑んでいた。
今朝方、生気の訓練に行く前、ディクシードに作戦の概要を教えてくれと頼んであった。本当は昨晩のうちに聞いておくつもりだったが、泣き疲れて眠りこけ、おかげで聞けずじまいになっている。返事こそなかったが、ちゃんと聞き届けてくれたようだ。
喜々として残りのパンを食べていると、慌てるなと小舅に叱られてしまった。見苦しかっただろうかと反省し、上品に口へと運ぶ。慌てず焦らず急いで食べる。見かけはゆっくり、しかし口の中は忙しなく。我ながら、本当に器用に食べきった。
そうして小町が歩み寄って行くと、ディクシードが丸めた地図に手を掛けた。広げようというのだ。
「ちょっと待って。先に聞いておきたい事があるの」
そう言って、小町はローテーブルに先ほどまで眺めていた紙を並べて見せた。彼には読めないものだ。
「リディオや、他の騎士達から仕入れた情報を、簡潔に書き留めてあるわ。今この城に来ている人達――つまり、会議に出席する人達の情報よ。読み上げるから、ちょっと聞いてて」
上から順に、一語一句間違えないように読み上げていく。その間ディクシードは黙って聞いていた。
「ザッとこんな感じよ。皆、偉人だという事は分かったわ。でも、この情報に足りないものがある。リディオも騎士達も、私に気付かれないようにって上手く伏せてたようだから、私もあえて聞かなかった。きっと、聞いても答えてくれないだろうと思って……あなたなら、確実な情報をくれるだろうし」
「懸命だな。聞くだけ無駄だ。おそらく、意図的に軍の情報を伏せている。ランバートかパリスの指示だろう」
何をとは言わなかったが、ディクシードも気付いたようだ。さすがに頭の回転が速いだけの事はある。
この紙切れの中には、軍に関する情報が欠如している。小町が騎士達に尋ねたのは、どんな人物が会議に出席するのかという事だったのに。
夕刻からの会議は、間違いなく軍部の会議であって、そこに出席する人物は軍を指揮する立場にある。それなのに、小町が仕入れた情報は、要人達の風評や功績ばかりだった。本当に欲しかった情報には、とても足りてはいない。
どんな人物がどれほどの兵を動かせるのか。軍内部の彼らの地位。でしゃばりではなく、好奇心でもなく、その情報が欲しかった。
なぜなら、それらを知る事で、ディクシードの立てた作戦を理解しやすくなるからだ。どこにどれほどの規模の兵が配置され、前戦となる自分の周囲の軍を、どんな人物が指揮をとるのか。
小町がどうこう言って左右される作戦ではないのは分かっているが、だからこそ、知っておきたかった。
「リディオとランバートが漫才をしてたんだけど、その時に気になる事を言ってたの。近衛騎士のそれぞれが、“小隊程度”なら、簡単に引っ張っていける人材だって」
問うように視線を投げてみると、ディクシードは小さく頷いた。彼のこの反応は、肯定の意味を持つ。
という事は、小町の知る近衛騎士の面々には、小隊を動かせるだけの力があるという事になる。あの頼りなく思えるアレンでさえ、それを指揮できうる人材という事だ。
「ランバートも認めてたから、私、本当に驚いたのよ。だって私からしてみれば……小隊っていうのは“程度”で括ってしまえる規模ではないから」
小町の中の小隊というのは、少なくとも三十名の人員からなる部隊の名称である。多ければ、五十名ほどで小隊と呼ばれる場合もあると記憶している。
近衛騎士の面々は総勢三十名。その彼らが個々に三十名の小隊を率いたと仮定する。その時点で、ディクシードの動かせる兵は、およそ九百名だ。あくまでも少なく見積もっての換算であり、五十名の小隊ともなれば、千五百名という規模になる。
だから小隊“程度”とリディオの口から聞いた時、愕然としたのだ。広間の中に集った彼らが、それほどの兵を動かせるという事実を目の当たりにして。
そして同時に、自分の驚きは見当違いかもしれないとも思った。あちらの世界の軍とこちらの世界の軍では、部隊の規模も名称も違いがあるかもしれないからと。
しかし、それは杞憂だった。あの後リディオはランバートに対し、騎士達を“班”に分けるのか“分隊”に分けるのかと問うていた。班ならば七、八名前後。分隊ならば十名から十五名前後だろうと予測し、彼がどのように人員を割り振るのかと様子を見ていれば、小町の予想通り、六名の人員からなる五つの班に割り振った。
それを見て確信したのだ。小町の把握している部隊の規模は、この国でもほぼ同等の規模になるのだと。
「お前になぜ軍の知識がある。本から仕入れたのか」
「違うわ、本じゃない。護身術の講師から教わったのよ。それに、知識っていうほどのものでもないもの。この国ではどうか知らないけど、私の国ではその程度の事は公開情報でもあるし、調べようと思えば誰でも調べる事ができるの」
「軍の規模が民にも公開されているのか」
彼の表情はいつもの無表情だったが、かすかな驚きを口調に滲ませていた。
「ええ。自国の軍や他国の軍についても、それなりに公開されているわ。もちろん機密の部分は伏せられているし、情報の改ざんだってあるかもしれないけど」
そこまでは小町もよく知らないのだと口にすると、ディクシードはソファーに背を預けた。
「ゴシンジュツとは何だ」
「体術よ。女性が身を護るための術と言うべきかしら」
「ならば、その講師は女という事か」
「ええ、女性だった。元軍人のって言えば、あなたは驚くでしょうけど、私の銃剣も彼女から教えてもらったの。軍部では修得必須の武術なのよ」
養女となって直ぐ、護身術を習い始めた。その講師は元軍人の女性で、英国国軍内部にて情報分析官として務めていた経歴を持っていた。体を動かすのが好きな小町に、軍ではこんな剣術も習うんだと教えてくれたのは彼女だった。そんな経緯もあって、彼女から銃剣を教わるようになったのだ。
男女平等だと言いながら、まったく前線には立たせてもらえなかったんだと、当時の彼女はこぼしていた。英国軍において、女性の軍人が任される職務というのは、どうしても限界があるんだと。
その頃の小町はまだ幼く、そうなんだと相槌を打つ程度で、彼女の憂いを理解する事はなかった。軍の話を興味本位で聞いてみたり、気になった事を遠慮もなくズケズケと聞いてみたり。
そんな小町に対して彼女は苦笑しながらも、いろんな事を教えてくれた。そうして軍の規模や部隊の規模といった基本的な情報を知る事ができたのだ。
「お前は以前、剣よりも殺傷能力の高い武器を携え、組織に所属している女もいると言っていたが、講師の事を指していたのか」
「そうね……確かに彼女を指してたかもしれない。志の高い女性は、きっと他にもたくさん居るし、軍とは別の組織もあるんだけど、私の中で彼女の存在は群を抜いていたから……。彼女との接点があったのは、小さい頃の事だったの。でもね、当時の私の目から見ても、彼女は凛としていて、カッコ良くて、それなのに可愛らしくて、とても……軍人らしい女性だった」
外見だとか、体力だとか、そういう話ではなくて、内面的な意味でだ。内緒という言葉を織り交ぜながら、広言できない話には口を閉ざしていたのを覚えている。彼女の話を聞きながら、あぁ、この話は深く聞いてはいけないんだなと、子供ながらに教えられていたように思う。
軍から離れても尚、国の機密に徹底して口を閉ざすという姿勢は、やはり軍人という誇りを持った気高い人だったんだと、今でも思う。
「話が逸れちゃったけど、私が知っている軍の情報は彼女から知り得たものよ。ただ、私も幼かったし、将来を考えても軍との接点ができるなんて想像もしていなかったから、記憶も曖昧な部分がある。少なくとも今までは、それでいいんだって過ごしてきたわ。だからあなたの話を聞いても、ピンとこない事もあるかもしれないけど、基本的な知識はあると考えてくれていい。もちろん、あなたの抱く基本と私の抱く基本が同じだとは思っていないし、話しているうちに食い違いも出てくるだろうとも思う。それに、どちらかと言うと、知らない事の方がたくさんあるはずだから。だからそれに関しては、都度確認するわ。分からないまま話を聞き流したりはしない」
毅然と言い切れば、ディクシードはゆったりと体を起こし、膝の上で両手を組んだ。なぜかその目は、普段よりも一層、無機質に感じられた。
彼は今、感情を殺しているのではないのだろうか。勝手ながらそう思った。
「気を遣ってくれるなと、そういう事か」
「はっきり言えばそうなるわ。ある程度は覚悟をしているから、取り繕って欲しくないの。それでも驚く事もあるだろうし……でもやっぱり、事実を話して欲しい」
兵の規模、予想される被害。怯んでしまう話もあるはずだ。だからと言って、目を背けるつもりはない。
小町の意志を汲むかのように、ディクシードはしっかりと頷いた。
「お前を放っておけば勝手に進んでいく。私が取り繕ったところで流されはしないだろう。直に気付き、食らいついてくる」
「その表現はちょっと不本意だけど……でも、ありがとう、ディックス。あなたがそうやって、私の性質を理解してくれているから、とても信頼できるのよ」
言った途端に、ディクシードが唇の端を少しだけ上げた。
「その言葉は私にはこう聞こえる。信頼を裏切ってくれるなと。牽制のつもりか」
「…………。あなたって、本当にひねくれ者ね。そんなこと一言も言ってないじゃない」
「ひねくれているのはお前もだ。だが、お前からの信頼を維持しておくためにも、取り繕いはしないと約束しよう」
「ありがとうと言うべき? 面倒な話になったら、どうせ口を閉ざすんでしょ?」
やり返してやると、またディクシードが笑んだ。彼は、この手の可愛げのない吹っ掛け合いがお気に召しているようだ。どう贔屓目に見ても、変わり者でひねくれ者だ。
「お前は昔から嘘を嫌う。私なりの対策だ」
「ああ言えばこう言うわね」
「お互い様だ」
意外と負けず嫌いかもしれない。このままではエンドレスの吹っ掛け合いになりそうだ。
「はいはい。そういう事にしといてあげる」
言いながら、小町は視線を地図へと投げた。本題に入ろうという意思表示だ。
正確に読み解いたディクシードが、巻かれた紙を手に取った。その様を眺めながら、小町はまた一つ、抱いていた疑問を口にする。
「ねぇ、ディックス。聖騎士って何なの?」
彼の手が止まり、バッチリと目が合った。なぜそれを知っているのかと問いたいのだろう。
「あなたの近衛騎士がリディオに報告してたのを小耳に挟んだのよ。ちょっと気になってる」
「教会が抱え込んでいる騎士を聖騎士と呼ぶ。なぜ気にかかる」
「だって、騎士なんだから、討伐に参加するんでしょ? 気になるわよ、もちろん。リディオ達は歓迎してないみたいだったから、余計に気になってる」
「聖騎士は討伐に参加しない」
「……へ? なんで?」
「職務ではないからだ」
「騎士なのに?」
「そうだ」
「…………」
「…………」
それきり、互いに黙り込んだ。
非常に短く、かつ簡潔な答えだった。しかし、なんとなく、リディオ達が聖騎士を嫌がっている理由が察せられてしまった。小町としても、彼らが討伐に参加しないと言われた今、情報収集の対象ではないような気がしている。
「じゃ、その話はいいわ。複雑な事情がありそうだし、面倒くさそう」
「複雑でも面倒でもない。騎士というものを誇りに思う人間が毛嫌いするに足る事情だ」
今の答えで満足だ。やはり小町からすれば面倒だ。
「Okay、ディックス。だいたいの事は察してるつもり。直接関わる事はなさそうだから、時間がある時にランバートあたりから聞き出しとくわ。そんな情報、今のところ急を要していないもの」
「お前にとって急を要する情報とは何だ」
ふと問われ、あれこれと吟味してみる。
仕入れておきたい情報はたくさんあった。爵位、領地、教会、胡蝶、近衛騎士の任命権、ディクシードの後見、その他諸々。
どれもが取り急ぎ必要としないものばかりだ。今知るべきなのは討伐作戦の概要であって、浮かんだ疑問の多くは、その範囲に収まるものではない。
「ないわね。作戦に絡んだものが最優先」
答えると、ディクシードの手が再び動き始めた。巻き紙を留めてある紐を解いていく。
「地図を目にした事はあるか」
まさかの問いだった。小町はポカンとディクシードを眺めていた。
どうしてそんな事を聞かれるのかと。
「地図を目にした経験があるのかと聞いている」
「そんなの、あるに決まってるじゃない」
答えながら広げられた地図に目を向け、ハッとした。今の問いは、バカにされたわけではなく、単なる確認の問いなのだ。
おそらく、この世界の市井の人間は、地図を目にする機会に恵まれていない。
「あると言っても、こんな地図は初めてよ。……すごいわね……すごく繊細に描かれてる……」
地図は明らかに古い物だった。それも、所々インクが滲み、人の手で描かれた物だと見てとれる。太い線や細い線、さらには薄いインクを用いた箇所もあり、とても丁寧で細かく、かつ繊細に描かれていた。
どのように測量して仕上げたのか、どのような技術者が居るのか。この地図だけで、小町の好奇心と想像は否応なく広がっていく。
いずれにしても手の込んだものに違いなく、安価ではないと想像できた。印刷技術もあちらの世界ほど進んでいるとも思えない。きっと、一般家庭にまで普及していないはず。だからディクシードは、目にした事があるかと確認したのだ。
この世界での地図は、高貴な身分の人間か、あるいは、国政や軍に絡む人達が使用する為のものだ。はたまた商家の人間か、旅行者か。
「あっちの世界の地図は、何ていうか……もっと機械的よ。この地図に比べたら、なんだか味気なく感じちゃうくらいに……。すごく手が込んでるのね、初めて見たわ」
書物の中でなら昔の地図を見た事があった。この地図はそれに良く似ている。古くて、繊細。
「ここから地形を読み解けと言われれば、お前にはできるのか」
これも確認の問いだ。
小町はしっかりと頷いて見せた。
「文字はまだ読めないけど、だいたいの事なら把握できるわ。このマークは方位を表してるの? 出っ張りの方角が北かしら?」
地図の端に描かれているのは、歪な三角形を組み合わせたヘキサグラム――六芒星だ。ただし一角だけ、いやに飛び出している変形のヘキサグラムだ。おそらくその一角が北だろうと見当をつけて尋ねれば、ディクシードは頷いた。
「じゃあ、その反対が南ね。ちょうど左右の窪んだ部分が東西」
「そうだ」
六芒星で方位を表すというのは、なかなかに斬新だ。
「ここや、ここは森ね。それから、この辺りは集落。これは川で、こっちが街道でしょう?」
ざっと分かる範囲を指しながら、どの程度把握できているのかディクシードに示していく。
「十分だ」
良かったと安堵し、同時に首を傾げた。
「でもなんか変だわ。どの森にも泉なんてないもの。ガーデルードの森には泉があったのに」
これはガーデルードの地図のはず。なぜ泉が見当たらないのか。
泉や池と思われる場所を探してみたが、川が通っている場所はあっても、そんな場所は生憎と載っていない。
「本当にガーデルードの地図なの?」
「そうだ。お前が最初に指した森がガーデルードの森だ」
「ここが?」
そこは確かに、明らかに森だと分かる場所だった。しかし泉などなく、パッと見は、それなりに大きな単なる森である。
「道もないじゃない。それに泉もないわ。描かれてないのは、どうしてなの?」
「記す必要がないからだ」
ディクシードは言った。あの泉は、この国の庇護の要であり、人が容易に近付ける場所であってはならないのだと。
サーベルの許可なき者が侵入すれば、道が姿を変え、森の奥――魔物の巣へと誘うように出来ている。迷いの森とも呼ばれ、許可なき者が一度踏み入ったら最後、二度と出てくる事はないのだそうだ。
納得だった。だからランバートは、あの尋問の時、小町がなぜ泉に居たのかと譲らなかったのだ。彼もそんなような事を言っていたと思う。
「この場所に軍が残ったのは、守りを磐石にする必要があったというわけね?」
「そうだ」
今の話であれば、サーベルではなく泉を守っているという事になる。尋ねてみようかと考えたが、討伐においては必要ない情報だと判断し、小町は理解できたと頷いて見せた。
「討伐の範囲は森全体なんでしょう? 迷いの森のからくりには、どう対処するの?」
「サーベルだ。あれが力を使って対処する。泉へ向かう途中、私が近衛を待機させた場所を覚えているか」
「もちろんよ。柱があったわ、二つ。……確かその柱の上部に、紋章みたいなものが彫られてた」
「左右それぞれに、聖獣と魔物を象徴する紋章が彫られている」
「…………。あなたの言いたい事が分かってきた。あの柱の奥が迷いの森なのね?」
「そうだ。柱は森の四方にある。お前が知る柱は、ちょうどこの辺りだ」
ディクシードは森の中の一角を指し、トントンと二度叩いて見せた。そこには印などなく、やはり道も描かれていない。だが、そこに柱があるという事だ。
「この柱を一としよう。二はここ、三はここ、ここで四だ」
彼は印のない箇所を迷いなく指していった。
「これより内側が迷いの森だ」
一から四の柱を繋いだラインを境界として、その内側のエリアが迷いの森。そういう事だろうと問うとディクシードは頷いた。大丈夫、ここまではちゃんと理解できている。
「今度の討伐は、その範囲を一時的に泉周辺に狭めて対応する。サーベルの仕事だ」
「魔法ってやつね」
「お前からすればそうだろう。だがサーベルは、呪いだと言っていた」
魔法じゃなくて……呪い? ワオ。
どちらにしろ小町にとっては同じようなもので、いよいよ別次元の話になってきた。非現実的すぎて、どうしたって理解できそうにない。異世界とも言うべき世界に居ながら、何かにつけて理屈を求めてしまうのも妙な話だと自分でも思う。
迷いの森の呪いを解除するわけではなく、狭めるという対応に引っ掛かりを覚えた。兵の中には誤って踏み入ってしまう人もいるだろうと。
そこのところはどうなのだと問うと、ディクシードは問題ないと答えた。
あの森に住まうのは、魔物と聖獣であり、内側からの対処はサーベル管轄のその聖獣達が担うというのだ。具体的な内容は分からないが、彼が問題ないというのであれば、きっと根拠はしっかりしているのだろうと思う。
それに、詰め込みすぎても理解できそうにない。
「あなたの作戦は、私の生気を囮にするというものだったわね?」
「ああ。お前の生気は相当に匂う」
「ちょっと、そういう言い方しないでくれる? 心配になるじゃない」
匂うと言われると、そんなに臭いのかと不安になるのが乙女心というやつだ。
「事実を言ったまでだ」
「…………。とりあえず、聞き流しとく。さっきの話からすると……森の内側から聖獣に追い立ててもらって、逃げてきた魔物を私の生気で惹き付けるって感じかしら?」
「捉え方が違う。お前の生気であれば、追い立てずとも魔物の方からやってくる」
「そんなものなの?」
「そんなものだ」
淡々と言ってくれるが、やはりよく分からない。だが、まぁいいだろう。肝心なのはここからなのだ。
小町は一呼吸おいて、ディクシードに尋ねた。
「私は、どこで待機すればいいの? 魔物を誘い込む場所なら、それなりに開けた場所じゃないといけないんでしょう?」
地図で見る限り、ガーデルードの森に平地は見当たらなかった。とはいえ、それなりに大きな森であり、記されていないだけで、どこかに平地があるかもしれない。
泉まで歩いた時は、さほど時間はかかっていなかったと記憶していたが、地図上では、森の中央まで歩くのだって結構な時間を要しそうに思える。そのへんの事にも、何やら、迷いの森と呼ばれるからくりがあるのだろう。
「お前の乗り込む車はここだ」
ディクシードが指したのは、意外にも森ではなかった。ガーデルードの森の北西に位置する、小さな山の麓あたり。
「山よ?」
「小高い丘だ」
「……どっちにしても森じゃないわ。離れてるじゃない」
「前戦となるのは森ではない。この平地だ。ちょうどここにも森への入り口がある」
確かにそこは、森に面した平地のようだか……
「私はてっきり、森の“中”だとばかり――」
「森での討伐は、魔物にとっては、かっこうの餌が飛び込んでくるようなものだ。小物ならいざ知らず、今度の規模はその範疇を超えている」
「兵が存分に動けるだけの平地が適しているという事?」
「そうだ」
森の中は魔物のテリトリーであり、大掛かりな討伐では不向きというのだ。
大掛かり……
いったい、どれほどの兵が動員されるのか……
森の大きさだけではない。これは……討伐の規模自体、小町の想像をはるかに上回る規模だ。
小町は怯みそうになる自分を叱咤して、ディクシードを見据えて尋ねた。遠回しな聞き方は避けるべきだ。ズバリ聞かなければ。
「兵の規模は……どれほどなの?」
「二万だ」
サラッとディクシードは言った。本当にサラッと。あまりにも簡単に言うものだから、聞き間違いかと思った。
「二万……ですって……?」
「そうだ」
ちょっと待ってくれと言いたい気分だった。予想していた規模とは、一つ桁が違う。
二万もの兵ともなれば、一個師団ではないか!?
「兵は少ないって聞いてたわ……師団だなんて……」
「少ない。師団でもだ」
先ほどの小隊の話が出た時、既にディクシードの感覚――いや、彼だけではなく、他の騎士達と小町との感覚に相違があった。彼らは小隊を“程度”だと言ったのに。
あの時点で、考えを改めておかなければならなかったのだ。改めるどころか、直ぐにでも意識の改革が必要だ。
覚悟以上の覚悟がいる。
「魔物の数は未だハッキリしていない。おそらく、優に八百を超えている。兵は二万でも少ない」
そう前置きをして、ディクシードは根拠を話し始めた。その傍で小町は、ただただ聞く一方だった。
彼が言うには、本来の魔物の討伐は、魔物一頭に対して二十名からなる分隊を編成する。それが人命優先の安全圏なのだそうだ。いくら兵が少ない場合でも、十五名は最低でも必要で、それがギリギリのライン。
単純計算でいくならば、魔物の数八百に対して二万の兵で挑むのだから、楽々安全圏だと思えそうなものだが、そうではない。
その八百という数も定かではなく、千近くにのぼる可能性もある。確実に断言できるのは、この討伐は持久戦となるという事だ。各分隊が魔物一匹を倒して終了というわけではない。時間が経てば経つほど個人の持久力は低下し、士気と戦力も低下する。それはつまり、魔物の優勢を指している。
「前線に立つのは二万の内のおよそ六割だ。残る四割の兵で森を囲い、民の安全を確保する人員を割り当てねばならない。召集をかけた聖獣使いも、処々の対応に追われ、間に合わないとの連絡を受けている」
そして彼はこう言った。
本来なら、囲う兵に一万、前戦に二万の兵。それに聖獣使いの動員があれば、時間も被害も最小限に抑える事ができるのだと。
「三万……」
ボソッと口にすると、彼は頷いて答えた。
「それ以上となれば、ガーデルードの地には適さない規模となる。誘い出せる平地も、さほど広大とは言えない土地だ。詰め込めばいいという問題ではない」
ディクシードの言っている事は分かる。だがしかし、桁の違う兵力に、なかなか頭かついてきてくれないでいる。想像ができない。
小町はコクリと生唾を呑み、正面に座る麗人を見つめていた。
この青年が――
この人が――
一個師団――二万という兵を動かすのだ。
そこから意識を逸らせずにいた。
今度は意図せず、生唾を呑んでいた。
「あなたが……その指揮をとるのね」
特に意図して言ったわけではなく、確認でもなかった。どちからと言えば感嘆して出た呟きで、返答など期待していなかったし、必要とさえ感じていなかった。だというのに、ディクシードから予想だにしない言葉が返ってきた。
「私に指揮権はない」
「…………」
「…………」
彼は今、何と言った?
指揮権はないと言わなかったか……
「ごめんなさい。指揮権はないって聞こえた――」
「そう言った」
指揮権がない?
「それって、作戦自体が決まっていないから?」
「そうではない。たとえこの作戦が決まったとしても、私に指揮の権限が与えられる事はない」
何を言っているの?
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って! い、意味が分からないっ!」
どもりまくりながら、慌てて止めに入った。スケールの大きさに愕然としていたのに、今度は妙な発言のせいで頭の中がグチャグチャだ。
だがディクシードは平然としたものだった。
「何をそれほど慌てる必要がある」
「だって……だって、今度の作戦は、あなたが立てたものでしょう!? それなのに指揮権が与えられないなんて、おかしいじゃないっ!」
彼の言いようは、今回に限り権限がないという言い回しではなかった。
今後も指揮権そのものが与えられる事はないのだと聞こえ、小町はそう捉えた。ディクシードも、小町が何を言っているのか分かっていながら否定しない。
つまりは、そういう事なのだ。
「言っておくが、作戦を立てるのは誰にでも与えられている権利だ。パリスやランバートにもだ」
続け様に彼は言った。小町が集めた――八名の要人達にも与えられている権利なのだと。それどころか、各部隊の隊長達、皆に与えられているのだと。
そう言われればそうなのだが、どうしたって小町には納得できなかった。
確かに史実上の偉人の中には、武に優れず知に優れ、独断の指揮のみで国を繁栄させた人もいる。逆もまた然りだ。だが、両者の備わった者が指揮をとるのが、もっとも望ましい事ではないのか。
少なくともこの城内で、小町の知りうる限り、適任者だと思える人間はディクシードしかいない。彼以外には考えられなかった。武に優れているばかりか、彼には人並みならぬ頭脳があるのだ。それに加えて、ずば抜けたカリスマ性。
「取り繕うなって言ったはずよ、ディックス。あなたも約束してくれたわ」
「取り繕ってなどいない。事実を述べているまでだ。私に軍の指揮権はない」
簡単に言ってくれるが、そんなはずはない。
彼は第一王子でもある。肩書きのない指揮官が何よりも欲するのはずの確固たる地位。ディクシードは、生まれながらにそれを与えらている。
「だったら、あなたの近衛騎士はどうなの? 彼らはあなたの命令に従って動いてるわ」
「あれらは私の指揮下にあるわけではない。私の動きに伴うのが職務であり、そのように指揮しているのはパリスだ」
屁理屈にも聞こえる発言だった。
「それなら……それなら、あなたが指揮できる兵はいないって事になるわっ! 指揮権がないっていうのは、そういう意味になるのよ!?」
「そうだ」
「……そうだって……」
いったい、どういう事なの?
小町には、まったく理解できない内容だった。
「私に与えられている役割は、この城にあり、この名と力を貸す事だ。私にできる事は限られていると、お前にそう言ったはずだ」
「っ! やめてよ、淡々と言わないでっ! それじゃまるで、あなたの存在が、単なる象徴にしか聞こえないわっ!」
王の子である彼の名は、兵の士気を上げる材料となる。
他国に勝る者がいないという彼の剣は、確かな戦力となり、兵を鼓舞する材料となる。
そんなもの、まともな知識のない小町にだって、いやでも分かる。
でもそれじゃ、あんまりだ! 彼は単なる象徴じゃないっ!
「言っておく。お前の言う象徴こそが、私に与えられた役割だ。それが私と王都との成約でもある」
それ以上は言ってくれるなという意思を込め、ディクシードを睨みつけていた。それなのに彼は尚も言った。
「私はただ、狩るだけだ」
どこまでも無機質な瞳だった。




