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二輪の騎士  作者: 小町
第二章
39/84

第38話 バイクという名の変わった馬

「……殿下……」

 愕然としたパリスの声が聞こえていた。

 ランバートは、棒立ちのまま、ゴクリと生唾を呑み込んだ。

 いつからそこに居たのか……全て聞いていたのか。扉一枚隔てただけなのだ。この化け物には筒抜けだろう。

 何をしにここへ来たかは、聞かずとも分かっている。

 小町に傷を負わせた男への制裁だ!

「パリス」

 ディクシードが一歩踏み出す度、気圧されたように、ランバートも一歩ずつ下がっていた。

 どうすればいい!?

 どうやってパリスを逃がす!?

 後退しながら、目まぐるしくそんな事を考えていた。

 その間にも、室内の温度が見る間に冷え始めている。ディクシードの怒りに呼応するかのように……

 本気で側近である男を斬り棄てにきたのだ!

「っ、クソッ! ディクシード、詫びなら何度でも入れる! こいつもコマチに手傷を負わせた事を悔やんでる。この通りだ、勘弁してやってくれっ!」

 筒抜けである以上、室内でのやり取りに関して弁明のしようがない。ならばせめて、小町の傷を詫びて許しを乞うしか道はない。

 頼む、パリス……

 お前も頭を下げてくれ……

 何とかこの場をしのがなければ。

「パリス。婚約者を手にかけると、あれに脅してみせたのか」

「…………」

 パリスは押し黙ったままだった。この沈黙は、主君にとっては肯定だ。

 クソッ! クソッ! クソッ!

「ディクシード、俺にも非がある。コマチにも直接詫びるつもりだ。今回だけは見逃してくれ! こいつの画策なら俺が止めてみせる。この通りだっ!」

「貴様の詫びに何の意味がある」

 底冷えするような声だった。

「詫びなら入れてある。あれにとっては何の意味もない詫びだがな」

「…………」

「あれが何と答えたか教えてやろう。パリスへの仕返しは継続中だと、そう言った。ランバートの詫びも受け取ったと。……あれは貴様らを許しているようだ。……ならば私の制裁にも意味がない。あれは、それを望んでなどいない」

「…………」

「だが……あれが痛めたのは、頬だけではないようだ。そこもだ……パリス」

 主君が指して見せたのは、パリスの胸だった。

 真っ直ぐに……そこを指していた。

「次にあれに手を出せば、あれの痛めたものを貴様の臓腑から取り出してやる。……あれの身だけではない。あれが心を砕くものに手を出すなら、貴様の心を取り出してやる。……覚えておけ」

 室内の冷え込む冷気のせいか、はたまたディクシードの怒りに触れたからか……

 ランバートの両の足は、本人すら自覚せず、震え始めていた。

「ここへ来たのは、貴様らへの制裁が目的ではない。報せがあってきた」

「…………」

「国守から、あれに礼が届いた。稽古場の奥、橋の手前だ。触れるなと周知しておけ」

 その言葉を最後に、主君は部屋を出て行った。


「…………っ、助かった……」

 詰めていた息を吐き出し、ランバートはドサリとその場に腰を下ろした。手にしたままの酒瓶を開け、一気に煽る。

 冷えた胃に酒の熱さが流れ込み、生き返ったような心地になった。

「パリス、おら――」

 さぞや胆が冷えただろうと、酒を突きだし男を振り返ってみたが、立っていたはずの男はそこに居なかった。

 ソファーに倒れ込み、喉元を押さえて喘いでいる。

 すぐさま駆け寄り、パリスの手を払いのけた。何の痕跡もないそこは、触れれば驚くほどに冷えきっている。

 ランバートにも覚えがあった。

 小町に尋問をかけた後、ディクシードと対峙した時だ。喉元に主君の放つ冷気が這い上がってきたのだ。絞め殺されるのではないかと感じた、あの恐怖を忘れはしない。

 パリスも、あの冷気にやられたのだ!

 なぜ生気を解放しなかった!?

 男の首に自身の手を添え、とにかく温めた。大丈夫だ、呼吸はしている。喉を潰されたわけではない。

 果たして、温めるという行為で症状が改善するかは分からない。だが、何もしないよりはいい。

「聞こえるか、パリス。大きく息をしろ。潰れちゃいねぇ、大丈夫だ」

 声が届いたのか、浅かった呼気が次第に深くなる。

 そうだ、それでいい。

「…………を……さい……」

「あ!? 何だ!?」

 掠れた声が聞き取りずらく、口元に耳を寄せると、男は酒を所望しているようだった。

 呼吸が落ち着いたのを見計らい、パリスの体を起こして酒を手渡してやる。

 途端に男は、残りの酒をグビグビと飲み干した。それを見て、ようやくホッと息をつく。

 確かに、あの時の自分も、酷く喉が乾いていた。

「死ぬかと……思いました」

「バカがっ! どうして生気を使わなかった!?」

「……制裁なら……甘んじて受ける気でいました」

「んのアホウが! 人にばっか押し付けたツケだと思えっ。これでちっとは肝が冷えただろうがっ」

「……あなたも……あれを、食らったのですか……?」

「正面からな。締められちゃいねぇが……テメェのように裸でやられる気はねぇんでな。俺は自分が可愛いんだ」

「…………」

「ったく、俺の肝も冷えたじゃねぇか! チビるかと思ったわ!」

 ワシワシと頭を掻きむしり、バタリと床に倒れ込む。

 心臓が飛び出るかと思った……

 本気で焦った……

「何が制裁する気がねぇだ、油断させやがって……。あのヤロー、しっかり返してきやがった」

「……よほど、腹に据えかねたようです」

「テメェのせいだろうが。他人事みてぇに言ってんじゃねぇぞ、ボケ」

 吐き捨てて目を閉じた。

 未だ心臓は早鐘を打っている。

 しばらくそうして目を閉じていた。

「彼女に……また、殿下を裏切るのかと、問い詰めました」

「…………」

「まったく覚えがないのですよ……あの娘。何の言いがかりだと……そんな様子で……」

 珍しくポツポツと語る男を盗み見れば、やりきれない様子で拳を握り締めていた。

「殿下が想い、殿下を想った娘は、間違いなく彼女なのに……それなのに、婚約者などと……どんな茶番ですか……」

「……パリス、お前が言ったように、コマチにゃ記憶がねぇんだよ。だから……男がいても仕方がねぇ。それは裏切りとは言わねぇよ。お前だって分かってるはずだ」

「あなたらしい見解ですね、ランバート。ですが生憎と、私には裏切りとしか思えない。少なくとも殿下の想いは……この十年近く変わっていない。娘を裏切ってなどいない」

「…………」

「それなのに……殿下の想いに応えるどころか、このまま国に帰ろうというのですよ? 裏切り以外に何だと言うのです? ……また殿下を裏切るのなら、私は決して彼女を許さない」

 声を荒げるわけではないが、パリスの怒りを感じ取っていた。

 ディクシードの孤独を間近で見てきた男なのだ。誰よりも、主君への忠誠心が強い男なのだ。痛いほどに気持ちはよく分かる。

 しかし、記憶を失っているかもしれない娘を思うと、全ての非を押し付ける気にはならなかった。

 よっこいしょと体を起こし、そんな男を見据えて諭すように言い聞かせた。

「一度目も故意に裏切ったわけじゃねぇだろう? 死んだとされたんだ。ディクシード自身が報告したっつったのは、お前じゃねぇか。あいつは……裏切られたとは思っちゃいねぇよ。魔女だと言われた娘を隠そうとしただけで……仕方がなかったんだよ」

「それでもっ……それでも殿下は、もう一度傍にと望まれ、何度も返せと言い続けてきた! 月に向かって何度も……あの娘は、きっと本人も気付かぬうちに、それに応えただけなんですよ。何とも思っていない……」

「いいか、パリス。ディクシードの望みを聞き届けるか否かは、神だけに許された事だ。コマチには関係ねぇ。神があいつの望みに耳を貸さなかったからこそ、声は届かなかったんだ。だが今、あいつの声はコマチに届いてるじゃねぇか。あいつが十分だと満足して国に帰すんだ。それでいいだろうが」

「…………」

「これ以上、コマチの国を詮索するのはやめろ。お前を止めると言った手前、このまま見過ごすことはできん。ディクシードの為にと必死になる気持ちは分かるが、命を粗末にするもんじゃねぇ。……俺はな……お前の相棒でいたいんだよ……」

「…………」

 黙り込んだパリスを見て、ランバートはポリポリと額を掻いた。

 普段と立場が逆だった。

 部下達の前で吐き出せない鬱憤が溜まった時、決まって自分をなだめにかかるのは、この男なのだ。毒舌で切り捨てられるのが常だが、ぐうの音も出ないほどにやり込められると、不思議と鬱憤は消えていた。それがこの男のやり方で、そう理解したのは隊長職に就いてすぐだった。

 それからは、それが当然だと思いながら互いの関係を築いてきたが、ここにきてパリスの事を不憫だと感じている自分がいる。下町で暮らしていた頃の弟分を相手にしているような……そんな感覚だ。

 常に不遜な男が、ショボくれて肩を落としている。

 そんな風にしか見えなかった。

「まぁ、あれだ。近衛の連中にも言ったんだがな、俺にもディクシードのしている事は理解できん。俺があいつの立場なら、何としてでも傍におこうとするんだ。あんだけの力がありゃ、護ってやれるだろう?」

「ですが……ですが殿下はまた、手放すつもりでいるのです。どうしてなのか……また……」

 これに関してはランバートも疑問に思う。人の感情など分かったものではないが、ディクシードの場合、真意とは真逆の行動を取っているようにしか思えない。

 娘との様子を見る限り、傍に置いておきたくて仕方がないはずなのだ。それなのに、国に帰りたいと望む娘の衝動を邪魔するなとも言う。

 向けられた怒りは、偽りを含まない激情そのものだった。本気で帰すつもりなのだ。

 どんな形であれ、望み続けた存在をやっと手に入れたはずなのに、そこには未練も一切感じられなかった。

 砂の粒ほどにも……

 なぜだと問えば、娘が望んでいるからだと答えるだろう。だからと言って、そう簡単に割り切れる感情ではないはずだ。

 それとも、全てにおいて感情を殺してきた男には、割り切る事さえ容易いというのだろうか。

 そう考えたが、やはり第六感は違うと告げる。

「こればっかりは、本人じゃねぇと分からん話だ。そうだろ、パリス」

「…………」

 このショボくれようには、調子が狂う。もう一度ポリポリと額を掻いた。

「しかしまぁ、あの化け物相手に、よく逃げ切れたもんだ。自分を誉めてやりたい」

「……あなたの功績ではありません」

「分かってらぁ、んなこと。みなまで言うなっての」

 この功績は小町のものだ。あの娘が制裁を望んでおらず、その意思を主君が汲んだだけ。

 しかしそれが、どれほどの意味を持つのか……

 それだけではない。

 あの娘は、己に降りかかる火の粉を、己自身の得たもので全て払ってみせたのだ。

 パリスとの悶着は自身の手を使って鉄槌を下し、あまつさえ、パリスの鬱憤を体を張って晴らしている最中である。

 そして何より――

 国守とディクシードという後ろ楯を完全に取り込んでいる。過去のいきさつがどうであれ、あの二人が、浅慮だけの娘に肩入れするはずがない。

 二人だけとは言わず、パリス、近衛騎士、そして自分。たったの二日で娘の人となりを知り、主君の妃にと望ませるだけの資質。

 魔女だと言われた娘なら、底知れぬ力を秘めているのも事実。

 もし、小町が本当にディクシードの傍に止まる時がくるなら、その時は――

「パリス……国が動くぞ」

 テーブルの上の酒瓶を掴み、僅かに残った酒を煽ろうとするも、パリスに引ったくられていた。

「国どころか……世界が動きます」

 そう言った男は、酒瓶を覗き込み、盛大な舌打ちを打った。


 ◇◇◇◇◇◇


 翌朝。

 小町が朝食をとっていると、ソファーに座っていたディクシードが、ふいに扉へと目を向けた。

 これは誰かが来るという合図だ。どういうわけか彼は、来訪者の存在を事前に察知する。

「侍従だ」

「……分かるの?」

「ああ。私への報告だろう。お前は平静を装っておけ」

「分かった」

 何の報告かは察しがついている。昨夜、こちらの世界に引っ張り出してしまったバイクの件だ。

 立ち上がったディクシードは、ノックの音さえまだだというのに、ためらいなくドアを開いた。

 そこには今まさにという姿勢で驚く、年若い侍従がいた。

「殿下――」

「あったのか」

 問われた侍従は直ぐに体裁を取り繕い、国守からの礼だと思われる物が指定された場所で見つかったと口にした。国守の礼とは、むろんバイクの事である。

 昨夜のディクシードの読み通り、その侍従は特に慌ててはいない。この様子なら既に周知されているのだろう。

 端的に応じるディクシードも、普段通りの無愛想。小町も耳だけを澄ませ、パンを千切って口へと運ぶ。

「あれの食事が終われば見に行くと、ランバートに伝えておけ」

 了承した侍従は、一礼して去って行った。

「聞いた通りだ」

「……ええ……」

 本当に、バイクを引っ張り出してしまったようだ。

 あんなに望んだ存在だというのに、今は酷く後悔している。バイクだけでなく、昨夜あちらの世界から取り出してしまった物についてもだ。

 この世界にあってほしい物ならたくさんある。衣類、靴、本、トリートメント、それから時計。他にも、日用品諸々いくつもあるが、おいそれと引っ張り出す気にはなれない。どうしても……

 人の目に触れてしまえば、どんな騒ぎになるのか想像できる。ディクシードの協力のおかげで大事になっていないだけで、果たしてバイクという名の変わった馬が、この世界の住人の目にどのように写るのかは分からない。

 アルバムだってそうだ。写真というものが浸透していない世界では、それは未知の産物でしかない。各国で語り継がれる迷信の中にも、写真に写れば魂を抜かれてしまうという、根拠を疑いたくなるものもあるくらいなのだ。

 未知の物に対する不信感は、いくら技術を説明したところで、そう簡単に拭えるものではないということだ。

 だから過去の幼い自分がしたように、ホイホイと引っ張り出してはいけない。

 そうできてしまえるほど、今の自分は幼くはないし……浅慮ではないと思いたい。

 もしまたあの現象が起きたとしても、触れないように注意を払わなければならない。“きっかけ”なら分かっているのだから、何とかして回避しなければ、取り返しのつかない事になってしまう。

「何を考えている」

「……何も」

「……バイクか」

「……分かってるなら聞かないでよ」

「取り出したものは仕方がないと言ったはずだ。今後、できる限り触れないように気を付ければいい」

 先ほども同じような話をした。やってしまったものを悔いても、なんの解決にもならない。その事をこれからどのように活かしていくかを考えろと。

 ディクシードらしい考え方で、自分の中にある暗く沈んだ不安という名の澱が、少しだけ軽くなった気がした。

「お前にとって、手元に置きたいと望む物はあるはずだ。決して触れるなと言うつもりはない。だが慎重になれ。あちらを見るのも時と場所を考えなければ、見ているときのお前の姿が他者の目にどのように写るか、お前なら理解できるはずだ」

「……ええ、気を付ける」

「……やむなく取り出した物は続き部屋へ置いておけ。バイクばかりは厩舎に置く事になるが、それ以外の物は続き部屋だ。人の出入りのない部屋だが鍵を手配しておく」

「……ディックス」

「……何だ」

「ありがとう、本当に。どれだけあなたに助けられているか……本当に、本当にありがとう」

 彼には数知れず助けられている。部屋を与えてもらい、衣服や食事を与えてくれた。

 そして何より、揺るがない彼の存在に、心の底から救われている。不安な心を何度となく救ってもらっていた。どんなに言葉を尽くしても足りないほどに。

「礼なら態度で示せと言ったはずだ。忘れたか」

「…………」

 せっかく心を尽くして言ったのに……

 確かに……揺らいではいない……

 昨夜の変態ぶりから、一つも揺らいでなどいない。

 あんな妙な提案など、忘れるはずがないではないか。

 腕に囲われろなどと……

 むろん、そんなものは――

「却下よ」

「……見せろ」

「はぁ!? 却下に決まってるでしょ!」

「……見るだけだ」

「却下」

「……昔は見せていたのにか」

 ん?

「却下」

「……あの頃のお前に戻れ」

 んん?

 過去の自分は、いったい何を見せていたのか。

「却下、かしら?」

「なぜ私に聞く。聞きたいのは私の方だ。物を見せるだけで、何故それほど拒む必要がある」

 んんん?

「……物って……何?」

「お前が引っ張り出した物を見せろと言っている」

 なるほど。今回は変態発言ではないというわけだ。

 一人納得する小町に、ディクシードは冷たい視線を浴びせていた。

「何を見せろと思ったのか、聞いてみたいものだ」

「…………」

「お前は、よほど私を変態に仕立て上げたいようだ。望み通り縛り付けてやる。どこの柱がいいか考えておけ」

 結局……行き着いたのは変態である。呆れると同時に、無性に腹が立った。

 この男はわざわざそれが言いたいが為に、何をという言葉を省いたのだ。小町の中で“ディクシード=変態”という公式が確立されていると分かっていて誘導したというわけだ。

 変態にまんまと乗せられた……変態ごときに。

 ……言ってやる。

 いつかきっと言ってやる。

 やれるものならやってみろ、と。

 その為には、この男から十分に距離をとっておく必要がある。言い捨てた後は、とにかく逃げ切るのが必須だ。でなければ確実にお縄の刑が待ち受けているのだから。

 そして逃げ切れた時こそ、決定的な勝利になる! ……気がする。

「また出し抜く算段か」

「…………」

 バレバレである。まったくもって面白くない。

 頭の中を覗かれている気分だ。

「いつでも受けて立つ。お前ごときに負ける気はないがな」

 ムカつく!

 すかしっぷりが様になりすぎて腹が立つ。今に見ていろと拳を握り締めた。その高い鼻を、必ずへし折ってやる。

 だがしかし、確かにその通りなのだ。

 頭の回転の早さは、とてもではないが敵わない。だからと言って変態ごときに言われたくもない。

「……八年の経験の差かしら……」

「ランバートなら、お前の頭の具合をおめでたいと言うだろうな」

「……あなた、本当にムカつくわね」

「腹が立つのは自覚がある証拠だ。改善の余地ならある。諦めない事だ」

 ムカつく! ムカつく! ムカつく! ムカつく!

「手が止まっている。食わないのか」

「食べるわよっ」

 脳内でディクシードに対する罵詈雑言を浴びせつつ、残っていた朝食を食べきり、着替えを済ませてドレッサーに向かう。頬を腫らした仏頂面の娘が鏡に映り、あまりのひどさに更にブスくれる。

 昨日ほど腫れてはいないが、明らかに左右の膨らみが違う。一日では治らないようだ。

 髪を纏めてバイクの鍵をひっ掴み、ディクシードと共に部屋を出た。

 階下に下りると、時折すれ違う者達のあの視線が待ち受けていた。

 男の身なりをした娘に向けられる、好奇と侮蔑に満ちた視線。中にはあからさまなものもあり、ムッとして睨み付けてやれば、皆、そそくさと顔を伏せる。

 いつもなら気付かぬ振りをしているところだが、生憎と虫の居所が悪いのだ。

 そうやって周囲を牽制しながら歩いた。


 ◇◇◇◇◇◇


 稽古場に出た途端、喧騒が止んだ。

 これは昨日のうちに既に経験済みであり、またかと思いながら稽古に目を向けてみた。

 そして……大きな違和感を感じだ。

 ディクシードの様子を窺うかのような、そんな気配は昨日と変わらない。静寂とまではいかないが、剣を打ち合う音もせず、皆が主君に目を向けている。場違いの闖入者である小町に対する視線も同じである。

 だが、その視線自体が昨日よりも増えていた。

「ねぇ、ディックス。昨日はこんなに人がいたかしら?」

「……………………」

 何だろう、この沈黙は。何気ない確認の問いだったのだが、ディクシードの答えはなかった。

 しかし聞くまでもなく、騎士達の姿が増えている。昨日は稽古場の半分ほどだった騎士達が、今は敷地いっぱいに広がっているのだ。

「おら! 稽古はどうした! やる気がねぇやつは出てってもらって構わんぞ!」

 よく通るランバートの声が響いた。慌てたように騎士達の稽古が再開される。剣を合わせる音も、昨日より格段に大きい。

 ……休日出勤?

 一瞬、そんな妙な事を思いもした。

 この騎士の数はなんだろうと、歩きながら考える。

 近々、大きな仕事でもあるのだろうか……

 ……まさか……戦争……

 不安になってディクシードを見上げたが、彼はいつもの無表情で道の先を見据えていた。踏み込んで聞いてはいけない気がして言葉を呑む。

 もし戦争などというものがあるなら、それこそ自分の出る幕ではない。とてもではないが、軽々しく口にする気にはなれない。

 稽古場の喧騒から離れ、堀を渡る橋が見えた頃、一人の騎士が佇んでいるのが見えた。その顔に見覚えがあった。

 いつだったか、視察とやらの報告の為に、ディクシードの執務室を訪れていた騎士だ。赤みを帯びた金髪の青年で、主君を前に、とても緊張していた様子を覚えている。

 ディクシードが立ち止まると、青年が口を開いた。

「こちらの奥に届いておりました。部下を立たせていますが、ご命令通り、触れるなと周知してあります。先程受けた報告では、誰も近付いていないとの事です」

 完璧な報告に対し、ディクシードは特に頷くわけでもなく、ただ黙って青年を見据えている。

 何か声を掛ければいいのにと、小町は内心ソワソワしていたが、ようやく口を開いたディクシードの言葉は、労いなど微塵もない威圧的なものだった。

「何故ここにいる」

 ビクリと青年の肩が震えたのが見てとれた。

 いくらなんでも、そんな言い方……

「お前の隊は休んでいるはずだ。何故ここにお前がいる」

 ……休み?

 疑問に感じたのは一瞬だった。

 青年の率いた部隊は、数日前に視察から戻ってきたのだ。確かそれは、小町が仮の体を得た日であり、時刻は早朝に近い時間だった。そんな時間に報告に来るくらいだから、無理をして帰ってきたのだろう。だから休む時間を与えていると、そういう事のようだ。

 ディクシードは確かに口下手だし、無愛想ではあるが、他者を思い遣れる人だ。きっと十分な休みを取らせているのだと思う。

 青年も何を問われているのか思い至った風で、少しだけ表情が緩む。

「特に問題ありません。本日より、下町の警備に戻ります」

「必要ない。お前の隊は予定通り休め」

「しかし、召集が――」

「休めと言っている。何度も言わせるな」

 ピシャリと青年の言葉を撥ね付け、ディクシードが歩き出した。振り返りもせずに脇道を逸れ、城側に向かって木々の合間を縫っていく。

 立ち尽くす青年を放置する気にもなれず、小町はどうしたものかと交互に目を向けていた。

 ディクシードの代弁者を気取るつもりはないが、このまま知らない振りをする事もできない。ディクシードにはディクシードのやり方があるのだし、部外者が口を挟むべきではない事も分かっている。

 でも――

「私、行くけど……あなたは戻ってもいいと思う。休みなんでしょう?」

「……はい」

「それなら、ゆっくり休まなくちゃ。きっと、ディックスにも考えがあって休ませていると思うから」

「――だから言ったろうが、ジニアス。戻って休め」

 背後を振り返ると、だらけきった様子でランバートが歩いて来ていた。

「レイゼン隊長……」

「あいつは何も言わんがな、お前らに無理を強いて帰還させたのはあいつ自身だ。その分休んでおけと、そういう事だろうよ。上には上の思惑があるんだ、大人しく休んでろ」

「ですが……先発の部隊にも帰還している兵にも、召集が掛かったと聞いています。自分も休んでなどいられません」

「……いいか、ジニアス。必要のねぇやつを呼び戻したりはしねぇんだ。必要になりゃ、声が掛かる。だがその時、疲れのせいで使い物にならんとなりゃ話にならん。お前らを無下にしてるわけじゃねぇって」

「…………」

「それによ、お前、今度の功績で近衛に上がるかどうかが決まるんだろ? 大事をとっとかねぇと、疲れが出りゃ終いだろうが。気持ちが逸るのは分かるがな、お前が動きゃ、お前の部下も動かざるを得ん。下のモンの為にもゆっくり休む事を考えてやれ」

「…………」

 押し黙る青年を見て、小町はホッと安堵した。

 きっとこの青年は、無理をせず休みを取るだろう。部下を休ませる為にも率先して自身が休めと諭すランバートは、やはり指揮官たる人材だ。

 ディクシードが去った方に目を向けると、微かに彼のプラチナブロンドの髪が見えた。

 この場はランバートに任せておけば大丈夫。

「あっ、テメッ、コマチっ、待ちやがれ! あんたの馬の事で話があるんだよ!」

「私にはないわ。ディックスが待ってるの」

「俺にあるっつってんだろ!」

「後で聞くから、ここはヨロシクね! あなたも、ちゃんと休んで」

「……はぁ……」

 面食らったような青年の返事を背に、ディクシードの元へと駆け出した。

 女が走るなと喚くランバートの声が聞こえたが、むろんそんなものは無視である。女性が走ってはいけないなどと、いったい誰が決めたのか。

 ランバートの今日の呼び名はナニー隊長で決まりだ。懲りない人。

 少し走った先で、ディクシードが佇んでいた。その向こうには、数名の騎士と、それから……見慣れたシルエットを型どるシルバーのシート。

 ……あった……

 本当に……バイクがあった……

「ジニアスの部下か」

「は」

「戻って休め」

 ディクシードの放った短い一言に、騎士達が目に見えて固まった。

 直属の上官であるジニアスの意思と、更にその上のディクシードの意思。優先すべき意志がどちらのものかは分かっているはずで、それでも、このままジニアスの意思を無視する事が引っ掛かっているのだ。

 ディクシードがランバートのように説いてやるなら、もう少し彼らの気持ちも楽になるだろうに。

「ジニアスって人なら、さっきランバートに説得されて戻って行ったわよ?」

 突然発言した娘に、騎士達は驚いているようだった。話に割って入るのはマナー違反だが、気にしない事にする。

 無知で奔放でお馬鹿な小娘には、何をしても許されるという大型特典が付いているのだ。

「あなた達を気にしてたみたいだけど、行ってあげたら?」

 もちろんこれは小町の想像の中のジニアスの話であり、俗に言う嘘である。大型特典の中に、勝手に妄想というものを追加した結果なのだ。許容範囲内だ。

 その成果かどうかは不明だが、騎士達は一礼して去って行った。

「よくもまぁヌケヌケと……そういうのをホラ吹きって言うんだぞ。聞いてんのか?」

 ランバートだ。どうやら、ジニアスの説得に成功したようである。

「あら、居たの?」

「居ねぇよ。聞こえたんだ、あんたのお節介がな」

「残念でした、今のはお節介じゃないわ。愛馬の見張りをしてくれた善良な騎士達を、私の都合で体よく追い払ってやっただけ。今度会ったら、ちゃんとお礼を言っとかなくちゃ」

「……可愛くねぇ女だなぁ」

「最上級の誉め言葉をありがとう」

 可愛いげなど何の役にも立たない。必要なのは、よく回る口と、いざという時の行動力だ。

 ベッと舌を出してツカツカと歩き、プレゼントの箱に添えられたメッセージカードを手に取った。

 義姉達の想いが詰まったオシロイバナを……指の腹でそっと撫でる。

「何て書いてあるんだ?」

「“ナニー隊長の出ベソ”」

「…………………子供かよ、おい」

「秘密よ。女の子には知られたくない秘密がたくさんあるの」

「へぇ、あんたが女の子の部類に入るとは予想外だわ。んで? 箱は開けねぇのか?」

「ここじゃ開けられないわ。ランバート、あなたにお願いがあるの」

「……あぁ?」

「この箱を私の部屋に届けておいてほしいんだけど、頼まれてくれる?」

「…………ほほぅ。今度は俺を追い払うときたか」

「よく分かってるじゃない。私はあの子を厩舎に連れて行くから、あなたはこの箱ね」

 はいよろしくと頼んでみたが、ランバートは手を出すどころか、腕を組んでしまった。チラリと視線でバイクを指し、ヒタとこちらを見据えてくる。

「俺の目には、どうやっても馬には見えんが、あんたには見えるらしいな」

 ほらきた、リアリスト。

 都合よく流されてくれない現実主義者。

 だからと言って引く気はない。

「ええ、どう見ても馬よ」

「たわけっ。これのどこが馬だ。あんた、目ぇ、いかれてんじゃねぇのか?」

「うるさいわね。“変わった馬”なのっ」

「……それで通しきるつもりか? だいたいなぁ、あんなもんで覆われて暴れねぇ馬がどこにいる。息ができると思うのか? 一晩置かれりゃ死んでるっつーの」

「空気なら下から入るもの。私があの中にいたら、一晩なんて軽いわよ」

「いいかい、お嬢さん。あんたが馬だと言うやつは、暴れるどころかピクリとも動いてねぇのよ。覆いをされても微動だにしねぇ馬がいるなら、是非ともお目にかかりたいもんだ」

 いやまったく、その通り。

 心の中で肯定し、口先で否定する。

「いるじゃない目の前に、睡眠中の愛くるしい馬が。よく寝て、よく働く立派な馬よ。私の思い通りに動いてくれるから、可愛くて仕方がないの」

「…………」

「それに、あの国守って人だって“変わった馬”だと認めてくれたんだもの。通すも何もないわよ」

 極めつけの奥の手、国守頼みである。

 これが出れば、きっと彼は食い付いて来ない。

「あんた、屁理屈にかけちゃ天下一品だな」

「何度も言うけど、誉め言葉にしか聞こえないわね」

「……クソッ」

 よし勝った!

 やはり持つべきものは、可愛いげのない口である。

「そんなに気になるなら、厩舎で眺めればいいじゃない。私はマイロと走る約束をしてるから、存分にどうぞ。ちゃんと覆いはのけておくわ」

「これで走る気がないのか」

 問い掛けてきたのはディクシードだった。走りたければバイクで走れと、そう言いたいのだ。

「ディックス、この馬にも餌がいるの。今は満腹だと思うけど、走ればお腹は減るものよ。“変わった餌”だから、大事に走らせなくちゃ」

 走れば燃料が減る。そしてこの世界には、そんな燃料など存在さえしていない。

 走りたいのは山々だが、やみくもに走り回るつもりはない。満足に走りたいからといって、あちらの世界から燃料を引っ張り出すつもりもない。

「ランバート、その箱を運んでおけ。私はこれと共に馬を走らせる。その後は、これに生気の扱いを叩き込め」

「はいはい、了解ですよ」

 当たり前のように交わされる会話に、ささいな引っ掛かりを覚えた。

「ねぇ、生気の勉強の講師って……もしかしてランバート?」

「テメェ、何か文句があんのか? やる前から不満とは……その削げまくった性根を叩き直してやっから、せいぜい覚悟しとけや」

 どこぞのチンピラのような絡みようである。

 彼は本当に騎士なのだろうか。

「別に不満があったわけじゃないのよ。てっきりディックスが教えてくれるものだと思ってたから、意外だっただけ」

「へぇ、そうかい。好みの男じゃなくて悪かったな」

「そうね、せっかく教わるなら美人がいいけど……あなたもとても素敵よ。私の義姉達なら喜んで飛び付きそうだもの。特に下の義姉」

「…………」

 ポカンと呆ける大の男は、意外と可愛かった。こういうところが人に好かれるのだ、きっと。

「あら? 誉められるのは苦手?」

「……るせぇ、この人たらしが……」

 いつもの威勢がないのも、やはり可愛い。年上の男性を捕まえて可愛いというのも妙な話だが、可愛いものは可愛いと思う。

 よっこらしょなどと言いながら、プレゼントの箱に手を伸ばす姿は、なんと言うか……大きなアライグマのようだ。ほっこりしながら眺めれば、ジロジロ見るなとガンを飛ばされた。

 アライグマにガンを飛ばされても、怖くもなんともない。

「おっ? 意外と重いな、これ。何が入ってんだ? やたらとデカいし」

 アライグマが前も見ずに二足歩行で歩き出した。

 箱を持ち上げてみたり、角度を変えて眺めたりと、興味津々である。もしや、川辺で洗う気ではなかろうか。

「大事に運んでねっ」

「……わぁってますよぉー」

 だらけた返事を残し、だらけた様子の大きな小動物が、小脇に箱を抱えて歩き去った。

 一息ついた小町は、バイクに向き直る。シルエットは、もちろん馬などではない。

 亡き兄が乗っていたバイクの後継車種……

 十五の誕生祝いに、育て親である伯爵夫妻が送ってくれた……

 大切な……大切な……バイク。

 覆っているシートを丁寧にはぐっていく。姿を現したのは、まぎれもない愛車である。

 黒とシルバーの塗装が艶を放ち、日の光を浴びて眩しく輝いている。燃料タンクのサイドに並ぶ、紫、白、黄のオシロイバナのステッカーは、昨夜撫でたものだった。

 義姉達は何を想い、このステッカーを貼ったのか。

 勝手な事をしてと怒る気になどならない。なるはずがない。小町が大切に想うバイクに、小町の気に入りの花を添えてくれたのだ。

 愛おしくて、愛おしくて、そっとその花に触れていた。

「大きくなった」

 驚いてディクシードを振り返る。

 いつになく、とても柔らかい声音だったから……

「私の知るバイクは、これよりも随分と小さい物だった。十年か……お前も、大きくなった」

 まるで、年配者の――父親のような口振りで、その眼差しは酷く穏やかだ。

 いつだったか……亡くなった父が、こんな目をして自分を見ていたのを思い出す。

「その花か、義姉達の作った花というのは」

「……ええ。オシロイバナと言うの。きっと手作りよ。私が好きな花だから、こうして絵に描いてステッカーにしてくれた」

 手の中にある……バイクの鍵に目を落とした。

 小さなバイクのキーホルダーと、もう一つ、オシロイバナのキーホルダーが仲良く並んで付いている。

 きっとこの花も、上の義姉が描いてくれたのだ。歪な形が彼女らしくて、見ているだけで心が和む。

「ケヴィンと出会うまでは、二人とは本当に険悪だったの。だから余計に嬉しい」

「お前の恋人が仲を持ったのか」

「……私、ケンカを売られたら、どうしても煽りたくなっちゃうんだけど……そのせいもあって、二人との溝も深まるばかりだった。でも結果的に、ケヴィンのおかげで歩み寄れたの。本当に、彼や彼の友達の存在は大きかったわ」

「……そうか。会えるものなら、私も一度会ってみたい……お前の慈しむ家族と、恋人や友人達に……」

「いい人達よ、すごく。自慢の家族なの」

「お前を見ていれば分かる。大事にされて育ってきたのだろう」

「……ええ、とても」

 会えるものなら、直ぐにでも会いたかった。

 会って、顔を見て、触れて……

 心を込めて大好きだと伝えたい。

 伝え合うのはいつだってできると、そう思いながら過ごした日々を取り戻したい。

 つい数日前まであった日常は、どこへ行ってしまったのか……

 心を満たす幸福を皆と分かち合いたいと、心の底から思う。

「ディックス」

「…………」

「手を貸して」

 躊躇なく突き出された手を引き寄せ、ギュッと握り締めた。

「ありがとう、本当に」

 ディクシードの手は、やはり冷たいものだった。

 だけど彼の心は、とても温かい。

 無愛想だけれど、その温もりはちゃんと伝わってくる。

 この手を通して、彼にも伝わるだろうか。


 あなたの存在に、とても救われているのだと。


「……十分だ」

 離れた手がクシャリと頭を撫でていく。

 亡き父や兄、それに伯爵夫妻がしてくれたように……慈しむように……

 名残惜しく思いながらもバイクに手を伸ばし、鍵を挿した。


 ◇◇◇◇◇◇


「あんた、真剣にやってんのか?」

「やってるわよ!」

「いい加減、押し返してこいって」

「だから、やってるって言ってるじゃない!」

「ダメだ、こりゃ。俺の生気がもったいねぇ」

 全くセンスがないと言われた気がして歯痒くてたまらず、ランバートを睨み付けた。

 事実、センスなどないのかもしれない。

 兵舎の一階にあるだだっ広い部屋の中、生気の扱いを学ぶ為に、ランバートを相手に特訓中である。

 ディクシードは少し前に呼び出され、執務に戻って行った。

 従って、広すぎる部屋には二人しかいない。

 この広間は、騎士達の稽古場兼、雑魚寝部屋だそうだ。エインズワースの屋敷にも古い兵舎があり、この部屋と似た造りの広間があった。柔道の稽古場として使用している部屋だ。

「睨んでもどうしようもねぇだろうが。生気は感じてんだろ?」

「……感じてる」

「なら、何で返せねぇのかねぇ」

 それはこっちが聞きたい。

 ランバートに掴まれた腕から、ちゃんと彼の生気を感じ取っている。

 温かいとか冷たいとか痛いとか、そんな感覚ではなくて……何というか、異物のような気配は、わずかではあるが、ちゃんと流れて来ている。

 この訓練は、他者の生気を感じ取る事から始まった。ランバートの生気は強く、学習相手としては相応だとディクシードから説明され、なるほどと納得して始めたのだ。

 対価の石を外した状態でランバートに腕を掴んでもらい、そこから彼の生気を流し、感じ取るというものだった。これに関しては一発でクリアできた。

 次に今度は、どこにも触れていない状態で生気を感じ取るというものに移ったが、それも数回でクリアした。

 距離をとって試してみても、ランバートに生気を調整してもらっても、ちゃんと違いまで感じ取っていた。自分で言うのは何だが、順調だと思ったものだ。

 ……しかし、今……

 腕から流れてくる生気を自身の生気で押し返すという訓練をしているのだが、まったくもってダメだった。

 彼の生気を感じるだけで、力んでみても、腕だけに意識を集中してみても、いっさい押し返せていない……らしい。

 自分の生気を感じないのだから、コツの掴みようがない。

「普通の人間はな、他人の生気には体が勝手に反応するもんなんだ。異物を外に出そうとするんだよ。逆に意識してねぇと、押し返すのを止められねぇ。相手の生気がデカけりゃ尚のことだ」

「…………」

「さっきまでの二つは問題なく抜けてきてんだから、この訓練こそ難なくこなせるはずなんだが……あんたのそれはどうしたもんかねぇ……。俺相手に、こんなヤル気のねぇ生気は初めてだ」

「あなたは……私の生気を感じてるの?」

「当たり前だろうが。こんだけ垂れ流してりゃ、触ってなくても分かる」

 垂れ流し……

 言葉もない自分に対し、ランバートはポリポリと額を掻いた。

 知識が空っきしな娘に、どう説明しようかと考えあぐねているようだ。

「生気がデカい人間はな、ある程度、他人の生気にも敏感なんだよ。並みのヤツじゃ気付かない生気でも、多少は気付く。パリスもその口だ」

「ディックスも?」

「あいつは別格。嗅ぎ分けるんだと」

「匂うものなの?」

「あいつには匂うって事だ。俺らには匂わん」

「……ふーん」

 確か、ディクシードの生まれがどうのと聞いた気がする。

 血筋の問題なのかもしれないが、嗅ぎ分けると言われると妙に獣じみている気がする。

「とにかく、もっと強いのを流してみてくれないかしら? ビリビリって」

「何だ、そのビリビリってのはよ?」

「なんとなく?」

 電流でも何でもない不思議な異物感なのだが、つい口にしていた。

「何となくってなぁ……まぁ、荒療治でデカいのを叩き込むって手もあるが、それはできるだけ避けた方がいい。どうしてもできねぇ時に使う奥の手だとでも思っとけ」

「どうして?」

「あんた、好奇心の塊みたいな女だなぁ」

「だって知らないんだもの。ちゃんと説明して」

 またしてもポリポリと額を掻き、ランバートはよっこいしょとその場に座り込んだ。あんたも座れと促され、小町もひとまず腰を下ろす。

「昨日のことだが、あんた、パリスのやつに生気を叩き込まれたんだろ?」

「…………」

 自室でのパリスとの悶着の時、壁に頬を打ち付けたのだが、ランバートはその時の話をしているのだ。

「あいつを庇うつもりで黙ってんなら、そんな遠慮はいらねぇんだぞ? だいたいの話は聞いてんだから」

「……庇ってない。……ディックスにもバレてるんだし、庇ってやる気なんてない」

「じゃぁ、何で黙ってる」

「……気付かなかったのよ、パリスの生気を……」

 身構えていなかったからというのは言い訳で、警戒はしていたのだ。

 ただ、パリスが生気を使っていると知ったのは、あの男に自分の怪力を赤子同然だと言われた時だった。

 それまでは、何が起きているのか、何をされているのか、全く把握できていなかった。

 だから、庇うつもりで黙っていたわけではない。生気を叩き込まれたなどと、あの時の自分は自覚してさえいなかった。

 それだけだ。

「ディクシードが見たら、また叱られるぞ」

「え?」

「ったく、無意識かよ……噛んでんだよ、自分の口を」

「……………………」

「生気を叩き込まれた事にも気付かなかったと、そういうわけか?」

 コクりと頷けば、溜め息が返ってきた。

「まぁ、悔しい気持ちも分かるがな、あんたみたいな育ちのいいお姫さんが、あいつの生気に対処できるはずもねぇさ」

「……お姫さん……」

「んな嫌そうな顔すんな。あんたの国ではどうかは知らんが、この国でのあんたの立場は、立派なお姫さんだ」

 貴族に養子として縁組みされているなら、小町の立場は、れっきとしたお姫様なのだとランバートは言った。

 その貴族に仕えている者から見ても、他家の貴族や王族といった者から見ても、令嬢というモノはお姫様なのだそうだ。

 しかし、例えそうだとしても受け入れる気にはならない。

 ましてや育ちがいいからという理由でパリスの暴走に気付かなかったとされるのは、本当に不愉快だった。

「睨むなよ」

「睨んでないわ、その通りだから。平和ぼけした娘なのは、否定しようがないもの」

「噛み付くなって。悪気はねぇんだから」

 つまりは本音が飛び出たというわけだ。いつか絶対に見返してやりたい。

「話を戻すが、あんたは昨日、パリスに生気を叩き込まれているはずだ。ディクシードが言うには、残っていたパリスの生気は相当なものだったらしいんでな、容赦なくやられてんだよ、あんた。それも素っ裸の状態でな」

 ……素っ裸……

「変な意味じゃねぇぞ」

「分かってるわよ」

 生気への対抗をしていない状態。つまり、対処する為の生気を構えていない状態だ。

「裸で食らったなら、かなりの圧迫感を感じなかったか? なんつーか、息が詰まるような……体ごと潰されるような……そんな感覚だ」

「…………」

 ……感じていた。

 体を押さえつけられていただけなのに、持ち前の怪力で抵抗しようとしても、手足を動かす事さえできなかった。首を持ち上げようにも動かせず、せいぜい睨み付けた程度だ。

「黙ってるって事は覚えがあるって事だな。あれを食らえば、常人なら意識が飛んじまう。あんたが飛ばずに耐えれたのは、本能的なもんだろう。自覚がねぇうちに生気で抵抗したはずだ」

 意識なら飛びかけた。腕の痛みで引き戻されただけであって、生気を使って抵抗したつもりはない。

「ろくに対抗できん人間が、デカい生気を何発も食らうもんじゃねぇ。長時間食らい続けるのは尚更だ。そんな事すりゃ……呑まれちまうんだよ、相手の生気にな」

「……呑まれるって……」

「俺は生気もデケェし、対抗する術も知ってるからな、呑まれた経験なんぞねぇが……もろに食らった人間なら何人も見てきた。気が触れて……使いもんにならなくなる」

 ゴクリと生唾を呑んでいた。

「ああなるとな……人とは言えねぇんだ……狂人ってのとも違う……」

 眉を潜める男を見れば、その惨状にどれほど心を痛めてきたかは理解できた。

「もういいわ。言いたい事は分かった、とても……。無防備な相手に大きな生気を流し込むのは、とても危険な行為なのね」

「そういう事だ。あんたの生気もかなりデカい。使い方を間違えれば……とんでもねぇ結果になる。重々、気を付けてくれ」

「……ええ」

「そういうわけで、デカいのを叩き込むのは最後の手段というわけだ。あんたに真っ先に身に付けてもらいたいのは、自身の生気を抑え込む術だ」

「必ず覚えなくちゃね」

「ああ……話ついでで悪いが、あんたなら思い至ってるだろうから、先に謝らせてくれ」

「…………何の事?」

 すっとぼけて見せたが、ランバートは譲らなかった。

「パリスがあんたにした事をだよ」

「…………」

「裸の人間にデカい生気を叩きつけるなんぞ……騎士どころか、人としてあってはならいもんだ。本来なら頭を下げて許されるもんじゃねぇ。……だが俺ができるのは、あいつを許してやってくれと、あんたに詫びを入れる事くらいだ」

「…………」

「悪かった、この通りだ」

 深く頭を下げるランバートに、どんな言葉をかければいいのかと考えていた。

「あいつらしくねぇんだ、んな事するのがな。あんたは国守の客人で、ディクシードが預かった人間だ。そんな身の娘に、平気な顔して生気を叩き付けるようなやつじゃねぇ。それだけは分かってやってくれ」

「…………」

 あの時のパリスは……なりふり構ってはいられないほど、主君を裏切ろうとする娘に憤っていたという事だ。

 気が触れても構わないと思ったのか、はたまた、垂れ流す生気で抵抗すると思っていたかは分からない。

 しかし間違いなく、理性よりも憤りが勝っていた。

「許さないわ、絶対に」

「……国を潰すと言われたからか?」

「それも聞いてるの?」

「ああ、パリスから聞いた。その事なら心配するな。俺もディクシードも黙ってねぇ」

「……ディックスにもそう言ってもらったわ。でもね、ランバート。不安が消えたからって、あの人を許す気にはならない」

「…………」

「私の国には、大事な人達がたくさんいるのよ」

 家族やケヴィン、彼の家族と友人達。

 それに、使用人や取引先の人達。

 他にもたくさん……

「例え口先だけの脅しだとしても、消えてしまっていい人なんて一人もいない。とてもじゃないけど……今は、パリスを許す気になんてなれない」

「…………」

「彼を許す時が来るなら、その時は、私が彼の剣に勝る時よ。きっとその頃になれば許す気になってると思う……。だからそれまでは、率先して嫌がらせに励まなくちゃ。強くなって、あの人に参ったって言わせてやるの」

 思い詰めたようなランバートの表情が、次第に柔らかくなっていく。

 この人は、情の深い人だ。

 剣や武道が好きで……近衛騎士を束ねる人材で……

 そして、他人の感情に添える人。

「私が強くなる為に、あなたも協力してね、ランバート」

「……っ、当たり前だっ」

 遠慮なく伸びてきた手が、ワシャワシャと頭を掻き混ぜていく。まるで大型犬を愛でるような手付きで、彼の相好は崩壊していた。

 切れ長の目は下がりきり、いつも不敵に笑む口からは、八重歯が覗く。

 精悍な外見の男は、笑うととても爽やかで、若く見えた。

「ちょっと、やめてよ! 髪がグシャグシャに――」

「うるせぇ、おとこ女! んなもん気にすんなっ」

「気にするわよ! まとめるの大変なんだからっ」

 ヘアゴムならまだしも、髪紐でまとめるのは大層な時間がかかるのだ。ただでさえ乗馬でボザボサなのに……これでは、また直さなければ。

 遠慮のない男の腕をはたき落とし、ブーたれながら髪紐をほどく。

「あんた、ディクシードの嫁に来いよ。あんたなら歓迎する」

「…………」

「……聞こえてんだろうが。無視すんな」

「…………」

「情婦でもなんでもいい。あんた、あいつの嫁になれ」

「遠慮するわ。私なんかよりも相応しい人ならたくさんいるでしょ? 他を当たって」

「……婚約者がいるからか?」

「当然でしょ」

 乱雑にしかまとまらない金髪に見切りを付け、無造作に置いていた対価の石をひっ掴む。

「どこへ行く気だ」

「お腹がすいたの。そろそろお昼でしょう? 休憩にしようと思って」

 一方的に告げ、返事も待たずに歩いた。ディクシードの妃にという話題なら、さっさと遠慮したい。

「聞けよ、コマチ」

「…………」

「国へ帰れと言った手前、協力するつもりではいる。だがな、あんたをあいつの妃にと思ってんのも事実だ」

「変な期待をされるのは迷惑よ。私は、家族と彼が待つ国に帰りたいだけ」

「…………」

「誰かにうつつを抜かす気になんてならないし、何より……彼しか愛さない」

 言い捨てて歩き出した。ランバートは何も言い返して来ない。

 部屋を出ると、一人の騎士が立っていた。

 昨日の稽古でも見掛けた人物で、特に慌てる様子もなく、隊長は居ますかと問い掛けてくる。

「……ええ、中に」

「昼になりましたので、報せに来ました」

「そう。食事を終えたら戻ってくるから、訓練の続きをお願いと伝えておいて下さる?」

「聞こえてるよ。飯食ったら続きだろ?」

 チラリと視線を投げると、ランバートが顔を覗かせていた。

「……ええ」

「リディオ。悪いが、昼の前に稽古の報告をしてってくれ」

 ちょいちょいと手招きする男に、呼ばれた騎士が一つ頷いて見せる。

 彼はリディオという名なのかと、そんな事を思いながらその場を後にした。


 ◇◇◇◇◇◇


 離れていく小町の背を見送りながら、ランバートは大きく息を吐き出した。

 そうして、副官である男に視線を投げる。

「どこから聞いていた」

「……殿下が出て行かれた後から、終始」

「……っ、入れ」

 普段は開けっ広げな広間の扉を閉め、また一つ溜め息を吐く。

「立ち聞きしろと命令した覚えはねぇがな、リディオ」

「……使命に燃えた男がうるさかったんで、見張りついでに」

「……アレンか?」

「コマチがここに居るなら自分の出番だと、それはもう張り切りまくってたんで、やむなく連行したというわけです。あいつの玉砕を見届けたいと数名ついて来てましたが、まぁ、安心して下さい。雲行きが怪しくなったあたりで、昼飯を食ってこいと揃って追い立てておきました」

 それを聞いて一人安堵した。

 小町を慕うアレンの耳には、あの娘の最後の言葉は、相当にキツいもののはず。耳に入らなくて良かったと心の底から思う。

 アレンは純粋すぎる。その上まだ若い。

 思い詰めでもして、よからぬ行動に走られるのは非常に困る。玉砕なら覚悟の上だと当人も言っていたが、思い詰めないとは言い切れない。

 焚き付けた手前、玉砕を見届けるのも心が痛い。

 見張りのつもりで副官がついて居てくれて良かったというものだ。

「隊長。どのみちアレンは……玉砕どころか粉砕ですよ」

「……清々しい顔して言うなって」

「気持ちがいいまでに言い切ってたんで……つい感心してしまって」

 リディオの言い分も分かるが、玉砕するのはアレンだけではない。

 ディクシードもだ。

「婚約者しか愛さない、か」

「はい。あれほど誰かを想った経験などありませんから、何というか、新鮮に感じました」

「よくもまぁ恥ずかしげもなく言えるもんだと、ちっと呆れはしたがな」

「確かに……でもあんな風に真っ直ぐに想える相手がいるというのは、少し羨ましい気がします」

「……まぁな」

 その真っ直ぐな感情を、できれば、ディクシードに向けてやって欲しいと思う。

 妙な期待をするなと言った小町は、それはそれは迷惑そうな様子だったが……そう言われてみても願ってやまないのだ。

「婚約者という存在は、コマチにとっては、かなり大きいようですね」

「まぁ、こっちは玉砕覚悟だがな。……だからって、このまま何もしねぇで国に帰すつもりはねぇな。欲しいもんは欲しいんだからよ」

「右に同じです」

 おっと……こいつは珍しい。

 リディオは副官という立場を弁えている男だ。欲はあっても表には出さない。部下一同もそれを察していて、ネタにして冷やかして遊んでいる。しかし当人は怒りもせず、テキトーに聞き流して好きにやらせていた。

 自身の欲を知っていて、立場というものを理解しているからだ。

 そして近衛騎士の中で、昨日の悶着の真相を知ったのはこの男だけだ。全てを詳細にとまではいかないが、立ち聞きという形で知ってしまった。

 パリスが何と言って娘を脅したかのか。

 抵抗する術を知らない娘に何をしたのか。

 そんな男に、娘がどのようにして許しを与えようとしているのか。

 それらを知り、普段は欲を出さない男が、隠すことなく欲を口にした。

 小町という娘が欲しいと。

 ディクシードの妃に望むと。

「何ですか、隊長」

「……いや。お前が、俺みたいな事を口にするとは思いもしなかったんでな」

「言っときますけど、隊長の真似事をしたわけじゃないですよ」

「分かってるっつーの」

「……昨日も、この城に止まってもらえたらと確かに思ってはいたんですけどねぇ……。さっきの話を聞いて、より一層強く思いました。殿下の妃にと」

 ランバートも同じだった。

 昨日の昼よりも、夕刻。

 夕刻よりも、さっき。

「不思議な娘ですね、コマチは。知れば知るほど、殿下の傍にあってほしいと思ってしまう」

「……ああ」

「だからアレンも惹かれたのかもしれませんよ。あいつは接点が多かったですし」

「お前も気ぃ付けとけよ」

「分かってますよ、言われなくても。それに、隊長が近付くなと言った気持ち……今なら分かりますから」

 いやはや参った。

 業務も任務も完璧にこなす副官だった。

 しかし、人の心を汲むのに関しては、まだまだだと思っていた。主君の思惑を察するのも、パリスや、上官である自分の考えを読むのも、まだ未熟だと。

 しかし今、こいつが副官で良かったと、そう思わせてくれている。

 この男に変化をもたらしたのも小町という娘の存在だろう。

「とんでもねぇ女だが、やっぱ欲しいなぁ」

「右に同じです……が、あれはマズいと思いますけどねぇ」

「……あ?」

「妃になれと言ってたじゃないですか。何で言うかなぁ」

「いや、まぁ……流れで?」

「流れって……」

 確かにあれはマズかった。

 情に訴えるという、何とも作戦と言いがたい作戦を立てたのだ。核心に触れないというのがお約束。

 その上、部下一同に対して、首謀者である事は黙っていろと念を押したのも自分自身だ。

「気持ちは分かりますけどねぇ、あれじゃ警戒されますって。近付けないなんて事になったら……隊長、アレンに恨まれますよ」

「……いやまったく面目ねぇ」

「私は知りませんから」

「冷てぇな、おい」

「隊長がよく言う言葉ですよ、テメェのケツはテメェで拭け」

 確かに……よく口にする……

 特にパリスに対してであり、部下のケツは上官が拭くものだと思っているが……

「まぁ、何とかなるだろ。コマチも足りねぇ知識を増やしたいんだ。つけ入る隙はあるはずだ」

「……そういう事にしときます。で、一つ聞いていいですか?」

「……何だよ?」

「ここに来る前……厩舎に寄って、例のコマチの馬とやらを見てきたんですけどね……」

 続く言葉が、何を問いたいのかは分かっている。

 頼む、リディオ。

 聞いてくれるな!

「あれのどこが馬ですか?」

「……う」

「う?」

「……う……う、うまだっ」

 まさか自分が言うことになるとは……

 しかし、馬だと通すのが主君の望みなのだ。

「あれは馬だ、リディオ。変わった馬だ」

「棒読みですよ、隊長」

 呆れ顔の副官と共に、昼食の為に雑魚寝部屋を後にした。

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