表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二輪の騎士  作者: 小町
第二章
38/84

第37話 得体の知れない恐怖

 ベッドに腰掛けた小町は、ディクシードから受け取った古びた書物を開いていた。これは、ディクシードの妹がしたためたものだ。

 聞いた時は、本当に驚いた。まさか彼に妹がいたとは……

 同じ血を分けた、彼の三つ年下の妹で、十四という歳で亡くなってしまったそうだ。

 幼い頃の小町とも何度も顔を合わせ、絵物語の話で意気投合していた。病弱な彼女は、小町の話す童話を気に入り、ベッドの中で書にしたためるようになった。いくつかの物語が本となり、世に出回っているとディクシードは言っていた。

 亡くなった少し後、彼女のベッドの上に、この書物があるのを見つけたのだそうだ。文字がビッシリと書き込まれているが、残念ながら、解読しなければ読めそうにない。

 小町の中には、やはり彼女の記憶はなかった。

 ――私は、あなたの妹ではないのよ?

 ――分かっている。それでもお前には、あれの分まで生きてやってほしいと思う。あの頃も今も、私にとってのお前は……唯一無二だ。

 酷い事を言ってしまった。彼の答えを聞いて、現実を突き付けた事を後悔した。

 小町が言うまでもなく、彼には分かっている事なのに……

 懐かしむように語るディクシードが、亡くなった妹の姿を自分に重ねているように思えたからだ。嫉妬などではないのだが、自分は自分なのにと腹が立ったのは否めない。

 自分だって、死んでしまった兄の面影を、フレデリックの中に求めているのだ。

 ディクシードは、亡くなった妹を今でも慈しんでいる。彼女の分まで、小町に生きてくれと望むほどに。

 彼女を失った時の衝撃は、相当のものだったに違いない。苦しいほどに胸を占める悲しみを、小町自身、思い知っている。

 思い出すだけで未だに胸が痛い。

 あの痛みを思い出し、キュッと夜着の胸元を掴んだ時だ。

 またあの現象が起きた。

 広がっていく景色は、薄暗い倉庫の中である。バイクを停めてあるエインズワース家の倉庫だった。

 突然電気が灯り、眩しくて目を閉じた。やがて写ったのは、大きな箱を抱えたアリッサとジェニファー、そして小町の愛車だった。モトクロス専用ではない、兄の後継車種のバイクの方だ。

 抱えていた箱を、二人してバイクの傍へと下ろす。どう見てもプレゼント用にラッピングされた、そこそこの大きさの箱だった。

 カードが添えられている。

 ――いつまで心配させる気なの?

 ――早くこの箱を開けてみて!

 二人からのメッセージカードだった。

 読み上げた小町の頬を、涙が伝い落ちた。

 そんな小町の存在には気付かず、浮かれた様子のジェニファーがカードの端にステッカーを貼る。

 可憐な花のステッカー。紫色の……オシロイバナだ。

 立ち尽くす自分の背で、二人がバイクに掛けられたシートをめくり、何やら屈んで作業をしていた。やがて何事か話ながら、二人は仲良く並んで歩き出した。

 愛車に近付いた小町は、そっとそれに手を伸ばした。ズレたまま放置されたシートの下に、小さなステッカーが覗いている。

 燃料タンクのサイドに、紫、白、黄と並ぶそれも……オシロイバナだった。

 触れたくて伸ばした手が、淡い光を放ち始めた。触れる事など叶わない、期待させるだけの光だ。

 そう分かっているのに、手を伸ばさずにはいられなかった。近付けた指先が一層強い光を放つ。

 触れられなくても構わない……

 錯覚でもいい……

 花の形をゆっくりと指先でなぞっていく。倉庫の照明が消えても、何度もそこを撫でていた。

 暗い中、手探りでプレゼントの箱を探し出した。光る指先のお陰で、目当ての物は直ぐに見つかった。

 カードに貼られたステッカー。

 きっと市販などされておらず、姉妹が作ってくれたに違いない。二人の想いがそこに詰まっている。

 せめて、その想いを汲み取りたくて、何度も何度も撫でていた。既に涙は止まっていた。

 しばらくして景色が一変する。今度は小町の部屋だった。

 姉妹が顔を出し、ローテーブルの上に小町の愛車の鍵を置く。見慣れたはずの鍵なのに、見慣れぬものが付いていた。

 オシロイバナが描かれた、小さなキーホルダーだ。

 これも手作りだろう。歪な形の花は、不器用なアリッサが描いたのではないだろうか。

 光の宿ったままの指で、花の絵を撫でた。

 鍵を置いた彼女らは、書棚の前にいた。

 小町の気に入りの本の背に、ペタペタとステッカーを貼っていく。楽しそうにクスクスと話をしながら。

 ――さすがに、これは怒るかしら?

 ――気に入らなければ剥がすでしょ。心配させてる罰よ。

 なぜか、聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。

 離れた彼女らに代わり、書棚の本を眺めていく。

 目につく所に、いくつものオシロイバナ……

 その下段にもオシロイバナ……

 それから――

 重いアルバムは一番下に並べていた。

 その背にもオシロイバナが咲いている。

 幼い頃から大事にしている物が、一冊、二冊、三冊。そして、ケヴィンと知り合って増えた、皆の写真を集めた二冊。その背を順に撫でてみる。

 広げて見られたらいいのに……

 そんな風に思いながら。

 姉妹はそのまま部屋に残り、ソファーに腰掛け雑談していた。時折寝室へ向けられる眼差しは、とても不安げなものだった。

 パーティーの夜から数えて、既に三日。

 彼女らの世界にいる自分は、未だ眠り続けている。そして姉妹は、小町が目覚めるのを待っているのだ。

 二人だけではない。

 ケヴィンや夫妻、執事達に、スリージーと一樹。他にも、たくさん……

「……Please wait for me. Definitely, I'll be back to you……」

 ――待っていて。必ず、戻るから……

 聞こえないと分かっていて、言わずにはいられなかった。

 どんどん遠退いていく景色の中、二人の姉妹を見続けていた。

 大切な、大切な義理の姉達……


「何があった」

「……えっ?」

 扉を開けて、こちらを見ているのはディクシードだった。元の景色に戻っていた。

「見たのか」

「……ええ。義姉達を見てた。私の部屋で……私を待ってる」

「これに覚えはあるか」

 ディクシードが差し出した物に、見覚えがあった。

 ……アルバムだ。

 さっき指でなぞった中の、最後の一冊だ。

 ……なぜ……ここにあるのか……

「……どうして……」

「来てみろ」

 促されて寝室を出ると、書棚の傍に四冊のアルバムが落ちていた。

 間違いなく自分のものだ。

 全ての背表紙に……オシロイバナが咲いている。

 ディクシードによると、つい先ほど、忽然と現れたそうだ。

「何をした」

「……映像を見てて……前にフレッドにしたみたいに、触れてみたの。でもっ、触れた感触なんて……」

 縋るような目をディクシードに向けていた。自分のしでかした事が不安でたまらなかった。

「お前は幼い頃から、あちらにある物を引っ張り出していた」

「……引っ張り出す?」

「そうだ。お前はそう表現していた。私が眺める様を気に入り、何度となく取り出してみせた」

 ……取り出す……

「記憶はなくとも、体は覚えているものだ。触れたのはそれだけか」

 言われて記憶を遡り、ローテーブルに目を向け……愕然とした。

 その脚元に……鍵が落ちているのだ。

 小さなバイクと、小さな花のキーホルダーが付いた鍵は、確かに小町が触れたものだった。

「鍵だけか。他にはないのか」

 ……ある。

 プレゼントの箱と……そして、バイク――

 触れたのはステッカーだが、鍵もアルバムも同様だ。両方揃ってここにある。

 バイクも、こちらの世界に引っ張りだしてしまったかもしれない!

 即座に踵を返したが、ディクシードに腕を取られていた。

「どこへ行く」

「……外に……きっとバイクがある。バイクにも触れてしまったの。隠さなくちゃ――」

「あったとしても隠す必要はない」

「バカを言わないで! バイクなんて、この世界にあるはずないじゃないっ! どんな騒ぎになるか目に見えてるのよ!?」

「……落ち着け」

「無理よっ! 早く探さなくちゃ、誰かに見つかっちゃう!」

「落ち着けと言っている」

「放して――」

 振りほどこうとした手が伸び、気付けば冷たい壁に抱かれていた。

 ディクシードの腕の中だった。

「落ち着け。落ち着いて私の話を聞け」

 トクン、トクンと聞こえるのは、自分の鼓動か、彼の胸の鼓動なのか……

 人の腕の中にいるというのに、何故かそこは、温もりを感じられなかった。

 自分を囲う腕も、頭を抱く手も、驚くほどに冷たい。

 どうしてこんなに冷たいのか。とても人の体温とは思えなかった。

 急速に頭が冷えていく。

 彼の言う通りだ。落ち着かなければ……

 見計らったように離れていく腕も、冷えきって、とても冷たいものだった。

 思えば、彼の手はいつも冷たかった。

 馬車の中で初めて触れた時。

 荷物のように担がれた時。

 この世界を現実だと認め、彼の手を握り締めた時。

 それから、包帯を巻いてくれた時。

 その冷たさが、自分を正気に戻してくれたのだ。

「座っていろ」

 言い残して寝室に向かったディクシードは、ガウンを手にして戻ってきた。大人しく腰を下ろす小町の肩に、そっとそれを掛ける。

「きっかけは何だ。見る前に何を考えていた」

「……あの書物を眺めてて……それから……両親と兄が亡くなった時のことを、思い出してた」

 ディクシードが言わんとしている事は分かる。

 あの現象が起こる直前、決まって、あちらの世界の事を思い出したり、考えたりしていた。

 それが彼の言う“きっかけ”なのだ。

「見たものを順に話せ。触れた時の状況も、思い出せる範囲で詳細にだ」

 頷いた小町は、どのようにしてあの現象が起こったのかを語り、言われた通り、順を追って詳細に話していった。

 どうしても不安が残り、支離滅裂になってもいたが、ディクシードは根気強く聞いていた。

「そのバイクというのは、お前が三つの時に乗って見せた、あの乗り物だろう」

「……たぶんそうだと思う……。私、そんな頃から引っ張り出していたのね……」

「ああ。両親からの贈り物だと言って、泉の周囲を何度も走っていた」

 ……間違いない。

 自分はこの世界に居たのだ。

 疑っていたわけではないが、確かめる記憶もなく、あまり実感はなかった。

 もう……疑う余地などない。

 三つの誕生日の祝いに、亡き両親から、小さなバイクをプレゼントされていた。嬉しくて嬉しくて、毎日のように走っていたのを覚えている。きっと、こちらの世界でも自慢気に走っていたのだろう。

「その頃のものよりも、もっと大きいものよ。そのバイクにも触れてしまった。……それから、傍に置かれていた贈り物の箱にも」

「どれも花の絵を撫でただけか」

「箱は違う。暗くて手探りだったから、箱自体にも触れたの。感触なんてなかったけど、それでも、この手と重なってた……。撫でただけのものも引っ張り出してるんだから、きっとその箱も引っ張り出してる」

「……だろうな。その乗り物は、お前の家のどこにあった」

「敷地内の倉庫よ。厩舎の脇にある、それなりに大きな倉庫」

 その後も彼は、小町の私室にある書棚とテーブルの位置関係を聞いてきた。むろんエインズワースの屋敷のことだ。

 それらを、こちらの世界に置き換えた場合の配置を、順に考察しているようだった。

「あの五冊の本を支点にして考えろ。引っ張り出したあの本が最後の品なら、そう考えるのが妥当だ。鍵もその配置で床に落ちていたはずだ。それなら、こちらにある乗り物がどの辺りにあるか……お前なら察しがつく」

 この短時間で、そこまで割り出すとは……

 ディクシードの頭の回転の速さに舌を巻きつつ、言われた通り、アルバムのある位置を支点にして考えた。

 まずは鍵の位置。

 あちらの空間をこちらに照らし合わせてみれば、床に落ちているのも頷ける。

 ちょうど、それぐらいの距離だと思う。

 ならば次はバイクだ。

 これは……かなり難しい……

「焦るな、ゆっくりでいい。ある程度の場所が絞り込めればそれでいい。乗り物だけに目を向けるな、難しくなる。置いていた倉庫の場所を手繰っていけ」

 そうか……それなら……

「たぶんだけど、稽古場の……山側の方。今日、馬で渡った橋があるでしょう?」

「堀を渡る橋か」

「ええ。……あの橋と稽古場の中間あたり。それもきっと、城に近い所にあると思う。この城の間取りなんて、はっきり言って分からない。だから、あっちの世界の屋敷を参考にしたけど……でもたぶん、その辺りだと思う」

「お前の家は城か」

「この城ほど大きくはないわ。でも、れっきとした城よ」

「……十分だ」

 そう言ったディクシードが直ぐに立ち上がる。

「どこへ行くの?」

「パリスの私室だ。サーベルからの礼が届いたと伝えに行く」

「サーベルの、礼……?」

 確か昼頃、ランバートもそんな事を言っていた。

 ――そういや、国守があんたに礼を用意するって言ってたな。変わった馬がどうのって。何の事か分かるか?

 ――分かんねぇか。どっちにしろ、あの国守直々の礼だ。受け取りに行くんだろ?

 つまりディクシードは、バイクの存在を、サーベルの礼だと報せに行くと言うのだ。

「ディックス、とてもじゃないけど、馬には見えないわ」

「分かっている。だがサーベルから届くのは、あくまでも“変わった馬”だ。あれが取りに来いと言ったのは、“馬”ではなく、変わった馬の“餌”だが、その程度の指摘なら、私がねじ曲げておく」

「…………」

「見慣れぬ物があっても、周知されていれば騒ぎにはならない。明日の朝、侍従が報せに来たとしても平静を装え。私もここに残っておく。……サーベルから届いたものは、バイクという乗り物ではない。バイクという名の変わった馬だ。分かったか」

「……ええ」

「お前は寝ていろ。私も直に戻る。この部屋からは出るな」

 歩き始めたディクシードを、何とも言えない表情で見ていた。

「ディックス」

「……何だ」

「ありがとう」

 足を止めた男が、妙にゆっくりと振り返る。その表情は、何故か不敵に笑んでいるように見えた。

「礼なら態度で示せ。もう一度私の腕に囲われてみるか。それなら礼だと受け取ってやる」

「……はぁ!?」

「言っておくが、これに関してお前の恋人に詫びる気はない。礼を受け取るのに、詫びの必要などないだろう」

「……っ、さっさと行きなさいよ! 変態っ!」

「呼び止めたのはお前だろうに……いい度胸だ」

 歩み寄ってくる男を前に、小町は即座に逃げ出した。寝室に飛び込んで扉を閉め、ドアノブをガッチリと握り締める。

「もう寝るから入ってこないでっ!」

「籠城なら受けて立とう。明日の朝が楽しみだ」

 扉越しに、男の声が聞こえていた。


 ◇◇◇◇◇◇


 ランバートは、城内にあるパリスの私室にいた。

 部屋の主は帰っていない。おそらくは娼館に足を運んでいるはずで、帰りは夜半を過ぎるだろうが、とことん待つつもりでいる。小町とパリスの悶着について、直接本人から話を聞くつもりでいるからだ。

 勝手に拝借したグラスに、これまた勝手に拝借した酒を注ぎ、立ち飲みしながらソファーへ腰を下ろした。

「こりゃ、かなりいい酒だ」

 こんな酒があるなら、さっさと回せというのだ。安い酒ばかり飲ませやがって。

「ここで何をしているのですか?」

 扉を開けてこちらを見ているのは、この部屋の主パリスである。辟易とした表情だった。

「おっと、帰ったか。えらく早いが……娼館に行ってたんじゃねぇのか?」

「ええ、行っていました。それが何か?」

「…………」

 それにしては早すぎる。これでは長居をせず早々に帰ってきた事になる。女を抱くなら、それなりに時間はかかるだろうに。

 さては――

 ついニヤけてしまったが、これを冷やかさずにおけようか。

「お前、相当に早ぇんじゃねぇの? こりゃ意外だわ」

 いやはや、この色男にそんな欠点があったとは。男としては欠陥と言うべきか。

 こればかりは仕方がないと神妙な事を口にするも、どうにもニヤけは止まらない。

「相も変わらず下品極まりない男ですね、あなたは」

「おうおう、何とでも言ってくれ。お早いお前さんの空しさを思うとな、何を言われても軽すぎて話にならんわけよ」

「生憎ですが、私は人並みです。むしろ彼女達は十分に満足しているようですが? 言っておきますが、一度だけの情交にさえ怯み足を向けなくなったのは私ではありません。そんな軟弱者と一緒にしないで下さい」

「…………」

「どうやら、心当たりがおありのようですね」

「……うるせぇ、ほっとけ」

「よほどこたえているように見受けました。前々から思っていたのですが、あなたこそ早いと罵られたのではありませんか? 哀れなものです」

「……んなんじゃねぇ……俺も人並みだ」

「どうでもいいですが……こんな下品な話をしに来たのなら、さっさと帰って下さい。その酒なら差し上げます」

 本気でどうでも良さそうな目を向けたパリスは、脱いだ上着を椅子の背に掛け、ゆったりと腰を下ろした。

「帰りが早いのは、話をして戻って来たからですよ。今日は、どなたの相手もしていません。あなたの苦手な方に用があったんです」

「……っ、憂さ晴らしはどうしたよ?」

 さんざん小町にコケにされていたのだ。さぞや鬱憤は溜まったはず。

 娼館に行きながら、なぜ女を抱かずに戻ってきたのか。

「憂さなど溜まるはずがないでしょう。あれほどしごいてやったのです。本人で晴らしています」

「いや、まぁ……確かに……妙に機嫌も良さそうだしな」

「もちろんですよ。あなた方が自らの意思で、私と同じ目的を持ったのですから」

「……コマチか……?」

 良くできましたとニッコリと笑む男に、胡乱な目を向ける。

 寒気を感じるのは俺だけか?

「何を企んでやがる。まさかとは思うが、また何かしら仕掛ける気じゃねぇだろうな」

「……さぁ」

「手を出すなと言ったはずだ。今回はコマチに免じて見逃してやったがな、次は相手になってやる。俺だけじゃねぇ、近衛が相手だと思え」

 凄んで見せたが、パリスはわざとらしく、おやと眉を上げただけである。

「たったの一日でこの変わりよう……。男というものは、いつの時代も女に弱いようです。不甲斐ないとは思いませんか?」

「はぐらかすな! これ以上コマチには手を出さんと、ここで誓え」

「言ったはずです。私の目的は、娘を排除する事ではありません。傷をつけたりしませんよ」

「よく言えたもんだ。あの頬はテメェの仕業だろうが」

「腹が立っていたんです。婚約者などとふざけているでしょう? しかし、騎士らしからぬ行動だったと、これでも反省しています」

「……反省って態度にゃ見えんがな」

「ええ、それは確かに……。私の主張を聞いてもらうには、ああするしかありませんでした。あれほどの怪力に、脆弱な私が敵うと思いますか?」

「……ぬかせ、クソが」

「何とでもどうぞ。その言葉遣いは気に入りませんが、私にも非はありますので見逃して差し上げます。それから、金輪際、あの娘に危害は加えません。安心して下さい」

 どうにも気に入らない答えである。非はあると言いながらも、このふてぶてしい態度。いつもの事だが、それだけではない気がする。

 第六感ともいえる勘が、何か企んでいると、そう告げている。

「娼館に何しに足を運んだ? テメェが胡蝶どもを相手に、ただの世間話というガラじゃねぇのは分かってんだ。何の目的があった」

 どうにも先ほどから“娼館”というものが引っ掛かっていた。ズバリ切り込めば、パリスはクスクスと笑い始めた。

「やはりあなたはバカではない。私は、なかなかに見る目があったようです」

「……吐け。吐くまでこの部屋に居座ってやる」

「勝手にどうぞと言いたいところですが……知られて困る内容でもありませんので、教えて差し上げます。娼館に行った目的は二つありました。一つは、直に分かります。たいした事ではありませんし、あなたが逃げ回る姿を見たいので、あえて何も言うつもりはありません」

「…………」

「もう一つは、イギリスという国の所在を尋ねてきたのですよ。あの娘は口を割ってはくれませんでしたので、胡蝶達の確かな情報網を当てにしてみたのです」

 各国の要人らを相手にする、胡蝶と呼ばれる高級娼婦達。下町の事情にも精通しており、その情報網は国の境を越え、一つの縄のように繋がっている。

 確固たる情報を得るなら相応の支払いが必要になるが、この男なら容易に引き出した事だろう。胡蝶達との確かな関係なら、既に築いているに違いない。

「残念ながら、そんな国の名は知らないそうです。もしかすると国ではなく町や村の名かもしれませんが、彼女らの協力は取り付けてあります。各所の娼館に尋ねてくれると言っていました」

「……知ってどうする」

 なぜイギリスという国にそれほど拘るのか。小町の素性を確実に知り得るなら、国の所在をハッキリさせる必要があるのは確かだ。だがあの娘は、罪人でもなければ間者でもない。

 娘の素性を知るための伝令なら、昨日のうちに各所へ出してある。取り急いで国を特定する必要はないはずだ。

 なぜ娼館の協力を仰いでまで、イギリスという国に拘るのか。

 妙な胸騒ぎがして尋ねると、パリスは不遜に笑んでいた。

「ランバート、あなたに一つ、私が新たに確信した事を教えてあげましょう」

「……あぁ?」

「あの娘、何故あれほど無知なのかと疑問に感じていましたが……無知なのではなく、記憶を消失しているのですよ。それも、この国の存在――人や知識に至るまで丸ごとだ」

「……記憶を、消失だと……?」

 反復して、その言葉が小町の言動と一致している気がした。

 確かに小町は無知ではあるが、しっかりしすぎている。その疑問にピタリと当てはまる言葉だった。

「彼女は幼い頃、殿下と共にあったと言われた魔女です。間違いありません。魔女の用いる言葉は、私達には知り得ない言語だと、ずいぶん前に聞いたことがあります。夕刻の稽古の際、彼女はあなたを指して“ナニー”や“マム”という言葉を口にした。覚えているはずです」

 もちろん覚えている。

 この世界には、方言や鈍りという言葉の違いは存在するが、会話に支障を来すものではない。ランバートも各国の人間と対話したことならあるが、言葉が通じないという経験はなかった。

 それなのに、コマチの発した言葉は理解できないものだった。

「あの妙な言葉を母国のものだと言いながら分かりやすい説明を入れるあたり、彼女自身が言葉の壁を自覚しています。それなのに、彼女には魔女だという自覚がありません。幼き日の殿下との記憶も全て、消失しているからですよ」

「……確かに、お前の言い分は、コマチの言動と一致するものがある。魔女だと言われた娘だと、俺自身も確信に近いものを持っている。だがな……それなら筋が通らねぇだろ。まるごと記憶がないなら、なぜ言葉が理解できる。おかしな話だ」

「私も言語の違いを経験したことなどありませんし、ましてや記憶を無くした経験もありません。確かなことは言えませんが……あなたが剣の使い方を忘れてしまったと仮定してみて下さい。記憶の中に剣を持つ自身の姿などなくとも、体や頭のどこかは覚えていて、剣を持てば、その部分が勝手に処理をするのではないでしょうか? 体に馴染んだものは、そう簡単に消え去るものだとは思えません」

「…………」

「彼女も、頭のどこかが勝手に言語の処理をして会話をしているのではないでしょうか。確かではありませんが、そんな気がします」

「……なぜ記憶が消えている? 事故か?」

「こればかりは私でも分かりません。事故があったのは確かなようですが、私の中では、その過去もあやしく見えます。……突発的なものなのか、あるいは……人為的なものなのか」

「……また国守か……」

「おそらくは関係があるでしょうね。当時の殿下は、娘の存在を隠したがっていたはずですから」

 小町の存在には、どうしても国守という巨大な力が絡んでいる。

 とても太刀打ちなどできない、強大で絶大な力が……

「それに加え、殿下は、あの娘をガーデルードに同行させるおつもりです。どういう意味を持つのか、あなたなら察しているのではありませんか?」

「…………」

「国守の力を借りて、娘を国に帰してしまわれるおつもりですよ、きっと。殿下自身も、イギリスという国の所在を知り得ていないという事です」

 パリスの指摘通り、ランバートもそれは察していた。

 だからこそ、小町を引き止める時間が数日しかないと、そう踏んでいたのだ。なりふり構ってはいられないと。

 そこまで考えたランバートは、ハッと息を呑んだ。この男も自分と同じように時間がないと承知しているのだ。

 娼館の力を借りてまで、何故イギリスという国の所在に拘るのか……答えがそこにあった。

 様々なものが、頭の中を駆け巡る。

 邪魔をするなと言った主君の言葉。

 あの激情を伴った言葉は、当初は寝室に潜むパリスに向けられたものだった。

 そしてその後、自分にも向けられた……

 それから……国に帰りたいのだと、寂しそうに呟いた小町……

「……まさか……お前……」

「察しの通りですよ、ランバート。国の所在が分かれば……潰しにかかります」

 小町の祖国を、潰す気なのだ。

「……正気か?」

「愚問ですね。帰る先を失えば、彼女は殿下の傍にあり続ける」

 本気でそう思っているのが手に取るようにわかる。

 この男のディクシードに対する感情は、忠誠を通り越している。

 その性質を分かっているからこそ、主君は邪魔をするなと言い捨てたのだ。

「娘には危害を加えず、その上でこの城に止まってもらう。それには、国を消すのが手っ取り早い。貴族のいる国なら、自ずと大国と絞られますが、誰に聞いても知らないと皆が口を揃えます。おおかた町の名だ。もしかすると、王都なら確実な所在を突き止めてくれるかもしれません」

 この男は、やると言ったら必ずやる人間だ。町一つ消すなど容易いと思っているに違いない。パリスの報告する内容一つで、王都は血相を変えてイギリスという国や町を探すだろう。

 ディクシードの近辺に、不穏な影を近付けない為に……

 大国一つはさすがに無理がある。しかし王都の連中なら、いさかいの火種くらいは用意するはずだ。それはいずれ戦火となり、国庫と軍事力において他国に格段で上回るこの国は、その火の中で確実に生き残る。

 それも、多数の犠牲者の上に……

「パリス。王都に何を報告する気かは知らんが、連中が動けば必然的にディクシードの耳にも入る。そうなりゃ、テメェの首をテメェで絞める事になりやしねぇか」

「ええ、分かっていますよ。今はまだ、王都に報告しようなどとは思っていません。何ができて何ができないのか、それを仕訳している段階です」

 さも当然と言う男が奇怪でたまらなかった。どんな結末が待ち受けているのか、分かっているだろうに。

 例えイギリスという町の抹消が王都からの勅命として下ったとしても、娘の故郷だと知るディクシードは、断固として拒否するはずだ。

 逆に王都を潰し兼ねないような激昂ぶりを見せるだろう。いつかのように単身で乗り込み、王城一つ潰してみせるはず。

 そうなると待ち受けるのは王都の欠落。自分とパリスの雇い主達は倒れ、主君に拾ってもらうという希望も倒れる。パリスが上手く立ち回ったとしても、主君に誤魔化しなど通用しない。下手をすれば即刻手打ちだ。

 娘一人の望みを叶える為なら、ディクシードは容赦なく臣下を切り捨てる。あの尋問の後、喉元へと這ってきた冷気が何よりの証拠だ。もしあの場で返答を間違えていれば、締め殺されていたかもしれない。

 ひとたび決断すれば、決して揺れないのが主君だ。その様に憧れ、皆あの男の背について行く。例え王都の欠落であったとしても、主君が望むならと旗を掲げる者は少なくないはずだ。

 結末など想像するに容易い話だというのに、パリスは小町の望みを絶つのだと平然と口にし、既に動き始めている。

 そんな男の神経に寒気が走る。

「あの娘には……国を潰す事は不可能だと言われました。国守の力を借りても、不可能だと。だから彼女は、堂々と国に帰るのだそうです」

「お前っ、あいつに、国を潰すと脅したのか!?」

「当たり前です。脅し程度でこの城に止まるなら、それこそ話が早いでしょう?」

「……んの、下衆がっ!」

「これごときで下衆呼ばわりとは……私のした事は、あの娘への忠告ですよ、ランバート。まだ手を下してさえいない。選択肢を設けてあげたのです。……これまで私達がしてきた行いよりも、よほど親切だ!」

「……っ!」

「責めているわけではありません。勘違いをしないで下さい。ただあなたが、あの娘の綺麗事に流されているように見えて、あまりにも皮肉に思えたものですから」

「…………」

「言っておきます。あなたの手も、私の手も、既に汚れきっている。いくら洗ったところで、あの娘の手のように清くはなれない。ならば、この汚れた手で掴めるものなら、私はいくらでも手を伸ばします。手段など、今更選んで何になるというのですか。殿下よりも先に、イギリスという町の所在を突き止めます」

「…………」

「私の画策など、殿下は気付いておられる。それでも静観しておいでなのは、娘の言うように、国守の力を借りても尚不可能であると、そう考えておいでなのかもしれません。根拠が分からない以上、やってみなければ分からない。殿下が手を伸ばす気がないなら、私が伸ばします。必ず掴み、あの方の妃になってもらう。殿下自身、妃にと望んでおいでなのですから」

「……っ、クソッ!」

 ローテーブルを蹴り飛ばしていた。

 酒瓶が音を立てて倒れ、高い酒がテーブルの上に広がっていく。

 立ち上がったランバートは、話を切り上げて扉に向かって歩き始めた。

 今の自分に、いったい何ができるのか。

 冷静になって考える必要がある。

 この男を説得するにも、訴える言葉が見つからない。

「ランバート」

 足を止めた自分めがけ、何かが飛んできた。

 ハッシと掴み目を向ければ、それは新たな酒瓶だった。

「あなたもあなたの部下達も、あの娘が欲しいと、そう思っているはずです。私と同じ目的を持っている」

 餞別のつもりかってんだ、クソがっ!

「方法は違えど、私達は同士です。望むものを手に入れる為に、互いの手並みを拝見といきましょう。……私の望みが潰えた時、あなたが引き継いで下さい」

「遺言みてぇな事言ってんじゃねぇぞ、クソッタレ。テメェの事だ。町を潰すなんぞと言いながら、狙いは別にあるだろうがよ」

「……さすがですね」

 胸くそ悪い男だ。国を潰すという画策を主君が見過ごすはずがないと見越し、その上で最悪の場合も想定している。

 狙いを絞り込んでいるのだ。

 おそらく狙いは……小町の婚約者一人だ。

 その程度なら、誰もが気付かぬ間に排除してしまう気でいる。

「最善は尽くします、安心して下さい。できる事なら、私も殿下に拾って頂きたいと、そう思っていますから」

「この狂人が! テメェのケツはテメェで拭けっ! 俺に拭かすなっ!」

 小さく笑う男の声を背に、ドアノブに手を掛けた。


 回してもいないそこが静かに回り……

 押してもいない扉が……勝手に開いていく――


 そこに佇む男を前に、言葉を失い、硬直したまま突っ立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ