第36話 過去の交錯
「もうしないって言ったじゃないっ! しつこいわよ、ディックス」
「お前には反省と言う言葉がないらしい。一度縛られてみろ」
「バカじゃないのっ。どこに好き好んで縛られる人間がいるのよ!?」
「言っておくが次はないぞ。身動きできんように柱に縛りつけてやろう」
「ちょっと、近付かないで!」
「バカを言え。お前を縛る好機を私が逃すと思っているのか」
「このっ、変態っ! あっちへ行ってよ!」
引っ付いては離れ、引っ付いては離れと、主君と娘は稽古場を遠退いて行く。近衛騎士一同とランバートは、生ぬるい眼差しでそれを見送っていた。
パリスは既にここに居ない。溜まった鬱憤を晴らしに、娼館に足を運ぶつもりなのだろう。
しつこいだの、バカだの、変態だのと、我らの主君を扱き下ろす娘に、皆、憤慨できずにいた。ランバート自身もそうだ。このたったの二日で、娘の人となりを知った。皆も悪いようには思っていないはず。
そして――
「寄るなって言ってんでしょっ、このケダモノッ!」
「そう言うな、縛られてみろ」
何より、あの主君が心底楽しんでいるようなのだ。怪力にどつかれ、足げにされているというのに、屁ともせず近付いて行く。
方向性が随分おかしげなものではあるが、冷やかすことに楽しみを見出だしているようだ。
あの堅物で化け物であるディクシードが、だ。
これには皆、どう反応していいのか戸惑っていた。
「隊長」
「……あぁ?」
「コマチは……本当に国に帰ってしまわれるのですか?」
問い掛けたのはアレンだった。他の部下達よりも小町との接点が多かった。情が移るのは仕方がない。
「もしここに止まってくれるなら、僕は……いえ、私は、あの方の近衛騎士に志願したい」
驚いて皆がアレンを振り返る。だがアレンは真剣そのものだ。
これはもしや、ひょっとすると――
「お前……コマチに惚れたのか?」
「いえ……あの、そういうわけではありません。殿下が望まれる方なら、私では足元にも及びませんから……」
……惚れてんじゃねぇか。
これは驚きだ。ここにも物好きがいやがった。
「殿下の妃になる方なら、あの方を護って差し上げたいのです」
「気持ちは分からんでもねぇがな。……コマチは国に帰る。ここに止まる意思はねぇ。あれほどキッパリ言い切ってんだ、お前も聞いてたはずだ」
「ですが殿下は、傍にと望んでおいでです」
「……まぁ、欲しがってんのは見てりゃ分かるか……。俺も聞いたんだよ、ディクシードのやつに。本気で手放すつもりなのかってな」
「殿下は……何と?」
アレンではない別の騎士だった。
「あれは国に帰す、邪魔をするな――だと。恐ろしいもんだった。本気でそれを望んでやがる。欲しけりゃ手元に置いときゃいいだろう? 富も権力も、あいつ自身の力も、一通りのモンは手に入れてんだ、護ってやれるだろうによ。どうしたって帰すんだとさ」
「それならっ! 国に帰られるまでの間、コマチの警護に付く事はできませんかっ!? あのままでは……あの方は、傷だらけになってしまう……」
必死なアレンの言い様に、ランバートは盛大な息を吐き出した。
これは重症だ。もっと早い内から、近付くなと釘を刺しておけば良かった。こうなっては手遅れだ。
「落ち着け、アレン。お前の言い分も分かるが、今のコマチに近衛を付ける事はできん」
「そんなはずはありません! あの方は国守の客人です! 殿下の許可さえあれば――」
「だから落ち着けっつってんだろうが!」
思わず怒鳴り付けていた。
アレンの気持ちはよく分かる。ランバート自身、なぜ傷つく娘を放っておくのかと、主君の行動に疑問を感じている。あのままでは傷だらけになると思いもした。
「分かっているはずだ。コマチの今の立場は、あくまでも情婦だ。そんな人間に近衛を付ける事はできん。ディクシードが正式に妃に迎えるというなら話は別だがな」
「アレン、隊長の言う通りだ。俺達は傭兵じゃないんだ。情婦に付けるわけがないだろう?」
「そうだぞ、アレン。そんな話は前代未聞だ。殿下の醜聞になる。落ち着いて考えてみろ」
「あの方は情婦などではありませんっ! 私が一番よく分かっています」
まぁ確かに……
この男なら、それは身に染みてよく分かっているだろう。違いを見抜く目なら、幼い頃から養われているはずだ。
「座れ、アレン。腰を下ろせ。お前らもだ、全員座れ。これは命令だ」
すぐさま従う者達の中、アレンだけは納得がいかない様子で拳を握り佇んでいた。しかし、そんな男を他の騎士が促し、ようやく腰を下ろす。
「俺はお前らを誇りに思う。ここから先の話は、お前らの胸だけに納めておけ。分かったな?」
皆、神妙に頷いている。アレンも渋々ながら頷いた。
「この中にコマチを情婦だと思う者はいるか? 正直に手を挙げろ」
「聞くまでもありませんよ、隊長。アレン以外の者も、皆情婦ではないと思っています。私達の目を見くびらないで下さい」
「商売道具に傷をつけたがる情婦などと、どこの国にいるというのですか」
その通りだと、皆が口を揃えた。本当にいい部下を持った。
「ああ、試すような真似をして悪かった。面と向かって聞いたわけじゃないが、あいつは情婦じゃないだろう。何らかの理由で、それを装っている。ディクシードのやつも、それを分かっているから好きにさせてんだ。おそらくな」
「どうして、そんな真似を……?」
アレンも戸惑うように呟いている。皆も疑問に感じているはずだ。
「分からん。どうやったって、コマチは口を割らねぇんだ。ディクシードもそうだ。だがな、一つだけ間違いない事がある」
「…………」
「…………」
「ディクシードの妃に担がれたくねぇんだよ」
途端に、皆が気まずげに目を伏せる。
主君の置かれている立場を理解しており、小町がそれを危ぶんでいるのだと、そう思ったのだ。しかし、あの娘に限ってはそうではない。
「勘違いするな。コマチはこの国の内情も、ディクシードの境遇も何も知らん。相手がディクシードだから妃に担がれたくないと、そういうわけじゃねぇんだ」
「だったら何故ですか? 情婦のふりをしてまで、なぜ殿下の妃という立場を遠ざけるのです?」
「……男がいるんだと。国に婚約者がいるそうだ」
「…………そんな……」
愕然とするアレンを見ると胸が傷んだ。もっと早くこの事を告げていれば、これほど娘の存在を意識しなかったかもしれない。
「殿下は……その事を――」
「承知している。その上で国に帰すんだ。どうやっても、コマチはここに止まらん。覆しようがねぇんだよ。……アレン、お前をコマチに付ける事はできん」
「……っ、僕なら、奪ってでも繋ぎ止めるっ! 殿下なら尚の事です。それを許される立場にいらっしゃるではないですかっ! 正式に妃にと望まれればいい! そうされれば、あの方を止めておけるっ」
この発言には、さすがの部下達も目を剥いていた。若さゆえかもしれないが、見過ごすことはできない。
「いい加減に落ち着けよ。お前は近衛騎士だ。それもディクシード付の近衛だ。誇りを汚すような発言は控えろ。……だいいち、ディクシードがそんな真似をすると思うか? あいつはな、誰よりも自分の境遇を分かってんだ」
「…………」
「なぁ、アレン。好いたモンの傍にありたいと思う気持ちは、男も女も変わらねぇと思うんだがなぁ。お前らだってそうだろう? ディクシードのやつも、コマチのやつも同じなんだよ。向いてる方向が違うってだけで、ただ好いた者の傍にありたいと、そう望んでんじゃねぇのか? アレン、お前は違うのか?」
「……っ、違いません」
「……だろう? ディクシードも同じだよ、お前だけじゃねぇ。だからな、奪うとか許されるとか、そんな話じゃねぇんだ。分かったか?」
「…………はい」
顔を伏せてしまうアレンが哀れだった。どんなに想っても、望んだものは手に入らない。
……ディクシードもだ。
あいつは、どんな想いで小町と向き合っているのか。
「まぁ、あの怪力のじゃじゃ馬が相手じゃあ……奪うも何も、大事なモンを握り潰されそうだわな」
おどけて見せれば、皆もドッと笑う。こうやって、向けようのない感情を慰めてやる事しかできない。
「せめて……せめて国に帰られるまで、私に何かできる事はないでしょうか……」
こりゃ本まモンだ。
「俺の個人的な意見を言えば、お前には、コマチに近付いてほしくねぇ。あいつは、俺やパリスを振り回すほどのキレもんだ。お前には荷が重い。……お前だけじゃねぇ。お前ら全員、近付いてほしくねぇんだ」
「…………」
「でもなぁ……コマチの次の標的は……お前らなんだよ。狙い定めていやがった」
「……はっ!?」
「何ですか、それは!?」
「狙いって――」
「俺も気付いたら協力する事になっちまったんだ。あいつ、自分にゃ知識がねぇから、増やす協力をしろと持ち掛けてきやがってな、あいつの武術を餌に釣り上げられちまった」
面目ねぇと頭を掻けば、皆が安堵する。
「足りん知識を増やすのに、お前らの言葉を拾う気だろう。お前らがあいつを意識している事まで見越してやがる。自分から近付くまでもねぇと、そうぬかしやがった。……あいつは、そんな女だ。パリスとの悶着もそうだろう? 使えるもんは、ディクシードでも使う気でいやがる。男としてなら引き抜きたいところだが、あいつは女だ。アレンのように情が移らんとは言い切れん。そんだけ……人の心を掴むのがうまいんだよ」
「それでも構いません。……あの方が望むなら、僕は――」
「それが怖いっつってんだっ! お前はディクシードの近衛騎士だ。余計な事を口にされちゃ困る。お前らもだ」
「……隊長は、私に……コマチには近付くなと言うのですか?」
「個人的にっつったろう? お前だけじゃない、お前らにも近付いてほしくない。……だがな、コマチの無知を放っておくのも怖い。あんだけ気ままに動かれちゃ、胆が冷えるってもんだ。放っておけば痛い目を見るのは目に見えてる。頭がキレる分、知識を増やせば自身で回避できるというのも事実だ」
「……私達にどうしろと?」
副官のリディオという男だった。
「上官として言うなら、近付くなとは言わん。常識の範囲内なら教えてやってくれ。だが、軍やディクシードの境遇については触れるな。俺から話す」
「分かりました。稽古については、私達もコマチの武術に興味があります。可能な範囲で接触しても?」
「構わん。それについちゃ、俺が相手をしてみようと思っている。アレン、お前も稽古には協力してやってくれ」
「……いいのですか?」
「そんだけ惚れてりゃ手遅れだろうよ。パリスはあれで忙しい。定刻通りに稽古に顔を出すとは言い切れん。それまで相手をしてやれ」
「……っ、ありがとうございますっ」
「重ねていうが、コマチが国に帰るまでの期限付だ。その時が来りゃ、割り切れよ。お前自身が辛いんだ。お前らも、自分達の立場を念頭に置いて動け。その範囲でなら…………まぁ、好きにやれ」
「「はいっ!」」
頷いたランバートは、皆にニヤニヤと笑いかけた。
「えらくあいつを気に入ってんじゃねぇの?」
「……隊長もでしょう?」
「まぁな。ディクシードの妃になる女は、どこぞの国のお姫さんじゃあ話にならん。あの怪力が打ってつけだ。……お前らに良い事を教えてやるよ」
「……何ですか?」
「また下品な話ですか?」
「隊長の話は、だいたいオチがあるんだ。真に受けるなよ」
さんざんな言われようである。
「ディクシードがな、コマチに対峙する時は、心を殺しておかなければ振り回されると言っていた」
「……だから何ですか?」
「あの方を相手にするなら当然でしょうね」
「バカだなぁ、お前ら。裏を返してみろって」
それぞれに思案していたが、皆分かりませんと匙を投げた。
こりゃダメだ。まだまだだな、こいつら。
「……情ですか……?」
おずおずと答えたのは、アレンだった。やはりこいつは見所がある。
「そうだ、アレン。心を殺すってことは、情を掛けるなって事だろ? 俺が思うに、コマチは情に弱いんじゃないのかねぇ。近付こうとすりゃ、あからさまに避けたがるんだ。俺だけじゃなく、お前にもだ」
「……はい。手当てもさせてもらえませんでした」
「必要以上に近付けば、噛み付くか距離をとるかだ。情が移るのが怖いのかもしれん。国に帰るなら、そんなもんに惑わされたくねぇのかもな」
生みの親と兄を、幼い時に亡くしたと聞いていた。
別れを恐れ、情が移る事に怯えるのも頷ける。そこにつけ入るのはどうかと思うが、ディクシードの妃に望むなら、なりふり構ってはいられない。
なにせ期限付きなのだ。
それも……おそらくは、あと数日――
「近付くなっつっといて、こんな事を言うのも何だが、そこに訴えてみるのも有りかもな。女ってのは、情に弱い生きモンだろ? あながち間違っちゃいねぇと思う。パリスも力押しで玉砕してんだ。情に賭けてみるか?」
「コマチを繋ぎ止めるというわけですね? アレンじゃ、尾を引きますよ。こいつは情の塊ですから」
さすがに副官ともなると察するのが早い。いちいち説明する手間が省けて、非常に助かる。
「そうなんだよ。だから近付けたくねぇんだが……使えるっちゃあ、使えるだろ?」
「砕けるのが分かっていて、当たってこいと? ちょっとこいつには酷じゃないですかね?」
「やっぱそう思うかぁ……」
「やりますっ! 私にやらせて下さい。あの方を引き止める努力なら惜しみません!」
「いや、まぁ、それほどやる気にならんでもいいわけよ。玉砕を傍観する方も辛くなるわけだからねぇ。お前は普段通りにしてりゃいい」
「いえ、進んで話し掛けてみます。稽古にも協力するんですから、適任です」
「お前なぁ、自分で言うなって」
隣の騎士に小突かれていた。
「ほんじゃまぁ、作戦会議といきますか? くれぐれも言っとくが、俺が参加した事は誰にも言うなよ。コマチに協力する事になってんだ」
「分かってますよ、そんな事。どんだけ見くびってんですか?」
「リディオ、最近、隊長に冷たくないか?」
「狙ってんだよ、隊長の座を」
「あぁ、そうか」
「おい、お前ら! ここに本人がいるんだぞ! ちったぁ遠慮しろっての。アレン、おら、お前はもっと前に来い。お前らももっと詰めろ、外に漏らすなよ」
「あっ、ナニー隊長、あなたは私の隣です」
「リディオ、てめえ、その呼び方を改めろ!」
「うるさいですって、マム隊長。あなたの声は耳に響くんですから」
「コノヤローッ!」
ディクシード付近衛騎士隊、総勢三十名。
大の男どもが肩を並べ、対小娘を掲げた作戦会議をする、という間抜けな構図が完成した。
◇◇◇◇◇◇
湯あみをした小町は、ディクシードに持ってきてもらった応急セットを借りて、手のひらの傷を消毒していた。
今朝はちゃんとカサブタになっていたのに、剣を振ったせいで全て剥がれていた。
明日はきっと、これほど見苦しいものにはならないはずだ。力みすぎるから、こんな有り様になるのだ。だいぶコツは掴んでいる。
まだ力同士をぶつける段階にさえ達しておらず、無理をするとパリスに弾き飛ばされてしまう。競り合う以前の問題だ。相手の隙を作れるように立ち回るのが先。
包帯を巻いて結わえると、灰色の猫がクンクンとそれを嗅いでいる。文句なしに可愛いらしい。
稽古から戻ってみると、二匹が出窓に寝そべっていた。それを眺めながら遅い夕食をとり、湯あみをしてディクシードを待った。その間、彼に借りた応急セットで手当てをしていたというわけだ。
そろそろディクシードが戻ってくるはずである。おそらくはまた、このソファーで夜を明かすつもりだろう。
彼は執務に戻っていた。稽古の間も仕事というのは溜まってしまうようだ。朝から仕事ばかりで息が詰まるのではないかと思う。いつ息抜きをしているのか。
「ねぇ、どうやって切り出したらいいかしら。あなたならどうする?」
猫相手にそんな事を聞いていた。むろん返事はない。
ディクシードと……ちゃんと話をしなければならない。自分自身の事を知るために、彼と向き合う必要がある。
まだ少し臆病風は吹いているが、彼が来たら自分から切り出そうと思っている。
あれこれと考えているうちに、眠気が襲ってきた。体を動かしたからか、どうにも疲れているようだ。ソファーに座ったまま、うつらうつらと船を漕ぎ、扉の音で目を覚ました。
「寝るなら寝室へ行け。そこは私の定位置だ」
ディクシードだ。
「……仕事は終わったの?」
「ああ。お前は、疲れたのか」
「……ちょっとだけ。でも、話をしなくちゃ。あなたと……」
「…………」
「昨日、聞けなかった事よ」
「……そうか。待っていろ」
言い残して、ディクシードは再び部屋を出て行った。
大丈夫。
突き放されたわけではない。彼は待っていろと言ったのだ。言われた通り待っていればいい。
不安になる自分にそう言い聞かせ、しばらく待った。戻ってきた彼の手には、マグと古びた書物があった。
差し出されたマグは温かく、ミルクが入っていた。きっと、酒入りのミルクだ。
「ありがとう」
口を付けると、案の定ブランデーのような香りが口腔に広がり、ホッと息をつく。
「先に言っておく事がある。私の右腕がお前に傷をつけた。許せ」
……右腕……
それを聞いて笑みがこぼれた。
パリスの事だ。パリスを右腕だと、あえて称したのだ。
ディクシードは……パリスを許している。
「いいの。仕返しは継続中だし、ランバートも謝ってくれたから」
「……痛むか」
「さっき……鏡を見てビックリしたわ。気付かないくらい痛まないのよ、平気」
打ち付けた右の頬は、想像以上に腫れていた。しかし痛みはない。本当だ。
「あれは何を潰すと言っていた」
「…………」
「国か、お前の」
「…………」
「……おおかた、似たようなものだろう。だがそんな事はさせはしない。心配するな」
何もかも、彼には全てお見通しだったようだ。
既にパリスの脅迫を単なる脅しと片付けていたが、ディクシードの言葉を受けただけで、ことのほか安堵している自分がいた。
コクリと頷いてみせる。
「パリスはね、容姿をどうやって変えたのかって訝ってたわ。瞳と髪の色だと、そう言っていたの。とぼけてみせたけど、確信を持ってるみたいだった。それから……私が二度もあなたを裏切るなら見過ごせないって、そうも言ってた。彼の中では……一度目があるみたい」
「…………」
「でも私の中にはないの。あんなに必死で訴えていたのに……どうしても見つからない」
ディクシードは静かに目を閉じていた。小町の言いたい事を汲み取ろうとするかのように。
「やっぱり、知らなくちゃいけないみたい。まだ少し怖いけど、知らない事も怖いから……。私、あなたみたいに強くなりたい」
ゆるやかに上がった瞼の下には、悲しげな宝石があった。
「知ればお前は揺れる。知らないままなら揺れる事もない。なぜ知りたがる」
彼の言い分は、もっともだ。
でも――
「知らないからこそ揺れる事もあるわ。だから、その揺れはとても大きいのよ。揺れながら成長しなくちゃ……揺れる意味がないもの」
昨日までは、そんな風に思えなかった。揺れる事自体に怯えていた。でもそれじゃダメだと思えたのは、目の前にいる彼のおかげだった。
揺れながらも向き合うと言ったディクシードの言葉と、そして……変わらない彼の姿を見たからだ。
「あなたは、私の事を知っているんでしょう? 最近の話ではなくて……それよりも以前の話」
「…………知っている」
この答えは既に分かっていたことだ。
ディクシードとの会話で違和感を覚える度、それは確信に近づいていた。
「何故、そう思った。昨日の一件か」
「……それも含まれてるけど……もっと前に違和感を感じ始めてた」
「…………話せ」
頷いた小町は、自分の感じた違和感について話し始めた。
初めて感じたのは、この仮の体を手に入れる前だ。中庭で自分の姿をディクシードが捉え始めた時。
あの時は、気が動転していて直ぐには気付かなかったが、揺れる馬車の中でも違和感を感じ、記憶を遡って突き止めた。
ディクシードの言葉に感じたのは、違和感ではなく、決定的な矛盾だった。
――何を着ている。
――何って……
――衣服だ。何を着ている。
――パーティーで着てたドレスだけど?
――ドレスとは何だ。
――えっと……夜会とか、舞踏会で着る衣装よ。
――そうか。
この会話の少し前、彼は瞳の色を黒いのかと聞いていた。それなのに、瞳よりも一層黒いドレスを着ているのに、なぜ分からなかったのか。
そこに矛盾があった。
あの時の彼には、髪の色も瞳の色も、黒いと認識できてはいなかったという事だ。
「それから、私の事を“変わらない”って一度言ったのよ。どういう意味って聞いたら、もっともらしい返事をしてたけど……以前の私を知っているからこその言葉だったと、今ならそう思える」
「…………」
「疑問に感じたら、どうしても頭に残っちゃって……あなたと話してると、やっぱりそれが出てくるの。……何より一番強く思うのは、どうしてあなたのような立場ある人が、私みたいな人間に、こんなに良くしてくれるのかってことよ」
この疑問は何かある度に顔を出し、最終的に当初の疑問にぶつかるのだ。
自分の事を知っているのではないのだろうかと。
だからこそ、これほど親身になってくれるのではないのか。
「……そうか。お前は……やはり変わらないな。気になり始めれば解決するまで突き進む。そうやって私の事を置いていく。私の立場になど、決して囚われてはくれない」
「ほら、そのセリフ……昨日も廊下で聞いたわ。私の立場を無視するとか何とか」
そんな言葉を聞く度に、彼は自分の事を知っていると、そう感じてしまう。
「私も今の指摘を以前に受けた覚えがる。王子なのだから同じことを何度も言うなと、根拠のない小言がついていた」
「……そんな事言ってたの?」
「ああ」
全く覚えがないが、言っていそうだと思う。
「ねぇ、ディックス。いつ頃の話なの?」
物心ついた頃からの記憶の中で、こんな不思議な世界を夢で見た覚えはない。見ていたなら、印象深くて……きっと忘れる事などできやしないと思う。
だから、それよりも前……
幼い頃だ。
「お前に初めて会ったのは、私が十を迎えた日だ。言葉など通じなかったが、あの時のお前は二つ半だった」
「そんなに前……」
まさか、二つの頃だとは……
呟いて、ふと思った。ディクシードとは八つも歳が離れている事になる。
正確には七つ半だが、自分の歳から逆算すると……彼の年齢は、現在23だ。
仰天すると、彼は今更だなと言って冷たい目を向けてくる。確かに今更だが、せいぜい二十歳過ぎだと思っていた。
「……あなた、若作りしてるの?」
「安心しろ。お前の目は以前からおかしかった。私を女だと思っていたようだ」
「あ、でも、それは分かる気がする。顔だけなら」
また冷たい目を向けられた。失礼なヤツだと思っているのだ。あなたも大概失礼だと目だけで訴える。
少しの間、視線での応酬を続けていたが、彼は僅かに唇の端を上げて笑むと、自身の手のひらに視線を落とした。
その表情は、今までに見たこともないほど、それはそれは穏やかなものだった。
「あの時の事は、よく覚えている」
彼は言う。お前は突然、私の前に現れたのだと――
その日、ディクシードは、わけあってガーデルードの泉にいた。
数歩分の距離を置いて、突如目の前に出現したのは、黒髪と黒い瞳をした幼い少女だった。見た事もない衣服を身に纏い、地べたに座り込んでいる。
真正面から見下ろす格好になり、正直驚いた。その少女も、突然対面した事に驚いたのか、大きな黒い目を見開いてディクシードを見上げている。
しばらく互いに静止していたが、小さな少女は数度目を瞬いて何事か呟き、ヒョコヒョコと歩み寄ってきた。恐れなどない、好奇心と期待に満ちた眼差しだった。
制止したままのディクシードの膝の上に、許可もなく土足で勝手によじ登り、満足げに笑みを浮かべた少女は、疲れたわと言わんばかりに一息ついていた。
そしてまた断りもなく、小さな手で頬に触れてくるのだ。
「とても小さな手だった。温かいと……酷く驚いたのを覚えている」
少女の方も、触れた肌の冷たさに驚いたのか、すぐに手を引っ込めてしまった。
悲しそうに瞼を震わせながら何事か呟き、今度は両手で触れてきた。小さな手で頬を挟みこむようにして。
言葉は通じなかったが、寒いのなら温めてやると言われた気がした。
それでも表情の乏しい自分を見て、まだ寒がっていると思ったのだろう。今度は両手で抱きついてくる。
ギュッとしがみつく力は、とても幼い子供とは思えないほど強かった。
それが少女との初めての出会いになった――
「お前の怪力は生まれながらだ」
それを聞いた小町は、突然変異の怪力ではないと言われた気がした。安心していいのか複雑である。
「それで、私は何をしたの?」
「……私の胸を揉んだ」
「…………へっ?」
思ってもいない言葉に、頓狂な声を上げていた。
「お前は何故平らなのかと、訝っている風だった。私を女だと思ったようだ」
ディクシードは、今もとても美人なのだ。
十歳の彼は、男性的な骨格もまだ未発達だったはずだし、それはもう美少女に見えたに違いない。あるべき胸がないと、当時の自分はそんな風に思ったのかもしれない。
そもそも、十やそこらの子供に、ふくよかな胸があるとも思えないが、二歳の自分には考えが及ばなかったようだ。
「男だと何度も繰り返し言い聞かせたが、言葉も通じず、お前は納得しなかった。苦労したものだ。引き剥がそうにも、その怪力でしがみつき、納得するまで離れなかった。お前の強情も、当時から変わっていない」
「……どうやって納得させたのかは聞かない事にする……」
「…………」
「……何よ?」
「お前は私を変態だと言うが、今思えば、あの時のお前も相当に変態だ。遠慮もなく握り――」
「うるさいっ! 二つ半なのよっ!? あなたの変態と一緒にしないでっ!」
仁王立ちになり、王子という皮を被った変態を、このヤローと睨み付ける。
「あなたは変態の素質を当時から秘めていて、一方の私は変態ではなく無知で非力な女の子だった! 簡潔に纏めればこれで終わりよっ。私はあなたを女性だと思っていたけど、誤解はアッサリ解けたって事にしてあげるっ」
「あっさりではない。人の努力を無駄にするな」
そんなもの、誰が努力などと認めてやるものかっ。この変態め。
睨み付けながら腰を下ろすも、ディクシードは気にする風もない。
いつもの事だが、腹が立つ。
「お前は驚いていたがな」
「……それは……そうでしょうね」
男性だと突き付けられた自分は……愕然としたに違いない。
なぜ女性である人物に、奇妙なものが生えているのかと。
「それからだ。お前は毎日のように姿を見せるようになった。言葉は、直に覚えた。呼んでもいないのに勝手に現れ、好奇心の赴くままに好き勝手動く。当時の私には奇怪でたまらなかった」
「…………」
「次第に慣れ、私もお前を呼ぶようになった。お前は、呼べば必ず応えた。……丸三年だ。お前と共に過ごした」
「…………そう……」
ディクシードの話が……嘘だとは思はない。
口下手な彼が、自分の言葉で話してくれたのだ。とてもそうは思えない。
しかし……どうやっても思い出せないのだ。
記憶のどこを探してみても、幼い頃の自分と彼が共にいた事はない。でも嘘ではないと感じている。
「だからパリスは、私の容姿を知っていたのね……」
「あれは、お前を目にした事がある。一度だけだ」
……一度だけ……?
さも見掛けたという口振りだ。ならば何故パリスは、小町の容姿を言い当てたのか。
十年も経てばもちろん成長しているし、それ以前に、この仮の体に幼い頃の面影などない。とてもではないが、本来の容姿とは似ても似つかない。髪と瞳の色だけでなく、顔は全くの別人なのだ。
それなのに、何故パリスが確信を持っているのか、どうしても分からない。
「お前に構う私を見て、結びつけたのだろう。私が他者を近付けない性分だと、あれ自身が一番よく知っている。当時の私は、あれの存在にも背を向け続けていた。身に染みているはずだ」
側近であるパリスの存在さえも遠ざけていたと言う。
それだけではない。
様々な疑問がある。
しかしそれは、ディクシード自身の問題であり、おいそれと足を踏み込れてはいけない彼の過去だ。
それに、確認しておかなければならない事もあった。
「私は……あなたを裏切った事があるの? どうしても、パリスの言葉が頭から離れない……」
ディクシードの瞳が小さく揺れた。
……あるのだ……きっと……
「あれの言う裏切りは、お前にとっては言い掛かりだ。お前が私の前から消えた事自体を、そう捉えているのだろう」
「……あなたはどうなの?」
パリスの言い分ではなく、ディクシードがどう捉えているのかを知りたい。
彼を……裏切った事があるのかどうか……
「お前は、私にとって唯一無二だった。……私が十五の時、既にお前と別れて二年が経っていた。もう呼ぶまいと決めていたお前を……一度だけ呼んだ事がある」
「その時、私は……応えなかった……」
「そうだ。……何故これほど呼んでも応えないのかと、勝手に腹を立てた。確かにあの時、裏切られたように感じたのは否めない」
「…………」
「お前を隠せとサーベルに頼んだのは、他でもない私だ。私の都合でまたお前を呼んだのであって、お前に非などない。今の私が言える事は、お前が私を裏切った事は一度もないという事実だ。過去もこの先も、お前が選択するものを裏切りだと捉える事は決してしない」
過去のディクシードがどうであろうと、今の彼がそう言っている……
小さく頷いた。
「あなたが私を隠そうとしたのは、魔女だと噂になっていたから?」
「……そうだ」
「どうやって隠したの?」
「……あれに聞け。私は確かに、隠せとサーベルに頼んだが、あれがお前をどうしたのかは……見ていない。聞き及びはしたが、私の知り得た事を話した所で、お前に……あれの思惑など伝わりはしない」
……その通りだ。
いくらディクシードから聞いたところで、サーベルの思惑を知ることはできない。
ディクシードは、後になって知ったのだろう。サーベルが小町をどのようにして隠したのか。
やはり、あの聖獣に会う必要がある。そこに鍵があるような気がしてならない。
「共に過ごした三年で……私は、お前の存在に救われた。今度は、私がお前の力になる。お前に向けられる害意から、必ず護り通す」
ディクシードには、それを成し得るだけの力がある。疑ってなどいない。護ってもらわねばならない時、その時は甘んじて護られるつもりでいる。
「お前の存在は、いずれ魔女だと言われるようになる。だが忘れるな。他者がどれほどお前を魔女だと罵ろうと、私は……お前を魔女だとは思わない。私がお前の砦になる」
「……砦……」
「盾では、お前を護れない」
稽古の際、パリスに向かって放った言葉を思い出す。
――あなた、よっぽどディックスが大事みたいだから、全力で彼を盾にして隠れてやるわ。
ディクシードの……短い言葉の意味を知るには十分だった。
彼の覚悟とも言える意志を垣間見た気がした。
しかし、その言葉の重さが胸を押し潰している。自分には、それほどまでして護ってもらう価値など……本当にあるのだろうか。
「……私、あなたを覚えていないのよ? こうやって話を聞いても、やっぱり……何も思い出せない。思い出すかどうかも分からない……それなのに……」
「思い出せと言うつもりはない。覚えていなくて構わない」
「……どうして……」
「あの頃のお前は、私の閉ざしたいものを見ていた。お前の目は……過去を見る」
「……過去……」
「それだけではない。……訪れるはずの先を読み、ここにない今を覗き、終わったはずの過去を見る」
先を読み……
今を覗き……
過去を見る……
ディクシードの言葉がピンとこない。そんな目を持っているつもりはない。
だがただ一つ、今を覗くという言葉だけは、漠然とではあるが、ケヴィン達のいる世界を見る際の、あの映像を指しているように思えた。
「幼いからこそ受け入れられた私の過去を、今のお前がそうできるとは言い切れない。……知った時、お前が私の手を拒むのではないかと思うと……私も怖い」
確かに昨日、ディクシードも怖いと言っていた。何を恐れているかは分からなかったが、怖いのだと。
過去の交錯なら、こうして話してくれている。だからそれを指しているわけではない。
彼の閉ざしたい過去とは、いったい何なのだろうか……
そして一つ分かった事がある。ディクシードは、本当に小町の記憶が戻る事を望んでいないのだ。
「……だから、あんなに何度も名前を聞いたのに……教えてくれなかったの……?」
「そうだ。名乗ればお前が思い出すかもしれないと、そう思った。私をディックスと呼んだのは、過去にもお前だけだ。記憶が戻っているのかと訝った」
幼い頃の自分も彼をディックスと呼んでいたのだ。そして、彼が頑なに自身の素性に口を閉ざしたのも、小町の記憶が戻るのを懸念したため。
それほどまでに、彼は自身の過去を閉ざしてしまいたいと、そう思っている。
「お前のその手が……私を拒む時が必ずくる。それが何よりも怖い」
「……ディックス、私の記憶が戻るかどうかは分からない。仮に戻らなくても、あなたの閉ざしたいものを、いつか私が知る時がくるかもしれない」
「…………」
「でもね、もし知ったとしても、あなたの手を拒んだりなんてしない。あなたがあなたである限り、それを疑ったり、過去に振り回されたりなんて決してしない」
過去に何があるのかは分からない。
それでも、今の彼を知っているのだ。
僅かな期間で知った人は、誠実で、思慮深い人だった。それで十分だと思う。
断固として言い切ると、ディクシードは大きく瞼を揺らし、その視線を下に落とした。きつく組み合わせた両の手が、膝の上に置かれていた。
「お前の記憶が戻るのも、確かに怖い。……だがそれよりも怖いのは、私自身の決断だ」
「……決断……?」
「いずれ私は、お前の意に染まぬ決断を下す。その時、お前が私の手を拒むのではないかと思うと……どうしても……ここが冷える」
ディクシードが抑えたのは……
彼の胸だった。




