第34話 騎士の姿
ノックの音がして、絵物語の本で文字の学習をしていた小町は、手を止めて扉に目を向けた。誰何を問うよりも早く、相手が用向きを述べる。
パリスである。書棚の配置に来たと言う。
確か彼は、ランバートと共にディクシードの執務室に呼ばれていたはずだ。仕事の件か何かだろうが、その話は終わったのだろうか。
時計がない為、時間の感覚がいまいち分からない。
「今開けます」
応じて立ち上がった。
城に部屋を持つ情婦のルールでは、安易に入室を許可してはならない。許可をするという事は、自由に出入りを許すという事と同じ意味を持つのだ。男性にも女性にも、そのルールは適応する。
だから敢えて“入れ”とは言わなかった。
扉を少し開いて、廊下の様子を確認する。パリスの後ろには、背丈よりも高い書棚と、二人の侍従が佇んでいた。
「どうぞ」
今度こそ扉を開いた。
侍従らがパリスの指示で書棚を運び込み、小町はそんな彼らの様子を扉の傍に立って眺めていた。彼らが退室するまで扉は開けておき、その脇で用件が終わるのを待てばいい。ディクシードにそう教わった。
配置場所をパリスに確認され、頷いてみせる。窓から離れた所を指していた。日射しを受ければ本が痛むからだ。
「ご苦労様です。あなた方は戻っていただいて結構ですよ」
侍従らに退室を促したパリスは一人部屋に残り、小町の出で立ちに目を向ける。
「男性かと思いました。よくお似合いです。……ですが、まだ衣服の方が大きいようだ。線に合った物を仕立てましょう」
小町は答えなかった。
この男には要注意だ。本能的にそう思った。
毒舌家である事は知っている。ディクシードを支点にして動く性質も知っている。全てにおいて、この男の中心にいるのは主君ただ一人だ。
そんな男が、これまで小町に何か言ってきた事はない。主君の手を煩わせている自分に、毒を吐いた事すらない。だからとは言わないが、何か裏があると思ってしまう。
「菓子は気に入っていただけましたか? なにぶん女性が少ない環境ですから、料理人も腕を振るう機会が少ないのですよ」
どうやらケーキをと配慮してくれたのは、ディクシードではなくパリスだったようだ。人格はともかくとして、心遣いには感謝を述べた。すると彼は、それは良かったと優しげな笑みを浮かべていた。
その後も当たり障りのない会話を交わしたが、小町は終始、扉の脇に立ったままだった。話の切れ目を見計らい、そろそろ退室してくれないかという意思を込め、廊下に目を向けて見せる。
しかしパリスは動かない。
ディクシードの容姿に少しだけ似た男の……その柔和な笑みを見返した。
「警戒されているのですか? まるで猫のようだ」
女性を蕩けさせるような笑みを浮かべ、パリスは一歩小町に近付いた。
「躾が行き届いているらしい。そこから離れないつもりですか? 殿下の許可なら得ていますので、どうぞご安心下さい」
「彼が許可したのは、書棚の配置でしょう?」
用件が終わったはずの男が何故まだここにいる。言外に突き放すと、パリスは愉しそうに笑って言った。
「賢い方だ。しかし、賢すぎるのもどうかと思う……。お察しのように、話をしたく残っているんですよ。扉を閉めて頂けますか?」
「用件ならこのまま聞くわ」
「いいのですか? 誰かに聞かれて困るのは、私ではなくあなただと思いますが」
妙に引っ掛かる言い回しをする男に、露骨に胡乱な目を向けてやる。
「どういう意味?」
「私に聞くまでもなく、ご自身が一番よく分かっているのではありませんか?」
「さっぱりだわ」
「……頑なな方だ」
「どうでもいいけど、早く話して下さる? 本の続きが気になって仕方がないの」
不遜に言い捨てたが、パリスはクスクスと笑っている。
「では、こう言えばどうでしょう。……どうやって容姿を変えたのか」
心臓がドクリと大きな音を立てた。
「……何の話?」
「とぼけるつもりですか? その目……その髪……これでもまだ心当たりがないと?」
ドクドクと早鐘を打ち始めた鼓動が、耳の奥にまで届く。
だがそれを、この男に悟られてはならない。
「よく分からないわ」
「そうですか。ではそのままで結構です。本題に入りましょう。イギリスという国はどこにあるのですか? 残念ながら私の知識にはありません」
「隊長さんから聞いたの?」
条件反射のように尋ねていた。
この男に国の名など教えていない。聞くまでもなく、情報の出所はランバートしかいないと分かっているのに。
「殿下から窺いました。これでも側近ですから、他にもいろいろと聞いています。実に興味深い」
「嘘ね」
即座に切り捨てた。この男の言い分が通るなら、小町の容姿が違うと知ったのは、ディクシードが話したという事になる。それは決してあり得ない。
黒い髪と瞳を隠す必要があると説いたのは、他ならぬディクシードだ。
それにあのディクシードが、他人の生い立ちをペラペラ喋るとは思えない。人格崩壊だと笑い飛ばしてやりたくなる。
付き合いこそ短いが、信頼に値する人物だと、そう思っている。
「やはり騙されてはくれませんか……。殿下への信頼は揺るぎないと?」
「……ええ。あなたよりは、よっぽどね」
「人を見る目も確かなようですね。嬉しい限りです」
主君への賛辞がよほど嬉しいらしく、目の前の男は柔和な顔立ちを破顔させた。
自分自身を格下げされたというのに、それに関して気にもならないようだ。
「イギリスという国名は、あなたの声で聞きました。ランバートとあなたの会話も全て、隣の部屋で聞いていましたから」
「……なっ!?」
つまりこの男は、あの問答を立ち聞きしていたと言うのだ。
その事にも驚いたが、誉められる事ではない話を、しゃぁしゃぁと言ってのける神経にも驚いた。
「言っておきますが、殿下は私が潜んでいた事など察しておられた。あの方は、小さな生気でも容易く嗅ぎ分けてしまいますから……。あえて見過ごされたのは、私にも聞く権利があると判断されたからだ。それにどのみち、ランバートから聞き出していましたし、立って聞こうと座って聞こうと同じ事です」
確かに、後々ランバートから知り得た話だろうし、結果は同じだったはず。
しかしそういう問題ではないのだ。人としてのモラルの問題だ。
そこでふと、パリスのペースにはまっている事に気付く。危うく呑まれるところだ。落ち着いて冷静に応じなければボロが出てしまう。
何とかしてこの男を追い払わなくては。
「出し惜しみなんてしないで、さっさと話したらどう? あなた、まだ本題とやらに入っていないように思うわ。早くしないと、ディックスが戻って来るかもしれないわよ」
パリスがここにいるという事は、取り急ぎの用件が終わったという事だ。ランバートと話し込んでいるのかもしれないが、長くはないだろう。
「それもそうですね。まだしばらく掛かると踏んでいますが、保証はありませんから……手短に」
言い終わると同時にパリスが動いた。
目にも止まらぬ早さで小町に迫り、その腕をひねり上げた。痛みを逃がそうと体をよじる小町の動きを利用して、もう一方の腕をも掴む。
抵抗する暇さえ与えず、背後から華奢な肢体を壁に押し付けた。叩きつけると言っても過言ではない力だ。痛みに強張る娘の体から、一気に力が抜けるのが分かる。崩れ落ちる体を無理やり持ち上げ、もう一度壁面に押し付けた。
何も身構えていなかった小町は、冷たい壁に強かに頬を打ち付け、目眩を覚えた。急激に狭まる視界が、このまま意識を失うのだと告げている。
しかし……痛みのせいで、そうはならなかった。
口の中を切ったらしく、鉄臭い匂いがする。腕の付け根もギリギリと痛む。後ろ手に拘束された両腕を、男に締め上げられているのだ。
痛みを訴える悲鳴は声にはならない。口を開いたものの、押し潰された薄い胸は詰まった息を吐き出しただけだ。
……苦しい……
胸の圧迫のせいで呼吸が浅い。入ってくる酸素も少なく、出るものも弱い。
深く息をしようと首を起こせば、それを阻むかのように背後からの圧迫は強くなる。
バタンと扉の閉まる音が響いた。
足でも使って閉めたのか、それを知る術もない。自分の怪力をもってしても、パリスはピクリとも動かなかった。抗う事さえ阻まれていた。
「いくら怪力だと言っても、生気の扱いを知らぬ者など赤子も同然だ。妙な真似はしないで頂きたい」
「……っ」
「あなたは……帰りたいと言っていた。家族の元へ帰りたいと……。ですが、そうはさせません。二度も殿下を裏切るなどと……見過ごすことはできません」
「…………」
「あの方は、あなたの裏切りに目を瞑り、イギリスという国へ帰す気なのです。ですから、直接頼みにきました。……この城に止まってはくれませんか?」
「……いやよ……」
これが、ものを頼む者の態度かっ。ふざけるなっ!
言いたいことは山ほどあったが、一言答えるのがやっとだった。
息をしたい。強く、深く。
足りない言葉のかわりに、横目で男を睨み付けた。
止まる気など更々ない。合図がくれば直ぐにでも帰る。どんな言いがかりを受けようとも、必ずあちらの世界に帰るのだ。
その意思を視線に込めた。
すると一層強い重みが胸を押し潰してきた。自分の意思が伝わった証拠だと言える。
「……でしたら、順に潰して差し上げますよ」
事も無げにパリスは言った。
何を言っているのか分からなかったが、思案する間もなく、視界にナイフの刃が写る。鋭利な刃が眼前に迫り、思わず息を止めていた。
「まずは手始めに、あなたの家族から排除します。そして次は……近親者だ。友人や知人も含めて全ての人間を排除します。それでもイギリスという国は残りますから、いっそのこと国ごと消えてもらうのも一つの手です。そうすれば……あなたはどこにも帰れない。ここに止まるしかないのですから」
男は涼しげにそう言った。常軌を逸脱した内容にも関わらず、何て事はないと言うように。
……狂っている。
「ああ、そうでした。私とした事が、もう一人、要人を忘れていました。あなたの婚約者だという、ふざけた人物を……。すっかり記憶から削除していたようだ」
わざとらしい言い方に、これでもかと男を睨み付けた。するとパリスは表情を消し、ズイと顔を寄せてくる。
「削除したいのは記憶だけではありません。存在している事が許せない。ですから、この短剣で斬り刻んで差し上げます。原形など留めぬほどに……」
ゾッとするほど冷たい声音だった。
紛うことなき殺意をはらんだ言葉が、吐息とともに耳朶を打つ。
「婚約者などとふざけている……。イギリスという国にそんなものがあるから……だから帰りたいと思うのですよ。ならば、その国の場所を教えて頂けませんか? あなたが帰りたがる先を、ことごとく葬り去ってみせましょう」
「そんな事――」
「どうせできやしないと言いたいのですか?」
そう言った男が、皮肉げにクスクスと笑う。
「果たしてそうでしょうか。この国の軍事力も、私の立場も……あなたは何も知らないようだ。安易な考えを抱くなら、そんなもの、さっさと棄ててしまいなさい」
「…………」
「あなたは、国に帰りたいという望みを国守に託そうとしているのではありませんか? だから国守に会う必要があるのでは? ……ですが私も、あの忌々しい聖獣に頭を下げる事くらいできるのです。イギリスという国の場所を教えてくれと」
パリスは言った。
国がどこにあるかさえ分かれば、後は国守の力を借りるまでもない。軍を動かすだけでいい。それが可能な立場にいるのが自分であって、小国の抹消など、この国の軍事力を持ってすれば容易い話なのだと。
「私の知識にない小国など、ものの数日で消えてくれるでしょう。……しかし想定外の力を有している可能性はありますから、聖獣使いについては投入必須でしょうし、念のため、国守には待機しておいてもらいましょう」
「…………」
「これは私からの忠告です。この城から逃げる事はおすすめできません。知人や友人はおろか、家族や婚約者とは接触しない方がいい。……繋がりなど断ってしまわなければ、直ぐに足がつきますからね。無残な彼らの姿など、決して見たくはないでしょう?」
抑揚のない静かな声音が……耳元で聞こえていた。
「それでももし帰ると言うなら、その時は覚悟しておいて下さい。……あなたの命だけではない。あなたの大切に想う人間も、国も……関わりあるものは全て同罪だ。殿下を二度も裏切るなどと、私は決して許さない。報いは必ず受けてもらう」
「…………」
「この忠告を聞くかどうかは……あなた次第だ、コマチ殿」
拘束されていた腕が解かれ、圧迫感から解放された。押し潰されていた胸が酸素を求め、安堵した途端に力が抜ける。ズルズルと壁を伝うように、その場にへたりこんでいた。
背後で扉の音が聞こえ、パリスが出て行ったのだと勝手に頭が処理をした。
呼吸を深くするよう心掛け、両腕の付け根を何度も擦って痛みを追い出そうと試みる。
力負けなど……した事はなかった……
比べた試しはないのだから、必ずしも他人に勝てるとは思っていない。しかしこれまで、男の人にも負けた事はなかった。
柔道だって、護身術の心得だってある。そんな自分が何もできなかったのだ。赤子だとパリスは言っていたが、その通りだ。
なすがまま、されるがままになっていただけ……
この世界で立っている自分は……
とても無力だ。
思い上がってはいけない。怪力だと高を括ってはいけない。パリスの脅しを、単なる脅しと片付けてはいけない。
この世界には、望みを叶えてしまえる“聖獣”という存在がいる。
……腕が痛い。
……胸が痛い。
殺意をはらんだ言葉の数々が、棘など分からないほどに……心をズタズタに裂いている。
愛する人達の元に帰りたい。
ただただ、そう望んでいるだけなのに……
座り込んでいた小町は、ヨロヨロと立ち上がり洗面所へと歩いた。
口の端には血が滲み、頬を伝う涙と混ざって薄紅の滴が落ちていく。
「泣いてる場合じゃない」
血と涙を拭い、冷静になろうと大きく息を吐き出した。
◇◇◇◇◇◇
扉が開き、ディクシードが入ってきた。腰には剣を帯いていて、稽古の時間が近いのだと見てとれた。
足を踏み入れた彼は直ぐに立ち止まり、壁際に目を向ける。
「パリスか」
書棚のある壁ではなく、小町が頬を打ち付けた――あの壁を見ていた。
どうしてそこにパリスがいたと分かるのか、内心驚きながらも小町は平静を装って頷いてみせた。
「何があった」
やはり気付いたらしい。ここで何かしらあったという事に。
どうやってそれを知りえるのかと思い、パリスの言葉を思い出した。
ディクシードは、小さな生気をも嗅ぎ分けてしまうのだと。
「……匂うの?」
「……ああ。お前とパリスの生気が残っている。何があった」
「書棚の配置に来ただけよ」
「……それだけか」
歩み寄ってきたディクシードはソファーへ腰掛け、宝石のような瞳を小町に固定させて言った。観察するような眼差しだ。
頭の回転の早い彼に、どこまで誤魔化せるのか分からない。でもとにかく、やってみなければ……
「少し……話をしたわ。この城に止まってくれと言われたの。ランバートみたいに、あなたのお相手だと考えてるみたいだった。もちろん嫌だと答えたけど」
何て事はないと言ってみたものの、ディクシードの視線は依然として自分に据えられている。
しばらく間を置いた小町は、ゆっくりと話を切り出した。
「ディックス、私……また帰れなかった」
「……見たのか」
鷹揚に頷いて答えた。
「昼食にね、パリスがケーキを手配してくれていたの。それを見て……フレデリックを思い出してた」
「……お前の側近か」
側近ではないが、この場合同じような意味だと捉え、頷いてみせる。
「彼の事を考えてたら、あっちの世界が見えた。昨日、浴室で見たものと同じ現象だった。うまく言えないけど……映像って言えば分かるかしら……。フレデリックが屋敷の廊下を歩いてて、義姉の部屋に向かってた。……私……手を伸ばしてみたのよ、彼に……触れたくて」
「…………」
「でも触れられなくて、気付いたら映像は消えてた。……やっぱり帰れなかったわ。どうやっても帰れない。方法が分からないの」
「…………」
「あなたは、サーベルに知恵を借りろと言っていたけど……あの人は本当に手掛かりを知っているの……?」
押し黙るディクシードを相手に、慎重に問いを重ねていく。
「もし望めば、あっちの世界に私を帰してくれるの? もちろん対価は必要だと思うけど、ここではない世界に私を帰すだなんて、あっちの世界に干渉するという事でしょう? そんな事……あの人の力で可能なの?」
この問いの答を知ることは、小町にとって、二つの答えを得ることになる。
一つはそのままの意味だ。帰れないのか、帰れるのか。そしてもう一つは、サーベルと呼ばれた聖獣の力が、あちらの世界にまで及ぶのかどうかだ。
すでに自分はサーベルの力を借りて、仮の体を得ているのだ。こちらの世界の住人か否かに関わらず、こちら側にあるものには干渉する力があるという事になる。
それならば、あちらの世界にあるものにはどうなのか。
干渉してしまえるのか。
ディクシードは、聖獣は決して万能ではないと言っていた。
だから知りたいのだ。パリスが言った言葉が……国を潰すという内容が……可能かどうか。
何でも望みを叶えるという聖獣が……秩序と理性を重んじるという聖獣が、パリスの望みを聞き入れるのかが知りたい。
異界にまで、その力を及ぼしてしまえるのかが知りたい。
不可能なら、それはそれでいい。自分の力で帰る方法を探すだけだ。現状と何ら変わらない。パリスの言った言葉は、単なる脅しというだけのこと。
だがもし可能なら……
パリスの脅しを、包み隠さずディクシードに話さなければならない。端から聞けば、頭がおかしいのではないかと疑う内容だったが、高を括ってはいけないのだ。この国の軍事力など知らないし、パリスの立場など理解してさえいない。それに加え、この世界には……対価さえ払えば望みを叶えてしまう聖獣という存在がいる。
対価を考えると恐ろしい。
あちらの国を潰すのなら、こちらの国も潰れてしまうかもしれない。だがそれが、パリスにとって同等の価値であるとは思えない。
だからこそ恐ろしい。こちらで虫が一匹死に、あちらの国が潰れるかもしれない……
この世界にいる限り、そんな事は決してないとは言い切れない。
「あの人は、とても強い力を持っているんでしょう? その力があっちの世界に届くなら、私は望みを託してみようかと思ってる。対価の事は聞いてみてから考えるわ。だから、知っているなら教えてほしいの。あの人の力は……あっちの世界に届くほどの力なの?」
パリスの脅しを受けた後、必死に考え、絞り出したのがこの問いだった。
答えを知れば、二つの答えを得ることができる。帰れるか帰れないかという現実を知り、国を潰す事が可能か不可能かという現実を知る。両者共に現実で、今小町が知りたいのは……間違いなく後者だ。
しかしそれを、ディクシードに悟られてはならない。誤魔化してでも答えを手に入れなければ、葛藤の原因を作ったのがパリスだと知られてしまう。
既にあの壁際にパリスの生気を嗅ぎ付けているのだ。頭のキレるディクシードなら、直ぐに関連付けてしまう。
彼は“護る”と言った約束を必ず果たそうとする人だ。パリスの脅迫を見過ごすとは思えない。
側近である男を容易く斬り捨てはしないと……そう言い切りたいのは自分の願望であって、ディクシードの心情とはイコールではない。
パリスのした事をディクシードがどう追求するのか、想像ができなかった。
もしかすると、あの圧力を放って詰問するかもしれない。
でもそれならまだいい方だ。
彼には剣を振るう力も、それを正当化するだけの権限もある。伯爵のように全てを丸く治める方向に動くとは……どうしても思えなかった。
だから決して悟られてはならない。
内心の葛藤を隠し、自然体を装って答えを待った。感情の見えない瞳が、ジッと自分を見ていた。
「確かにあれは強大な力を誇る。だが異界のものにまで手を伸ばす事は、聖獣にとって禁忌とされている。あれ自身がそう言っていた」
それなら……それなら……あちらの世界に干渉しないという事だ。
可能かどうかは分からない。
それでも、今の回答で十分だった。
「……そう……やっぱり私は……帰れないのね……自力で何とかしなくちゃ」
「知恵を借りろと言ったはずだ。あれに聞け。必ず活路は見出せる」
頷いて目を閉じた。
聖獣の力をもってしても、家族の元には帰れない。それを知り、落ち込んでいる自分がいる。
しかし、パリスの言葉を脅しと片付ける事ができて、安堵してもいる。ディクシードを誤魔化し通せたという事だ。
安堵しているというのに……何かがチクチクと刺しくる。意識を向ければ、直ぐに棘の正体が分かった。
罪悪感だ。
護ろうと伸ばしてくれたディクシードの手を……掴まなかったのではないだろうか。
拒んでしまったのではないだろうか。
誤魔化し通すという事は、彼に偽りを通してしまったと、そういう事ではないのだろうか。
「パリスと何があった」
ソロリと目を開けてみる。ディクシードの視線は、真っ直ぐに自分の頬へと注がれていた。
誤魔化しなど……所詮、彼の前では通じないらしい。
ホッとしてしまった。
これで彼の手を拒まなくて済む。そう思ってしまっている。
「……言わない……」
「言え。パリスに何をされた」
「……何もされてない……とは言わないわ。ある程度、想像はついてると思うけど……それでも言えない。あなたはきっと彼を罰するんでしょう? そんな事、私は望んでないもの。何て事はなかったって片付けてしまえる範囲だわ。……でもやっぱり、やられっぱなしは癪だから、次に顔を合わせた時は殴り飛ばしてやるつもり」
できる限り軽い口調で答えた。
本当は、とても痛かった。
軟弱な心が裂けるかと思えるほど……
家族を排除すると、パリスは言ったのだ。短剣でケヴィンを斬り刻むと。
明確な殺意を伴った言葉は、思い出すだけで胸を刺してくる。
ただ皆の元に帰りたいと、ここに止まる気はないと、己の意志を通しただけなのに……
この痛みは決して忘れはしない。パリスを殴ってみたところで、消えることはない。ケヴィンを翻弄するリチャードに、報復した時と同じように。
それでも、殴り飛ばさなければ気が済まない。このまま何もせずにいるのは、パリスの脅しを容認したようなものだと思う。
そんな事は認めない。
必ず帰るのだ。
脅迫に屈したと思われるのは我慢ならない。
「それにね、あの人がした事の根底には、あなたがいるわ。いつでも、どんな場合でも……パリスは、あなたへの忠誠を心に刻んでいるのよ。だから私に帰るななんて言うんだわ。あなた自身が……一番よく分かっているでしょう?」
「…………」
「だから彼を罰したりしないで。もしあなたがするというなら、私がする。そうじゃないと、筋が通らないもの。彼の想いは……あなたを傷つける為にあるものではないんだから」
痛いと感じたのは自分で、ディクシードではない。もしディクシードが罰するなら、彼自身に痛みをもたらすものになる。
リチャードに報復した時、それを痛感した。後悔はしていないが、やはり自分も痛かった。
誰かを害するという行為は、必ず両者に痛みをもたらすものだ。
受けるものだけでなく、与える方にも……
そんな事、パリスもきっと望んでいない。
「私が言うまでもないんでしょうけど……パリスの中心にいるのは、いつだって、あなたの存在なのよ」
◇◇◇◇◇◇
ディクシードの近衛騎士達は、ランバートを囲い、休憩を取っていた。
そろそろ主君と娘が顔を出す頃だ。
「だからな、妙に着慣れてやがるんだって」
「まるきり男の様だと?」
「バッカ、お前、妙にっつったの聞いてなかったのか? 何つーのかねぇ、女なんだが、こう、男みたいにだなぁ――」
水の入ったタンブラーを片手に、身振り手振りで説明しているのはランバートである。その周囲を固める騎士達は、皆上官の話に怪訝そうな顔をしている。
話題は小町の着衣についてだ。
これは、昼の稽古をしていた兵の何人かが、馬に乗る男のような娘の姿を見たというのが話の元で、回りまわって近衛騎士達の耳にも入ってきたのだ。残念ながら、この中に娘の姿を目にした者はいない。
まずは馬に乗れるという事に仰天し、上官に真偽のほどを確かめた彼らは、事実だと聞かされ更に仰天した。そして問題の衣服の話になったのだが、皆、これには半信半疑である。
あの娘の印象は、パッと見た目には淑やかなご令嬢、またはそれを装う娼婦なのだ。どちらにしても、男物の衣服など似合いそうにない。
だが唯一の目撃者である上官は、しっくりきたと言い張っている。
「そういや、お前、案内頼んだ時に会ってんだろ? 見なかったのか?」
上官が問い掛けたのは、小町が付きまとった騎士だった。皆がその騎士を振り返る。
「あの時は女性らしい装いでしたので、お見かけしておりません」
一斉に残念な野次が飛ぶ。世に言うブーイングである。
「そうだったかぁ。ちょっと待てよ……厩舎に顔を出すまで、あんま時間は経ってないと思ったんだが……」
やはり着慣れているのだろうかと、ランバートは真剣に考え始めた。
「ご婦人方の装束は、簡単に脱いだり着たりできないものだと思うのですが」
隊長の時間の感覚がおかしいのではと、皆訝っている様子である。
だがランバートはそうは思わない。娘が言ったように乗馬の心得もあったのだから、着慣れていると考えた方が妥当だ。
「まぁ、どっちにしろだな、あの娘に常識は通用せんと覚えとけ。国守の言ったように、おそらくはこの国の名も知らん。簡単に言うなら迷子みたいなもんなんだが……国へ帰るまで、ディクシードが面倒を見ることになった。妙な事を口走る時があるが、それは軽く流しとけ。本気で捉えてかかると痛い目を見るぞ」
「昨日の隊長のようにですか?」
一人の騎士の指摘に、ドッと皆がわく。
あの“くそくらえ”発言のことだ。
「そうだ、あれだ。……だが実際、頭もかなりキレる。ちょっと突っつきゃ噛み付いてきやがる。食らいついて首なんぞブンブン振られりゃ騎士の恥だ。用心に越した事はねぇのよ。ありゃ相当のじゃじゃ馬だ。免疫ねぇヤツは下手に突つくなよ。主導権なんぞ握られちゃたまらんからな」
「隊長、犬なのか馬なのかよく分かりません」
「アホウ! んなもん雰囲気で分かれっての!」
再び騎士達がドッとわいた。
その様子を眺めたランバートは、よしよしと自分の言動に賞賛を送る。
こうやって、稽古前の騎士の緊張を解すのも、自分に課せられた大事な役割の一つなのだ。やり方はいろいろだが、自分にはこれが一番ハマリ役である。何せ口調を気にする必要がない。
ディクシードとの稽古を控えた騎士達は、皆緊張に固くなる。強者への本能というのは、どれほど鍛錬を積んでいても簡単に拭えるものではない。
自分でさえそうなのだ。密に接点のない騎士ならば尚の事だ。
ましてや相手は、化け物ディクシードである。一睨みで竦み上がるのは仕方のないことだった。
「隊長、お見えになりましたよ」
一人満足していたランバートは、騎士に言われて振り返った。
ディクシードの隣を歩くのは、昼に見た装いの……男のような女である。
「なっ? 妙に着慣れてんだろ?」
騎士達を見ると、皆納得といった様子だった。
明らかに大きな男物の衣服を身に纏った、線の細い娘だ。パッと見た限りでは男と間違えそうなものだが、妙に庇護欲を掻き立てるものがある。
やはり女だ。
「おとこ女ですね」
「おぉぉぉぉ!」
ズバリの言葉に、ランバートはバシバシとその騎士の腕を叩いた。そうしておいて、何はともあれ部下達に向き直る。
「お前ら、さっき言った事を忘れるなよ。稽古をつけるのは俺達だ。あの娘に主導権を取られるような真似だけは避けろ。近衛の恥だと思え」
念を押すと、皆それぞれに頷いている。
うんうんと満足したランバートは休憩の終わりを告げ、騎士達を伴って主君の元へと向かった。直に対面したが、娘の頬に違和感を感じた。
昼に見た時よりも、少し腫れているように見える。もっと近ければハッキリ分かるだろうが……近付いてマジマジ観察するのもどうかと思う。
それに加え、これから稽古を始めるのだ。主導権はこちらにあると、しっかり認識してもらう必要があった。
最初が肝心なのだ。
「よく来た、お嬢さん。ここに来るだけでも、たいしたもんだ」
途端に娘の顔つきが変わった。それはもう、不快そうな表情だ。
ディクシードの隣でいた時は、ずいぶん和らいだ表情をしていたというのに……
何だ、この変わりようは。
これだから女は――
「小町・ダヴィ・エインズワースです。以後は、小町と呼んで下さい。敬称は必要ありません」
斬って棄てられた気分を味わった。昨日とは立場が逆だが、あの時の娘も、こんな気持ちだったのかもしれない。
どうやら、お嬢さんと呼ばれた事が気に入らなかったようだ。
「隊長さん、口が達者だって、また顔に書いてあるわよ」
「……女はな、慎ましいのが好かれるんだぞ」
「それが窮屈だって言ったでしょう? 第一、剣の稽古に慎ましさなんて必要あるのか疑問だわ。そんなもの、沼の底に沈めてきてるわよ」
うへぇと内心毒づき、ランバートは騎士達を振り返る。己のこめかみをツンツン突ついて見せれば、それだけで部下一同には十分伝わったようだ。
皆若干腰が引けている……
だが、まぁ、これで釘は刺し終わった。
「いい度胸だと言ってやる。今更だが、俺はランバート・レイゼンだ。近衛騎士隊長の職を預かっている。今朝も話したが、こいつらはディクシードの近衛騎士だ。名前は順に覚えていきゃぁいい。皆隊長と俺を呼ぶが、あんたに隊長さんと呼ばれるのは妙にむず痒いんでな、ランバートで構わん。市井のガキ共にもそう呼ばれてんだ。遠慮はいらん」
「私は市井のガキね、分かったわ」
「……突っかかってくるなっての」
「今のは照れ隠しよ」
のたまった娘に胡乱な目を向け、小さく息をついた。
やはり妙に調子が狂う。
「ランバート、あなたに聞きたい事があるの」
「あ?」
「あなた、パリスの関係者?」
唐突な問いに、またしても調子が狂った。何をわけの分からない事を言っているのか。
「まぁ関係者っちゃぁ関係者だが……話の主旨が見えん。何の話だ?」
娘は露骨に自分を観察しているようである。何かを推し量ろうとしているかのような、そんな視線だ。
「……そう。確認しておきたいんだけど、私は国に帰る。あなたに異議はある?」
「……何の話をしたいのかは分からんが、俺に異議があると思うか? 肩の荷が下りてせいせいすると言ったはずだ」
「十分よ。あなたは関係ないみたいね……。それで、パリスはどこにいるの? 彼は稽古に来ないのかしら?」
ポンポンと飛びまくる話についていけず、ランバートは冷や汗ものだった。部下達に釘を刺した手前、みっともなく狼狽えるわけにもいかない。
「いや、もうじき来るだろ。あいつに用でもあるのか?」
「あるわ。稽古に身が入らなくなるくらい大事な用がね。どこにいるの?」
「俺は見てねぇが……。誰かあいつを見たやつはいるか?」
部下達に問うと、兵舎で着替えていたのを見たと言う者がいた。
「だそうだ。直に顔を出すだろ。……あんた、根性だけはあると思ってたが、初っぱなから稽古に身が入らんなんぞ、よくぬかしたもんだ。俺の買いかぶり過ぎかねぇ」
癪に障る事を言われ、遠慮もなく皮肉った。
事実、少しばかりガッカリしている。この娘には、多少なりと見所があると思っていたからだ。
「好きなように言えばいいわ。兵舎に残っているのはパリスだけなのね?」
娘は好戦的に見返してきた。
この目だ。
この目が調子を狂わせるのだ。
「他の兵は外だ。あいつだけだろう。お得意の色仕掛けでもしに行くつもりか? これから稽古だってのに、よっぽどあいつを気に入ったようだな。お盛んなこった」
「……ええ、とても気に入ったの。今すぐ組み敷いてやりたいくらいにね。私、彼を待つ事にするから、稽古なら彼との用が済んでからお願いするわ」
高飛車に言い捨てた娘は、呆気にとられる一同を放置して、兵舎に向かって歩き出した。入り口の壁に腕を組んで寄り掛かる。
本気でパリスを待つつもりなのだ。
その厚かましいまでの不遜極まりない態度を前に、フツフツと怒りが込み上げてくる。
この場所は剣を持つ者にとっては聖域であり、これから行う主君との稽古は、騎士にとって特別な意味を持つのだ。
ディクシードの近衛騎士たる者に与えられた至上の特権。
今朝方の娘との問答の際、それは重々と言って聞かせたはずで、あの娘も神妙に頷いていたではないか。
だというのに……何だこのザマは……
剣を学びたいと言う熱意を汲んでやり、聖域に足を踏み入れる事を許可してやったというのに、来て早々、気に入りの男を待っている。
そんな事のために、この場を設けたつもりなどない。
主君も主君だ。
あの娘の言動を全く咎めようとしない。いくら望み続けた存在だと言っても、好き勝手させ過ぎだ。
「ディクシード! テメェ、あの女にどんな躾してやがるっ!」
主君の胸ぐらに掴みかからんと手を伸ばせば、それは容赦なく叩き落とされた。
睨み付けたディクシードの目が、冷徹な光を帯びてゆっくりと自分に向けられる。
騎士達が息を呑んだ。
……なんだ……?
何故こんな目を向けられなければならないのか。
腹が立っているのは自分の方だ。
意味が分からん。
「邪魔をするなと言ったはずだ」
「……っ、俺が……俺が、いつテメェの邪魔をした!?」
無言でこちらを見ていた冷たい視線は、やがて兵舎へと向けられた。
その目は既に、いつもの主君に戻っている。
だが先程の眼差しに宿った光は、間違いなく敵意だった。そんなものを向けられる心当たりなど全くない。
「あれの部屋にパリスが来た」
「……だから何だ。書棚を届けるだなんだと言ってただろうが。そりゃ行く――」
「書棚とは違う場所に生気が残っていた。入ってすぐの壁だ」
「……あぁ?」
「あれには石を与えてある。残っていたあれの生気はわずかだが……パリスの生気は、その比ではない。私の言いたい事が分かるか」
「…………」
「他にも残っていたものがある。……あれの血の匂いもだ。壁際から奥の部屋に向かって残っていた」
娘の血だと……?
……まさか……
パリスが娘に手を付けたと言いたいのか。
そうは思ったが、それは有り得ないと即座に否定する。
確かに女を買うような男ではあるが、好色というわけではない。相手にするのは娼館に身を置く女ばかりであり、それは後腐れがないからだ。
何より、主君を裏切るような真似をするはずがない。あの男だけは、間違っても手を付けるはずがないのだ。
ならば何故……娘の血が……
「血は確かに流れた。生娘ではないあれが血を流す理由など、答えは一つだ。あれの右の頬も腫れている。パリスの残した生気も、尋常ではないものだった」
部下達も主君が何を言わんとしているのか察したらしく、背後で動揺する気配が伝わっていた。
「生気の扱いを知らぬあれに、パリスは容赦なく生気を叩きつけたはずだ。それも、相当な力を加えてだ。おおかた、壁にでも頬を打ち付けたのではないかと、私はそう考えている」
「…………」
「何があったと問うたが、頑として口を割らなかった。言えば私がパリスを罰するからだと、そう言った。ただパリスは、ここに止まれと言っただけなのだと……私への忠義ゆえの言葉なのだと、あれは私に説いた。だからパリスを罰するな、罰する時は、自分がすると」
「…………」
「…………」
「…………」
もはや黙りこんでいるのはランバートだけではない。部下達もだ。
「貴様は、そんなあれを情婦のように蔑んだ。貴様だけではない。口にせずとも、貴様の部下も同じように感じたはずだ」
「…………」
「貴様らの目にどう写ろうと、私の目に、あれは情婦とは写らない。貴様らよりも……よほど騎士の姿をしている」
珍しく長々と語る主君の言葉は、ランバートの胸を、痛いほどに抉っていった。
おそらく、部下達も同じ痛みを感じているはずだ。
「剣を振るうだけが騎士か。何も知らん娘に、あれ程の生気を叩きつけるのが騎士か。力を誇示するだけの存在に何の意味がある。……笑わせるな」
「…………」
「あれは、私の痛みを汲み、私の痛みに代わろうとパリスを待っている。私ではない者の為にも、同じことをするだろう。それができる者など、そうはいまい。……あれは国へ帰す。あれは……何よりもそれを望んでいる」
バシンと強烈な音が響く。兵舎から出てきたパリスを、娘の平手が迎え打ったのだ。
皆の見つめる先で、不意打ちによろけた男を娘が問答無用で引き倒していた。
地べたに押し倒された男は、何事かといった風で馬乗りになった娘を、ただただ仰ぎ見ていた。
宣言通り……娘がパリスを組み敷いているのだ。
振り上げた娘の手が、もう一度パリスの頬を打った。




