第33話 戻りたい世界
胸の内の棘を煩わしく感じていた。
それを紛らわすかのようにズカズカと廊下を歩いていた小町は、兵舎の入口近くでディクシードに捕まった。とは言っても、彼はただ、横に並んだだけなのだが。
稽古場に出ると騎士達が驚いてこちらを見ていたが、素知らぬ振りで稽古を眺めた。主君と娘という組み合わせを見慣れたのか、騎士達の稽古は次第に再開していった。
目の前に広がるのは、ひたすら剣を合わせる大勢の騎士達……
皆、ディクシードの存在に萎縮しながらも、その目に少しでも留まろうとするかのように、激しく剣を打ち合わせている。
小町はただただ佇んで、彼らの姿を見つめていた。
自分もあの中に加われたら、棘の煩わしさにも囚われず、一心に体を動かせるのに……
生憎と稽古は夕刻までお預けだ。
こんな時恋しくなるのは、やはり愛車の存在だった。
「走るか」
「……へっ?」
「馬で走りに行くか」
どういう意図でそう言ったのかは分からないけれど、ディクシードを見ると、稽古場の向こう、城の裏手にある山を見据えていた。
「明日の昼は生気の扱いを学ぶ時間に当てる。お前の呑み込みが悪ければ、更に時間を当てていく事になる。走るなら今のうちだ。どうする」
それなら――
「走る」
答えると、ディクシードはすぐに身を翻した。慌てて呼び止め、さすがにドレスで走る勇気はないと言うと、彼は相乗りすればいいとサラッと言った。
迷ったものの、その提案は却下した。
そんな事をせずとも馬になら乗れる。バイクほど得意ではないが、早駆けも多少できる。何より、一人よりも相乗りの方が怖いと感じてしまうのだ。乗馬のカリキュラムの時も慣れなかった。
一人で手綱を引く方が性に合っているのだ。
「乗れるのか」
「それなりにだけど……。でも、馬への合図が同じとは限らないから、先に確認しておかなくちゃいけない」
「……そうか。着替えてこい。馬を見繕っておく」
そう言って、ディクシードは近場にいた騎士に歩み寄った。
「ランバートに伝えておけ。馬で走る。あれも連れていく」
視線で小町を指した後、そのまま厩舎に向かって歩き出した。騎士は腰が引けた様子ながらも戻る時間を尋ねていたが、主君からの返事はなかった。
困惑しているようだ。
「たぶんだけど、昼過ぎには戻ると思うわ。そう伝えておいて下さる?」
コクコクとどこかの国の人形のように頷く騎士に、お願いしますと言いおいて小町も身を翻した。
「あのっ! 厩舎なら、殿下が向かわれた方ですが!」
最速で歩き始めた小町の背に、騎士は怪訝そうにしながらも声を張って教えてくれた。小町も彼に聞こえるよう首を巡らせ、着替えてくるからと応じて与えられた自室へ急いだ。
走りたい!
とにかく走って、風を受けたい!
駆け出したくなる衝動を抑え込んで早足に歩く。できる限り下品にならないようドレスをさばき、颯爽と言えるスピードを心掛けた。すれ違う人には目もくれず、とにかく急ぐ。
自室に辿り着くなり、寝室に駆け込んでクローゼットの中から稽古用の衣服を引っ張り出した。昨夜ディクシードは、ブーツも用意してくれていた。豪快にドレスを脱ぎ捨て、手際よく男物の衣服を身に付ける。ブーツに履き替え、短剣をズボンの腰に挟み込んで隠した。
ドレッサーに飛びつき、引き出しから髪紐を取り出して髪を纏めにかかった。緩くウェーブの掛かった金の髪は、本来の真っ直ぐな黒髪と違い、束ねて纏めるのに適していた。
だがなにぶん、紐で縛るのに慣れていない。四苦八苦している鏡越しの娘は、どう見ても他人にしか見えなかった。
簡単に身嗜みをチェックして部屋を飛び出し、ひたすら走った。
廊下に出た際のマナーは、既にこの出で立ちでアウトだ。ならば、そんなものに囚われる事さえも……今はとにかく煩わしい。
侍従や女官が、慌てた様子で道を開けてくれるのには助かった。もしや今の自分は、男に見えているのではないだろうか。
稽古場を横切ろうとして思い止まった。瞬巡した後、兵舎の裏手を通って厩舎へ走る。
三棟並びの厩舎は、とても大きく広かった。一つ一つ中を覗いてディクシードを探し、三つ目の厩舎で発見した。何故かランバートも一緒にいる。伝言を聞いて駆け付けたのだろうか。
入口で足を止めると、ディクシードがすぐに気付き、入ってこいと促してくる。頷いて足を踏み入れた。
厩舎特有の、草と馬の臭いが鼻をつく。だが不快だとは思わない。好んでもいないけれど。
ここまで一気に走ったせいか呼吸が上がっていた。深呼吸をして落ち着こうとしたが、なかなか鼓動は治まらなかった。
たったの二日、おとなしく過ごしただけなのに、随分と体力が落ちているようだ。もしかすると仮の体のせいかもしれないが、体力不足は否めない。
歩み寄ってきた小町の出で立ちに、ランバートが目を見張る。だが否定的なものではなかった。それなりに様になっているらしい。
「これに触れてみろ」
ディクシードが指した馬は、彼の愛馬によく似た馬だった。黒毛の艶やかな馬で、見るからに立派で速そうで、そして……高そうだ。
「おい、いくらなんでも、そりゃ無理があるだろうが。こっちの栗毛から試せ。順に試してダメなら、そいつしかないがな」
ランバートが指した栗毛の馬も、手入れの行き届いた馬だった。値が張る馬なのは間違いない。
さて、どちらにしよう。
ほんの少し考えた小町は、栗毛の馬に歩み寄った。選んだ理由は、やはり黒毛が高そうに思えたからだ。
手を伸ばしてみると、馬は怯えたようにそれを避けた。
「?」
もう一度伸ばした手も、やはり避けられてしまう。こんな馬の反応を見たのは初めてだった。
エインズワースの屋敷にいる馬達は、皆、好きに触らせてくれた。撫でると気持ち良さそうに応じる馬もいる。講師の乗る馬も、伯爵の愛馬も同様だった。
「あんたの生気に怯んだだけだ。触れる馬を探せばいいんだよ」
生気なら石に吸い上げてもらっているはず。なぜ抑えられている生気に怯えるのか。そう思って首を傾げた。
小町の疑問を察したようにディクシードが口を添える。馬は強い生気を感じ取るのだそうだ。本能的なもので、馬以外の動物もそうらしい。
ひとまず頷いて、隣の馬にも手を伸ばしてみる。
やはり避けられた……
生気のせいだと知っても、どうしてもショックを受けてしまう。つぶらで澄んだ馬の目が、物悲しげに瞼を揺らすのだ。滴を落として泣き出すのではないかと思えるほど、それはもう悲しげに。
順に試したが、どの馬も似たような反応を示した。馬だけでなく、小町までもが悲しくなってきた。
「あんた、よっぽどデカい生気を持ってんだな。まぁデカい事は分かっちゃいたが、これほどデカいとはね」
よく通る声でデカい、デカいと連発され、キッとランバートを睨み付けた。この男も面白がっているのだ。身長がデカい事を気にしていると知って。
フンッとそっぽを向いた小町は、ディクシードが指した黒毛の馬にドスドスと近付いた。しかし、勢いに任せて手を突きだしはしなかった。
馬は繊細な生き物なのだ。他の馬にしたように、そっと手を伸ばしてみる。今度は避けられることなく艶やかな毛並みに触れることができた。
安堵して息をつくと、様子を見ていた男も息を吐いた。だが小町の嘆息とは違い、ランバートの嘆息は安堵ではないようである。
「あの装束もそうだったが、あんた……黒いものを嫌わんようだな」
「……はっ?」
馬の鼻面を撫でていた小町は、何の話だと訝り、すぐに思い至った。
この世界の住人は黒いものを好まないと聞いていた。魔女の象徴だとされる色だとか何とか……
無理があると言ったランバートの言葉は、価格に対するものではなく、色に対する嫌悪感の話だったようだ。
魔女の色などと小町には関係ない。
むしろ黒は、一番好きな色だ。何と比べてもシンプルで締まって見えるのだから。
「魔女の色だから?」
直球で尋ねると、男はポリポリと頬を掻いた。
「……まぁな」
「それって、馬に何の関係があるの?」
「…………」
「関係があるっていうなら、はっきり言って、価値観の相違だわ。私はこの馬を見ても、魔女だなんて連想しない。足の早い馬と言えば、葦毛か黒い馬を思い浮かべるもの」
「…………」
「黒い馬が遅いなら、単なる私の思い違いだけど」
「……いや、確かに早い」
「それなら、毛色が縁起が悪いってだけで切り捨てるなんて、とても勿体ない話だし、馬にだって悪いと思うわ」
ねぇ? と黒毛の馬に声を掛けると、馬は小町の手に鼻面を押し付けた。
どうやら馬も同意らしい。
「この馬にするわ。おいで」
ちゃっちゃと馬房の横木を外して手綱を引くと、馬は抵抗もなく引かれてくれた。
慣れたもんだなと感心しながら、ランバートが鞍を乗せている。鞍の造りも同じだし、もしかすると馬への合図である扶助も、あちらの世界と同じかもしれない。期待を込めて彼に尋ねてみた。
ザッと一連の扶助について教わり、自分の解釈も添えて確認してみると、嬉しい事に予想通りだった。扶助は世界共通であると講師に聞いた事があったけれど、こちらの世界でも通用するとは……
素直に嬉しい。
「何を喜んでんのか知らんがな、聞いただけで乗れるとは限らんだろう、お嬢さん」
「それもそうね」
念のために手綱を引いてもらい、鐙に足を掛けた。よいしょと跨がってみたが、特に問題はない。ポンポンと馬の首を叩いてやる。
「歩かせてみろ」
ディクシードの声だった。彼は愛馬に跨がり入口近くで待っていた。世話をしている様子は見ていたが、実際に乗っている姿を見たのは、これが初めてだ。
それはそれは絵になる姿である。
「すごい嫌み。切り取って額縁に入れたくなるくらい様になってる。プリンスは白馬よりも黒い馬の方が断然素敵ね」
前々から本を読む度に思っていた。黒くて猛々しい馬の方が、白い馬よりもしっくりくるのにと。王子様というのは強いのだから。
ブツブツと一人呟く小町を怪訝そうに見ていたランバートは、呆れた風で溜め息を吐いた。
「歩かせろだとよ」
おっとそうだった。うっかり自分の世界に入っていた。
もう一度馬の首を軽く叩き、その腹を足を使って少しだけ圧迫する。そのまま優しく揺すって扶助を出した。馬によっては優しいだけでは応じてくれない事もあるのだが、この馬は直ぐに反応してくれた。
ゆったりと進み、扶助を変えて少し早めに歩かせてみても、スムーズに応じてくれる。相性はいいようである。
ディクシードの傍まで進んでみる。
「どう? 問題ないと思うんだけど」
「良さそうだ」
及第点らしい。
よしよしと満足して頷くと、歩いてきたランバートが感心した風で尋ねてきた。
「乗り慣れてんだな、悪くねぇ。誰に教わったんだ? 婚約者か?」
「また尋問?」
「いや、まぁ……否定はしねぇ」
小町は随分と高い位置から男を見下ろし、溜め息を吐いた。
「ケヴィンとは……婚約者とは馬で走った事はないわ。別の乗り物でなら走るけど……。乗馬は講師に教わったの。淑女として常歩ぐらいは学んでおくようにって、養父のすすめがあったから」
「養い親は貴族だったか……。しっかし、その言い分もおかしくねぇか? 女に乗馬なんぞ必要ねぇだろ。意味が分からん」
「だから価値観の違いなのよ。義理の姉達も乗馬の心得はあるし、私の国の上流階級の女性なら、たしなみの一環として教わるんじゃないかしら? 必ずしもそうとは言い切れないけど」
「……女が乗馬ねぇ」
「理解できないって顔ね。別に、無理して理解する必要なんてないんじゃないの? それならそれで仕方のない事でしょうし」
「あんた……どうしてそんなに割り切れんだ? 馴れ合う気はないってのか?」
……馴れ合うですって?
兵舎での尋問を忘れたとは言わせない。
「おかしな事を言うのね。間者って疑いが晴れたわけでもないんでしょうに、馴れ合うも何もないと思うわ」
「…………」
「あなた方の女性に対する価値観なんて、私にしてみれば関係のない話だし、その価値観を押し付けられるのは窮屈というだけの話よ。理解し合えるなんて思ってないわ。……さっきも言ったけど、理解者は一人いれば十分よ」
この問答も十分だ。
話せば話すだけ棘が増えていく気がする。
「行きましょう、ディックス」
返事も待たずに馬を歩かせた。その横にディクシードも並ぶ。
直ぐに応じてくれる馬にも感謝だ。自分の気持ちを汲んでくれるディクシードにも、心の内で感謝した。
厩舎を出て、稽古場の脇道を山へ向かって馬を進めていく。
「辛いか」
「……平気。疑われても仕方のない話だから、ある程度は覚悟してた。摘み出されてないだけマシだわ」
「…………」
「稽古はつけてくれるんだから、マシっていうよりも上出来ね。そんな事よりも今は走りたい。あなたが馬の世話をしてる所って、あの山なんでしょう? どうやって行くの?」
話題を変えたくて尋ねると、ディクシードは稽古場の奥を指した。
まだ見えないが、堀を渡る橋があるそうだ。そこを渡って道なりに進めば、次第に山道に入る。舗装は山の中途まであるようだが、あとは獣道が続いていく。
エインズワース家の敷地内の山のように、その道は都合よく一周しているものではないそうだ。途中で折り返さなければならないらしい。
「橋は下ろしてある。越えれば好きなように走れ。道なりでいい。私はお前に合わせて走る」
頷いてみせた。ディクシードに合わせる自信はないのだから、とても助かる。
乗馬のカリキュラムで習うのは、競走馬のように早く走らせる事ではない。姿勢の美しさや扶助のテクニックを学ぶのであって、走らせると言っても駆歩までだ。
それ以上の速さになると、経験がないわけではないが数える程度だった。ディクシードのスピードについていく自信はない。
負けん気を起こして慣れない走りをしたところで、馬を制御しきれなければ、それはとても危険なのだ。怪我のもとを自分で作るようなものであり、そんな浅慮な真似はしない。
「ねぇ、ディックス。あなたが厩舎で馬の世話をしないのは、騎士達が萎縮するから?」
「そうだ。兵だけでなく馬丁もだ。その馬の世話も私がしている」
彼が世話をしているというなら、強い生気に慣れているということだ。だからこの馬は、小町の生気に怯えなかったのだ。
「本当にそれだけ? 好んで世話をする人がいないからなんじゃないの?」
騎士達や馬丁が彼に萎縮するのは想像できる。しかし、それだけが理由とは思えなかった。
この二頭の馬は揃って黒毛なのだ。黒を好まないという風習は、この馬達にも影を落としているのではないかと、そう思った。
確かに手入れは行き届いているようだった。毛並みは美しいし、餌もいいのか艶がある。だが馬は繊細だ。世話役である馬丁の目は、この馬達にどう写ったのだろう。敏感にその視線の意味を感じ取っているのではないだろうか。
しばしの沈黙のあと、ディクシードがそれを認めた。
「これらは私に贈られてきた兄弟馬だ。私の馬である以上、馬丁らも世話はする。だがそれだけだ。色を厭い最低限の世話しかしない。仕方のない話だがな」
だから彼が世話をしているのだ。馬丁らの目から遠ざけるかのように、山まで走らせて……
とても素敵な話で、彼の心を美しいと感じていた。ディクシードの思い遣りは酷く分かりにくいが、分かると本当に心が温まる。
同時に、ある事にも気付いた。
誰もが厭う毛色をした馬達は、ディクシードに贈られた兄弟馬なのだ。その意味を考えると、温かかった心が急速に冷えていく。
隣で馬の手綱を握る麗人にソロリと視線を投げてみる。彼の言った謎かけのような言葉が思い出された。
――他者から見た私の力は、罪でしかない。
どういう意味合いを含めたものなのかは分からない。だがこの馬達を彼に贈るという事の意味と、彼がこぼした言葉の意味が、不確かながら少しだけ重なった気がした。
強くて心まで美しいこの王子様は、いったいどのような境遇に置かれているのだろう。
「どうした」
またしても視線を感じ取ったらしく、ディクシードが問い掛けてきた。
「この馬達に名前はあるのかなぁって、そう思ったの」
取り繕うように言うと、あっさりと教えてくれた。ディクシードの愛馬がサイロで、小町の乗る馬が弟馬のマイロだ。
「あなたが名付けたの?」
「ああ」
「意味は分からないけど、兄弟って感じでいい響きね」
「特に意味などない」
「……そう。でも本当に素敵な響き」
いい名だと誉めながら、馬の首を撫でてやる。
「今後お前の時間がとれるなら、それを走らせてやれ」
愛馬の世話をした後、時折彼が弟馬の世話もしているらしいのだが、マイロにとっては物足りないものなのだろう。ストレスはきっと溜まっているはず。
「ええ、もちろん。マイロが嫌がらなければね。ランバートみたいに女嫌いじゃなければいいんだけど」
皮肉を込めたジョークを口にすると、ディクシードが唇の片端を上げて微かに笑う。
「あれは女を嫌っているわけではない。理解できん人種だと構えているだけだ」
「要するに苦手なんでしょ? あの人、口調はフランクなのに態度は堅いんだもの。きっと男の人には、もっと気軽に話をしてるんでしょうね」
フランクという言葉を発した小町は、理解できるだろうかと思ったが、彼からはそれに関して突っ込みはなかった。
話の流れで察したようだ。
「よく見ているな」
「……人を観察するのは得意なの。でも、あなたの性格に限っては、おもいっきり外れたけど」
「騙される側にも問題がある」
「詐欺師みたいな事を言うのね。猫被ってたのはあなたでしょ」
「……人の事を言えるのか」
「ええ、言えるわ。口だけは達者なのよ。知らなかったなら覚えておいて」
「……達者だな」
「達者ついでに、あなたに文句を言うのを忘れてた。尋問の時だけど……止めなかったわね?」
「……何のことだ」
「ドレスよ。脱ぐなんて状況になったら止めてって頼んだでしょ? 止めてくれたのは、結局ランバートだったわ」
横目でジトリと睨み付けたが、美しい王子様は飄々としたものだった。
「保証はせんと言ったはずだ」
…………言った。
確かに言った。
この男にすれば有言実行というわけだ。
あの時も男であると再確認したが……モラルはどうなる。これでは変態という疑惑を肯定したも同然ではないか。
「騎士の精神はないわけ? 少なくともランバートにはあったみたいだけど」
「私は騎士ではない」
「……屁理屈ね」
「理屈だ」
「屁理屈よ」
くだらない掛け合いをしながら、ゆっくりと馬を歩かせた。
穏やかに流れるこの時間は、とても心地良かった。
◇◇◇◇◇◇
予定通り昼過ぎに厩舎に帰ってくると、ランバートが待っていた。
「お嬢さん、そんな嫌そうな顔をしないでもらえねぇかなぁ。これでも傷つくんだわ」
それほど顔に出ていただろうか。普段通りを装っているつもりなのだが。
確かに、また心の棘が刺さるのかとゲンナリしたのは事実だった。
「そんなつもりはないわ。顔に出てたなら申し訳ない事をしたのね、ごめんなさい」
「えらく嫌われたもんだねぇ。しゃーねぇか」
「嫌ってるわけじゃないのよ。うんざりしたのは本当だけど……。でもあなたも仕事をしてるんだし……分かってはいるつもり」
「ほぅ? 優等生な答えじゃねぇの」
妙に絡んでくる男に冷ややかな目を向けた。
疑いをかけたかと思えば、こんな話を振ってきたりもする。何がしたいのか、いまいちよく分からない。
冷やかしているなら是非ともやめてほしい。これでも傷付けたかもしれないと反省し、言葉を尽くしていたのだから。
職務に忠実な人は好きだ。責任感があって誠実な証拠だと思う。ランバートは主君を守るという仕事に忠実なだけなのだ。だから嫌ってなどいない。
ただ、疑惑を向けられるのはいい気分ではないというだけのこと。彼を好き嫌いで判断する材料にはならない。
そう説いて和解する素振りを見せるのは簡単だが、説いたところで間者という疑いが消えるとも思っていないし、必要性も感じない。
フンッと踵を返してマイロに歩み寄り、また走ろうと鼻面を撫でた。
そうやってランバートから距離を取ったというのに、男はまた近付いてきた。
「そういや、国守があんたに礼を用意するって言ってたな。変わった馬がどうのって。何の事か分かるか?」
「……馬?」
それは何を指しているのだろう。
小町には覚えのない話だ。考えてみても思いつきはしなかった。
「分かんねぇか。どっちにしろ、あの国守直々の礼だ。受け取りに行くんだろ?」
「そうね。どのみち行かなくちゃいけないから」
「……魔物がわんさといるが……それでも行くか?」
ビクリと肩が震えたが、息をついて虚勢を張って見せた。
「ええ、もちろん。どんな物でもお礼は魅力的だもの」
物言いたげにしている男の横を通り過ぎ、ディクシードの元へ向かう。
完全に心の棘は抜けていないけれど、それでも随分とスッキリしている。
「明日の朝も走るか」
ディクシードに何気なく問われ、もちろんだと頷きかけた。走りたいのは山々だが、好き勝手してもいいのだろうか。
「生気の稽古は昼からだ。それまでは好きにして構わない。どうする」
「走る」
即答すると、一つ頷いた彼がランバートにその旨を告げる。マイロの鞍を下ろしていた男は、片手を上げて主君の返事に応えていた。やはり騎士らしからぬ所作である。
見届けたディクシードが身を翻すと、男のよく通る声が響いた。
「ディクシード、稽古は切り上げた。後で執務室に行くが……連れて行くのはパリスだけでいいのか?」
問われた主君は返事もせずに厩舎を出た。後を追い、小町も共に出る。
「答えなくていいの?」
「必要ない」
ひどくそっけない回答だった。いいと言うならいいのだろう。彼には彼のやり方がある。それは理解しているつもりだ。
厩舎を出たディクシードは、堂々と稽古場を横切った。兵舎の裏手の道を使いはしなかった。小町の男のような出で立ちを騎士の目に晒すかのように、堂々と。
妙な目でみられる事など慣れっこではあるが、風を受けたおかげで纏めた髪はボサボサだ。男物の服装はともかく、少しだけ恥ずかしく思いながら彼の横を歩く。案の定の視線にも、顎を上げて気付かないふりをした。
稽古場を抜けて城内に入ると、一層強い視線に晒された。来る時は走っていたせいで感じなかったが、今度は露骨に観察されているようだ。
どうせ稽古の時には晒す姿だ。どうとでも好きに見てもらって構わない。
開き直って自室へ向かう。
ディクシードとは途中で別れた。ランバートとパリスを呼びつけていたようだから、執務室で何事か話をするのだろう。
与えられた自室へ戻った小町は、ソファーへ腰掛け、全身の力を抜いて息を吐いた。ダラけた姿勢でブーツを脱いで、ぐったりと横になる。
精神的に疲れていた。
あれこれと頭を使うのも疲れた。普通にしていたいのに、どうしても普通ではない状況に応じなければならず、その度に窮屈に感じてしまう。
……家族の元が恋しい。
普通でいいと、そのままの自分を愛してくれる人達の元へ帰りたい。
たったの数日会えていないだけで、完全なホームシックに陥っている。こんな事で日本に渡って生活するなどと笑わせる。どの口が言ったのかと、自嘲気味に溜め息を吐き出した。
出迎えてくれるはずの二匹の猫達はいなかった。寝室のドアも部屋の窓さえ開けていないというのに、どこへ行ったのだろう。聖獣なのだから、出入りなど簡単にやってのけてしまうのかもしれない。
目を閉じてそんな事を考えていた。うつらうつらし始めた頃だ。
「食事をお持ちしました」
扉越しに柔らかな女性の声が聞こえた。
そうだ……昼を食べていなかった。
時計を探して項垂れた。この部屋に時計はない。戻ってきてどれくらいダラけていたのか、知る術はない。
ブーツに足を突っ込み扉へと向かう。小町が部屋に戻ってきた事は、廊下ですれ違った侍従達が話して回ったはずだ。妙な格好をしていたと、面白おかしく騒ぎ立てながら。
扉を少しだけ開けると、女官が配膳のワゴンと共に立っていた。彼女の視線が小町の服装を好機の目で捉えている。
「ありがとう。自分でできるから、下がっていただいて結構よ。食べ終わったら戻しておくわ」
出来る限りの高飛車な態度で応じると、よほど様になっていたらしい。下がれと命じられた女官は不快そうな表情をした後、一礼して去って行った。
「やればできるものね。これなら女優になれるかも」
なんたら賞も総なめかもしれないと一人呟き、昼食のトレーを手に取った。上蓋もそのままに、窓際のテーブルに運び込む。
繊細な銀細工でできた上蓋の取っ手を掴み、遠慮なく持ち上げてみた。
「……ケーキ……」
彩り鮮やかに並ぶメニューの中に、小振りなケーキが添えられていた。
昨日まではなかったものだ。
甘いものは嫌いではない。エインズワースの屋敷でも、義姉達の要望で度々食卓に並んでいた。
しかし小町が好んで食べたのは、横に添えられているフルーツだった。もちろんケーキも全て食べる。専属のコックが作るケーキは上品な甘さで美味しいと思う。
でもすぐに満足してしまうのだ。好みというのは隠せないものらしく、執事頭のイーノクはすぐに気付いた。それからというもの、小町のデザートにはフルーツが増えた。時折小さなケーキも出たが、格段にフルーツの方が多くなった。
あの頃は、物静かなイーノクの洞察力に、何度となく驚いたものだ。その確かな目は、息子であるフレデリックに受け継がれている。
しかし……ここに彼はいない……
きっとこのケーキは、この城に勤めるコックの小さな心遣いによるものだ。もしかするとディクシードの指示かもしれない。どちらにしても嬉しかった。
椅子に腰掛け、マナー違反と知りながら、先にケーキに手をつける。口に入れる直前、取り繕うように、いただきますと呟いた。
……とても甘かった。
クリームもスポンジも……本当に甘い。
「でも……美味しい」
ポタリと滴が落ちた。
見下ろすと、また一つ。
ポタポタと小さな滴がいくつも落ち、トレーの端を汚していく。
「……フレッド……」
兄のように慕う自分付の執事の愛称を口にした。
その瞬間、またあの現象が起こった。
目の前の景色が、グッと遠退いていく。壁も窓もテーブルも、その上に乗る昼食も、何もかも。
代わりに広がっていくのは、エインズワースの屋敷の様子である。
廊下を歩いていくのは、名を呼んだばかりのフレデリックだ。彼は何故か、小町の私物を抱えていた。
ずっと愛用している黒いヘルメット。
育て親である夫人が新調してくれた、黒いエンデューロジャケット。
ジャケットと同じデザインのグローブとブーツ。
それから……小さなバイクのキーホルダーが付いた……愛車の鍵。
この鍵は、十五の誕生日に、伯爵夫妻が贈ってくれたバイクの鍵だ。亡き兄が乗っていたバイクの後継車種だった。
たくさんの荷物を抱えたフレデリックは、小町には馴染みのない廊下を通り、とある部屋の前で立ち止まる。器用に数度扉をノックすると、顔を出したのは義理の義姉のジェニファーだった。直ぐに、上の義姉であるアリッサも顔を出した。
何事か話し込み、諸々の荷物を受け取った二人の姉妹は、そのまま部屋の中へと消えていった。
閉ざされた扉を見つめていた執事は、いつもは無表情な顔に切なげな色を浮かべ、無人の扉へと深々と頭を下げた。
小町は……無意識に手を伸ばしていた。
届かないはずの自分の手を……
彼が今何を想っているのか、手に取るように分かる。
眠ったままの自分を想い、悲しんでいる。
「……Don't look so sad……」
――そんな顔、しないで……
呟いた途端、伸ばした手が淡い光を放ち始めた。
スクリーン越しのフレデリックの手に、届かぬ己の手を伸ばす。
あと、もう少し……
触れたい、彼に。
どうか……
だが重なった手には、何かに触れた感触はなかった。
腕に、肩に、俯いた彼の頬に……
なぞるように光を放つ指で辿ってみたが、どうやっても触れる事は叶わなかった。
……ダメか……
そう思った途端、景色は一変した。
もといた城の部屋だった。昼食のトレーを乗せたテーブルも、窓から見える景色も、元通りの姿でそこにあった。
変わっているのは湯気が昇らなくなったスープと、自分の立ち位置だけだった。
また戻れなかった……
帰りたいと願う世界は、すぐそこに広がっていたというのに。
椅子に座り、昼食を口に運ぶ。口の中が空になる度、溜め息がこぼれた。
涙は既に止まっていた。




