第25話 現実と決意
「城に戻る」
振り返り様に呟いたディクシードは、問答無用で小町を抱き上げた。
再び視界が大きく揺れ、目眩が容赦なく襲ってくる。
「……っ! ちょっと!」
「大人しくしていろ。担がれたいのか」
「それはイヤッ!」
腹が圧迫されれば、口から何かしらが出てしまうかもしれない。できることなら、そんな醜態を晒したくないのが女心というやつだ。
手にしていた剣をそそくさと上着の中に隠し、慌てて目を閉じた。すぐにディクシードが歩き始めた。
歩調に合わせて頭の奥が疼いているが、我慢できない程ではない。
「あの人を待たないの?」
「サーベルか。あれを待てば日が暮れる。既にパリスがこちらに向かっている頃だ」
「……パリス?」
「戻るはずの時間は過ぎている。定刻までに私が戻らなければ兵が動く」
確かに城を出る際、彼は昼までに戻るとパリスに告げていた。
夜が明けない泉のおかげで時間の感覚がおかしいが、昼を過ぎてしまっているようだ。そう言われてみれば瞼の裏に弱い光を感じている。木々が密集する獣道にも、微かに日差しが届いているのだろう。
聖獣に知恵を借りてみろとディクシードに言われ、いろいろと尋ねてみようと思っていたけれど、時間がないなら仕方がない。
「先に言っておくが、泉から離れれば魔物が出る。お前の生気を嗅ぎ付け、必ず顔を出すはずだ」
「来る時は出なかったわ」
「これほど生気を感じなかったからだ。護衛もいた」
「そんな人……いたの?」
「…………」
問い掛けに彼からの答えはなかった。
気付かなかったが、いたという事だろうか。
「出てきたらどうするの?」
「…………」
沈黙のみが返って来た。
王子というぐらいだから、それなりに強いのかもしれないが、小町にしてみれば彼に頼るしかないのである。やはり聖獣を待った方がいいのではないかと思ったけれど、野暮な事は言わない事にした。
腕に自信がなければ何の役にも立たないお荷物を抱えて、こんな道を歩いたりはしないだろう……たぶん。
とは言え、魔物とやらを見たことなどない。未知の生き物に対する好奇心と恐怖は、否応なく沸き上がってくる。
くぐもった獣の声が聞こえるような気がして、聞きたくもないというのに、知らず耳をそばだてていた。
「何か喋って」
「怖いのか」
「……………………」
「喋れと言ったのはお前だろう」
いやなヤツだ。
怖いと言うのが癪に障ると分かっていて、あえて聞いてくる。だが怖いものは怖い。
「騎士の人達、あそこでずっと待ってるの?」
「それが仕事だ」
魔物が出るような場所に、たったの四人。怖くないはずがない。彼らは主君の身を案じ、忠実に帰りを待っているのだ。
「あれらは精鋭だ。お前は自分のことを考えていろ」
不安に思ったのを察してそう言ったのだろうが、今は自分の事など考えたくはなかった。好奇心よりも恐怖が勝ってしまっている。
「あちらに帰っていたのだろう。何故すぐに戻ってきた」
何の事か理解するのに時間がかかってしまった。聖獣に寄り掛かるようにして眠り、現実の世界に戻っていた時の話のようだ。
ディクシードの話では小町が仮の体を得た後、その体は消え、少ししてスーっとまた現れたのだそうだ。
「あちらで何があった」
「……体調を崩してたみたい。頭が痛くて目を開けていられなかった。だから、なかなか現実に戻れなかったのかもしれない」
周囲にいた皆が、大騒ぎしながら薬を飲ませようとしていた。上手く飲み下せず手を焼かせ、薬が苦手なケヴィンが無理をして飲ませてくれた。そんな彼に対して、皆が思い思いの事を口にしていた。
ほんの数分の出来事だったが、思い出すだけで恐怖に竦んでいた心が少しだけ暖かくなった。
「声しか聞こえなかったけど、義姉の慌てぶりとか、彼や、彼の友達の様子が想像できちゃって……もう少し、皆の会話を聞いていたかったわ」
閉じた瞼の裏で、その時の皆の様子を思い描いた。
「そうか」
ディクシードの呟きが、いつもよりも穏やかな響きを帯びていて驚いた。
もしかすると、笑っていたりするのだろうか。
彼が笑っているところなど、お目にかかれた事がない。というより笑った事があるのだろうか。
あの鉄面皮のフレデリックでさえ時折苦笑していたが、ディクシードのそんな顔すら見たためしがない。
そんな彼が笑っているなら、かなり稀少だと言える。
「直に支柱に着く。耐えられそうか」
「ええ、大丈夫。……あなたは? 重いでしょう?」
たいそうなお荷物を抱えて歩いているわりに、彼の息は乱れていないように思う。それでも負担が掛かっている事には違いなく、遠慮がちに尋ねたのだ。
「問題ない。お前は……もう少し肉をつけろ」
「…………………はぁっ!?」
思いもしないディクシードの言葉に、小町は目を剥いていた。何を指しているのか明白だ。だが慌てて目を閉じ、眩暈と格闘しながら毒づいた。
まさか、彼がそんな事を言うとは思いもしなかった。私的な話も砕けた話も好まないと思っていたから。
「無神経な人ね! 成長中って言ったでしょ!?」
「サーベルに好みを言えと言われたが、あれはそういう意味だったのか。全体的に薄っぺらだが、気にしていたなら、胸元だけでも肉を足してやるよう言えば良かったか」
「……っ! 余計なお世話よっっ!」
「耳元で叫ぶな。成長中ならムキになる事はないだろう」
完全に冷やかされている。
この男……
とんでもない猫かぶりだ。
これでは寡黙とは程遠い。人を見る目なら自信があったというのに、今までよくも騙してくれたものだ。
「あなたって、性格ひん曲がってる。遠慮はいらないみたいで安心したけど」
「曲がっているのはお前もだ。……まったく、変わらないな」
「……どういう意味?」
変わらないなどと言うものだから、自分の中の疑惑が顔をのぞかせた。警戒されやしないかと思いながら答えを待つと、疑惑とは関係のない答えが返ってきた。
「私の身分を知ってもお前の態度は変わらない。ここでは私を私と見る者はいない」
また共感できる事を彼は言う。小町もエインズワースの屋敷では似たような事を感じていた。同じなのだろうか。
だが彼の場合、小町のように勝手にプレッシャーを感じているわけではない。間違いなく周囲は彼に期待しているだろう。
国を背負うという重圧の中、どんな思いで今まで孤独と向き合ってきたのか。
「目を閉じているか」
「えっ? ええ」
「魔物だ。支柱まで走る。揺れるが我慢しろ」
言うなりディクシードが走り出した。
疑問に思った事を聞く暇などない。
「耳を塞げ、来るぞ」
両手を離す事にためらいはあるものの、彼に寄り掛かり、言われた通り耳を塞いだ。
その途端、聞いたこともないおぞましい断末魔の咆哮が上がり、思わずディクシードの首にしがみついていた。
彼の体から伝わる衝撃に更に体が竦み上がる。
いつ剣を抜いたのか全く気付かなかった。
頭の揺れや体のだるさ、今しがた言われた耳を塞げという言葉さえも、一気に弾け飛んでいた。
一瞬のうちに恐怖が全身を支配する。
たて続けに咆哮が上がり、やがてそれが聞こえなくなると、何かが肉を咀嚼するような鈍い音が響き、鉄臭い匂いが鼻をついた。
無意識のうちに息を止め、込み上げてくる吐き気を押し留めていた。ようやく不気味な音から遠退いたと思えば、再び激しい揺れと衝撃に襲われる。唇を噛み締め、悲鳴を押し殺して耐えた。振り落とされないようしがみつく。
見たくない! 聞きたくない!
不気味な音と臭いの応酬に、何度となく吐き気が襲ってくる。噛んだ唇を一層強く噛み締め、飛びそうになる意識を痛みで引き戻す。
ここで失神などしてしまえば、ディクシードの足を引っ張るだけでは済まない。悲惨な結末が脳裏を過る。
自分の精神がどこまで耐えられるのか分からない。耳元で聞こえるディクシードの息遣いにだけ集中する。
それでも、不気味な音は止む事なく耳に届いていた。
「殿下だ!」
「なぜここに魔物が!?」
「そんな話は後だっ! さっさと来い! パリスが来るまで持ちこたえろ!」
ディクシードの姿を認めて、すぐさま飛び出してきたランバートが出遅れた騎士達を怒鳴り散らした。張り上げた怒声のおかげで不気味な音が途切れたのも束の間、再び魔物の咆哮が響き渡る。
小町はディクシードにしがみついて、飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めていた。彼の体から伝わる衝撃は休む間もなく続いている。
一秒が十秒にも一分にも感じられ、時間の感覚が麻痺していく。
パリスが騎士達を引き連れて加勢した事にも気付かず、ただただ恐怖に竦み上がっているだけだった。
斬撃と咆哮の乱舞が続き、いい加減意識が朦朧とし始めた頃、騎士の声が耳に届いた。
「聖獣だ……聖獣が来たぞ!」
「ありがたい!」
「これで片がつく!」
「脇見をするなっ! 死にたいのかっっ!」
一斉に湧き上がる騎士達に、ランバートの怒号が飛ぶ。
やめておけばいいものを、喜ぶ騎士達の声につられて、小町は頑なに閉じていた目を開けていた。
ディクシードの四方を固めるようにして、二十名ほどの騎士達が巨大な獣と対峙していた。そして離れた場所にも、魔物と対峙する騎士達がいる。
魔物の数は、ざっと七匹ほど。
黒く太い毛に覆われた分厚い体。自在に動く長い尾と太い四肢。狼や犬のように鼻面が長く、鋭利な牙の並ぶ口は、頭の後ろにある耳元近くまで裂けている。
そこから粘着質で濁りのある唾液を垂れ流し、ギラギラとした赤黒い三つの目で小町を見据えていた。
騎士に斬りつけられても怯む事なく何度も突っ込んで来る。まるで小町を獲物だと見定めているかのようだった。
しかし当の小町は魔物になど目もくれず、泉に続く道の先を見つめていた。
聖獣が来る!
騎士のその言葉だけが頭の中を占めていた。
ろくにこの世界の事を知りもしない。
ディクシードから、聖獣は魔物の天敵だと聞いただけだ。
それなのに、やっとこの現状から抜け出せるのだと、期待せずにはいられなかった。
そうして見つめた道の先から、二匹の獣が姿を現した。
白と灰色の、とても大きなサーベルタイガーだ。
騎士の言葉通り、聖獣が来たのだ。サーベルと呼ばれた聖獣よりもずいぶんと大きく、神々しく思えた。
瞬く間に近付いた二匹は、二手に別れて魔物へと襲い掛かる。
小町の前では、今まさに魔物の一匹が騎士に飛び掛かっていた。裂けた赤い口を大きく開いた魔物が、騎士の眼前に迫った瞬間、灰色の聖獣がその喉元に食らい付き、首を振って肉を引き千切る。
目の前で血しぶきが上がった。おぞましい咆哮を上げる魔物の首に、止めとばかりに再び聖獣の牙が突き立てられた。
断末魔の咆哮と血反吐を撒き散らしながら、魔物は地面へと突っ伏していた。倒れた魔物になど脇目もくれず、灰色の聖獣は次の魔物へ襲い掛かっていく。
小町は、あまりの生々しさに目を背けてしまっていた。
ディクシードの肩に額を押し付け、ギリギリと己の唇を噛み締める。口の中に鉄くさい血の匂いが広がっていたが、それでも構わず噛み続け、悲鳴と吐き気を無理やり抑え込んでいた。
……見たくない……もう……見たくない……
目を背け続けた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。それほど経っていないかもしれない。いつの間にか、不気味な咆哮も斬撃も途絶えていた。
「――――」
近くにいるはずのディクシードの声が、遠くの方で聞こえた気がした。
「――聞こえるか」
自分に話し掛けているのだと自覚し、恐る恐る顔を上げてみる。エメラルド色の瞳が、すぐそこにあった。
美しく整った顔に赤い鮮血が飛び散り、暗い影を落としていた。
「片は付いた。下ろすぞ」
ろくに周囲を確かめもせず、小さく頷いていた。それを見届けたディクシードは、ゆっくりとその場に小町を下ろした。
地面に両足がつくなり、大きく周囲が回り始める。その場に崩れるようにして座り込み、両手をついて胃の中の物を吐き出していた。
何も食べていない体からは、唾液と胃酸しか出てこない。それでも吐き気は治まらず、何度となく吐いた。苦しくて視界が滲んでいく。
「よく耐えた」
そう言ったディクシードは、嘔吐き続ける小町の背を、労るように何度も撫でた。
しばらく吐き気と格闘し、ようやく楽になってきたと自覚した途端、今度は力が抜けていく。体を支える事さえままならず、自分の吐き出した汚物に突っ伏しそうになったが、すかさず伸びてきた腕に救われた。ディクシードだ。
何とか絞り出した謝罪の言葉は酷く掠れ、聞き苦しいものだった。
すぐ傍の大木に寄り掛かり目を閉じる。
何も考えたくない。そう思っていた。
「水だ。飲めるか?」
間近からした声はディクシードのものではなかった。うっすらと目を開けると、ランバートが筒状のモノを差し出していた。タンブラーだ。
気を利かせてくれたのだ。
痺れて力の入らない手で受け取り、少しだけ口に含む。
正直、何も喉を通りそうにないが、心遣いを無駄にしたくない。慎重に飲み下し、ようやく息を吐いた。
「ありがとう」
「……いや」
答えて下がっていくランバートの向こうに、三十名近い騎士達と馬が見えた。
疲れている様子こそ見せないが、中には手傷を負っている者もおり、手当てを受けている。その様子をぼんやりと眺めていたが、彼らのうちの一人が、当惑した様子でランバートに問い掛けた。
何故ここに、これほどの魔物が出たのか、と。
その声が聞こえて我に返る。
ディクシードは、小町の生気に誘われて魔物が顔を出すと言っていた。
自分のせいだ!
騎士達は、そのせいで傷を負うハメになったのだ。
俯き唇を噛み締めた。口の中に再び血の臭いが広がっていく。
彼らの痛みは、こんなものではないはずだ。
「お前のせいではない」
ディクシードはそう言った。また頭の中を読まれている。
「何の策もなくここへ来たのは私の判断だ。これほど魔物が出るとは思いもしなかった。私の誤算が招いた結果だ。許せ」
違う、そうじゃないと首を振り、目眩に襲われる事になったが、そんな事に構う事なく首を振り続けた。
込み上げてくるのは吐き気だけではない。
自分に対する嫌悪感もだ。
ディクシードや騎士達に謝らなければと思うのに、言いたい事も言えやしない。
情けなくて仕方がなかい。
首を振る小町の背を、ディクシードは無言で撫でていた。
「――ディクシード、それの調教は難しかろう?」
ふいに、しわがれた老人の声が周囲に反響した。
声のした方へ目を向けると、大きく揺れる視界に写ったのは、累々と横たわるグロテスクな黒い塊だ。
その向こうに、泉にいた灰色のサーベルタイガーが腰を下ろしている。しかし、小町はその姿を目にする事ができなかった。
「……国守……」
一人の呟きをきっかけに、騎士達が次々と片膝を付いて頭を垂れていった。
国守と呼ばれた聖獣は、真っ直ぐに金色の片目を小町に向けていた。
その後ろにいるのは、国守と呼ばれた聖獣よりも大きい、白と灰色のサーベルタイガーだ。
だが小町は、周囲の様子や聖獣を目にする事もなく吐き続けていた。生々しい魔物の死体を目にしたせいで、吐き気を堪えきれなくなったのだ。空っぽの胃が悲鳴をあげる。
「娘、そなたに聞こう。これは夢か」
ギクリと肩が震えるのを抑えられなかった。
夢だ! だが夢ではない……
夢だと思いたい心と、夢ではないと突き付けられている現状とが、胸の内で葛藤している。
答えは出ているというのに認めたくはなかった。
この聖獣は、そんな内心を見透かしている。
誤魔化し続けていることを知っているのだ。
「追い討ちをかけるつもりはないのだがな」
サーベルは小町から視線を外すと、頭を下げる騎士達をゆっくりと見渡した。
「皆、すまぬ。わしが動けんかったが為に、魔物どもが増えに増えてしもうた。縄張りを越えたのも、わしが至らぬ故だ。許してくれ」
朗々と響く老人の声に、騎士達は一層深く頭を下げた。小町の横で立ち上がったディクシードは、無表情にサーベルを見据えて口を開いた。
「国守。お前の子らに助けられた。礼を言う」
「わしも礼を言わねばならん。動けず弱っていたところを、その娘に救われたのだ。聞けば、わしをただの獣だと思うておったようだがな」
サーベルの言葉に、騎士達が驚いた様子を見せる。小町は俯いてその声に耳を傾けていた。
初めてサーベルを目にした時の内心も、既に見抜かれているのだ。
「しかし、獰猛な獣だと思うても尚、その身を呈して救わんとした娘の心根に感銘を受けた。ディクシード、その娘を城に置いてやってはくれんか? 国を問うても答えんのだよ。生まれも親の名も言わず、答えたのは己の名だけだ。この国の名でさえ知らん様子。何か事情があるのだろう」
「…………」
「器量と身なりからして娼館に売られかけたのかもしれんと、わしは思うておる。命からがら逃げのび、この森に迷いこんだのではないかとな。よほど辛い思いをしたのだろう。何度問うても答えてはくれんかった」
どこで泉での話を聞いていたのか、この聖獣は小町が城に迎えられやすいようにと、お膳立てをしてくれているようだった。
「そのように体が動かんのも、元はと言えば、わしが生気を食ろうたが為だ。おかげでこの通り動けるようにはなったが、危うく加減を忘れて食らい尽くすところであった。いたいけな娘に、むごい事をしたものだ」
聖獣が生気を食らったと発言した事で、再び騎士達に動揺が走った。
小町を心配そうに振り返る者もいる。
吐き気は治まったが、あの死体を目に入れる事はできないでいた。俯いていると太い獣の脚が視界に入った。
恐々と顔を上げてみれば、大きな灰色のサーベルタイガーがすぐ目の前にいた。
金色の両目で真っ直ぐにこちらを見据えている。
「……あなた……」
根拠はないのだが、この聖獣はあの愛くるしい灰色の猫ではないだろうか。
小町の呟きに反応してか、目をすがめた聖獣がゴロゴロと巨大な音を立てて喉を鳴らし、額を擦り寄せてくる。
間違いない。あの灰色の猫だ。
白い聖獣も同様だろう。
彼らが、魔物から助けてくれたのだ。
確信したものの、体からみるみる力が抜けていく。視界が狭まり始め、獣へと伸ばした手が空を切る。そうして何が起こったのかも分からないまま、小町は意識を手放していた。
すかさずディクシードが小町を抱き上げ、灰色の聖獣から距離をとった。
「何のつもりだ、国守。これ以上食らえばこれが死ぬ。子らを下がらせろ」
「騒ぐな。眠る程度しか食ろうておらんわ。こやつらが気に入りの娘を殺すと思うか?」
「……なぜ眠らせる必要がある」
「娘は己を責めておる。ふがいないとな。そのままでは酷であろうが? 娘を下ろせ、ディクシード。体が冷える前に子らが温めよう」
正面に寝そべった白い聖獣が、金色の瞳をディクシードに向けていた。さっさとしろと促しているかのようだ。
ディクシードは小町の体をゆっくりと下ろし、血にまみれた聖獣の背に預けさせた。そこに灰色の聖獣が寄り添い、大きな体を横たえる。
まるで気に入りの玩具を囲うかのように、二匹の聖獣が小町の体を温め始めた。
「大した娘だ。このわしが生気を食ろうたというに、尚も口を利きおるわ。わしの前に飛び出した時の形相なぞ、皆にも見せてやりたかったものだ。……唇を噛み切るほど何に耐えていたのか。あえて言わずとも皆も察してやってほしい」
ディクシードは、小町の唇に目をやった。
嘔吐した為に腫れてしまった下唇には、赤くめくれた噛み傷ができていた。
「その娘は己の痛みに疎い。心も体もだ。故に無茶も平気でしおる。だがな、獰猛な獣に背を向ける意味も、帯剣する者に歯向かう意味も知っておるようだ。それでも怯まぬのは、己の心に正直であろうとするからだろう。……傍から見れば、愚かな行為だと笑う者もおるだろうがな」
話すサーベルには目もくれず、ディクシードは騎士から外套を受け取り、眠る小町に近付いた。途端に灰色の聖獣が唸り声をあげる。
「見ての通り、子らもえらくそれを気に入っておる。貴様も気に入るかと思い、いささか強引に預けたが……。どうだ、ディクシード、城に置いてやってはくれんか?」
答えようとディクシードが口を開くよりも早く、別の声が割り込んだ。パリスである。
「お待ち下さい」
片膝こそついてはいるが、睨み付けるように国守と呼ばれる聖獣を見据えている。
「あなた方聖獣は、人に干渉しないのが規律のはず。なぜ今になって、このような娘に構うのです?」
咎めるようにディクシードが名を呼ぶが、パリスは聖獣を見据えたままゆっくりと立ち上がった。
「無礼は承知の上ですよ、殿下。……もっともらしく聞こえますが、私は納得がいきません。あなたが受けた仕打ちを思えば尚更です。国守、あなた方は干渉せずを貫き通してきたではありませんか? 違いますか?」
「控えろ、パリス。兵の前だ」
興奮するパリスを淡々とした口調でディクシードが突き放した。怒鳴りつけるわけではないというのに、その言葉には有無を言わせぬ力があった。
「…………」
パリスは、そんなディクシードを睨み付け、突然踵を返して歩き出した。
「あなたの答えは聞かなくても分かっていますよ。……先に戻ります。部屋の手筈がありますから」
「…………」
振り返る事なく、パリスは足早に去って行った。
「あれの時も進まぬのか」
サーベルの誰に言うわけでもない呟きは、常人には聞く事ができないものだった。
しかしディクシードの耳には、はっきりと届いていた。
「許せ、国守。だが聞いた通りだ。この娘は預かろう。お前の恩人ならば私が責任を持つ」
ディクシードの言葉に、サーベルは頷いてみせた。
「さてな、ディクシード。続々と視察が戻っていると聞く。被害も聞いておろう?」
「聞いている」
「ならば話が早い。お前が動く前に話しておきたい事がある。だがな、ここも魔物の巣になってしもうたようだ。腰を据えて話す事すらままならん有り様でな、この機に一掃したいものだが、わしも未だ思うようには動けんのだ。すまぬが、力を貸してはくれんか?」
「……兵を出そう。招集は既にかけてある」
「そうか。ならば日を知らせてこい。追って使いを走らせる」
頷いたディクシードを見て、サーベルは緩慢な動作で腰を上げた。
「娘を守ってやってくれ。わしは奥で休むとしよう」
サーベルの言葉を聞いて、二匹の聖獣が首を持ち上げた。
ディクシードが小町を抱き上げても、今度は威嚇する事なく様子を見ている。
「これを守る気はあるか」
そんな二匹にディクシードが問い掛けた。
灰色の聖獣の瞳に好戦的な光が宿り、長い尻尾を一振りして応えた。
白い聖獣はというと、面倒臭そうに前肢の血を舐めとり、さらに大きな背伸びをして見せる。そうかと思えば、ディクシードの外套を咥えてさっさと歩きだした。泉とは真逆の方へと。
「国守、子らを借りて行く」
「分かっておる。制止も聞きはせんだろうて。躾は娘に任せるとしよう」
サーベルの言葉に頷くと、ディクシードは踵を返した。騎士達も立ち上がり、その後に続く。
「娘に伝えよ。礼を受け取りに来い。変わった馬の餌だと言えば分かるはずだ。その時、答えを聞かせてもらうとな。……ディクシード、貴様も腹を括らねばならんぞ」
ディクシードはピタリと足を止め、サーベルを振り返った。
「見たのか」
「少しばかりな。動き始めた時の流れは、随分と早いようだ。……抗えんぞ」
「いつだ」
「……何とも」
答えたサーベルは、泉の方へとのっそりと歩き始めた。その背を見送るディクシードは、小町を抱く腕に知らず力を込めていた。
◇◇◇◇◇◇
ピントのずれていた視界が定まり、飛び込んできたのは、金色のクリクリとした丸い目だった。灰色の猫が覗き込んでいた。
小町が目を開けた事に喜んだのか、ゴロゴロと喉を鳴らしながら額を擦り寄せてくる。腕を伸ばして、その背を撫でてやった。
持ち上げた腕がとても重い。頭の中もぼんやりとしている。
高い天井を見上げたまま、鈍い頭でここがどこなのか考える。少なくとも、エインズワースの屋敷ではない。灰色の猫がいる世界の城の一室だ。自分に宛がわれた部屋なのかもしれない。
「起きたのか」
声のした方へ目を向けると、灯された弱い光の下、ディクシードが椅子に腰掛け書類を眺めていた。小さな机には資料が広げられている。この薄闇の中で仕事をしているらしい。
「ええ……でもまだ眠い」
目を閉じればすぐにでも眠ってしまえそうなほどだ。
眠いのだが……
何か大事な事を忘れている気がして、引っ掛かりを感じている。
「寝ていろ。起きる必要はない」
「起きたばかりよ。……でも、疲れてるみたい。……自分の体なのに……変な感じ……」
「その体に慣れていないせいだ。生気の回復にも時間がかかる」
そう言われて、ようやく現状が理解できた。
国守と呼ばれる聖獣に生気を食われ、魔物に遭遇し、騎士達やこの猫達に助けられ、そして意識を手放した。
その間、自分のしていた事と言えば……
あれからどのくらい眠っていたのか尋ねると、まだ夜だと答えが返ってきた。どうやらこの仮の体は消えず、ここにあったようだ。
確かに現実には戻っていなかった。
ディクシードは小町の体がいつ消えてもいいようにと、ずっと付き添ってくれていたらしい。
「ありがとう」
「休んでいろ」
頷いて目を閉じたものの、襲ってくるのは睡魔ではなく、自分への嫌悪感ばかり……
しばらく目を閉じていたが、ついに我慢ができなくなった。
「ディックス」
呼び掛けても、彼はこちらを向いてはくれなかった。返事もない。
怒っているわけではなく、いつものように仕事の片手間で話を聞くつもりだからだ。
「謝らなくちゃいけない……あなたと、あなたの騎士達にも。それから、この子達にも」
「ガーデルードの事か」
問われて、小さく頷いてみせた。
「お前に非はないと言ったはずだ」
「そうね……でも、そうじゃない、そうじゃないのよ」
「……待っていろ」
それまで書類と向き合っていたディクシードは、一言そう言って立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。
既に泣きそうになっていた小町は泣かずにいられた事に安堵して息を吐いた。
冷静に話さなければと、目を閉じて大きく呼吸を繰り返す。
ディクシードの中ではガーデルードの件は終わった事になっている。だが小町の中ではまだ終わっていない。ちゃんと謝罪をしなければ。
それに加え、今まで彼に対して口にしてきた酷い言葉についても、やはり謝らなければ。
どっち付かずな考え方も、誤魔化し続ける事も、もう終わりにしなければならない。
そう心に決め、ゆっくりと体を起こした。泉にいた時ほどの目眩はないが、体はとてもダルい。だが寝たままで話していい事ではないのだから。
少しして戻ってきたディクシードは、手にしたマグを無言で小町に差し出した。受け取って覗き込んでみると、ミルクのような白い液体が入っている。
マグから伝わる人肌ほどの温もりが心地よく、ささくれだらけの心が、ほんの少しだけ和らいだ。
試しに一口飲んでみると、ミルク独特の甘みとブランデーのような香りが口の中に広がっていく。
「お酒が入ってる」
「……直に体が温もるだろう」
ディクシードは傍らにあるガウンを小町の肩に掛け、さきほどまで座っていた椅子に腰掛けた。
ガウンは大きいものだったが、薄い夜着一枚よりは安心できた。
そう言えば、誰が着替えさせてくれたのだろう。疑問には思ったが、それよりも先に、ちゃんと謝らなければいけない。
落ち着く為にもう一口ミルクを飲み、ディクシードへ目を向けてみる。
また書類に目を通していた。
どうやって切り出そうかと悩み、結局はミルクを半分ほど飲んでしまっていた。
「落ち着いたか」
「……ええ、ありがとう」
彼は待っているのだ。
こちらを向く事はなくても、小町が話し始めるのを待ってくれている。そう思った。
「ディックス、あなたは私に非はないと言うけど、そうじゃないわ」
彼は小さく息を吐き出し、資料から目を離した。
強情だと呆れているのだろう。
「生気を食われれば動けないのは仕方のない事だと言ったはずだ。あそこへお前を連れて行ったのは私の判断であって、お前の意思ではない」
「…………」
「その結果があれだ。見るべきものではないものまで、お前の目に晒す事になった。お前は、私の誤算に巻き込まれただけだ。許せ」
「違うっ! あなたが謝る必要なんてない。原因は私だもの。あそこへ行かなくちゃならなくなったのも私がいたからよ。……魔物が集まってきたのも私の生気のせいだわ。うまそうな匂いだって、あの聖獣が言ってた。そういう意味なんでしょう? だから巻き込んだのは、あなたじゃない!」
冷静に話さなければと思っていたのに、あの時言えなかった言葉が堰を切ったように溢れ出してくる。
「あなたも、あなたの騎士達も、巻き込んだのは私の方なのよ! そのくせ自分は何にもしていない。しがみついて、目を閉じて……当たり前みたいに守ってもらっていただけ。聖獣が来たって喜んで……それで、いざ目の前で魔物が倒れたら、今度は恐ろしいって目を背けてた」
手の中のマグに視線を落とし、自棄的に己の非を語る小町を、ディクシードは何も言わず見つめていた。
「あなた達が戦っている時もそう……。あなたは、よく耐えたって言ったけど、そんなんじゃないの。確かに怖かったし竦み上がってた。体が自由に動いたとしても、私には何もできなかったわ。でも、あの時の私は……見たくない聞きたくないって……ずっと目を背けてただけなの」
「…………」
「あなた達が懸命に戦っていたっていうのに、それさえも見ないように自分に言い聞かせてた。もしかしたら、あの中の誰かが命を落としていたかもしれないのに……あの場所から逃げ出したくて仕方がなかった」
小町は、意思を込めてディクシードへ向き直った。
「早く目が覚めてくれれば現実に戻れる、夢から逃げ出せるって、そんな事ばかり……自分の事ばかり考えて、あなたや騎士達の事を夢で終わらせようとしていたのよ。……私が巻き込んだ人達を、夢の中の住人として片付けようとしてた……。そんな事、許されるわけないのに……」
「何故そうしない。夢だと片付ければ、苦しむ事も振り回される事もないはずだ」
やはり彼も分かっていたのだ。夢だと誤魔化し続けている事を。
あの聖獣だけでなく、彼にも見抜かれてしまっていた。
「あなたの言う通りよ。誤魔化していれば楽でいられるわ。……でもそんな事、もうしたくない。……命を掛けてまで必死で守ろうとしてくれた騎士達の想いを、私は、否定なんてしたくない」
「…………」
「あなたが約束してくれた事も、その時のあなたの想いも、否定なんてしたくない」
夢だと言い切るのは、この世界の全てを否定する事だ。
今までディクシードには、これは夢なのだと言い続けてきた。彼自身を夢の中の住人だと言い続けてきたようなものだ。
どんな気持ちで、それを聞いていたのか……
そう思うと泣きたくなった。
傷付けていたのは自分だというのに。
俯いて泣きそうになるのを堪えていると、手にしていたマグを取り上げられてしまう。
驚き見つめる先で、ディクシードがベッドの端に腰を下ろす。
宝石のような瞳を真っ直ぐに小町へ向け、おもむろに口を開いた。
「私は……生きているか」
息が詰まるような気がした。
どれほど彼を傷付けていたのか……
都合のいい時だけ己に夢だと言い聞かせてきた。
そうやって誤魔化し続ける事で彼を苦しめていたというのに、それにさえ目を瞑っていた。
何を考えているのか分からないと彼ばかりを責め、己の行為を正当化し続けた。
これは現実だ。
ケヴィンや家族がいる世界も現実で、ディクシードのいる世界も現実なのだ。どうやって行き来しているのかは分からない。だが、二度と夢だと誤魔化しはしない。
重たい腕を伸ばして彼の手を取り、ギュッと握りしめた。
とても冷たい手だった。
「生きてるわ、ディックス。あなたも、あなたの騎士達も……この子達も」
小町が答えると、ディクシードは繋いだ手を握り返して目を閉じた。まるで、小町の意思を感じ取ろうとしているかのようだった。
少しして開いた彼の目には、小町を咎めるような光も、悲しげな色も浮かんではいなかった。
何故かは分からないが、あえて心を殺しているかのような、そんな風に感じられる目だった。
「十分だ。兵には礼を言っていたと伝えておく」
握った手をさっさと離し、話を切り上げて立ち上がろうとするディクシードを、小町は慌てて呼び止めた。
まだ話は終わっていない。
「お願いがあるの。明日から、剣の稽古をつけて。……無理はしないって約束するから」
この世界が現実だと認めた以上、彼の言うように自分の身を守る努力をしなければならない。
人は斬れなくても、誰かを巻き込む事なく己の命を守れるように。
自分のせいで誰かが傷つく事がないように。
「お願い……」
「…………」
ディクシードは、無機質な目で小町を見ていた。
「それがお前の意志か」
「……ええ」
「……そうか。言っておくが体調次第だ。もう休んでいろ」
ディクシードが、小町の肩に掛かっているガウンを取り上げて立ち上がる。不満げに見上げると、話は終わりだと言わんばかりに冷めた一瞥を向けてくる。
まだいろいろと話しておきたい事はあったが、何もかも体調が戻ってからだと彼の目が言っていた。
渋々ベッドに横になれば、ディクシードが無言でキルトを引き上げる。
「病人じゃないわ」
「どの口が言っている」
戻ろうとするディクシードを再び呼び止めれば、振り返った彼がまた一瞥を寄越してきた。
いい加減黙って寝ていろと言いたいのだろう。
「ごめんなさい、ディックス。……痛かったでしょう?」
小言を言われるよりも早く切り出した。
何の事かは言わなかったが、彼には十分に伝わったようだ。
その証拠に、彼の目がチラリと自身の肩を辿る。
「たいした事はない。お前は詫びてばかりだ。詫びではなく礼を口にしろ。お前に詫びられたくなどない」
口調は酷くぶっきらぼうだが、その眼差しは少しだけ穏やかに思えた。
「ありがとう、ディックス」
そう言って目を閉じた。
くすぶっていた自分への嫌悪感が、彼に許してもらえたおかげで少しだけ軽くなった。
自己満足だという事は分かっている。
それでも、何もしないよりはずっといいと思う。
この世界と向き合う決心もついた。もちろん不安もある。しかし、ここにディクシードがいてくれるという事を心強く思えていた。
自分のような存在をありのまま受け入れてくれている。存在だけではなく、人としても。それがとても心強かった。
いつの間にか小町は眠りについていた。
ディクシードは寝息を立て始めた小町に歩み寄り、彼女の手をキルトの下にしまい込んだ。
眠る娘の頬をそっと撫で、目を閉じる。
「許せ。巻き込んでいるのは、やはり私だ……」
苦しげな呟きは、小町の耳に届く事なく薄闇の中に消えていった。




