第23話 ガーデルードの泉
そこは鬱蒼とした森への入り口だった。
舗装のない獣道が、奥へと真っ直ぐに伸びている。空はまだ薄暗く、道の先は闇に覆われていた。いかにもな雰囲気だ。
松明を受け取ったディクシードは、その場に御者と騎士二人を残し、獣道を歩き始めた。
森の中は大きな木々が密集し、月の光は微かにしか届いていない。数本の松明の明かりを頼りに、道なりに真っ直ぐ進んで行く。誰一人として口を開かず、ただ黙々と歩いた。
しばらくすると道の両脇に黒い柱が現れた。上部には紋章のようなものが彫られている。その柱より先は限られた人しか足を踏み入れてはならないようで、ディクシードは外套を騎士に預けて単身で歩き始めた。
少し歩き、後方に騎士の姿が見えなくなったのを確認した小町は、ディクシードの横に並んで歩いた。
「…………」
「怖くないわよ、言っとくけど」
「…………」
視線を感じたものだから、ついついそんな事を口走ってしまったけれど、彼は何も言わず、視線を戻しただけだった。
実を言えば、とても怖い。
彼の持つ松明が消えてしまえば、暗闇が辺りを支配する。高く延びた木々がたくさんの枝を伸ばし、弱い光は足元に届く事がない。
現実の世界では、このような場所と無縁で過ごしてきたのだ。怖いに決まっている。
恐怖心を誤魔化すために口を開いた。
「ここって、聖域とかっていう場所になるんでしょう? その割には神聖な感じがしないんだけど……。何ていうか、禍々しい感じ。もしかして魔物とかっていうのもいたりするの?」
聖獣の話を聞いた時、この世界の生き物についても、全てではないが一通り教わっていた。
昆虫や動物、魚類、鳥類。ここまでは現実の世界と同じだが、聖獣の他に魔族という物もいるらしかった。
魔族にはランクがあるようで、一般には底辺に位置するものを魔物と呼び、上位のものを魔族と呼ぶのだそうだ。魔族と呼ぶ場合は、総称として使う時と上位のものを指して使う時があるようだが、使い分けについては詳しく聞いていない。無縁だろうと思っていたからだ。
この国にいるのは魔物ばかりだと聞いていた。魔物というのは、いわゆる怪物だろうと思う。知能は低く、見た目は異形。人や動物を襲って食らう生き物だそうだ。人が退治できる物が大半らしい。
魔物の上に位置するのが魔族だ。知能も高く、人に近い姿で人語を喋り、怪しげな能力を使う。魔物に比べて数も少なく、その魔物を使役して人や動物を狩るのだそうだ。
共通して言える事は、糧としているのが人や動物であるということ。注意すべき存在は、上位に位置する魔族であること。
そして、それら魔族の天敵が聖獣だ。国を庇護する聖獣というのは、そんな魔族から国土を守っているのだそうだ。
話を聞いた時は、相当な対価を要求されそうだと思ったが、それに関して、聖獣は何も要求しないらしい。
糧としているからだと、ディクシードはサラリと言っていた。聖獣は対価を糧にするが、魔族をも糧にするらしい。
つまり、国は聖獣によって魔族から国土を守ってもらい、聖獣は対価以外の糧を得る。人と聖獣の利害が一致するというわけだ。
「食われたくなければ離れるな」
もちろん食われたくなどない。
雰囲気も相まって、小町は生唾を飲み込んだ。平静を装い、分かったと答えたものの……やはり恐ろしい。
何か他の話題をと、引っ掛かっている事を口にした。
「対価だけど、どうして必要ないの?」
「…………」
お得意のだんまりだ。知る必要のない事だと思っているのか、それとも一般人には言えない事情があるのか。
「必要ないなら問題ないけど、確認させてほしいの。仮に対価を要求されたとして、それを拒否する事はできるの?」
「できる。その場合、望みは叶わない」
「……そう、安心したわ。対価は必要ないって言われても、理由が分からないのに納得なんてできないもの」
「あれが対価を求めてくれば、お前は拒むつもりなのか」
「ええ。払えるものなら払うけど、払いたくないものは払わない。この世界では神様みたいな相手かもしれないけど、断固として拒否するわ。失った後で後悔なんてしたくないもの。たとえ、夢の中でもね」
「……そうか」
黙々と歩くディクシードの横で、小町は考えていた。
体が見えるようになるというのは、自分にとってはそれほど重要視する必要はないが、彼にとっては大事な事だろう。
幽霊のような自分の存在は、あの城に混乱を来す存在だろうから。
「これでも迷惑をかけてる自覚はあるのよ。それに……ありがたくも思ってる。目に見えない私相手に、あなたは親切にしてくれてるもの。感謝してる。ここまでしてくれる人は、きっといないでしょうし……。これ以上迷惑はかけたくないけど、でもやっぱり譲れない事もあるわ」
「走る車から下りようとしたのは、お前ではなかったか。あれは迷惑な話だ」
「…………」
ごもっとも。あれは迷惑行為そのものだ。
ムッとして睨み付けたが、相手は涼しい顔をして前を向いていた。
「対価なら必要ない。お前の体を手に入れるのは、私の望みでもある」
「…………。あなた、口下手を直した方がいいと思う。今の言葉って、その……変な意味に聞こえるもの。それにその言い方だと、あなたが望みを叶えるという意味にもとれるわよ」
「どのみち同じ事だ」
「それはそうなんだけど……。でもそしたら、聖獣はあなたに対価を要求するんでしょう?」
「そうはならない。対価は必要ない」
「どうして?」
「…………」
また沈黙が返ってきた。
小町は内心舌打ちしていた。
上手い具合に誘導して白状させてやろうと思っていたのに通用しなかった。なかなか手強い。
そんな小町に構いもせず、前を向くディクシードは、何て事はないというようにサラリと話した。
「仮に、あれが私に対価を求める事があるとしても、それは髪だ」
あまりに普通に口にするので聞き流しそうになった。
「髪? あなたの?」
「そうだ」
「そんな物を要求するの? 確かに、とても綺麗な髪だけど……。獣でしょう? 頭にでもつけるのかしら」
四本足の獣の頭に、プラチナブロンドの美しい髪をつけた様を想像する。珍妙としか言いようがない。
「対価は聖獣の糧になると教えたはずだが」
「……そうでした」
ついつい妄想してしまったが、それほど冷たく切り捨てなくてもいいのではないだろうか。
こんな冷ややかな態度も、彼は一貫してこうなのだ。この青年が表情を変える時があるなら、是非とも見てみたい。
とはいえ、一度だけ苦しそうな顔を見てはいたが……
どちらにしても彼には価値ある髪なのだろう。
「もしあなたの髪を要求してきたら、私、断るから」
「…………」
「そんな目で見なくても分かってるわよ。対価は必要ないんでしょう? もしもの話よ」
まったく、頭の固い人と話しをするのは、いちいち面倒臭い。
しかし情報は得ておきたい。
このままでは妙に負けた気がするのも事実だ。何より黙々と歩くのが怖い。
「今更だけど、ケヴィンの声が聞こえれば、私は現実に戻る。聖獣と会ってる時かもしれない」
「分かっている」
「だから急いでるの? あっちに戻るまでにって」
「…………」
かなり手強い。この青年からどうすれば情報を引き出す事ができるのだろうか。
時間がないというのは、そういう意味ではないのか。
考え始めると、どんどんと不安が湧き上がってくる。
自分の姿は徐々に見え始めるものだと思っていた。短時間の間に触れられるようになった事が気に掛かる。その上、ケヴィンの声も聞こえない。
確かに眠るのは遅かったが、普段ならこの時間には起きている。最近は特に、容赦なくフレデリックに叩き起こされるからだ。
日本食の勉強にと、コックに頼んで朝食の手伝いをさせてもらっていた。言い出しておいて遅刻をするなど、生真面目な執事は許してなどくれない。
それとも時折優しい執事は、パーティーでの疲れを気遣い、朝食の時間をずらしたのだろうか。それなら事前に知らせがありそうなものだが、何も聞いていない。
ケヴィンに遠慮して声を掛けるのを躊躇っているのかも。
そんな事を考えたせいか、ふいに映像が浮かんだ。
眼前の景色とは別の景色を認識し、捉えている。
思わず足を止め、その景色に集中していた。
現実の世界の、小町の寝室の様子だった。
ベッドで眠っているのは黒髪の自分。
その横で体を起こしたケヴィンが、愛おしそうに小町の頬を撫でながら話し掛けている。
やがてポリポリと額を掻き、眠る小町の耳元に何事か囁いて口付けた。
ベッドを下りた彼は、素肌の上にガウンを羽織り、再び小町に口付けて寝室を出て行った。
映像の中の自分は、依然として眠ったままだ。
「どうした」
気付けば、離れた所からディクシードがこちらを振り返っていた。寝室の映像はすっかり消えている。
……今のは……何……?
夢の中で、現実の夢を見たというのだろうか。
だが違うと直感が告げている。
鬱蒼とした獣道の景色も認識していた。
さっぱり意味が分からない。
この夢を楽観的に捉えておけるのも、限界が近付いている気がしてならない。
「何があった」
言いながらディクシードが歩み寄ってくる。
「何でもないわ。行きましょう」
「…………」
止まっていた足を動かし先へと歩く。彼の横に並んだ時、観察するような視線を感じたが、気付かぬふりをして歩いた。
そうする事で自分の中の不安にも気付かぬふりができる気がした。
「今から会う聖獣だが、あれは博識だ」
前置きもなくディクシードが話し始めた。
どういうつもりでそんな事を言い出したのかと、しげしげと見上げてみる。道の先を見据えたまま、表情を変えもせず口だけを動かしていた。
「長い時を生き、積み重ねた知識を持っている。癖のある性格だが、頼めば知恵を貸してくれる」
「…………」
知恵を借りてみろと言っているのだろうか。
分かりにくいけれど、おそらくそうだ。
それに、聖獣を信頼しているような口振りだった。
「ねぇ、ディックス。その聖獣ってどんな姿なの?」
不安を消すには、興味の対象を変えればいい。ありがたい事に自分の中の好奇心はいつだって燻っている。
小町の思惑を知ってか知らずか、ディクシードは一瞥を寄越しただけで淡々と答えた。
「牙を持つ巨大な猫だ。古来からその姿だと聞いている」
豹などの獣を連想して大きな牙を付けてみる。なるほど、ありだ。
更にその獣が喋る様を想像し、自分のユーモアの無さに毒づいた。下手なCG映画の猛獣のように、口元と言葉が噛み合わず、違和感だらけになってしまう。
「お前は、あれに会うのが楽しみなのか」
表情は変わらないが、彼の言いたい事は何となく分かった。
呆れているのだろう。神の使いを相手に、畏れもせず、よくもまぁ楽しみにできるものだと。
もちろん楽しみではある。
喋る獣など現実では会えやしないのだから。
「信仰心の問題よ。私は神なんて信じていないの。でも神話や童話は好きよ。矛盾してるかしら?」
「…………」
「心配しなくても、失礼にならないように振る舞うから、安心して?」
「あれを前に楽しみにする者などお前くらいだ」
やはり呆れているらしい。
そうして恐怖心を誤魔化しながら、無口な青年相手に喋り続けた。
彼は更に呆れているだろう。やかましい女だと。構うものか。
しばらく歩いた頃、目の前に泉が現れた。それまでの獣道とは違い、頭上に月を仰ぎ見る事ができる開けた場所だった。
鏡のような泉の水面には巨大な月が写り込み、幻想的な景色が広がっている。城の中庭も美しいが、ここはまた違った美しさがあり、泉の周囲だけ時が止まっているかのようだ。
ディクシードの横に立ち、小町はその景色に見入っていた。
全てが白銀に包まれている。
「……きれい」
他の言葉など必要ない。思い付きもしない。
呆ける小町に淡々とディクシードが告げる。この場所は月の加護を受けているのだと。
この時は意味を理解しようとも思わなかったが、後で知る事になった。
泉の周囲だけは夜が明けず、水面には必ず月の姿が写り込む。月に住む神のもとに聖獣がいつでも帰れるようにと、神自身が泉を作ったとされているのだそうだ。
確かに、夜明け前だというのに頭上には月があった。
だがそんな矛盾に気付きもせず、小町はただただ景色に魅せられていた。
◇◇◇◇◇◇
「――ようやく来たか」
静寂の世界に朗々とした声が響いた。
男性とも女性ともとれない、しわがれた老人の声だった。
どこから聞こえてきたのかと、キョロキョロと周囲を見渡してみたものの、動く物は何もない。
今の声がそうなのかと声を潜めてディクシードに尋ねると、彼は何も言わずに歩き出した。ついて来いというのだろうか。
周囲を観察しながら彼の後をついて行く。泉を迂回して進み、獣道と対面になる辺りに、黒っぽい塊が姿を現した。
あれだ!
近付くにつれて次第に獣の姿をとらえ、灰色と黒い毛のまだら模様まではっきりと見えてくる。
絶滅したとされるサーベルタイガーを連想させる姿だった。
だが……想像していたよりも小さく、そして、何というか……ボロボロだ。
荒い呼吸も聞こえてくる。
前肢に顎を乗せて目を閉じ、こちらからは顔を背けているように見えるが、その口元には鋭利な牙がのぞいていた。
ディクシードの言う、牙を持つ巨大な猫だ。それも灰色の。
だが猫よりも四肢は太く、そして灰色と黒のまだらの毛は……残念ながらボッサボサ。
聖獣という総称から、神々しく巨大な様を想像していたのに、それとは程遠い薄汚れた猛獣の姿だった。
檻も囲いもない場所に、やさぐれた猛獣が横たわっている。そう思ってしまっては足を進めることができなくなった。踵を返して逃げ出したいと思う半面、言葉を話すという獣への好奇心もある。
足を止めた小町を一瞥し、ディクシードはどんどん獣に近付いて行った。数メートルの距離を置いてようやく立ち止まる。
想像よりも小さいとはいえ、彼よりも二回りは大きい。襲われてしまえば、ひとたまりもないだろう。
固唾を呑んで見守っていると、獣がゆっくりと顔を上げた。
理知的な光を宿した金色の目で、ディクシードをジッと見据えている。
「……怪我をしてる……」
思わず呟いていた。
獣は左目を固く閉じていた。
傷こそ見えないが、そこから赤黒いシミが一筋伝っている。
血が流れているのだ。
よくよく観察してみれば、黒いまだら模様までも赤黒い。
全身に怪我を負っているようだった。
呼吸が荒いのも獣独特のものではなく、怪我に苦しんでいるからではないのか。
そう思うと恐怖で動かなかった足が動いた。恐々とではあるが、少しずつ距離をつめていく。
手当ての方法も分からない。触れさせてもらえるかどうかも分からないが、何かしなければと、そう思った。
そんな小町には目もくれず、聖獣の正面に立つディクシードが唐突に切り出した。
「望みがある」
何を言い出すのかと驚いた小町は、戸惑いながら彼を呼び止めた。
しかし、ディクシードは振り返りもせず言い捨てる。
「望みを叶えろ、サーベル。お前の仕事だ」
「……っ、ディックス!」
制するように叫びながらディクシードへ詰め寄った。獣への恐怖心よりも、彼の強引さに対する不満が上回っていく。
この青年は傷を負う獣を前にして、尚も働けと言うのだ。
それに加え、彼は聖獣を崇める立場の人間だ。以前見た聖堂での様子は、月に住むとされる神と聖獣への祈りなのだと、彼自身が言っていた。
そんな尊ぶべき相手を前にして、仕事だから働けと強要する事自体、どう考えてもおかしい。
「…………」
正面に回り込んだ小町に対して、ディクシードは無機質な目を向けるだけだった。相も変わらず、何の感情も宿していない目だ。
「怪我をしてるのよ? どんな力か分からないけど、負荷がかかるんじゃないの?」
「それは聖獣だ。これごときで死にはしない」
「ディックス! 聖獣だろうと動物だろうと関係ないわ! 死ななければ何をしてもいいって言うの!?」
死なないからといって望みを優先させようとする行為が信じられなかった。
小町としても、動物愛護などという立派な精神は持ち合わせていない。それでも彼の行為に目を瞑る事などできやしない。
「退け」
「いやよっ! 無理を強いるべきじゃないもの! そんな事も分からないの!? あなたがしている事は、傲慢というのよ!」
「…………」
無機質な目を向けてくる男を、ありったけの眼力で睨み付ける。見えていないとしても、睨まずにはいられなかった。
この綺麗な青年には無情だと思わされる事が多々あった。小町に対してではなく、侍従や兵に対してだ。
仕えている者は何とも思っていないのかもしれない。それでも、いちいち小町の気に障る。
今日の視察部隊とやらの件もそうだ。指揮をしていたあの青年も、ディクシードの命で動いたからこそ、帰還早々のあんな時間に疲れをおして報告に来ていたのだ。
そんな騎士に対して、質問はおろか労いの言葉でさえ彼の口からは出て来なかった。何とも思っていないような振る舞いを、意識してしているかのようだった。
もう何度も、ディクシードのそんな態度を目にしていた。
「退け」
「退かない、絶対に! この際だから言うけど、あなたを見てると腹が立つのよ! あなたは得体の知れない人間を気遣える人でしょう? なぜ周囲にそれをしないの?」
「…………」
「あなたには、あなたなりのやり方があるんでしょうけど……今度ばかりは静観する気はないわ。私の体の事だもの! それを理由にして強引な真似をするつもりなら、私だって黙ってないわよ!」
「…………」
一気に捲し立てたが、彼の表情は全く変わらなかった。何を考えているのかさっぱり分からない。
しばらく睨み付けていたが、ふいにディクシードの視線が横に逸れた。
「娘、動くなよ」
しわがれた老人の声が聞こえた――
次の瞬間、小町の脇を黒く大きな塊が飛び出して行く。
何が起こったのか分からなかった。
気付いた時には、聖獣に組み敷かれるようにしてディクシードが横たわっていた。
獣の喉元には彼の持つ剣が宛がわれ、彼の眼前には鋭利な牙がある。少しでも動けば互いに傷を負いかねない距離だ。
彼らは身動き一つせず静止していた。
そんな状況だというのに、ディクシードの目には恐怖の影すら見当たらない。あの無機質な目を獣に据えているだけだ。
「我らに剣を向けるのは貴様ぐらいのものだ、ディクシード」
聖獣のしわがれた声が響いた。がなりつけるわけでもなく、とても単調に。
その傍で小町は圧倒されていた。
聖獣から発せられる圧力が全身を縛り、動く事も、逃げ出す事もできずにいる。
「この期に及んで心が定まらんと見える。臆病な貴様のことだ、未だ逃げ回っておるのだろう?」
「…………」
「時は動き始めたと何度言うても分からんのか? ……こうなっては誰も抗えん。過去を悔いるだけでは何の解決にもならんぞ。貴様の時も止まったままだ」
聖獣の片目から流れ落ちた血の滴が、ディクシードの白い頬を濡らしていく。
獣が……赤い涙を流している……
「望まぬ事だが、わしは抗わん。出来る事に力を尽くそう。……先を見ろ、ディクシード。貴様が変わらぬなら……救える者も救えんぞ」
声は徐々に力を失っていくようだった。比例するかのように獣が疲弊していくのが見てとれる。
しかし小町の体を拘束する力は、少しも弱まる事はなかった。
「……貴様には……何を言うても届かんのか……」
呟くように言った聖獣は、ディクシードの体の上から緩慢な動作で退き、硬直する小町の後ろへとゆっくりと回り込んだ。
途端に体が軽くなり、小町はへなへなとその場に座り込んでいた。
心臓がバクバクと早鐘を打ち、体に力が入らない。
カラカラに喉が乾いているのに、背中には冷や汗が浮いている。
そんな小町を抱き込むようにして、聖獣が体を横たえた。
ボサボサの尻尾と太い前肢が目の前に現れ、再び体を硬直させた。
「娘、取って食いはせん、怯えるな。食をそそる匂いではあるがな」
「…………」
「すまぬが、しばらく休ませてくれ」
怯えるなと言いながら不穏なことを言う。
そんな獣は前肢に顎を乗せ、右目を真っ直ぐに小町へと向けていた。
先程までの獰猛さを微塵も感じさせない、穏やかな眼差しだった。
それでも小町は、声を出せずにいた。頭の中がパニックに陥っている。
どこからかあの猫達が現れた。
トコトコと近付いてきた灰色の猫が、小町の膝を陣取り丸くなる。白猫の方は、聖獣の顔に体を擦り寄せ、その鼻先で寝そべってしまった。
この獣に恐れを感じていないようだ。
聖獣の金色の目が、ゆっくりと閉じていった。動いた事が辛いのか、ただ単に眠いのか、荒い呼吸からは判断がつかない。
小町は微動だにしなかった。
取って食わないと言っていたが、動いた瞬間食われていたではシャレにならない。
しばらく静止して待ったが、聖獣は一向に動かなかった。
そろそろと腕を伸ばし、灰色の猫を撫でてみる。
依然として聖獣は目を閉ざしたままだ。
数回背を撫でると、幾分か気持ちが楽になった。食われる心配は無用のようだ。
ディクシードへと目を向ける。
彼は、片膝を立てたまま地に背をつけて寝そべり、上空を見据えていた。いつもの彼からは、想像もつかないような格好だ。
聖獣が言った言葉の意味は分からないが、彼には伝わったのだろうか。
「案ずるな、娘。そのうち起きよう。あの腑抜けは置いておけ」
小町の視線を追ったのか、聖獣が言った。小さな子供を諭すような、そんな老人の声だった。
腑抜け呼ばわりされたディクシードは、聞こえているだろうに怒りもしない。何を考えているのか。
ようやく身じろいだかと思えば、剣を脇に放り捨て、片腕を額に宛がって目を閉じてしまう。
真っ直ぐに背筋を伸ばし、常に堂々としているのがディクシードなのだと、勝手なイメージを抱いていた。そんな彼が剣を捨て、顔を隠すようにして地面に寝転がっている。
自棄になっているのだろうか。
そうは思うが、聖獣の言葉が届いている証拠だとも思えた。
「あやつが気になるか」
視線を戻すと……再び体が強張った。大きな金色の片目がこちらを見ていた。
恐々と頷いてみせる。
「不器用なのだよ、あれは。考える時間が必要だろう。そなたもしばらく休むといい。その身はわしが守ろう」
言葉を聞いた途端、体からみるみる力が抜けていき、聖獣の背に寄り掛かってしまった。
体を起こそうにも力が入らず、急激な眠気が襲ってくる。
「ごめんなさい……あなたは……怪我をしてるのに……」
「そなたの体は羽のようだ。気を揉むな」
優しげな老人の声を聞けば聞くほど、どんどん眠気が勝っていく。
うつろいの中、ディクシードと聖獣の声が聞こえていた。
「……時は……止まらないのか……」
「止まらぬよ、ディクシード……戻る事もない」
彼らは何の話をしているのだろう。
そう思ったきり、眠りの世界に堕ちていた。




