第22話 夢の世界
毎夜見る不思議な夢の中。
小町は城の一室にいた。中庭を一望できる出窓を陣取り、白銀に輝く世界を眺めている。
婚約披露のパーティーを終え、いつものようにケヴィンの腕の中で眠りについたのは、ついさっきのことだ。そしてすぐに夢の世界で目が覚めた。
気付いた時には、この出窓の前にいた。唐突に意識がはっきりするのにも、すっかり慣れてしまった。
あの美人な青年は、近くにある上質な机に書類を広げ、黙々と執務をこなしている。
ここは彼の執務室だ。彼の他には誰もおらず、時折書類を捲る音が響くだけの静かな空間である。
夜というよりも早朝と言われる時間だというのに、青年は仕事を切り上げる気がないらしい。
そんな彼には目もくれず、小町は考え事にふけっていた。景色を眺めてはいるが、頭の中を占領しているのは、自分の腕にできてしまった醜い痣のこと。
気持ちの悪いそれを一瞥して、知らず溜め息を吐き出した。
考えれば考えるほど己の未熟さばかりが目立ち、自己嫌悪に陥ってしまう。そうして何度目かの溜め息を吐いた時、低い男性の声が響いた。
「いるのか」
青年は相変わらず書類に目を向けている。
だが間違いなく彼が口を開き、小町へ問い掛けたのだ。
仕事の片手間に、こうして話し掛けてくるのにももう慣れた。綺麗な顔がこちらを向くことはない。
「ええ、いるわ。いつ気付いたの?」
尋ねてみても答えは返ってこない。聞こえているはずだが、彼は答えない。そんな態度も普段通りだ。
この夢を見始めた頃は言葉さえ理解できず、自分の存在を知られることもなかったが、今では会話ができるようになっていた。
話の内容が分かれば、それなりに楽しいだろうとは思っていたけれど、語学のカリキュラムのように努力して覚えたわけではない。いつの間にか理解できるようになっていた。
学習能力が長けているわけではなく、頭の具合がおめでたいのだろうと結論づけ、深く考えない事にしている。夢とは何と都合よくできているのかと、一人感心したものだ。
言葉の理解と平行して、美人な青年の態度に変化が現れ始めた。小町の存在を意識しているかのような、そんな素振りを見せ始めたのだ。そのうち毎度のように“いるのか”と同じ問いを口にするようになった。
唐突な独り言に対して、綺麗な顔をして残念な人だと勝手な感想を抱き、それでも問い掛けを何度も聞くうち、試しに返事をしてみることにした。
すると驚く事に、彼から返事が返ってきた。会話が成立したのだ。
そうなると好奇心が勝り、あれこれと小町の方から質問するようになった。彼いわく、姿は見えないが気配を感じるのだそうだ。
他の人にも気付いてもらえるかもしれないと思い、やたらめったら話し掛けてみたのだが、残念ながら、返事はなかった。彼だけに認識されているらしい。
そんな奇妙な状況も夢ならではだと楽しんでいる自分は、やはり楽観的なのだろう。
「…………」
一向に青年からの返事はなく、小町は再び窓の外へ目を向けた。
気配で分かるなら聞かなければいいようなものだが、指摘しても何度も繰り返されている。とはいえ小町も律儀に返事を返し、“いるか”“、いるわ”のやり取りを日課のように思うようになっていた。
この青年は、もともと寡黙な人物のようだ。周囲をとりまく人達と、私的な話をしている様子を、一度として見た事がない。
周囲も一線を引いて接しているようだった。ある一名を除いてだが。
質問した内容には、気が向けば答えてくれるが、それさえも簡潔だ。簡潔ではあるが、満足いく答えをくれるため、それほど不満には思っていない。
不満があるとすれば、彼自身の事を尋ねると頑なに口を閉ざしてしまう事だ。
名前でさえも未だに教えてもらっていない。名乗るぐらい大したことではないだろうと何度も文句を言ってみたが、まったく取り合ってくれず、本人から直接聞くのは諦めた。そんな彼に何者であるか尋ねてみても、案の定口を閉ざす。
結局は周囲の会話から名前を知り、何者なのかを漠然と推察するしかなかった。推察したはいいが、さんざん文句を言ったことを悔やむハメになった。
悔やんで……そして最終的には開き直っている。
この青年の名は、ディクシード・何たら・何たら。姓は分からないから何たら・何たらだ。ミドルネームがあったのは覚えている。彼の周囲の人達が聞けば激怒しそうだが、何しろ本人が名乗らないのだから仕方がない。
ディクシードという名を知った時も、かなり失礼な感想を持った。こんな綺麗な人には、その響きが勇ましすぎて合っていないと思ったのだ。だからと言って、しっくりくる名を思い付くわけでもないのだが。
彼を身分の高い人物だと推察し、姓は国名か、それにまつわる名だろうと結論づけた。おめでたい頭が見せる夢なのだから、どうせそんな感覚だろうと。
身分を推察し始め、為政者の一人か聖職者ではないかと考えたけれど、今は違うと思っている。
おそらくは最高権力者の血縁者。
つまるところは王族、もしくは王子様だ。
そう思った時には夢とはいえ後悔したものだ。何しろ文句ばかり言っていたのだから。
それだけではなく、名前を知った際には失態をおかしていた。頑なな彼との勝負に、何故か勝ったような気になり、冷やかし半分でディックスなどと気安く呼び掛けていたからだ。
あの時の勝ち誇った自分が滑稽に思え、後悔したのは言うまでもない。
自分の推測に基づいて、親しげに呼び掛けるのを自粛し、態度も自粛した。だが、彼にはそれが不満だったらしい。何を問い掛けても、だんまりを決め込むのだ。多少気は咎めたものの、会話がないというのは面白くないものだから、自粛するのは早々にやめてしまった。
というのも自分自身、彼と同じ不満を抱いた事があったからだ。
親しくなった相手が、小町が伯爵令嬢だと認識した途端、それまでの態度を変えてしまうケースが度々あった。受け入れなければならない現実を残念に思い、それとなく距離を置いた。
最近の恵まれた対人関係のおかげで忘れていたが、王族といえど、同じように感じたのではないかと思う。
会話ができるようになって様々な話をした。
小町から質問するのは、この世界についてのあれこれだが、彼は違う。彼の質問は至って平凡な内容だ。何をしていたか、何を考えているのかといった些細な事ばかり尋ねてくる。
現実との生活の違いには興味をあまり示さない。分からない言葉の意味を聞かれるぐらいだ。
そうして答える小町の話を、彼はいつも仕事の片手間で聞いていた。黙々と執務をこなしながら。
聞いている間も表情に変化はなく、時折質問してくる口調も単調で素っ気ない。それが彼の初期値らしい。
初めて小町が“いる”と返事をした時も、驚きさえしなかった。
何者だと問われた事もなければ名乗れと言われた事もない。
だから未だに名乗りもしていない。自分で言うのも妙な話だが、気配を感じるのに姿が見えず、それでいて会話ができるなどと、怪しい事この上ない存在だろうに。
恐怖もしくは好奇心の対象になるはずの自分を、彼は当たり前のように受け入れている。
こう言っては何だが、変わった人物だ。
「あちらで何があった」
少し経った頃、ディクシードがまた問い掛けてきた。
まるで何かあったと断言するような言い方だ。それほど分かりやすいだろうかと内心首を傾げた。
どういうわけか、彼には気分や感情を読まれている事が多い。顔を見られているわけではないのにだ。
今も考え込んでいたのを悟られているようだ。知らぬ間に溜め息を吐いていたりもするのだろうが、何も言わないうちから、確信を持って問い掛けてくる。今日に限っては前者のような気がする。
ディクシードの言う“あちら”とは、夢ではない現実の世界の事だ。彼は今日、婚約披露のパーティーがあった事を知っている。昼間の居眠りの際に話していた。
準備のため、義姉達にボディークリームを塗りたくられたのだが、あまりの気持ち良さに昇天してしまい、その時の夢で話していた。
小町の気分が沈んでいる理由も、きっとパーティー絡みだと検討をつけているのだろう。
その通りだなのだが……
腕の痣はパーティーの最中についてしまったものだ。そのせいで、ケヴィンには心配をかけいるし、朝になれば皆にも心配をかける事になる。
明らかに自分の失態。
その事を口にする気になれず口ごもっていると、ディクシードは更に核心をついてくる。
「パーティーとやらはどうした」
窓越しに彼の背を眺め、溜め息を吐き出した。
「無事に終わったわ。でも……反省する事がありすぎちゃって……」
「粗相でもしたのか」
「……そういうわけじゃないけど、何て言うか……成長しないなと思って……」
そこまで話した時、ディクシードがふいに顔を上げ、正面の扉に目を向けた。誰かが部屋を尋ねてくるという合図だ。
どういうわけか彼は、事前に来訪者を察知して、こうして教えてくれるのだ。
すぐに扉をノックする音が響いた。彼の返事を待って、騎士姿の青年が三人、執務室へ入ってくる。
そのうちの二人には見覚えがあるが、もう一人は初めて見る顔だった。皆、容姿の整った青年ばかりで、面食いの義姉達がいれば大喜びしそうである。
彼らを初めて見た時は、小町もかなりの衝撃を受けた。背筋をピンと正して立つ様は絵物語の騎士そのもので、キラキラと輝いて見えたのだ。童話や神話の世界の騎士達が目の前にいるのだから、夢のような光景だと、一人興奮したのを覚えている。
夢なのだが……
この世界の住人は、魅力的な容姿をした人が多い。ただ単純に遭遇していないだけかもしれないが、少なくとも、これまでの登場人物達は皆が魅力的である。
男性は長身で均整のとれた体格の者が多く、顔立ちも整っていた。何より羨ましく思うのは女性の美しさだ。いかにも貴族の子女といった身なりの女性から侍女に至るまで、皆が肉感的でとても美しく、女性らしい曲線美を持つ人ばかりだった。
この国の人種の特徴なのか、男性も女性も肌が白く、瞳の色は碧眼。髪の色は皆違うが、色素の薄い明るい茶色か、金髪と括られる色ばかり。
小町のように黒い髪と瞳をした人物は、ここでは見かけたことがない。
「殿下、視察部隊が戻りました」
正面に並ぶ三人のうち左端の青年が口を開き、それをきっかけにディクシードへの報告が始まった。彼がこんな時間まで仕事をしていたのは、視察部隊とやらの到着を待っていたのだろう。
左端に立つ長身の美丈夫はパリスという名で、ディクシードの執務のサポートをしている青年だ。もともとは優秀な騎士だそうで、ディクシードの側近といったところだろうか。
年齢は不明だが、二十歳すぎぐらいに見え、ディクシードと同年代ではないかと思う。中性的な容姿、そして長い金髪を後ろで束ねた姿が、どことなくディクシードを思わせる青年だ。だが彼よりも女性的で、柔和な顔立ちをしていた。
性格は、外見の柔和さとは正反対のようだった。口調は丁寧なのだが、容赦のない毒を吐く。寡黙な主君に代わってなのか、恐ろしいほどに辛辣な毒だ。敵に回すと厄介な人物だと勝手ながら思っている。
そして三人の中で一番背の高い右端の青年は、ディクシードの近衛騎士を束ねる、ランバートという青年だ。主君の身辺に気を配り、警護を指揮する立場にある。
隊長と呼ばれる彼も歳は二人と同じくらいに見える。さすがというか体格も恵まれていた。男性らしい顔立ちをしており、切れ長の目と短く切り揃えた薄茶色の髪が精悍な印象を与える青年である。
だがあくまでも印象であって、この人物の性格も、外見の精悍さとは相容れないようだった。
小町の知る中で、ディクシードを呼び捨てにするのは彼だけだ。敬語も一切使わない。時折フランクすぎる言動をしてみせ、パリスにたしなめられるのだが、それでも一向に直る気配はない。見た目と中身のギャップが面白いのだ。
そんな二人に挟まれて立つ青年は、初めて見る人物だった。この中では一番頼りなく見えるが、きっと視察部隊とやらの指揮をとる立場にあるのだろう。
赤みを帯びた金髪を少し長めに伸ばした彼は、人好きのしそうな顔立ちを緊張に強張らせている。ディクシードに対する緊張のようだが、それでもパリスからの問いに淀みなく答えていく。
「殿下、何かご質問は?」
簡潔な応答を数度繰り返し、パリスが主君に尋ねたが、部屋の主は無表情に一言、いやと答えただけだった。
パリスが退室を促し、報告を終えた青年は一礼して部屋を出て行った。
結局、青年に対して労いの言葉を口にしたのはパリスとランバートの二人であり、ディクシードが言葉をかける事はなかった。
「被害は拡大する一方だ。ディクシード、対策は考えてるのか?」
「当たり前です。何の為に兵を呼び戻していると思っているのですか? 城と町に残せるだけの兵が戻れば、打って出ます」
ランバートの問いに答えたのはパリスだった。問われたはずのディクシードは、既に書類と向き合い執務に戻ってしまっている。完全に二人の存在を無視した態度で、黙々とペンを走らせていた。
そんな主君に彼らも慣れているのか、特に気にする風もなく兵がどうのと話し始めた。
二人を制したのはディクシードだった。声を張るわけでもない彼の言葉は、二人を制するだけの効力があった。
書類に目を向けたままだというのに……
「ランバート、衛兵を呼べ」
話し込んでいた二人は、すぐさまそれを放棄した。ランバートが扉へと向かう。それから数分と経たず、衛兵が部屋を訪れた。
小町は申し訳なく思いながらも、その兵の後について部屋を出たのだった。
この兵は、一人では好きに動けない小町のために呼びつけられたのだ。彼らの仕事を増やしているのは、間違いなく自分だった。
ここでは、できる事が限られている。物に触れる事はできるが自由に動かしてはいけない。椅子を引いたり、ペンを持ったり、部屋の出入りもしてはならない。なぜなら、周囲から見たそれらの行動は奇怪な現象になってしまうからだ。
椅子が勝手に動いたり、ペンが勝手に浮いたり、扉が勝手に開閉する事になる。そこに小町がいると認識しているのは、ディクシード一人なのだ。
姿が見えず認識されていないというのは、思った以上に不便だった。
そしてこの世界を訪れるのは、なぜか決まってディクシードの傍ばかりで、だいたいが夜中近くになる。最初のうちは持ち前の好奇心で時間は潰せたが、それにも限界があった。気ままに外へ出るわけにもいかず、景色を眺める程度でする事もなくなっていた。
その上ディクシードは眠ろうとしなかった。夢を見ている自分は睡眠不足に悩む心配はないが、毎夜のように彼を寝不足にするわけにはいかない。残念ながら、夢の世界の住人だと割り切ってしまえずにいる。そんな自分の性分が恨めしいが、割り切れないものは仕方がない。
適当に暇なら潰すからと、ディクシードに休むよう促してみても、彼は取り合ってくれなかった。それどころか、姿の見えない小町に部屋を宛がおうとするものだから、毎度のように説教するハメになった。
周囲から妙な目で見られるのは彼だというのに、全く気にしようとしないのだ。小町としても当人が気にしないからといって、与えられた部屋を好き勝手に使う気にはなれない。
使用者が分からない部屋を侍従達がどう思いながら手入れをするのか……
考えなくとも想像できるというものだ。もちろん使えば片付けはするが、リネンの手入れまでは勝手が分からないのだから、どうしても手に余る。
そう主張して彼の申し出を断ること数回。
小町の意見を無視したディクシードが、思いもしない行動に出た。
空き部屋に小町を誘導し、閉じ込めたのだ。彼にすれば気遣ってくれたのだろう。しかし何の相談もなく閉じ込めるというのは、いささか強引すぎた。
小町は頑として室内の物には手をつけず、明け方近くに顔を出したディクシードに、さんざん文句を言ったのだった。
あの時の暇を持て余していた感覚は……できれば二度と味わいたくはない。
そんな経緯もあって彼も考えを改めたようだが、タチの悪さは変わらなかった。兵を呼びつけ城内を歩かせると言い出した。案内役だと思ってついて行けと。
聞いた時は呆気にとられたが、いい加減にしろと説教し、何とかならないものかと思案した。結果、巡回の衛兵にくっついて庭まで自力で出るという結論に至った。それなら誰かに迷惑をかける心配はない。
なかなか良い案だと一人満足し、それを数回繰り返した頃、ディクシードは兵を呼びつけるようになった。先ほどのようにパリスらと難しい話をする時は、決まって先に衛兵を呼びつける。
こうして彼らに庭へと連れて行ってもらうのが、最近の日課になってしまったというわけだ。
きっと今頃は視察とやらの件について話をしているのだろう。
美麗な青年が三人、難しい顔をして話し込む様子が安易に想像できてしまう。追い払われた感は否めないが、軍や兵がどうのという話は小町も興味がない。どうせ退屈になるのが関の山だ。だから大人しく衛兵について部屋を出る事にしている。
衛兵達は中庭に行けという主君からの命令に、不審そうな様子を見せることもなく、従順に従っていた。
命令は絶対というやつだろうか。
皆、奇妙だとは感じているはずなのだから。
黙々と歩き中庭に出た衛兵は、月明かりの庭を一通り見廻ると、出てきたテラス窓へ戻って行った。その様子を静かに見守っていた小町は、心の中で礼を言って見送った。
今まで見てきた衛兵達は、誰一人として彼の命に背かない。ディクシードが見ていないからと手抜きをする者もいなかった。
騎士達は忠実そのものだ。
「よっぽど彼が怖いのかしら」
ディクシードがいるだろう部屋の灯りに向かって呟き、小さく笑って歩き出した。
兵達に彼を怖がっている様子はない。それどころか、憧れや羨望のようなものを抱いているようだ。
今の独り言は、無愛想な彼に対する皮肉である。忠実な兵達に礼の一言もないのだから。
いくら偉い立場の人間でも、臣下には言葉を掛けるべきだと思う。
彼は高位の立場にいる人間だが、国王ではない。もしそうなら、周囲は殿下とは呼ばず陛下と呼ぶのではないだろうか。
それに、推測通り彼が王子様だとして、憧れを抱くのは女性と相場は決まっている。あんな無愛想な王子様に、兵が羨望を抱く理由が分からない。反感を買いそうなものだ。
よほど偉大な功績を挙げてきたのだろうか。
自分のような得体の知れない存在を気遣えるのだから、悪い人ではないと思う。だが、かなり強引なところがあるのは事実だ。その上、己に対する風評を気にしようともしない。
「そういうところが魅力なのかしら。だとしたら、価値観がまったく違うわね」
誰に言うわけでもない独り言を呟き、切り株のある所へと足を運ぶ。
月光の中の散策は何度しても飽きる事なく続けられた。神秘的な景色の中を歩けば、陶酔したような気分を味わえるのだ。
そしてもう一つ、飽きない理由は他にもあった。景色を眺めながら歩いていると、その理由が現れ、足元に擦り寄る素振りを見せる。
灰色の毛並みをした、妙に品のある猫だ。
庭の散策が日課になってすぐ、どこからともなく現れて、お供について来るようになった。小町の存在を認識しているらしく、毎夜のようについてくる。
このお供にも更にお供がいるのだが、それは真っ白な毛並みの猫だった。性格は対象的で、懐っこい灰色の猫に対して白猫は警戒心が強く、あまり近付いてこない。
「こんばんは。今日は、あなた一人なの?」
しゃがみこんだ小町は、灰色の猫に話し掛けた。
撫でてやりたいのだが、生憎と触れることはできない。生き物に触れようとしても、すり抜けてしまうからだ。
実際にそれを目にした時は気分が悪くなった。体の中に自分の手が埋まっていくように見えてしまい、不気味すぎて無闇に手を伸ばすのはすぐにやめた。
猫も察しているのか、触れるか触れないかのラインからは踏み込んでこない。素振りだけに留めてくれている。とても賢い猫だった。
目の前の猫は撫でられてもいないというのにゴロゴロと喉を鳴らし、気持ち良さそうに金色の目を細めている。
何と愛らしい事だろう。
灰色の猫だけかと思っていたが離れた所に白猫もいた。ジッとこちらの様子を窺っている。
この夢を見始めた頃は、動物に認識される事も植物に触れる事もできなかったが、最近では花や木々になら触れられるようになっていた。この世界でできる事が着実に増えてきているのだ。
そのうち動物と触れ合ったり、ディクシード以外の人とも話ができるようになるかもしれない。
楽しみに思う反面、喜んでばかりはいられないとも思う。姿が見えるようになれば不都合も増えるからだ。中庭の散策もきっとできなくなる。衛兵に不審者扱いされるはず。
ディクシードだから受け入れてくれているが、衛兵だとそうはいかない。ディクシードも現状のように黙認するわけにはいかないだろう。不審者を放置するような真似は周囲が決して許さないはずなのだ。
彼に迷惑をかける前に、何らかの対策を考えておいた方がいい。
考えながら歩き出せば、灰色の猫がピタリと横について歩く。そのやや後ろを白猫もついてくる。
そうして切り株のある場所まで歩き、それの前にしゃがみ込んだ。未だに既視感は引き摺ったままだ。
この場所を気に入っているわけではないが、自然と足が向かってしまう。自分の事だというのに、既視感の正体も自分の行動の意味も分からない。
「あなた達は、この場所が何だか知ってる?」
尋ねたところで分かるわけもないのだが、猫相手に問い掛けた。こういうのは返事がなくても意外と楽しいものなのだ。
猫達も小町が話す内容に、時折タイミングよく尻尾を動かしたり、相槌を打つような素振りを見せてくれる。言うまでもなく、たまたまだ。それでも、聞いてくれる相手がいると思うと、ついつい話し掛けてしまう。
切り株を観察していると、灰色の猫がドレスの裾にジャレつき始めた。金色の目にどう写っているのか、前足でチョンチョンと裾に触れようと試みている。残念ながら触れられないのだが、めげずにチャレンジする姿がとても可愛らしかった。
今夜の夢での装いはパーティーで着ていたドレスだ。夢の中の服が日中着ていた物とは限らないのだが、今夜は何故かドレスだった。思い入れが強いせいかもしれない。
このドレスをデザインしたのは、二番目の義姉のジェニファーだ。パーティーで身に付けた装飾品や小物類の手配も、化粧を施してくれたのも彼女だ。何度かメイクを直してもらったが、気性の荒さからは想像もつかないような、とても繊細な手付きだった。
そんな彼女がデザインしたドレスは、その手の事に疎い小町から見ても、上品で洗練された素敵なものだと思える。己の体型の貧相さに目を瞑らなければならないのが残念なくらいだ。
ジェニファーいわく胸元の厚みを誤魔化す為にドレープを取り入れたそうだ。満足そうに笑っていたので、ちゃんと誤魔化せているらしい。
窮屈な思いを感じさせない所も彼女の配慮からで、そんな細やかな気配りも嬉しかったが、何よりもあの義姉がデザインしてくれたという事が、本当に嬉しかった。
立ち上がった小町がクルリと回転して見せると、灰色の猫が首を傾げた。
「素敵なドレスでしょ? 背中がスースーするんだけど、すごく気に入ってるの。ジェニーが作ってくれたんだけどね、センスがいいと思わない? 髪飾りも彼女の手作りなのよ」
結い上げた髪に留めてある、オシロイバナをモチーフにした髪飾りは、サプライズで彼女が作ってくれたものだ。
日本から帰った小町が、扇子に描かれている花をドレスに刺繍できればいいのにとこぼした事があり、諦め半分で呟いた言葉をジェニファーが覚えてくれていたらしい。
そんな髪飾りを指差せば、灰色の猫は傾げた首を反対側へと傾げ、尻尾を一振りしてみせる。白猫も離れた所から興味深そうな目をこちらに向け、同じ動きをしてみせた。
彼らを見ていると、頬がふにゃふにゃと緩んでしまう。
こうして猫達と戯れながら時間が経つのを待つのだった。
いつもは朝方近くになると真っ暗な闇が現れる。自分を起こすケヴィンの声が聞こえる時もある。
それが現実へ戻る合図だった。
昨夜は眠るのが遅かったため、少し待てば夜が明けるはずだと検討をつけた。
婚約披露パーティーの後、自室に戻るなりケヴィンは小町を求めた。リチャードの事で、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように、何度も何度も。
おかげで眠りについたのが朝方近くになってしまったのだ。
腕の痣を見咎めた彼を何とかなだめたが、そのおかげで余計に自制が効かなくなったのだと、ケヴィンは何度も詫びていた。無茶をさせたと、すまなさそうに。
背を撫でる彼の手が心地よくて、すぐにまどろみ始めたが、その時に聞こえた言葉が気になっている。
――巻き込んですまない。
そう言っていた。
確かに、兄弟のいさかいに巻き込まれたのかもしれないが、腕の痣は自業自得でできたものだ。
それは違うと答えたつもりだが、ちゃんと言葉にできていなかったと思う。睡魔に勝てなかったせいだ。だから目覚め時、きちんと言っておかなければ。
巻き込んだのは自分なのだと。
しばらくの間、小町は猫達を放置して考え込んでいた。空が白み始めた事にも気付かずに。
「また溜め息か」
ふいに背後から声が掛かり、驚いた猫達が一目散に逃げて行く。
振り返ったそこには長身のディクシードが佇んでいた。夜空というには少しだけ明るい上空を見上げている。
「帰らないのか」
もちろん帰るつもりだ。現実の世界へ。だが生憎と合図がない。
「まだみたい」
「恋人の声は聞こえないのか」
「ええ、まったく。そろそろ彼も起きるとは思うんだけど、昨日は……眠るのが遅かったから。まだ寝てるのかもしれない」
気恥ずかしく思いながらも、そう答えた。誤魔化すような事でもないと思うが、ディクシードの目がこちらを観察しているように思えたからだ。
俯いてその視線から逃れようとしたものの、そんなはずはないと思い直し顔を上げた。
彼には姿が見えないはずなのだ。
「ここにいるって、どうして分かったの?」
試しに尋ねてみると、彼は表情を変える事なく猫達の走り去った方を一瞥する。
「あれがいる所にお前がいる。それに……」
そう言って、またジッとこちらを見据えてくる。エメラルド色の瞳で真っ直ぐに。
「見えてるのね?」
「…………」
「ハッキリ見える?」
「……いや」
見えていると言っても完全な姿ではないようだ。考えていた事が実際に起こり始めているらしい。
楽しみと不都合と、それから何とも言えない不安が少し。
不安については以前から誤魔化し続けている。誤魔化すしかないのだから仕方がない。
とにかく今は、対策について彼と話しておいた方がいい。
俯き考え込んでいると、何かが目の前に迫っていた。ディクシードの手だった。
身を引くよりも早く、その手が頬を通り抜けていく。
途端に不快感が体を駆け抜けていった。
感覚はないが、それでも気持ちが悪い。生理的な問題だ。何しろ自分の体は見えているのだから。
驚いて彼を見上げても、相変わらずの無表情からは何も読みとることはできなかった。
「触れないのか」
思わず身構えていたが、その言葉を聞いて安堵した。触れやしないかと試しただけのようだ。
「そうみたいね。感覚はないけど気分がいいものじゃないの。それに女性に触れる前には、一言断りは入れるべきだと思うけど?」
触れてくれるなと高飛車な事を言うつもりはないが、断りもなく触れられたくもない。これも生理的な問題だ。
ムッとしていると、彼が思わぬ事を口にした。
黒いのかと一言だけ。
突拍子もない問いに、訳が分からず呆けてしまう。
いったい何の話だ。
「お前の瞳だ」
「……瞳? ええ、黒いわよ」
「そうか」
なるほど。彼の目は色彩も捉えているらしい。以前小町が部屋で見た、セピア色の光景のようなものかもしれない。そうだとしても濃淡の識別はできる。
髪の色も分かるかと聞くと、黒だと答えが返ってくる。
黒い瞳と黒い髪。そんな容姿をした人物が珍しいのだろう。ジッと向けられる視線がむず痒い。
「思ったんだけど、他の人にも見えてるのかしら?」
「それはない。私の近くに見知らぬ者がいれば、近衛が黙ってはいない。だが……」
さも当然だというようにディクシードは言い切った。見たところ、どこにも近衛騎士の姿はないが、きっと近くにいるのだろう。
「だが?」
「…………」
黙り込んでしまった彼に話の続きを促してみたが、口を開く気配はなかった。
懸念しているのではないだろうか。
不審者をどう扱うかについて……
誰かに見られてしまえば城から摘まみ出されるのは確実で、そうなったところで、次の夢を見れば再び彼の近くで目を覚ます。そしてまた摘まみ出され……
その繰り返しというわけだ。
対策を思案していると、ディクシードが踵を返した。
「時間がない。ついて来い」
「えっ? ちょっと……ねぇ、待って!」
声を掛けてみても振り返りもせず歩いて行く。慌てて追い掛け、どこに行くのか問い掛けたが答えはなかった。
言葉が足りないにも程がある。彼のどこに魅力があるというのか。
黙々と足を進めていたディクシードが前触れもなく立ち止まり、何を着ているのかと問い掛けてきた。唐突な問いに、特に疑問も抱かず、パーティーで着ていたドレスだと答えた。
「ドレスとは何だ」
「えっと……夜会とか、舞踏会で着る衣装よ」
「そうか」
その質問に何の意味があるのか聞き返そうとしたが、再び彼が歩き始めてしまい、聞きそびれた。この時の彼の問いに矛盾があると気付いたのは、少し後の事だ。
「車を用意しろ。簡素なものでいい」
テラス窓に近付いた頃、ディクシードが足を止めもせずそう言った。何処にいたのか、間近から兵の了承する声が聞こえてギョッとした。
驚いたのは小町だけで、命じた本人は構う事なく歩いて行く。そうして執務室へと戻った彼は、小町を残してさっさと出て行ってしまった。
何をしたいのか全く分からない。出掛けるつもりだというのは分かったが、その程度だ。
それに時間がないとはどういう意味か。
姿が見えるようになるまでと捉えるべきなのか。
あれこれ考えていると、少ししてディクシードが戻って来た。
先程までの軽装と違い、白を基調とした騎士の装いに着替えている。帯剣までしており、それはそれは見事に様になっていた。
完璧な王子様のようだと、本物かもしれない相手を前にぼんやりと思った程だ。
無言で外套をひっつかむ彼を見て我に返った。見惚れている場合ではない。
「ディックス、説明して」
「後だ。ついて来い」
部屋を出て足早に廊下を進んで行く。その後を追い掛け、城の裏側へ出た。
そこには、パリスとランバート、それに五人の騎士が待機しており、騎士達はそれぞれに馬を従えていた。
彼らに挟まれるようにして、栗毛の馬に引かれた馬車が用意されていた。絵物語の世界の華やかな馬車ではなく、まさに馬車と呼べる赤茶けた箱形の馬車だった。
やはり、何処かへ出掛けるのだ。
「ガーデルードへ向かう。昼までには戻る」
「ガーデルード……ですか?」
怪訝そうなパリスを横切り馬車の横に立ったディクシードは、御者に開けてもらった扉の前で、小町を振り返った。
「乗れ」
言葉と同時に、二つの小さな影が馬車の中へと勢いよく飛び込んだ。
白と灰色の、あの猫達だ。
いち早く反応したランバートが、いつ抜いたとも知れない短剣を片手に踏み込もうとすると、それを制したディクシードが、もう一度小町に視線を寄越してきた。
乗れと言っているのだ。
馬車になど乗ったことはないが、雰囲気に押されて乗り込んでいた。次いで彼も乗り込み、小窓を隠すカーテンを引く。腰の剣を鞘ごと引き抜き、小町の隣に腰を下ろした。剣の柄で床を二度軽く叩き御者に合図を送る。
すぐに馬車が動き始めた。
「向かいに座らないの?」
「…………」
それきり沈黙が続いた。
馬車の中は、想像よりも乗り心地が良かった。ソファーとまではいかないが、椅子がとても柔らかい。肘置き用のクッションまで用意されており、これなら腰を痛める心配はなさそうに思えた。揺れに関しても気分が悪くなる程ではない。
灰色の猫が二人の間で丸くなり、正面の椅子には、行儀よく前脚を揃えて白猫が座っている。ジッと小町を見据え、観察しているようだった。
「どうしてついて来ちゃったの? 護衛のつもりかしら」
目の前の白猫が尻尾の先を上下に振って答えた。そうだと言っているように思え、つい頬が緩む。
「あちらで……お前の身に何があった」
またしても唐突な問いに目を瞬いた。
質問自体も妙だったが、答えた小町もしどろもどろだ。
「私の身にって……怪我とか、そんな事なら別に……たいした事はないわ。普段通りよ」
痣のせいもあり、内容も妙なものになったが、ディクシードは視線を一瞬こちらに向けた後、そうかと呟いただけだった。
「それで? ちゃんと説明してほしいんだけど」
「聖獣の話をしたが、覚えているか」
「聖獣って……前に教えてくれた、話す獣のこと?」
問い返すと、彼は正面を向いたまま頷いた。合っているらしい。
聖獣と呼ばれる人語を喋る獣がいると教えてもらった事がある。魔法は使えるのかと、好奇心に抗う事なく尋ねた時の話だ。その獣が、それらしき力を使うのだそうだ。
見た目は動物なのだが知能がとても高く、理性と秩序を重んじる種族だと言っていた。数も少なく、他の動物達に紛れて森などに潜み、滅多に人前には姿を見せないのだと言う。それ故に、この世界の人々は聖獣を月に住む神の使いだとし、神のように崇めて信仰の対象にしているのだそうだ。
そうは聞いていたが、小町としては“魔法が使えて喋る獣”だと認識している。
だが期待していた魔法らしき力というのが、かなり厄介なものらしかった。
呪文でも唱えるのかと思ったが、そんな簡単な話ではないらしい。方法は分からないが、人の望みを叶えるという能力なのだそうだ。
この世界にバイクがあれば最高だと思っていた小町は、会う機会があれば頼んでみようかと安易に考えていたけれど、話が進むに連れて考えを改める事になった。
望みを叶える代償として、同等の価値のものを対価として支払わなくてはならないと、そう聞いたからだ。
人によって価値観は違うもので、何に価値を見出だすかは様々だ。
つまり、誰かと同じ望みを叶えようとしても同じ対価を要求されるとは限らないという事になる。更には、必ずしも物を要求してくるとは限らず、意志や信念であったり、依頼者または他者の身体の一部、挙句の果てには命そのものを要求する事もあるらしい。
聞いた時はゾッとしたものだ。
小町にとってバイクというのは、とても大切でかけがえのない物なのだ。それを望めば、かけがえのない物や大切な物を失うという事になる。走る為の乗り物なのだから、要求される対価は己の足という可能性もある。
夢の中とはいえ想像するだけで恐ろしい。
聖獣相手に望みを叶えてもらおう等と安易に思えなくなった。
なんと厄介で、恐ろしい能力だろう。
「ガーデルードにはこの国を庇護する聖獣がいる。お前に仮の体を持たせるのが目的だ」
「…………」
彼は今、何と言ったか。
意味を理解するのに時間がかかってしまった。
わざわざ聖獣に会いに行くのは、仮の体とやらを与えてもらうため。
……対価を払わなければならない、という事だ。
「やめて。何を要求されるか分かったもんじゃないわ。馬車を止めて。私は下りる」
「断る」
「いやよ。体なら放っておけばいい。そのうち見えるようになるかもしれないじゃない。こんな事必要ないわ」
端正な横顔を睨み付け、本気で外に出てやるつもりで腰を浮かせると、灰色の猫が機敏な動作で床に飛び下りた。揺れる馬車の中を器用に移動し、扉の前で腰を下ろす。白猫もそれにならって座り込み、金色の目で小町を見据えてくる。
行かせないぞと言わんばかりだ。
猫達には悪いが、構ってなどいられなかった。
揺れに耐えながら踏み出そうとすれば、その腕を冷たい手に掴まれ、ハッと息を呑んだ。
「対価なら必要ない。座れ」
呆然とする小町とは対照的に、淡々と言ったディクシードは掴んだ小町の腕を引く。
抵抗するのも忘れ、小町は大人しく腰を下ろした。その膝に灰色の猫が飛び上がり、丸くなる。
「……どうして……」
呟やきながら猫の背に手を伸ばしていた。
手のひらに感じるのは間違いなく体温だ。
……温かい。
なぜ触れられるのか。
さっきまでは通り抜けていたはずなのに……
この短時間で触れるようになっている。彼も、猫達も。
混乱する頭を落ち着かせようと大きく息を吐き出した。現状を把握しなければならない。対価が不要だと言った彼の根拠も知りたいが、それについては後でいい。
「あなたの部屋で、私の姿は見えてなかった?」
「……ああ」
「でも中庭では見えるようになってた。それでも……触れなかったわ。それが今は触れられる。……ハッキリ見えてるの?」
「まだだ。だが、お前の言う黒い髪と瞳も直に見えるようになる。時間の問題だ。他者に見られるわけにはいかない」
彼が急ぐ理由が分かった気がする。どんな騒動になるか想像するに容易い。
徐々に見えるようになるのか、それとも突然なのか。それが分からない以上、どこかに匿ってもらうしかなく、期間も分からない。その上現実へ戻る合図は時を選ばずやってくる。そうして現実に戻った後は、また夢を見て突然姿を表す事になる。
不都合としか言いようがない。
「仮の体っていうのは、私が現実に戻っている間はどうなるの?」
「手に入れれば分かる」
彼にも分からないという事だ。
それはそうだろう。こんな奇妙な存在が頻繁に出没するわけではないだろうから。
他者に認識さえされれば、現状の問題は一旦は解決した事になる。誰かしらに協力を頼む事もできるかもしれない。一時的なものでも、このままでいるよりはましだろう。
そう考えると、彼の言うように仮の体というものを手に入れておくのが最善だと思えた。本当に対価が不要ならばだが。
それならそうと順序だてて説明してくれればよかったのに。
恨めしげに睨み付けていたが、ふいに今しがたの会話に違和感を覚え、ディクシードを凝視していた。
「どうした」
視線は感じるのか、正面を向いたまま問い掛けてくる。
だが小町は、その違和感を突き止める為、頭の中をフル回転させていた。
ディクシードは中庭で、何を着ているのかと尋ねてきた。そもそも、あの質問に矛盾がある。
更に追求し、ようやく突き止めてみれば、何とも言えない不安が沸き上がってきた。
「……何でもないわ」
「そうか」
この青年は何者で、この夢は一体何なのか。
彼に尋ねたところで答えが返ってくるとは思えない。夢についてなど分かるはずもないだろう。
自分の中の不安が、誤魔化しきれない所へ向かっている気がした。
夢は、夢ではないのだろうか……
「本当に対価はいらないのね?」
「必要ない」
「どうして言い切れるの? 秩序を大事にする種族が例外を認めるなんて、おかしな話だわ」
「…………」
返ってきたのは沈黙だった。根拠について話す気がないという事だ。
王族だろう彼には、国を庇護するという聖獣は何も要求しないとでも言うのだろうか。
そんな事をあれこれ考えているうちに揺れが収まり、ディクシードが立ち上がった。到着したのだ。
思っていたよりも早く着いた。遠くまで走ってきたわけではないらしい。
扉に手を掛けたディクシードが、少しだけ首を巡らせ、離れるなと告げる。
開いた扉から真っ先に猫達が飛び出して行った。
対価の事は引っ掛かるものの、様子を見て判断するしかない。時間がないという彼の言い分も分かる。
自分自身に言い聞かせて馬車を下りた。




