第19話 アリッサの懸念
婚約披露パーティーを終えた一週間後。
小町の部屋のソファーに腰掛け、アリッサはスリージーを待っていた。彼は今、隣接する寝室を訪れている。その扉を見つめたまま、大きな溜め息を吐き出した。
溜め息の原因は、この部屋の主だ。この七日間というもの、小町は眠り続けている。パーティーの翌朝に四十度を越す高熱を出し、二日ほどして熱が引いてからも起きる気配がない。揺すっても叩いても目を開けず、痛いと文句を言いもしない。意識がないのだ。
医師も首を傾げており、こんなケースはお手上げのようだった。
小町に付き添っているのは、正式な婚約者となったケヴィンだ。いつ起きてもいいようにと、片時も離れず寝室に籠っている。
スリージーは、そんな彼の様子も気になるからと、少し前に寝室へ入って行った。
小町を取り巻く奇怪な異変は、実を言えば他にもある。小町の愛車が、忽然と消えたのだ。鍵も、ジャケットやグローブといった、バイクに乗るときに使用する物も、姿を消していた。フレデリックの話では、他にも消えてしまった物があるようだ。それも、小町の私物ばかり……
いったい義理の妹の身に何が起こっているのだろうか。
いろいろな事があり過ぎて、アリッサの頭の中はパンク寸前になっていた。スリージーに話す事で、混乱している頭の中が少しは整理できるのではないかと思い、大人しく待っているのだった。
背もたれの上部に頭を乗せ、高い天井を見上げ、再び溜め息を吐き出した。
「アリッサ、お前、大丈夫か?」
ソファーの片側が沈み、気遣うスリージーの声が聞こえたが、頭を動かす気にはならなかった。
「分からないわ。自分の頭の中も、あの子の事も……。リチャードのせいだって丸ごと責任を押し付ける事ができたら、どんなに楽かしら……」
さすがに無理があると分かっていたが、つい口に出してしまう。ケヴィンの弟であるリチャードが、最初に頭の中を掻き混ぜた張本人だったからだ。
アリッサだけでなく、家族や周囲にいる人達をもトラブルに巻き込み、混乱に陥れている。
事の発端は、あの男の歪みきったコンプレックスから始まった。
スリージーの話によると、リチャードは以前から出来のいい兄に対してコンプレックスを抱いており、些細な事で兄に絡んでいたそうだ。
ケヴィンと違って女性にだらしなく、社交界でも有名な遊び人の一人だった。兄へのコンプレックスの捌け口に女性を求め、その派手な女性関係は、アリッサやジェニファーも何度か耳にしていた。面識を持ってからは度々口説かれもした。
そんな男が無駄に容姿の整った小町を放置するわけもなく、むしろ兄への嫌がらせもできると、当て付けるように小町に絡むようになった。
不機嫌になる兄を面白がる程度で満足していればいいものを、その反応に味をしめ、あろう事か、自分の兄の婚約者に手を出そうとしたのだ。
それも、二人の婚約披露パーティーという日を、わざわざ選んでの事だった。
結局、小町自身によって阻止され、リチャードの画策は未遂に終わったのだが、あの男がした事はそれだけではない。
パーティーの後、夜になってケヴィンが小町の腕に見たものは、人の手の形をした紫色の痣だった。すぐにリチャードの仕業だと疑い経緯を問い詰めたそうだが、誤魔化されてしまったのだと彼は愚痴っていた。おおかた、小町に色仕掛けでもされて、流されてしまったのだろう。
アリッサ達は、翌朝になって小町が高熱を出したと知り、見舞いへと駆けつけたのだが、ちょうど医師が診察に来ており、その間に事のあらましをケヴィンから聞いたのである。小町は口止めしたようだが、ケヴィンはそのつもりなど更々ない様子で、冷静に話してはいたものの、弟への憤りを隠しきれていなかった。
皆、話を聞いた時は一様に驚いた。
リチャードとのトラブルの後、ケヴィンと共にパーティーに戻った小町は、腕を痛がる素振りも見せず、至って普段通りに振る舞っていたからだ。むしろ婚約者と共に楽しんでいるようにさえ見えた。
確かに肘上までの長い手袋をつけてはいたが、まさかそんな痣を隠しているとは思いもしなかった。皆はもちろん、ケヴィンでさえも……
診察を終え、眠る小町のもとへ半信半疑で足を運び、その痣を目にした皆は息を呑んだ。
言葉を失うほど、それは不気味なものだった。
白く細い手首をグルリと一周する痣。紫色と暗赤色のまだら模様が巻き付いているのだ。
人の手の形をした痣で、指の形まで、はっきりと残っていた。大きさからして間違いなく男性の手であり、誰の目から見ても鬱血痕だということは明らかだった。更には、その周囲の皮膚に無数の引っ掻き傷まであった。思い出すだけで鳥肌が立ってしまうほど、不気味で醜い痣だった。
高熱を出したのも痣と傷のせいではないかと訝ったが、医師によると関係ないだろうという話だった。医師は専門外だとした上で分かる範囲の説明をしてくれたのだが、その話からすると、やはり無関係だと結論付けられてしまう。医師の見立ては、疲労による発熱というものだ。
念の為、傷が化膿しないよう薬を処方してもらい様子を見たが、高熱は二日で下がった。
しかし、あの痣を目にしてから既に七日、小町は未だ眠り続けている。
目を覚まさない現状も、私物が消えてしまった経緯も、いっそ全てリチャードの責任だと押し付けてしまいたい。
小町への報復に、リチャードがバイクを盗んだとするなら、まだ納得できたのだ。無理がある事は分かっているが、何度もそう思ってしまう。
「ケヴィンも同じような事を言ってたな。あいつ、疲れはしてるが、思ったよりも落ち着いてる」
「だからって、あの男がした事を、なかった事にはできないわ。それが原因で寝込んでるなら、まだ話は早いのに……。あの子がそんなヤワな性格じゃないのは分かってるもの」
「確かにな。でも、バイクが消えたのは、リチャードとは関係ない話だろ。盗難という方向で話が進んでるなら、そのうち犯人も捕まるさ。今はバイクの事よりも、コマチの体調が一番大事だ」
スリージーの言った通りだった。小町の私物はともかく、バイクの件は、既に盗難という事で届けを出してある。それ以外に考えられない。
でもそれなら――
「……どうしてコマチは……目を覚まさないの? あいつのせいじゃないなら、一体何が原因なの?」
「俺に分かるかよ、そんなもん」
「あんたに答えなんて求めてないわ。頭の整理がしたいから口にしてるだけよ」
ぶっきらぼうなアリッサの口調に、現状を何とか理解しようとする必死さが感じられ、スリージーは不安になった。
アリッサは、昔から気の強さと同じくらい責任感も強く、許容できないことをする人間を毛嫌いする性格だった。白黒ハッキリさせないと気が済まず、確かに決断は早いのだが、早すぎる為の勘違いも多々あった。
小町との確執もアリッサの勘違いから始まったことだ。小町自身も煽るなどして深い溝となってしまったが、自分の勘違いが発端だと自覚しても素直に謝ることができず、同じ境遇にいたジェニファーのおかげで歩み寄れたと言っていい。
だが過去には歩み寄ることさえ失敗し、彼女から離れて行く友人も多くいた。次第に自分の性格を嫌悪し始め、追い込むようになった。淑やかぶるようになってからは離れる友人はいなくなったが、それは本来の彼女ではない。
スリージーには、その頃の彼女と今の彼女が重なって見えていた。素の自分を受け入れてくれる小町という存在が増え、そんな義理の妹を心配するのは分かるのだが、どうもそれだけではないような気がする。
何か心に引っ掛かりがあって自分を追い込んでいるのではないかと思う。
そうは思うが、なにぶん彼女は素直ではない。胸の内で溜め込んでいるものを、素直に吐き出す事さえできない。そんな彼女が助けを求めるなら、出来る限り力になってやろうと思う。
「ケヴィンも言ってたろ? 近頃の小町は、うたた寝が多いって」
「ええ、言ってた。パーティーの準備をしてる間もずっと寝てたわ。メイクの最中も寝てるんだもの、おかしいって思うべきだったのよ。それが前兆だったかもしれないのに……」
「例えそうだとしても、こんな事になるとは誰も思わないさ。ケヴィンだって、走り疲れてるんだろうって言ってたしな」
自分達の作ったコースで、小町は連日のように走っていた。モトクロス専用だという新調されたバイクに跨がり、ただただ走り続けていた。
パーティーを控えているのだから怪我でもしては大変だと言っても、勘が鈍るからと走ることをやめなかった。
「寝過ぎだって誰が思う?」
「そうだけど……」
過ぎたことを言っても何の解決にもならない。
それでも、どうしても悔やんでしまう。
「伯爵は何て言ってるんだ? そろそろ動くんじゃないのか? このまま様子を見続けるとは思えない」
「たぶんだけど、めぼしい医師を探してるんじゃないかしら。……私達には何も教えてくれないわ」
「……痣のことは?」
「お父様は、リチャードから話を聞くつもりみたい。いつもそうだもの。必ず両者の言い分を聞くのよ。……お母様の方が問題だわ、かなり頭にきてる。表向きは穏やかに見えるけど、それが逆に怖いくらい。近いうちに、あの男を呼び付けるんじゃないかしら。コマチが目を覚ますのを待ちたいんでしょうけど、いつになるか分からないし」
その言葉にスリージーの表情が険しくなった。
「ケヴィンは同席させるのか? あいつは、それを望むだろうけど」
「当事者は皆、話を聞かれるはずよ。あんたもカズキもね」
「ケヴィンのやつ、今は落ち着いてるが……弟が目の前にいるんだ。黙ってないぞ」
「そうならないように忠告しておきなさいよ。暴力なんてお父様が許さないわ。付き合いが長いんだもの、あんたの言う事は聞くんじゃないの?」
当然のようにアリッサが主張すると、彼は苦い顔をする。
「……だといいけどな」
「他人事みたいに言わないでよ。あんた、ケヴィンの親友でしょ?」
「そう思ってるが、あいつがキレた所は見たことがないんだ……。コマチ絡みで不機嫌になるのにも驚いたぐらいさ。俺は、あいつの一面しか知らない」
自棄的な彼の発言にアリッサは歯噛みした。
小町がいれば、ケヴィンをなだめるのは容易いかもしれない。しかしそれが宛にならない以上、彼に頼るしかないのだ。気付いた時には感情のままに噛み付いていた。
「コマチの言う事しか聞かないとでも言いたいの? あの子が起きてるとは限らないわ。頼みのあんたが弱気な事言わないでよ!」
指摘され、スリージーも負けじと言い返した。
「その通りだろうが? 俺が居たところで、抑えつける程度しかできやしない。違うか?」
「だったら、そうしなさいよ! あんたの力ならできるでしょう!?」
「もちろんするさ、言われなくてもな! でもお前は分かっちゃいない。言っても聞かないやつが、そんなもんで大人しくなるはずがないだろう」
「それなら、殴り飛ばしてでも大人しくさせなさいよ!」
応酬を続けるうち、睨み付けるアリッサの目に涙が溜まり始めたが、スリージーは感情のままに怒鳴り付けていた。
「簡単に言うなっ! 俺が殴りたいのはあいつじゃない! リチャードだ!」
「じゃぁ、どうしろって言うの!? 私だって、あの男を殴ってやりたいわ! ケヴィンに加勢したいぐらいよ!」
「…………」
「でも……他に頼めるヤツがいないじゃない……できる事なら……私が止めるわよ」
ついにアリッサは顔を覆って泣き始めた。スリージーは喉まで出かけた言葉を呑み込んで、落ち着こうと息を吐き出した。
痛いところを指摘され冷静でいられなくなった。このままでは互いの感情をぶつけるだけだ。
彼女は今、自分を追い詰めている。それを感じ取り、助けになろうと思ったばかりだというのに、救いを求める手を払いのけるような真似をしてしまった。やり場のない感情を、受け止めてやるべきだというのに。
「悪いアリッサ、カッとなった。泣くなよ。あいつが暴走したら止めてやるから。な? だから泣くな」
女の慰め方なんぞ分かるかっ。
内心毒づきながらも必死になだめたが、アリッサは顔を上げようとしない。
「それにコマチの事だ。よく寝たとか言って、案外ケロッと起きてくるかもしれないだろ?」
「……そんなわけないでしょぅが」
ボケているつもりはないのに、泣きながらでも突っ込みを忘れない彼女に、少しばかり腹が立った。
こっちは慣れない事をしているのだ。大目に見るぐらいできないのか。
そう思いながらも、最大限に気を遣い、柔らかい口調で話し掛ける。
「スクールの女どもに泣くのは卑怯だって説教してたろ? お前が泣くなよ。……らしくない事してると顔面が腫れるぞ」
「顔面じゃなくて目が腫れるのよ……あんた、レディーの扱いぐらいケヴィンに習っときなさいよ。最悪なフォローだわ今の」
スリージーの必死なセリフにしっかり文句をつけながら、アリッサはようやく顔を上げた。
「フォローはできなくても、あんたのこと、頼りにしてるんだから」
「……言ってろ」
呟いたスリージーは、仏頂面のまま彼女にハンカチを押し付けた。
「お前、溜めてるヤツ全部吐いとけ。また泣かれると俺が困る」
促してみたがアリッサは黙り込んでしまった。スリージーは何も言わずに待った。
この沈黙は苦ではない。
必ず彼女は思い詰めている原因を教えてくれるのだ。吐き出してしまえばいい。その為なら、いくらでも待ってやる。
「グレッグ、あんただから言うけど……皆で、ケヴィンの相談を聞いたでしょう?」
ポツポツと話し始めた彼女に頷いてみせた。
トラブルの数日前、ケヴィンは小町がいない時を見計らって、弟が彼女に絡んでいる事を皆に話し、パーティー当日の協力を求めていた。
リチャードは皆の前では巧みに本性を隠しており、アリッサも話を聞いて驚いた。噂は知ってはいたが、まさか兄の婚約者にまで手を出そうとしているとは思いもしなかったからだ。
両家の面々が揃う場でも確かに小町を口説いてはいたが、口説かれたのは彼女だけではない。自分もジェニファーも口説かれた。
だから、とても小町一人に固執しているようには見えなかった。夫妻同士も子供のお遊び程度に捉えており、真剣に取り合う事はなかった。
ケヴィンの話によれば、小町が日本から帰ってきた頃から執拗になってきたというのだ。当初は彼女を目で追う程度だったが、最近では、ケヴィンのいる前でも露骨な目で彼女を舐め回し、触れようと近付こうとすると言う。
小町自身は相手にせず適当にあしらっていたようだが、先日、子爵家を訪問した際にトラブルがあったそうだ。
ケヴィンの目を盗み小町にしつこく絡んだ弟が、辟易した彼女に平手を食らったというのだ。
それまで、彼女を一人にしないように気を配っていたケヴィンは、隙あらばと構えている弟に危機感を感じたと言う。パーティーを数日後に控え何か企んでいるのではないかと懸念し、皆に協力を頼む事にしたのだそうだ。
「あの時、私、親身になってなかった。彼が過保護すぎると思ったし、何の惚気だって内心ウンザリしてた。協力するとは言ったけど、パーティーの時だって呆れ半分だったもの」
「…………」
「もっと真剣にケヴィンの懸念に対処してたら、こんな事にはならなかったかもしれない。……ケヴィンに謝らないといけないのに、それもできない。……こうやってあんたを呼び付けて、懺悔みたいな事して……自分が情けなくて嫌になる」
強気なアリッサからは想像もつかないような言葉だった。思い詰めていると思っていたが想像以上だ。
そんな彼女の様子に舌打ちしたスリージーは、その頭を引き寄せ自分の肩にもたれさせた。
ケヴィンの真似事だが、それでも精一杯だ。
「お前な、ろくに寝てないだろ? だから妙な事ばっか考えるんだよ。貸してやるから寝てろ」
こんな高圧的なことを言えば、普段なら倍の文句が飛んでくる。だが今日に限って、そんな反応は返ってこない。
「何で、あんたが怒ってんの?」
「…………」
「わけ分かんない」
「…………」
文句らしき事は言っているが大した威勢もなく、アリッサの頭は肩に乗せられたままだ。
「何か言いなさいよ」
「うるさいっ、黙って寝ろ! 俺は寝る!」
吐き捨てるように言って、目を閉じて誤魔化した。
彼の耳は真っ赤に染まっていたのだが、そんな様子に気付くことなく、アリッサはモソモソと動いていた。スリージーの肩が硬いために、自分の頭に合う位置を探しているのだ。
いい加減にしろとスリージーが口走りかけた時、辛うじて耐えられそうな位置を見つけたアリッサは、ようやく目を閉じた。
寝心地は最悪に近いが、思い遣りは嬉しかった。何だかんだと自分を見放さない彼に、いつも甘えてしまっている。
「ゴツゴツだけど借りてやるわよ」
彼の指摘通り、ここ数日、ろくに眠れていない。浅い眠りを繰り返している。
このソファーで、吉報を待ちながらウトウトするのが日課になっていた。目を開ける度、一人きりでいることがどうしようもなく怖い。
「グレッグ、私、不安なのよ。あの子が目を覚まさないかもしれないって」
「考えすぎだ」
「分かってる。変な夢を見たから、余計にそう思うのよ」
「……夢?」
アリッサは、自分が見た夢の内容をスリージーに話して聞かせた。
せっかく近付けた義理の妹が、パーティーの翌日、自分達家族やケヴィンを残して、何も告げずに姿を消してしまうという夢だった。
小町が目を開けない現実が不安でたまらい。あの子の大事にしている私物が忽然と消えてしまった現状も、まるで予知夢のようにさえ思えてしまう。
こうして彼の肩を借りている今も、パーティー当日の幸せそうな二人の様子が、記憶の中から鮮明に甦っていくというのに……
瞼に焼き付いて離れない小町とケヴィンの姿は、アリッサの理想とする男女の姿そのものだ。
予知夢なんてあるわけがないと、スリージーに言ってほしかった。
「夢は夢だ、アリー。泊まってやるから、ゆっくり寝てろ」
待ち望んだ言葉に安堵すれば、あっという間に眠りに落ちていった。




