第13話 ケヴィンとの約束
「何とか丸くおさまったね。気分はどうだい?」
ケヴィンと小町は、夕食の後、庭へ出ていた。
庭師が丹精こめて手入れをしているそこには、春の始めのこの時期に、早めに花を咲かせる植物が植えられている。月のほのかな灯りの下、その姿を浮かび上がらせている花々は、昼とは違った顔で二人を迎え入れた。
小さな祝福を受けているかのようだ。
晩はまだ冷え込むからと、フレデリックは厚手のコートを羽織らせてくれた。そのコートの前をキュッと握り、横目でケヴィンを見上げた小町はニッと笑ってみせた。
「走り出したい気分よ。この高揚感を、あの子にも分けてあげたい」
あの子とは、もちろんバイクの事だ。こんなに気分が高まっている時は、そのままバイクに飛び乗って、とにかく走り回りたくなる。
「その気持ちは分かるよ。僕も、ここまで話が進むとは思ってなかったから……。おかげで君のフィアンセになれた」
「本当ね。あなたが後悔しなければいいけど」
正式な婚約の発表は、互いの両親が揃うパーティーでする事になった。予想通り、夫妻は昨日、ケヴィンの両親へと既に挨拶を済ませていたのだ。今日の会議で小町がいくら渋ったとしても、後の祭りというわけだ。
そうなると、ケヴィンの両親と顔合わせをしていないのは、義姉二人と小町本人という事になり、結果、次の週末に挨拶に行くという話になっている。
「後悔しないって言っただろ? あり得ないけど……仮の話だけど……君と離れる事で、もし気持ちまで離れてしまったとしても、それは僕にとっては大事な経験の一つであって、貴重な財産になるんだ。今の時代、婚約解消なんて珍しい話じゃないさ」
「…………」
「それに、そんな将来は想像できないね……。この話は言い飽きた。もう言わない事にするから、君もしつこく言わせないでくれ」
不機嫌そうに言うケヴィンに苦笑して、近くのベンチへ腰を下ろす。
「やっぱり敵に回すと手強いのよ、義父様と義母様。でも味方になれば、こんなに心強い人達はいないわ。必要な手続きは全部任せろって言ってくれたもの。フレデリックと二人でやるつもりだったのに」
「君は何でも自分で解決しすぎなんだ。夫妻も、もっと頼ってほしいんだと思うよ。ところで、夕食の時に言葉を詰まらせてた件だけど、僕に良い案があるんだ」
夕食の席で、日本へ渡るにあたって、必ず必要になる事項を夫妻らと再確認していた。トントン拍子に進む話に内心恐々としていたのだが、思わぬ落とし穴があった。
母が日本人というのもあったせいか、両親が存命の頃、母との会話は日本語でというのが当たり前の環境で育っていた。意図してそうしていたのかは分からないが、母と二人で話す時は日本語、家族団らんは英語と言う使い分けが身についていた。
幼い頃の事で、あまり自信はなかったけれど、柔道講師をうまく誘導して日本語で会話を交わすように仕向け、大丈夫だと確信は持てていた。しっかりと身についている。
ただ、漢字に関しては全くダメだった。図書館で日本語の本を借りてきたが、読めるのはひらがなばかりで四苦八苦してしまった。これではダメだと漢字の勉強を始めれば、送り仮名で苦戦し、更には同じ漢字で読み方が違うものなどもあって、どうにも漠然としか理解できず、行き詰まっていた。
独学を諦めて講師を招こうかとも考えたが、そうなると、計画が夫妻にばれてしまう恐れがあった。だから結局、実行できずにここまできてしまっている。
夕食の際には免許の話をする伯爵の言葉に、絶句するハメになったのである。
「日本で免許を取るとなると、試験は漢字が出るんだろうね。コマチは大丈夫なのかい?」
押し黙った事で皆察してくれたらしく、スクールに通ってみるかという話にもなったが、やはり現地を知る人から学ぶのが一番だという結論になった。日本人である柔道の講師に教わってはどうだろうと。
しかし教わる期間も短く、柔道も教えている講師は、他にも大勢の生徒を受け持っており、小町の為だけに時間をとらせるわけにもいかない。よって、この課題は次への持ち越しとなり、小町はその間にも独学で勉強に励むことを約束した。
「いい案って?」
ケヴィンが隣に腰を下ろすのを待って問いかけた。
「大学に日本人の留学生がいるんだ。友達なんだけど、家庭教師を頼んでみてもいいと思う。どうかな?」
提案しつつも、彼はあまり乗り気ではない様子である。怪訝に思い尋ねれば、その友達が男性なのが気に掛かっているのだと言う。
「あなたの友達はプレイボーイなの?」
ずばり聞けば違うと即答する。
「とても真面目なヤツだよ。人当たりもいいし、自慢の友達さ。でも、君に会わせるとなると話は別なんだよなぁ」
「あら、私が魅力的だから不安なのね?」
茶化して言えば、彼はムッツリと頷いた。
「やっと君の隣を確保したんだ。後から現れたヤツなんかに持っていかれたくないんでね」
不機嫌そうなケヴィンの様子に小町は目を瞬かせた。だがすぐに、彼が何を懸念しているのか理解できた。
「大丈夫よ、安心して? フレデリックも言ってたけど、あなたとは勝負にならないから」
笑って見せれば、ケヴィンは小町の頭をクシャクシャとかき混ぜ苦笑する。
「君の口からそんな言葉が聞けるようになるとはね。それに、こんな時間に男を煽るもんじゃないよ、お嬢さん?」
「いけない?」
挑発するように見つめれば、ケヴィンは額へと口付けて逃げてしまった。
「君は本当に十五なのか? 僕は振り回されてばかりだ」
逃げ腰のケヴィンの胸ぐらを掴んで引き寄せ、唇へと口付ける。
初めてのキスらしい、触れるだけの口付けだった。
恥ずかしさを我慢して、横目で彼を睨んで文句を言ってやる。
「もうすぐ十六よ。あなたとは三つしか違わないわ」
「……かんべんしてくれ」
ボソリと呟きが聞こえて振り向くと、待ち構えていたように口付けを受けた。
何度も落とされるキスは情熱的で、気付けば彼のシャツを握り締めて応えていた。
どちらからともなく唇を離し、至近距離で視線が絡む。暗い中に浮かぶ澄んだ海色の瞳が、とても綺麗だった。
「君といると年下だって事を忘れてるんだ。思春期の学生みたいでカッコ悪いだろ」
「いいじゃない、思春期の学生で。少なくとも私の歳ならセーフね」
「じゃあ煽られた時は、君の歳に合わせるとするよ」
「……そうして」
そう言って唇を寄せ合った。今度は軽く啄ばむようなキスをして離れる。愛しそうに髪をすく彼の手が心地いい。
「……行くなよ……って言っても、君は行くんだろうな」
切なそうに言う彼に、胸がギュッと締め付けられる。それでも視線を合わせて頷けば、彼は苦笑していた。
「会いたい時に会えないのは、想像しているよりも……きっと辛いよ」
ケヴィンは小町を抱き寄せ、艶やかな黒髪に顔を埋めた。
日本へ行く時期は今年の九月という事になった。イギリスの新学期は九月から始まるのだが、ちょうど小町が受けているカリキュラムと日本へ留学した場合のカリキュラムが高校一年の期間にあたり、時期としては妥当という事だった。
この九月になれば、高校生として日本での生活をスタートさせるのだ。
だから冗談を言い合ったり、こうやって触れ合えるのも八月いっぱいまでになる。正確には、十六になる前に日本へ数週間滞在し、諸々の手続きをしたり編入試験を受けたり、最終的には免許を取得しなければならい。その為、イギリスでいられる期間はあと三カ月あるかどうかだ。
たくさん彼との思い出を作っておこう。
そう思いながらも、後ろ向きな考えが嫌で話題をかえた。ずっと聞きたかったことだ。
「父の事、教えてほしいの。いつ気付いたの?」
ケヴィンは小町の名前を聞いた時、ミドルネームをどこかで聞いた事があると思ったそうだ。小町のミドルネームのダヴィは、父親のデイヴィッドの愛称からとったものだ。
デイヴィッド・エインズワース。もしかすると、そこに更にミドルネームがあったかもしれない。しこりが残り、フレデリックにその話をすると、無表情な執事は小町の父の名を口にした。
デイヴィッド・フィル・エインズワース。
「フレッドは全くヒントをくれなかったんだ。それにあの無表情だろ? 何だこいつはって思ったね」
その後は執事へと意識が向いてしまって、その人物のことはしばらく忘れていた。
小町の趣味をフレデリックから聞き出し、自分の雄姿のお披露目を計画し実行に移した。小町がバイクに乗る姿を見て、初めてピンときたらしい。
ケヴィンは幼い頃から、舗装道路でスピードを競うロードレースが好きだった。バイクを始めた頃にはサーキットへもよく足を運んでいて、その時に一緒に行った連れから、ダヴィという名を聞いていたのだ。
小町の父はレーサーとしてプロへと転向した後、各国の強豪ひしめくシリーズに参戦し、頻繁に名が上がるようになった。イギリス国内のロードレースファンの中では、知らない者がいない程だったという。
当時も、イギリス人のプロレーサーはいるにはいたが、いよいよシリーズで優勝してしまった人物は、イギリス人として彼が初めてだった。そんな経緯もあり、ロードレースを知らない人の間でもダヴィという愛称で親しまれ、一時は話題を独占していたそうだ。
「君のお父さんは、すごい人だったんだ。君のそのバイクのセンスとスピードは、間違いなくお父さんから受け継がれたものだよ」
小町の走りを見たケヴィンは、帰宅後、その名を調べて確信を持った。引退した後も、後世のロードレーサー達の育成に手を貸していたという。
静かにケヴィンの声に耳を傾けていた。
父が有名なレーサーだというのは、亡き兄が自慢げに話していたけれど、当時の小町は父の偉大さなど考えもしなかった。ふーんと聞いていたくらいのものだ。
自分の知らない父を改めて知る事ができた。父の素晴らしいバイクセンスは、自分にも引き継がれているらしい。
そう思うと視界が滲み始めてしまう。どうも涙腺が緩みっぱなしだ。
そんな自分を気遣ってか、ケヴィンは軽い調子で言った。
「それにしても、フレッドのヤツには頭にきたね。きっとあの時のあいつは、僕のことを、主人にくっつく悪い虫ぐらいにしか思ってなかったと思うよ」
フレデリックよりも随分年下のくせに、そう言ってブツブツ文句を言う。そんな彼が可笑しくて、小町は笑っていた。
「彼の無表情は初期値なのよ」
「うーん……今なら納得できるけど、あの時は無理だったな。あいつも君の事を好きだと思い込んでたから」
この発言には驚いた。
そんな事はあり得ない。
親近感を覚えて近付けば、その分遠ざかっていくような執事だ。フレデリックは、主人以上の感情を持って接してはこない。
「それで勝負を申し込んだというわけさ。フレッドが君とくっつくか、僕と君がくっつくか」
しかし執事は全く乗り気ではなく、逆にそれが余裕に思えてならず、ケヴィンはしつこく本心を言えと迫ったらしい。
いつもの無表情で淡々と彼を遠ざけるフレデリックと、それでも引かないケヴィンの様子が安易に想像できてしまった。
「でも最終的にはフレッドが折れたよ。君の事は大事に思っているけど、年の離れた妹みたいな感覚だって言ってた。だから僕が本気じゃないなら、さっさと姿を消せとも言ってたきたんだ」
脅してきた割に、それまで小町の事をいくら聞いても教えてくれなかった執事は、それを境に、彼女の趣味や休日の過ごし方などを問えば答えてくれるようになった。小町が皆に日本行きを宣言したあたりから、執事の気持ちにも変化があったのかもしれないと彼は言う。
小町の元になかなか顔を出さなかったケヴィンに、再び彼女を訪ねた際、フレデリックはこう言ったそうだ。
「楽しい思い出をたくさん作ってあげて下さい。友人としてでも、恋人としてでもどちらでもいい。とにかく、たくさん」
そう言って執事は頭を下げてきたと言う。
小町は堪えきれずに泣いていた。
今日一日でどれだけ泣けば気が済むのか。明日はきっと瞼が腫れているに違いない。
自分だけが兄の様に感じているのだと、そう思っていた。嬉しかった。
「泣いてるのかい?」
「……あなたは、私を泣かせる天才だわ」
小さく笑ったケヴィンは、小町の額に口付けを落として抱きしめた。
甘えられる場所というのは、なんて心地がいいんだろう。そんな風に思った。
「ケヴィン、そのまま聞いて」
彼が頷く気配を感じ、胸の内を言葉に変える。
「大事な人が増えていくのが恐いの。……あり得ない事だと思ってるけど、その人達の誰かがいなくなってしまったらって……恐ろしくて仕方がない」
「…………」
「だから今まで、人と深く関わってこなかったのに、知らないうちに、どんどん大事な人が増えていくのよ」
最初は、夫妻とイーノク。それからフレデリック。
そして……あなたという人。
義理の姉達も……
「本当に恐くて……逃げたくなる」
ケヴィンは小町の背中を優しく撫でた。
「僕は君の傍にいるよ。君が望む限り、ずっとだ」
望み続ける。
ずっと。
「約束よ」
こんな約束など、突然変わる運命の前では何の効力もない。
分かっていても、そう言わずにはいられなかった。
再び落ちてきた口付けに、目を閉じて応えた。




