第11話 家族サミット 前編
約束の家族会議の日。
ケヴィンと共に夫妻の部屋を訪れると、ソファーの定位置に陣取り、義姉達が談笑していた。
小町の登場にも気持ちよく挨拶をし、いつものように睨み付けたり無視を決め込む事もなく、愛想よく話し掛けてくる。小町はそんな義姉達に応じながら、内心苦笑していた。
屋敷に来たばかりの頃はこうして話す事もあったが、この数年は険悪と言っていい関係である。素直に喜ぶべきだろうが、義姉達との確執は簡単には埋まらないもので、二人に思惑がある事ぐらい予想はついている。
話し合いが始まれば必ずどこかで仕掛けてくるはずなのだ。
心の内を隠し、表面上は穏やかに雑談していた。義姉達はケヴィンだけでなく、小町にも気を遣ってみせた。下の義姉に至っては、給仕にきた侍女に対し、小町はこの紅茶が好きだから茶葉はこれとこれでと甲斐甲斐しく注文する始末だ。
さすがにケヴィンも腑に落ちないものを感じたらしく、チラリと視線を寄越してくる。無理もない。
ケヴィンから見ても二人の姉妹は、何かにつけて小町を敵視していたのだから。そんな彼女達が手の平を返したかのような態度をとる。警戒しなくていいのかと問いたいのだろう。
義姉達には気付かれないよう頷いて見せ、雑談を楽しんでいる風を装った。二人の変化を素直に喜べない自分に、可愛くないわね、などと思いながら。
夫妻と執事らが遅れて入室すると、ケヴィンが立ち上がり夫妻と挨拶を交わす。夫妻も応えてソファーへ腰を下ろし、ケヴィンもそれにならった。
「待たせてしまったね。招集をかけておきながら遅れてすまない。色々とやる事があってね」
含むような笑みを向けてくる伯爵に、小町はいいえと答えながら、緊張に拳を握っていた。
夫妻も義姉達同様、思惑があるようだ。何らかの策を用意してきたのだろう。
義姉達はさほどの事ではないと踏んでいるが、夫妻を侮ってはならない。伯爵だけでなく、夫人に至ってもだ。
伯爵が切れ者なのは衆知の事だが、夫人は茶目っ気たっぷりな反面、小指の先で伯爵をあしらってしまう人物なのだ。夫が妻に盲目だという単純な話ではなく、それを装っているだけ。肝心な話になると夫人がズバリと切り込んでくる。何度も経験済みだった。
ここは戦場だ。皆、小町の立てた計画を全力で潰しにくる。
背筋を伸ばして身構えれば、握りしめた拳をケヴィンの手がポンポンと叩いていった。
「心配ないよ、僕もいる」
不思議と体の力が抜けていた。
味方が一人でもいるという現状を心強いと思えた。視線を感じて目を向ければ、フレデリックがこちらを見ていた。いつもの鉄面皮は変わらないが、目が合うと小さく頷いてくれる。彼も味方だ。
「さぁ皆、始めようと思うんだが……スザンナ、君も準備はいいかい?」
皆を見回した伯爵が夫人に目を留め、咎めるように問い掛けた。夫人だけが話を聞いていないのだ。
行儀悪く頬杖をつき、ケヴィンと小町をうっとりと見つめている。
「素敵……とってもお似合いだわ。さっさと婚約でも何でもしちゃいなさいな。お披露目のパーティーは盛大にしたいわねぇ」
自分の世界へ没頭中。
溜め息をつきそうになれば、こらえきれずにケヴィンが笑い始めた。伯爵も楽しそうに笑いながら、それでも夫人をしっかりとたしなめている。
「君はそのまま、あっちの世界に滞在しているといいよ。分かったね?」
対して夫人は間延びした返事をしただけだった。苦笑した伯爵が小町に向き直り、ようやく本題に入った。
「始める前に一つだけ言っておくよ。コマチ、君の意思は分かった。皆にも伝わった。今日集まったのは、不安要素を解決していくためだ。分かるね?」
並べられた言葉だけを素直に受け止めるなら、日本へ行く為の不安材料を取り除こう、という前向きな話に聞こえるが、小町は言葉の裏に含まれているものを汲み取っていた。
伯爵には、ビジネスの話をする時、常に裏をかいておけと言われてきた。今はビジネスではないけれど、そうしておいて正解のはず。
不安要素をこの場で挙げ連ねるから回答してみせろ。賛成するかしないかは、その回答しだいだ。
きっと、そんな意味を含んでいる。
「ええ、分かりました。義父様」
伯爵は優秀な生徒を誉めるような笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。
「よし、それなら始めようか。僕とスザンナは、君の作った資料に全て目を通してある。アリッサとジェニファーには、イーノクが資料の一部を渡してくれている。計画の大まかな流れを記したページだ。それを踏まえた上で、僕らの疑問に答えてくれ」
「分かりました」
「そうだな、僕らは試験官で、コマチが受験者というシチュエーションだ。面接のようだと思わないかい? ワクワクするね」
伯爵はこの状況を楽しんでいるようだった。
それに対して義姉達は小町と目を合わせようとしない。先程までは談笑さえしていたというのに、既に二人は忘れてしまったのだろう。
義姉達の様子など気付かぬ振りをして、伯爵に笑い掛けた。
「ええ、どんな質問が出てくるのか楽しみですわ。……でも、合格できるかは、少しだけ不安ですけど」
こうして、家族サミットは幕を開けたのだった。
◇◇◇◇◇◇
「いい加減にしなさいよ! どんな我が儘言ってるか、あんた分かってるの!?」
室内にジェニファーの金切り声が炸裂した。
質問に完璧な回答をしてみせる受験者に、苛立ちを募らせた試験官がついにキレてしまった、という構図である。
ジェニファーは、どう突っ込んでみても、小町の計画を切り崩せずにいた。というのも、この義姉に問題がある。何かしら仕掛けて来る様子もなく、当たり障りのない質問ばかりしてくるせいだ。
対する受験者の小町は、口ごもって見せたり、表情を変えて見せたりと追い詰められた風を装い、挙げ句の果てには、それはフェイクですと言わんばかりにスルリとかわしていく。舐められている事に、ようやく気付いたようだ。
金属質な声で喚き立てるものだから、あまりにうるさくて眉間を寄せれば、我が儘に罪悪感を持ったとでも思ったのだろう、更にジェニファーが喚く。
「何よ、その顔。今更気が付いたみたいな顔しないで! あんたが好き勝手やってこれたのはお父様が許してくれたからだわっ。本当に今更よ!」
そんな事、言われなくても分かっている。
言いたい放題わめくジェニファーに反論もせず黙っていた。何か言いたそうにこちらを見ているケヴィンに、小さく首を振って見せる。反論しないのかと言いたいのだろう。
そろそろ焦れて仕掛けてくるはずなのだ。こちらから突ついてやる必要はない。
わめくジェニファーは、ケヴィンと小町の親密な様子を前にして、更に白熱していた。だがしかし、肝心の事は言ってこない。
いつ仕掛けてくるのか。
上の義姉か、下の義姉か。
「静かになさい、ジェニファー。妄想の邪魔です」
夫人の声がピシャリと金切り声を断ち切った。内容は間抜けだが、有無を言わせぬ圧力がある。
そうして夫人は、今度はアリッサへ流し目を送る。
「さっきから妹ばかりに質問させているようだけど、最後まで何も喋らないつもりかしら?」
「…………」
「アリッサ、あなたも言いたい事があるなら面と向かってハッキリ言ったらどうなの? 人を使うのは策士のすることですけど、言っておきますが、あなたのそれは臆病者のそれですよ。見苦しいと思いなさい」
バッサリである。
見苦しいと切り捨てられ、アリッサは悔しそうに俯いた。
夫人はどんなにキツイ言葉でもハッキリ物を言う人だ。だがさすがにストレートすぎたと思ったのか、夫が妻をたしなめる。
「スザンナ、言い過ぎだよ。もう少し柔らかく言ってあげないと、君が苛めてるみたいだろう?」
「みたいではありません、苛めています」
これには伯爵も絶句する。
「コソコソ苛める人間を堂々と苛めて何が悪いというの? あなたが何も言わないからです。この際だから、思ってる事を全部吐き出してしまえばいいのよ。コマチもコマチです。煽りすぎというものよ。これじゃ、ジェニファーの声で耳が金属になっちゃうわ」
伯爵もジェニファーも目を丸くしていた。煽りすぎと言われ、小町も反省する。この義姉をいくら煽ったところで、これ以上は何も出ないかもしれない。
ならば上の義姉だ。
アリッサを見やると、あの視線が待ち受けていた。思わず顔を背けたくなるような、侮蔑に満ちた視線。
「あんたなんか消えればいいって言ったけど、本当に消える気だとは思わなかったわ」
その言葉に、周囲が息を呑んだ。
義理の姉妹の確執は衆知の事実だ。しかし、生々しいそんなやり取りがあった事など、当事者達しか知るはずがない。無理もない話だ。
「アリッサッ! 何て言葉を使うんだ!?」
「……本当に?」
伯爵が珍しく声を荒らげて身を乗り出し、ケヴィンも険しい表情で小町を振り返る。
本当も何も、本人が認めている。でも今はそんな話はどうでもいい。義姉の本音が聞けるのだ。言葉すら交わしてくれない義姉の本音が。
「あんたは、いつもそう。自分だけ特別みたいな顔して、それが当然だと思ってる。我が儘し放題。お父様とお母様のおかげだなんて、これっぽっちも思ってないじゃない。その顔見てると吐き気がするのよっ! 日本へでもどこへでも行けばいいんだわ!」
チクチク痛む胸を無視して、小町は平静を装った。握り締めた拳をケヴィンの手が労るように包みこんでいる。フレデリックの不安げな視線も感じている。
味方がいる、私は大丈夫。
「私はね、あんたをこの家の人間だと認めない! これからもよ!」
突然伯爵が立ち上がり義姉へと歩み寄った。振り上げた手を、そのまま彼女の頬へと振り下ろす。
パンという音が室内に響き、静寂が訪れた。
殴られるのを覚悟していたのか、アリッサは一瞬辛そうに顔を歪めはしたものの、頬を押さえながらも伯爵へと反抗的な視線を向けている。
「何度ぶたれても、この気持ちは変わらないわ、お父様。あの女を自分の妹だとは思えません」
もう一度振り上げられた伯爵の手に、小町は縋るように飛びついた。
義父様……どうか自制を……
しばらく伯爵とアリッサの睨み合いが続いたが、やがて大きく息を吐いた伯爵は小町に一つ頷いて見せた。
「女性に手をあげたのは始めてだ。だが、アリッサ。君をぶったことを謝るつもりはない」
そう言うと踵を返して夫人の横へ戻り、不機嫌さを隠しもせずにドッカリとソファーに腰を下ろす。
これほど憤る伯爵を見たのは初めてだった。ビジネスの時も、冷静さを欠くことのない人なのに。
「あなた、謝る必要なんてないわ。なんなら私もヒールの底で叩いてあげましょうか?」
この夫人は冗談のような事を平気で口にする。やれと言われたら本当にやりかねない。
そう思いながら、小町も息を吐いて定位置に戻る。
「姉さんだけを責めるのはおかしいわ!」
喚いたのは言うまでもなくジェニファーだった。せっかく伯爵が引いてくれたというのに、考えなしにまた噛み付き始めたのだ。
「私も同じ意見だものっ! お父様とお母様と……それに、そこの執事達はどうか分からないけど、この家の住人は庭師に至るまで、姉さんと同じ気持ちなの! 誰もその女をエインズワース家の人間だと認めていない!」
認められていないことも重々承知している。
うんざりしながら聞いていれば、次の彼女の言葉に、自分の耳を疑いたくなった。
「その女の父親だって、この家を飛び出して行った人間じゃない!? そんな人の娘だなんて、誰が認めるもんですかっ!」
心が冷えていく。
頭に血が上る事はあったが、こんな事は初めてだ。
ジェニファーの告白を聞いた皆が一様に言葉を失っていた。
「認めていただかなくても構いません、お義姉様」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「今の私の父はエインズワース伯爵です。あなた方に認めていただかなくても、その事実はこれからも変わりません。それに、少数でも私を認めてくれる人はいます。それで満足です」
「…………」
「でも……亡くなった父を侮辱するのは許さないっ」
震える拳を片方の手で押さえつけた。しかしその手までもが震え始める。
伯爵が何か言っていたようだが耳には届かない。
父を侮辱されたのだ。きっと侍従達も、彼女と同じように思っている。
父がバイクに乗りたいと家を出たのは事実で、それは今後も変える事などできないものだ。確かに、褒められた行為とは言えないかもしれない。
でも……父の気持ちは痛いほどよく分かる。
やりたいと思った事を貫いただけなのに……
あんた達に父の何が分かる。
後ろ楯のない世界で結果を残そうとした事が、なぜこれほど侮辱されなければならないのか。
日本に行こうとしている自分と、どう違うというのか!
様々な感情が沸き上がり、収拾がつかなくなりそうで怖い。ギュッと目を瞑り、深く息を吸い込んだ。
この家の人間に父の事を理解しろというのは到底無理な話だ。いくら説いたところで、夫妻や執事達以外、誰も耳を貸してくれない。
だから侮辱されたと憤ってみせても無駄なこと。
自分さえ父の味方でいればそれでいい。
落ち着け……
落ち着いて話をしなければ……
「――コマチ? 大丈夫かい?」
不安げなケヴィンの声で我に返った。顔を上げれば、伯爵も夫人も執事達も、皆が心配そうにこちらを見ていた。
「侍従から、何か言われた事があるのかい?」
伯爵に問われ、今度こそ目が覚めた。
先ほどの義姉の発言から、そう捉えてしまったのだろう。ちゃんと返事ができなかった自分に腹が立ち、義姉の言葉に冷静に対応できなかった事を悔いた。
ここで返答を間違えれば、火の粉は、執事頭であるイーノクに及ぶ。
何をボケッとしているのか。
「いいえ、義父様。皆、この家の恥になるような振る舞いはしておりませんから、安心なさって? もちろん私個人に対してもです」
しっかりと答えると、伯爵と夫人が詰めていた息を吐き出した。
事実、侍従達の仕事ぶりは文句をつける必要はなかった。ただ自分が疎外感を感じていただけだ。イーノクが責任を感じるような事はあってはならない。自分の中の個人的な感情なのだ。
そう思うと同時に、下の義姉に対して一層腹が立った。余計な事をその時の感情で口走るのはいつもの事だが、今度ばかりはしばらく発言できないようにしてやろうか。
自分の発した言葉が周囲にどんな影響を与えるのか考えるべきだ。
口を開きかけた時だった。アリッサが小町よりも先に口を開いた。ハンカチで頬を押さえながらも、臆する事なく伯爵に訴える。
「私は、その女がエインズワース家の人間だとは認めません。講師陣からは大変評判が良いようですが、関係ありません。……コマチ、よく聞いておきなさい。あんたが今までしてきた我が儘は、お父様のおかげなの。この意味があんたに分かる?」
開きかけた口を閉じ、義姉が何を言おうとしているのか察して頭の中を即座に切り替えた。
ジェニファーを言い負かせるのは後でもできる。
いよいよ仕掛けてくるのだ。予想通りだが、冷静さを失ってはいけない。
姿勢を正しながら、チラリとケヴィンに目をやれば、彼も小さく頷いた。
アリッサの口角が、いやらしく吊り上がる。
「お父様のおかげというのはね、お父様の財力のおかげという事よっ! あんたの趣味のバイクだって、訳のわからない道場だって、あんたの着ている服に至るまで全部、お父様のおかげなの。つまりね、この家の財力という事よ! いずれ爵位を継ぐ私の子供が引き継ぐものなのっ。これ以上この家の財産を、あんたの我が儘の為に使わせるわけにはいかないわ!」
視界の隅で、伯爵が居心地悪そうに身動ぎするのが見えた。
「いいこと? 日本へなり何処へなり行けと言ったけど、この家の財産をあてにしてるなら大間違いよ。あんたご自慢の父親がいくらか残した遺産だけで行ってちょうだい。レーサーだか何だか知らないけど、引退して引っ込んだ田舎暮らしの元レーサーにどれだけの遺産があったかなんて、こっちは知った事ではないわ!」
どうだ参ったかと言わんばかりにアリッサは一気に捲し立てた。
予想通りと言えば予想通り。
しかし……子供の心配までしていたとは……
呆れを通り越して感嘆してしまった。父への侮辱の言葉の数々が、彼女の勢いに乗って、どこぞかへ押し流されていく。
ジェニファーを除く一同が……呆然である。
昨日ケヴィンに語った予想はこうだ。上の義姉がいつものように下の義姉を使って仕掛けてくる。それも、必ず金銭絡みで。
彼にはそう話していた。
策士のように振る舞う彼女の鼻っ柱を、いかにして折ってやろうかと考えていたのに、仕掛けてきたかと思えば……策士本人が……それも、策士ではなく悪役の女王様のように……
はっきり言って……興冷めである。
義姉の本心が聞けると喜んでいた自分が、こうなっては恥ずかしい。押し流されていった侮辱の言葉も、もはや泳いで取りに行く気にはならない。そこまでして憤る相手ではなかったというわけだ。
この二人にそれをしたところで……逆に自分の中の父という存在を落としてしまいそうだ。
でもこの状況……どうしよう……
白けた内心と状況に、どう折り合いをつけたものかと考えていたが、夫人がプッと吹き出した。我慢の限界を越えたようで、ケタケタと笑い始めてしまう。
「だから言ったじゃない、あなた。この子達にもちゃんと説明しなさいって。……もう、可笑しいったらないわ」
「お金の話は、まだ早いと思ったんだよ」
「何を馬鹿なことを言っているの? 大学でも経営について学んでいるじゃない。小さかったコマチはしっかり理解していたんだもの。この子達が分からないはずが……」
「…………」
「ないとは言い切れないわねぇ。コマチが規格外だったのかしら?」
何やかんやと話し込む夫妻とは対照的に、義姉達はポカンとその様子を見つめていた。自分達のせいで母が笑い始めたなどと、全く気付いていない様子だ。
そんな親子の温度差が可笑しいらしく、イーノクは夫妻の後ろで苦笑し、フレデリックは普段よりも輪をかけた無表情になっていた。きっと吹き出したいのを懸命に堪えているのだろう。その取り繕った無表情に小町も吹き出しそうになった。
「君の出番みたいだよ」
ケヴィンの促しに、笑いを腹の底に押し込んだ。
「アリッサお義姉様。私は、この家の財産はあてにしていません。父の遺産もです」
小町がそう言うと、ジェニファーが当然だろうと口を開いた。
「それはそうでしょうね。広い土地で優雅に暮らしていたらしいじゃないの。いくらレースで稼いでいたと言っても、すぐに底を見た事でしょうよ」
小町の亡くなった父は、バイクのレーサーだった。小町の得意なオフロードではなく、舗装されたコースで速さを競うロードレース。その世界で活躍していた。
全盛期にはそれなりに稼いでいたようだが、小町はそう言った内容を詳しく知らないでいる。小町が産まれた時には既に引退しており、年の離れた兄が自慢気に話していたのを何となく覚えている程度だ。
家族四人で暮らしていた田舎の家も、さほど大きくはなく侍従や侍女もいなかった。ただ、免許すら持たない幼い自分が、バイクで走り回れる山があったあたり、土地は相当な広さだとは思う。
当時、どうやって生計を立てていたのか、幼い小町に分かるはずもない。
「お二人は、有名レーサーの方々がどれ程の年収を挙げておられるのか、ご存知でしょうか?」
話し始めたのは小町付きの執事、フレデリックである。
「ちなみに、コマチお嬢様の亡くなられた父デイヴィッド様は、アマチュア時代からもプロに転向されてからも、イギリス国内の人間には負けを知らないと聞いています」
淡々と話すフレデリックを、驚いて振り返った。父の事を知っているなどと、思いもしなかったからだ。
ケヴィンも知っていたようで、彼は逆に、小町が知らない事に対して驚いているようだ。小町からしてみれば、彼らが父の事を知っている事自体が驚きなのだが……
義姉二人もそんな内容など知らないらしく、フレデリックの問いに怪訝そうにしている。
「有名レーサーと申しましたが、デイヴィッド様もそのお一人でした。全盛期の年収ですが、お館様の現在の年収と比較するなら相当以上であるとお考えください」
理解できないでいる二人の姉妹を、夫妻は辛抱強く待っていた。
小町も、まさか父が、それほど稼いでいたとは知らなかったが、自分に残された遺産の額面から漠然と予想をした覚えがあり、立ち直るのは義姉達よりも早かった。
「その女も……金持ちだと言いたいの?」
ジェニファーが喘ぐような声で言う。目は真ん丸に見開かれている。
確かあんな動物がいた。なんと言う名だったか。
小町とは別に、夫人は二番目の娘を残念な子だと再確認しているようだった。伯爵までもが痛々しい表情をしているのだから間違いない。
対して小町付の執事は真面目くさって答えていた。
「ジェニファーお嬢様、あくまでも全盛期の年収です。デイヴィッド様が活躍されていた頃は、お嬢様方が生まれるより以前のことです。それに加え、遺産というのは全てを相続できるものではありません」
そこまで説明されてやっと理解できたのか、ジェニファーは真っ赤になって俯いた。どうやらフレデリックの指摘は的を射ていたようだ。
「そんなこと……分かってたわよ」
「あなたはしばらく黙っていなさいな。ケヴィンの前でわざわざ醜態をさらす必要はないのよ」
夫人が酷い物言いでたしなめた。それでもブツブツ言っているジェニファーに、フレデリックはなおも続けようとしていたが、アリッサが口を挟む。
「遺産はどれほどなのよ?」
先ほどの強気な様子はどこへ行ったのか……
問われた執事は、自分から言える内容ではないと判断したのか、すぐに口を閉ざした。
傍らでは、姉妹に告げるべきかと迷っている伯爵へ、夫人が遠慮なく物申している。
「ちゃんと話しておくべきだと言ったでしょう? お金の事だからこそ、話せば誤解は解けていたはずだわ。あなたは過保護すぎるのよ。ダメよ、甘いだけじゃ。甘い物ばかり食べていたら胸やけするんだから、たまには酸っぱい物も食べてもらわなきゃ、ねぇ?」
同意を求められましても……とイーノクは苦笑していた。最後の例えは本人にしか意味が分からないのに、同意しようがないというものだ。
「そうだね。言うべき事は言っておかないといけないんだね」
まったく例えに絡まない伯爵の返答にも夫人は気にした風もなく、一つ頷いただけだった。後はよろしくとばかりに窓へと目を向けてしまう。
「アリッサ、額面の話ではないんだよ。こう言ったらどうだろう。今回のコマチの計画に遺産を充当したとしても、彼女の将来を保証するだけの十分な額が残る。少しばかり散財してしまっても孫の世代まで安泰だろうね。でもいいかい? さっきコマチは、父親の遺産もあてにしていないと言っただろう?」
「…………」
「コマチを引き取る際、遺産の問題はもちろんあったんだ。幼いこの子では管理ができないから、成人するまでの遺産の管理は全て僕に一任されている。だから未成年であるコマチが僕の許可なしに遺産を使う事は不可能だ。ジェニファーもアリッサも、ここまでは納得できたかな?」
上の義姉はこくりと頷き、下の義姉が……なぜか声を張り上げた。
「じゃあやっぱり、お父様の財産をあてにしてるんじゃない!?」
小町は溜め息をついた。この人の頭の中はどんな回線になっているのだろうか。伯爵の財産もあてにしていないと言ったではないか。
皆も思っているだろうに突っ込む者はいなかった。夫人は既に妄想の世界へ旅立っているようで、ジェニファーの言葉を徹底的に無視している。
「アリッサはどう思う?」
「お父様が遺産を使っていいと言っても、その女は使う気がないという事なの?」
「その女じゃない、コマチだ。今後その呼び方を改めないなら、僕にも考えがあるよ、アリッサ」
すかさず叱りつける伯爵に心の中で感謝した小町だが、話が違う方向へと逸れていきそうで、慌てて口を挟んだ。
「アリッサお義姉様。私は遺産を使う気はありません。それにジェニファーお義姉様が指摘したように、義父様の財産もあてにしていません」
じゃあ他に何をあてにしているのだと問われ、小町のかわりに伯爵が答えた。
「この子は私財を持っているんだ」
「私財って……そんな物いつ持たせたの?」
「……シザイって自分の財産ということ?」
伯爵は、ジェニファーの言葉に無視を決め込んだ。
「この数年前から、エインズワース家が不動産業を始めたのは知っているね?」
急な話の展開に瞠目したアリッサは、少しの間を置いて伯爵の問いに頷いた。
「貴族の屋敷を、テナントとして貸し出しているんでしょう?」
「そうだよ、正解だ。それじゃ、不動産部門の経営者を紹介しようか」
立ち上がった小町は、二人の義姉に膝を折ってみせた。
「不動産会社ダヴィを経営しております、小町・ダヴィ・エインズワースです。以後、お見知りおきを」
完璧な挨拶をしてソファーへ腰を下ろせば、ケヴィンがニヤニヤ笑いながら小さな声で話し掛けてくる。
「君の計画は完璧だね。気分はどうだい?」
「まだ油断してはダメよ。義父様が何も考えていないわけないもの。でもそうね、今はとてもいい気分」
ヒソヒソ言い合う二人を置いて、伯爵とフレデリックが義姉達のケアに勤しんでいた。
アリッサがボソボソ呟き、すかさずフレデリックが資料を手渡している。どうやら不動産会社の収支を見せているようだ。作った資料には、抜かりなく入れておいた小町である。ダヴィがいかほどの利益をあげているか、これで思い知ってくれる事だろう。
自分の力で日本へ行くのだ。
誰にも邪魔させはしない。
「でも……経営にはお父様が――」
「コマチは未成年だからね、どうしても後見は必要だ。といっても、経営の指揮をとっているのは、今は彼女なんだ」
でも……だって……と渋るアリッサは、どうしても小町の実績だとは認めたくない様子だった。
必死に穴を見つけようとする彼女に、最後通告が下る。
「それにね、この不動産業の発案はコマチなんだよ」
数年前、夫妻と雑談している時、コンサルタントの依頼が伯爵へと舞い込んできた。執事が報告していた内容はこうだった。
ロンドン市街の屋敷を持つ貴族が、その維持費に困り、利用方法について伯爵の知恵を貸りたいと申し出ているらしかった。価値がないなら売却も考えているとの事で、斡旋業者の紹介も依頼の中に含まれていた。
夫妻にしても、施設として利用するならば改装費もかかるため、維持費に困っている状態であれば資金の調達も難しいだろうと、売却が無難という結論に至った。そんな時、小町が何気なく言ったのだ。
「いらないなら、私の知人に貸して下さらないかしら?」
それが、そもそものきっかけであり、幼いからこそ簡単に口にできた言葉だった。
その頃、たまに顔を出すスクールで仲良くなった友人がおり、その友人の姉が下着のブランドを立ち上げたのだそうだ。どこか箔が付きそうな良いテナントはないかと探していたのを、たまたま思い出したというわけだ。
彼女はブランドばかりがテナントとして入るような、そんな物件の一角を探していたが、小町は伯爵に聞いてみようと思いながらすっかり忘れており、本当にタイミング良く思い出しただけだった。
発案というわけではないが、その後伯爵が小町の意見を聞きつつ案を取り入れ、どんどんと手を加えていき、モノは試しという形でこちらで買い取り貸し出した。
買い取りの際には、店舗として貸し出す旨は元の持ち主に伝え、利用価値のある物件として正当な額を支払った。買い取った屋敷はエインズワース家の所有建造物として改装する。それなりに箔の付いた物件ができあがり、内装にはほとんど手は加えず、あとは借りる側でどうぞというシステムにした。
広い屋敷のため、友達の姉はその一区画のみを借り受けたが、口コミを約束してくれ、これから売り出し予定のブランド企業が交渉へやって来るようになった。もちろん伯爵がその好機を逃すはずもなく、いくつかの企業と交渉し、その間にも過去に依頼のあった中からめぼしい屋敷を買い直し、テナント経営を起業するに至ったのだ。
未成年の小町が代表というのは不自由がある為、現在も経営者として伯爵が名を連ねている。
「最初はお試し期間だったんだけどね、思ったよりも利益を挙げることができたんだ。そこだけにかじりついてる必要もないし、試しにコマチにやらせてみようと思ってフレデリックを付けて投げてみたら……当たりだったよ」
「……当たり?」
「ああ、そうだ。当たりも当たりで大当たりさ。コマチの腕はなかなかのものでね、僕にもできなかったフランス事業、それを拡大させているんだ」
「義父様のコネクションを活かしたまでですわ」
「まぁ、確かにそれもあるかもしれないが、これは紛れもなく君とフレデリックの実績だよ。アリッサ、君達の好きなバッグのブランドだけどね……パリに本店を移す時、コマチが一役買ったそうだよ」
「…………」
「どうだい? コマチはすごいだろう?」
まるで自分のことのように嬉しそうに話す伯爵に、小町は自然と口元が綻ぶのを感じていた。
そうしていると、夫人が休憩をとりたいと言い出した。姉妹にも考えをまとめる時間が必要だろうと。
もっともな事を言っているように聞こえるが、実際は夫人自身が飽きているのだろう。
提案を聞き入れ、一度休憩を挟むことになった。




