第九話 魔人族の領域へ
冷たい高空の風が、私の身体を容赦なく叩く。
私を拒絶した町が、魔物に襲われる人々の悲鳴が、みるみるうちに眼下で小さくなっていく。私の背中から生えたワイバーンの翼は、不格好に、しかし確かな推進力を生み出して、私を南東の空へと押し出していた。
行く当てなどない。だが、羽ばたきを止めるわけにはいかなかった。
あの町に戻れば、待っているのは「化け物」としての糾弾。私の中に宿る不死の呪いと、魔物の歪な特性は、人間たちにとっては恐怖の対象でしかなかったのだから。
風を切る音を聞きながら、私はぼんやりと眼下の雲を見下ろす。
思考を紛らわせるためか、あるいは逃れられない現実の重さに耐えかねてか、私の脳裏には、かつて身体を乗っ取ったソニアの記憶から流れ込んできた知識が、まるで古い絵巻物のように広がり始めていた。
それは、この世界に生きる人間なら誰もが幼い頃に聞かされる、たいそうな創世神話だった。
〈この世界はかつて、すべての始まりである「創世神」によって創られた。創世神は広大な世界を形作り、その海の底にすべての生命の源となる「生命の種」をまいた〉
〈それから数億年、気が遠くなるような進化の果てに、地上に人間が誕生した。そして、その人間たちが独自の営みと信仰心を持つようになったことで、神々が創り出された〉
〈人間たちが暮らす地上は「地界」と呼ばれ、神々が鎮座するはるか天上の空間は「神界」と呼ばれた〉
〈地界と神界、その二つの世界を繋ぐ唯一の架け橋として、世界の中心には一本の巨大な大樹――「世界樹」がそびえ立った。世界樹を介して、世界全体に神の力が循環し、秩序が保たれる〉
〈さらに創世神は、地界で数々の偉大な功績を残し、人生を極めた者が、自らも「新神」へと至ることができる「神へいたる道」という階段を用意して、そのままどこかへ姿を消した〉
――ここまでは、聖教国ルミナリアの神父たちが嬉々として語る、美しく調和に満ちた創りの物語だ。
だが、物語には続きがある。いや、そちらこそが、この世界を決定付ける歴史だった。
〈神々が満ち足りた世界を統べる中、その「神へいたる道」を登りつめ、新たに「新神」の一柱となった者が現れた。しかし、その新神は主神の敷いた秩序に満足せず、突如として主神に対して反旗を翻した〉
〈反逆の新神は、地界の動物や植物に己の力を注ぎ込み、次々と凶悪な「魔物」や「魔植物」へと変貌させた。そして、世界樹に対抗するかのように、南の極みに一本の禍々しい大樹を創り出した。さらに、当時の人間たちの一部にも魔力を分け与え、自らの軍勢を手に入れようとした〉
〈激闘の末、新神の反逆は失敗に終わった。反逆の新神は「魔神」として神界から切り離された異界――「魔神界」へと追放された〉
〈主神は、生き残った人間たちに対して「魔の討伐」を信託で命じると、聖なる神力を授けた。一方で、かつて魔神側に付き従い、その力の一端を与えられた者たちには、神罰として肉体を異形の姿に変えられた「魔人族」としての烙印が押された〉
こうして、神々と魔神の決して交わることのない泥沼の敵対関係が生まれた。
それが、この世界の成り立ちであり、今なお人間たちが魔人族を「滅するべき裏切り者の末裔」として恐れ、敵視し続ける理由だった。
――ビュオオオオッ!
冷たい強風が思考を現実へと引き戻す。
ワイバーンの翼を動かすたびに、肺の奥が焼けるように痛む。広漠の大陸の南端を越え、私は今、深い海の上空を飛んでいた。下に見える海面は黒く淀み、太陽の光を吸い込むかのように不気味にうねっている。
冒険者ギルドで、町で、私は散々言われた。
「化け物」――。
どれだけ関わらないように生きようと、どれだけ目立たないように息を潜めていようと、私は、人間社会の枠組みには収まることができない。人間という群れは、自分たちと少しでも違う存在を許容するほどの余裕を持っていない。それは、あの石を投げつけてきた群衆の顔を見れば嫌というほど分かった。
だからこそ、私は海を渡っている。
ただ、人間がいない場所へ、私を「異物」として扱わない場所へ行きたかった。
ふと、脳裏に先ほどの神話の歴史が蘇る。
魔人族。
かつて神に背き、人間たちから「裏切り者の末裔」の烙印を押され、この世界の隅――南極に近い「魔の大陸」へと追放された者たち。
自分の姿を思い浮かべる。
死んでも死にきれず、魔物の肉片を取り込み、人目を避けて引きこもるしかなかった私。
人間社会から完全に拒絶され、行き場を失った私。
(もしかしたら……)
胸の奥で、小さく、しかし確かな痛みを伴う感情が芽生える。
それは希望というにはあまりに頼りなく、絶望というには少しだけ温かい、微かな未練だった。
(……「化け物」でも。……もしかしたら、異形の魔人族たちなら……)
受け入れて、くれるのだろうか。
いや、そんな都合の良い話があるだろうか。人間と同じように独自の社会や掟があり、私のような厄介者を迷惑がる連中がいるかもしれない。結局、どこへ行ったって私は「不適合」のままかもしれないという恐怖が、冷や汗となって背中を伝う。
それでも。
それでも、人間たちのあの狂気的な目と、石を投げつけられた痛みに比べれば、どんな冷たい扱いであれ、まだ耐えられる気がした。
「……行くしかないよね、どうせ」
誰に聞かせるわけでもなく、私は自嘲気味に呟いた。
声はすぐに高空の風にかき消されていく。だが、私の翼を動かす背中に、ほんの少しだけ力がこもった。
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どれくらいの時間、空を飛んでいただろう。
魔力の残量が底をつきかけ、ワイバーンの翼の維持が限界を迎えるころ、視界の遠くに、それまでとは明らかに違う異質な大地の姿が浮かび上がってきた。
淀んだ海の果てに横たわる、広大な大陸。
その大陸の空には、微かに青白い魔力の粒子がオーロラのようにもやがかかって漂っている。
――あそこが、「魔の大陸」。
「……っ、はぁ……、はぁ……」
呼吸が荒くなる。心臓がうるさいほどに脈打つ。
恐怖と、不安と、そしてほんの少しの縋りつくような思いが入り交じり、私の身震いを誘発する。だが、これ以上空中に留まっている魔力はもう残っていなかった。
パサリ、と音を立てて、私の背中からワイバーンの翼が霧散するように消えていく。
重力に引かれるまま、私はバランスを崩し、大陸端の荒野へと真っ直ぐに落下していった。
「っ……!」
地面に激突する寸前、最後の魔力で何とかスライムの体で受け身を取り、私は冷たい大地へと足をつく。
しかし、長旅の疲弊と極限までの魔力消費の代償が身体を襲い、私の膝からガクリと力が抜けた。
その場に、ボロボロの衣服をまとったまま、ずるずると崩れ落ちるように膝をつく。
息を整えようとするが、肺が熱く、視界がチカチカと明滅する。地面に手をついた私の耳に、カサリと草木を踏む音が響いた。
――気配。
鋭く魔力を纏った警戒の気配。魔物のようで、少し違う。得体の知れない者が、周囲の暗がりや物陰からスルスルと忍び寄ってくる。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、銀の獣耳や、 肌に微かに光る鱗の文様を宿した人型の異形たちだった。
彼らが構えていた武器は、人間のそれとは比べ物にならないほどの文明を感じさせた。魔力を纏い、魔法陣が描かれた銃や、美しい魔石がはめ込まれた豪剣。
彼らは冷静に、しかし一切の油断なく、私の周囲を隙のない陣形で取り囲んだ。
先頭に立っていた一人の魔族の男――鋭い眼光を放つ衛兵長らしき者が、冷ややかな、しかしどこか探るような声を投げかけてくる。
「――答えよ。お前は同胞か…それとも我らの敵か」
その声は脅すようなものではなく、淡々と事実を確認するためのものだった。
私は力なく、地面に額をつけそうになりながら、彼の瞳を探る。
その瞳は、私が想像していた「人間から隠れ住む者」のそれではなかった。自信と誇りが垣間見える、凛々しい彩。
私のような人間社会の落伍者が、フラッとやってきて「仲間に入れてください」なんて言える場所ではないのかもしれない。身体と心が限界を迎え、視界がぼやける。
それでも、私の脳裏によぎったあの歴史の記憶と、微かな期待が、最後の理性を繋ぎ止めていた。
底をついた肉体と精神の中で、私はぼそりと、掠れた声で呟く。
「……敵じゃないよ……。でも貴方たちとも、違う………『化け物』…」
「なんだと……?」
衛兵たちがピクリと眉をひそめ、さらに警戒の色を強める。
だが、私を待ち受けるのが尋問か、あるいは即座の処刑か、それとも――。
(…もう、意識が――)
極限の疲労が、私の意識の糸をプツリと断ち切る。
パタリと、私は冷たい魔王国の土の上へと完全に倒れこんだ。
波乱に満ちた人間社会を離れ、私はいま、かつて神に背いた者たちが住まう「魔の大陸」へと足を踏み入れた――。
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