第八話 平穏の崩壊
町の片隅にある、窓ガラスのひび割れた薄汚れた安宿。
そのロフト付きの狭い部屋で、私はぐっすりと眠りこけていた。
半年前、ワイバーンの莫大な素材を売り払って得た莫大な金貨は、そのほとんどをこの部屋の数年分の宿泊費と、山のような保存食、そして干し肉へと変えていた。あれ以来、私は外の世界と一切の関わりを断ち、厚い木製の扉にしっかりと鍵をかけ、ただひたすらに引きこもり生活を謳歌していた。
誰の顔も見なくていい。他人の機嫌を窺う必要もない。
ブカブカのソニアの服を全身に纏い、すり切れた布にくるまって暗い部屋の隅で丸くなっていると、世界から完全に切り離されたような安らぎが体を包み込む。この狭い空間だけは私の唯一の聖域だった。
――あぁ、このまま眠って死んでいけたらいいのに。
こころにへばりついた希死念慮の底でそんな怠惰な夢を見ながら、起きては干し肉をかじり、眠たくなればまた眠るという生活を満喫していた、ある日のことだった。
突如として、その平穏は理不尽に打ち砕かれた。
「――っ!?」
鼓膜を突き破るような、町中の教会の鐘が狂ったように鳴り響く。
ただの時報ではない。それは、町全体に非常事態を告げる、緊急時の警報だった。それに重なるようにして、遠くから幾重もの悲鳴、阿鼻叫喚の声が地響きと共に押し寄せてくる。
「……うるさいなぁ……」
私はロフトの上で不快そうに眉をひそめ、ぼそりと毒づいた。
せっかくの心地よい眠りを邪魔された苛立ちを抱えながら、私は重い体を起こし、軋む階段を下りて半年前から開けたこともない窓の木戸をギギギと押し開けた。
窓の外に広がっていたのは、信じがたい光景だった。
町の遠く、深い森から、黒々とした濁流のようなものが押し寄せてきている。
――魔物の大群。それも到底太刀打ちできる数ではない。オオカミ、クマ、大蛇、さらには普段は奥地にいるはずの大型の魔物までが群れをなし、すべてを蹂躙しながらこの町へと雪崩れ込んできたのだ。
スタンピート――魔物の大群による大規模襲来。
「……え? なにこれ……」
私は呆然と呟いた。
せっかく築き上げた平穏な生活が、よりによってこんな大災害で台無しにされようとしている。町のあちこちから煙が上がり、石造りの建物が崩れ、人々が荷物を放り出して逃げ惑っているのが見えた。
外に出たくない。こんな修羅場に関わりたくない。
しかし、このままこの部屋にじっとしていれば、町ごと魔物に踏み潰されて瓦礫の下敷きになるのは目に見えていた。
「……本当に、ついてない……」
私は深く、地の底まで落ちるような溜息をつき、床に転がっていた麻袋をひっつかむと、渋々ながらも部屋の扉を開けて外へと飛び出した。
町の中は、まさに地獄絵図だった。
逃げ惑う人々が将棋倒しになり、あちこちで魔物が暴れ回り、悲鳴と怒号が入り乱れている。
私は誰とも目を合わさないよう、建物の陰や路地裏を縫うようにして町の外へと急いだ。面倒ごとに巻き込まれるな、ただ通り過ぎて逃げればいい――冷めた理性がそう告げていた。
だが、その足が不意にぴたりと止まった。
「きゃあぁぁっ!?」
すぐ近くの通りで、ひときわ鋭い悲鳴が響いた。
振り返ると、そこはかつて私が体を奪ってしまった女冒険者――ソニアが生前、冒険者をしていた頃によく世話になっていた小さな宿屋だった。その建物が、押し寄せる魔物の衝撃か、あるいは飛んできた瓦礫の直撃を受けたのか、凄まじい音を立てて崩れ落ちようとしていたのだ。
そして、その崩れゆく建物の瓦礫の下に、一組の母子の姿があった。
「お母さんっ!」
「っ……ダメ、逃げてっ!」
若い宿の女将が崩れ落ちる巨大な梁と壁の下敷きになり、その幼い子供が逃げ遅れていた。絶望に染まった母親が、子供に必死に逃げるよう叫んでいた。
その瞬間、私の頭のなかで、パズルのピースが音を立てて噛み合った。
――ソニアの記憶。
かつて、若く不器用だったソニアが、傭兵崩れの駆け出しだった頃にこの宿に泊まり、仕事に疲れた夜、温かいスープを差し出してもらった記憶。あのときの笑顔。あのときの温度。
ソニアの魂の奥底に残されていた強い未練と、かつての感謝の記憶が、私の意識のなかに激しく流れ込んできた。
「……っく!」
頭が割れるような痛みが走る。
「関わるな、面倒に首を突っ込むな」という理性と、「助けなければ」というソニアの生前の意志、そして心の奥底にわずかにこびりついていた人間としての善意が、ごちゃ混ぜになって閃光し、身体が勝手に動いた。
私はウサギの足に変化させ、凄まじい跳躍力を発揮、地面を蹴り飛ばして弾丸のように空中へ飛び出した。
崩れ落ちる巨石と梁が、まさに親子の頭上に降り注ごうとしたその瞬間――。
「邪魔っ……!」
私の背中から、無数のしなやかな蔓がうねるように飛び出し、さらに両腕が竜鱗の特性によって極限まで硬質化する。
轟音と共に落下してきた数トンはある瓦礫を、私はその腕と蔓で正面から受け止めた。
ドゴォッ!! と、凄まじい衝撃が全身を走るが、体の内部をスライム状にし、それを完全に受け流す。私は歯をくいしばり、その巨大な瓦礫を文字通り力づくで押し返した。
「い、いまのうちに逃げて」
血の気の引いた顔で震えている母親と子供に向かって、私は息を切らしながら短く告げた。
母親は、目の前で自分の身代わりのように瓦礫を支えているボロボロの服を着た貧相な女――私を見た。その瞳には、助けられたことへの驚きと、それに勝る強烈な動揺が浮かんでいた。
私は力任せに瓦礫を横へと投げ捨て、二人を抱き起こすようにして安全な路地へと押し出した。
「しっかりして!早く町の外へ逃げるの」
最低限の言葉をかけ、私はその場を立ち去ろうと背中を向けた。
――そのときだった。
「ひっ……!?」
背後から聞こえたのは、感謝の言葉ではなく、恐怖に震え上がった引きつった悲鳴だった。
振り返ると、助けたはずの母親が、子供を自分の背中に庇いながら、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。
いや、見つめていたのは私ではなく――私の背中からまだ引っ込みきっていなかった、人間離れした黒い蔓や、微かに異形の鱗を纏った腕だった。
瓦礫の音を聞きつけて周囲に集まってきた住民たちや、他の冒険者たちも、その光景を目の当たりにして一斉に息を呑んだ。
「な、なんだ…その足……?」
「腕が……腕が化け物みたいに固くなって……背中から植物みたいな触手が……っ!」
「魔人族だ……!! 魔王軍の回し者か、それとも化け物の変異体だぞ!!」
ざわめきが、一瞬で恐怖と敵意に満ちた怒号へと変わった。
助けられた母親すらも、恐怖に顔を引きつらせ、震える声で叫んだ。
「化け物……! こっちに来ないで……っ!」
その言葉が、鋭い刃のように私の胸をかすめた。
怒りではない。悲しみでもない。ただ、心の底から湧き上がるのは、どうしようもないほどの冷笑だった。
――あぁ、そうか。
やっぱり、人間として生きようとした、私が馬鹿だったんだ。
「化け物め!! 消えろ!!」
誰かが叫び、鋭い石ころが私の頬をかすめて飛んできた。
カラン、と足元に転がる小石。それを皮切りに、周囲の群衆から次々と石や泥の塊が投げつけられてきた。
「化け物だ! 町から出ていけ!」
「人間面の裏切り者め!」
投げつけられる罵詈雑音と、石の雨。
私はそれを避けることもせず、ただ虚ろな目でその場に立ち尽くしていた。傷ついた頬からわずかに赤い血が流れるが、痛みなど何とも感じなかった。感じるのは、ただこの人間社会に対する、決定的なまでの絶望と、深い、深い喪失感だけだった。
「……もう、どうでもいいか」
私は小さく呟いた。
助けて損をした。善意などという、自分らしくない気まぐれを起こした罰がこれだ。二度と、こんな連中のために動くものか。
私は投げつけられる石を無視し、冷え切った無表情のまま、群衆に背を向けた。
「おい、どこに行く気だ……!」
「近づくな! あの化け物を追い出せ!」
背後から浴びせられる罵声を完全に遮断するように、私は足を早めた。
スタンピートの混乱の向こう、魔物の群れが迫る荒野の方角へと、私は一人、ブカブカの服の裾を翻しながら歩き出した。
人間の群れから離れ、誰もいない暗闇へ。
私には、最初から普通に生きるなんて、許されていないのだから――
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