第七話 引きこもりとワイバーン
町の片隅にある、窓ガラスのひび割れた薄汚れた安宿。
その一角にある、天井の低いロフト付きの狭い部屋に、私は籠りきっていた。
あれからギルドで手に入れた報酬の銀貨を宿の主人に叩きつけ、数ヶ月分の宿泊費と最低限の干し肉、そして濁った水をまとめて前払いした。それ以来、私は部屋の扉にしっかりと鍵をかけ、ただぼんやりと薄暗い天井の木目を眺めて過ごしていた。
外の喧騒は、この厚い木製の扉一枚を隔てて遠くの波音のように響くだけだ。
誰とも話さない。誰の顔も見なくていい。他人の機嫌を窺う必要もなければ、愛想を笑う必要もない。
布団の代わりの擦り切れたぼろ布を頭からかぶる。薄暗い部屋の中で丸くなっていると、世界から切り離されたような、安らぎが私の心を包み込んでいた。
――あぁ、これがいい。
誰にも干渉されず、ただひっそりと息を潜め、時間が過ぎるのを感じるだけでいい。
死ねない体を持て余し、化け物としての不気味な生を呪いながらも、人間社会の煩わしさから完全に逃避できるこの空間こそが、今の私にとって唯一の救いだった。
希死念慮の底で、私はただ泥のように眠り、起きては硬い干し肉をかじり、また眠るという底辺の引きこもり生活をむさぼり続けた。
しかし、ある日木製の小さなテーブルの上に置かれた保存食の袋に手を伸ばすと、指先が空の底を叩いた。
「……っ」
慌てて袋をひっくり返してみるが、中から転がり出てきたのは、カチカチに乾燥した小さなパンくずが一つだけだった。
ポケットの中をまさぐってみても、残されているのはわずかな銅貨が数枚きり。前払いにすべてを注ぎ込んだせいで、部屋の契約期間そのものはまだ残っているものの、肝心の食料と水が底をついていた。
飢えぬために食わなければならない。
食うためには、金が必要だ。
金を手に入れるためには、人間の群がる冒険者ギルドへ再び足を運び、仕事をしなければならない。
「……はぁ…めんどくさ……」
部屋の隅で、私は思わず低い声で毒づいた。
死ねないのなら、いっそこのまま何も食べずにいさせてくれればいいのに、私の肉体は空腹という生理現象だけはしっかりと催させる。死ねないくせに腹は減るという、このどうしようもない不条理に、私は苛立ちを覚えた。
動きたくない。外に出たくない。他人の目に晒されたくない。
だが、このまま部屋で餓死の苦しみを延々と味わい続けるか、あるいは嫌々ながらも外に出て金を稼ぐかの二択を迫られたとき、消去法で選べるのは後者しかなかった。
私は重いため息をつき、床に放り投げていたブカブカのソニアの服を無理やり引き寄せ、再び体に纏い始めた。
袖口から頼りない指先を出し、ボロボロのフードを目深にかぶる。
こうして人間の皮を被り、再び私は地獄のような外の世界へと押し出されるのだった。
数週間ぶりに踏み外した町の石畳は、相変わらず埃っぽく、道行く人々は慌ただしく行き交っていた。
昼下がりの冒険者ギルドは、以前と変わらずの熱気と酒臭さに満ちていた。
私が重い木製の扉を押し開け、そろそろと中へ足を踏み入れた瞬間――。
それまでざわついていたギルド内の空気が、嘘のようにピタリと凍りついた。
――またこれか…
私は、不気味なものをみるような目を思い出し、さらにフードを深く被りなおした。
ギルドのカウンター周辺に溜まっていた冒険者たちが、一斉に私の方を振り向く。その視線には、前回のアビスサーペント一撃討伐の噂を聞きつけた者たちの、畏怖と好奇心が入り混じっている。
「おい……見ろよ、あの新人だ……!」
「間違いない、あのブカブカの服……一人で大蛇を狩ったっていう女…」
「生で見るとすげぇ頼りなさそうだけど、中身はとんでもねぇ化け物らしいぜ……」
ヒソヒソと交わされる声が、やけに大きく耳に飛び込んでくる。
面倒くさい。一刻も早くここから消えたい。私は周囲の視線を必死に無視しながら、できるだけ床の染みだけを見つめてカウンターの隅へと近づこうとした。
だが、そうは問屋が卸さなかった。
「おっ、やっとお出ましか、ルーキーちゃん!!」
ガタッと大きな音を立てて椅子から立ち上がった屈強な男――ソニアの記憶によれば、中堅パーティのリーダー格らしい大男が、ずしんずしんと足音を立てて私の目の前に立ちふさがった。
男の顔には馴れ馴れしい笑みが張り付いているが、その目は値踏みするような鋭さを帯びていた。
「おい、お前、前回の見たぜ! すげぇ腕利きじゃねぇか。どうだ、俺たちのパーティに入らねぇか? 今度、北の山脈でデカいヤマがあるんだ。お前の力を貸してくれれば、分け前は弾むぜ!」
「いや、ウチのパーティに来いよ! 討伐の補助だけでいい、報酬の半分をやるからさぁ!」
「ちょっと待て、お前ら! ギルドの職員から聞いたぞ、この娘に高難度の調査任務を回せばすぐに片付くって――」
次から次へと群がってくる冒険者たち。
「ひっ、な、なに…!?」
野卑な熱気、馴れ馴れしい誘い、そして圧にのけぞる私の意図を完全に無視した勝手な期待の押し付け。私が狼狽してる間も、冒険者たちはギャアギャアと騒ぎ立てる。
人間社会のこの泥臭い群れのなかにいるだけで、脳の何割かがすり減るような感覚がした。
こんな連中に囲まれるくらいなら、化け物に引き裂かれてバラバラになった方が、私にとっては、よほど精神的に健康だった。
私は群がる男たちを冷め切った虚ろな目で一瞥すると、掲示板の上部もっとも目立つ場所に貼られていた、場所に似合わぬ高級紙一枚の依頼書に視線を留めた。
周囲の冒険者たちが押し黙る中、私は無言で手を伸ばし、ギリギリで手が届いたその紙を乱暴に剥ぎ取った。
そこに書かれていたのは、一体の魔物の討伐依頼。
――『ワイバーン討伐』。
辺境の空を自由に滑空し、その強靭な鉤爪と圧倒的な質量で幾多の冒険者を上空から引き裂いてきた、空の強者。まともに戦えば熟練のパーティですら全滅は免れないという、実質的な自殺志願者向けの最高難度依頼だった。
「おいおいおいおい、待て待て待てっ……!」
掲示板の文字を見た男たちが、青い顔をして一歩後ずさった。
「それ、『ワイバーン』だぞ!? 単独での討伐なんてやめとけ!軍の討伐隊レベルの――!」
「これ……やるから」
私は群がる連中を押し退けるように、剥ぎ取った依頼書をカウンターの職員へと無造作に叩きつけた。
職員の男は、目の前に突きつけられた依頼書と私の顔を交互に見比べ、脂汗を浮かべながら声を震わせた。
「お、お前……本気か? これは冗談で済むような相手じゃない。大蛇を狩っていい気になっているようなら――」
「いいから、手続きを」
私の冷え切った、感情の抜けた声に、職員はこれ以上止める気力を失ったのか、怠慢な手つきで受理のスタンプを押した。
周囲の冒険者たちは、まるで狂人を見るような目で私を見つめ、蜘蛛の子を散らすように道を開けた。
面倒くさい詮索も、馴れ馴れしい勧誘も、これで終わりらしい。
――さっさと空の上で焼き殺されるか、引き裂かれて死ねばいい。
私は余りある裾を翻し、誰の言葉も聞かずにそのままギルドの扉を蹴破るようにして外へ飛び出した。
町から遠く離れた、遮るもののない荒涼とした岩肌の平原。
私はあえて人の気配のない開けた場所を歩いていた。
空を見上げると、遠方の上空を悠然と旋回する巨大な影が見える。
翼を広げれば優に十メートルを超えようかという、漆黒の巨体。全身を覆う鋼鉄のような硬い外皮と、獲物を逃さない鋭い鉤爪。ワイバーンだった。
私は、両足をウサギの後ろ足へと変化させた。限界まで力をため込んだ後、ワイバーンに向かって跳躍、人間ではまず到達不可能な高さまで上昇すると、手から水流の刃を発射する。
その一撃はワイバーンの翼にわずかに衝撃を与えた。攻撃と呼ぶのもおこがましい、児戯のようなものだったが、好戦的で血に飢えた空飛ぶ魔物の興味を引くには十分だったようだ。
空を切り裂くような鋭い咆哮を上げると、ワイバーンは巨体を急降下させ、凄まじい風圧を纏いながら一直線に私めがけて突っ込んできた。
地面が轟音を立てて揺れ、砂塵が舞い上がる。
私は足を止めたまま、ただぼんやりと空を見上げていた。
(……痛いかなぁ……)
避けようとも、武器を構えようともしない。ただ、来る苦痛を想像して憂鬱になっていた。
ワイバーンの巨大な鉤爪が私の小さな体を捉え、凄まじい衝撃とともに地面へと叩きつけた。耐えがたい激痛が全身を走り、内臓が破裂し、骨が粉々に砕け散る。肺から赤い血の泡が弾け飛び、私の肉体は一瞬にして原型を留めないほどの致命的なダメージを受け――
視界が急速に真っ暗に染まり、意識の糸がプツリと途切れた。
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――視界が、パチンと切り替わった。
高々度の視座。冷たい空気と、風を切る羽音の感覚。自分の背中には、一対の巨大な翼が生えており、四肢の先には鋭利な鉤爪が備わっている。
――私は、先ほどまで自分を殺していたはずの「ワイバーン」の肉体に乗り移っていた。
地面の離れた場所に転がっている、先ほどまで自分が着ていた「上田流花」の血まみれの死体を見下ろす。
その巨大なワイバーンの視界の端に、言語化できない膨大な記憶と感覚が滝のように流れ込んで、肉体と溶け合うように染み込んでいく。
新たに叩き込まれた感覚――
気流を掴み、空を自在に飛行する巨大な翼。全身の竜鱗を硬化させ、物理・魔法攻撃を弾き返す鱗。周囲を焼き払う炎のブレス。
強さを求める戦奴であれば、ワイバーンの力など泣いて喜んだであろう。しかし、わたしは「死に難くなったな」という感想を抱いた程度であった。
そして草原に降り立つと、その鋭利な爪を自らの体へと向けた。自分の肉体から高額で取引されるワイバーンの極上な鱗や、武器の素材となる硬化皮、牙などを、ただ淡々と、まるで機械のように剥ぎ取っていく。
――ズチュッ、ブチブチッ
自分が自分を解体する、この世の終わりような恐怖図。しかし、そこには、早くこの痛みと作業を終わらせたいという投げやりな疲労感だけがあった。
すべての素材を綺麗に剥ぎ取り、一つの山にまとめ終えると、私は大きく息を吐き出した。そして、その巨大な前足を自分の胸の中央――魔核の眠る位置へと深く突き立て、自らその命を断った。
――体の再構築が始まる。
もはや慣れてしまった感覚。私は再び、「私」の肉体へと引き戻された。
「私だった死体」から汚れた衣服を剥ぎ取り、手から水流を出して血に濡れた部分を洗う。そして、前回と同じようにスライムの酸で死体を溶かそうとして――少し考えてやめた。
手を降ろし、パカリとできるだけ大きく口を開け、大きく息を吸い込んで力の充填を待つ。そして、最大火力のブレスを放った。
――ゴオオォウ…!
青い炎が死体を包み、一瞬にして灰にしてくれた。そして、草原にはなびく風に吹かれて、さらさらと飛んでいく。
「おぉ、楽でいいね……」
酸で溶かすのに比べて格段に時間がかからないことに感動し、手をパンパンっと叩く。そして、ワイバーンの素材を巨大な麻袋へとパンパンに詰め込んだ。
体の二倍程度大きさになった荷物をよろよろと引きずりながら、私は再び、あの面倒な人間たちの待つ冒険者ギルドへ向けて歩き出した。
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夕暮れ時の冒険者ギルドは、異様な静けさに包まれていた。
私が巨大な麻袋を引きずりながらドアを開けて中に入ってきた瞬間、酒を飲んでいた者も、書類を整理していた者も、全員の動きがピタリと止まった。
誰もが、言葉を失っていた。
ワイバーンに挑んだ自殺志願者が、五体満足で帰ってきたのだから。
私は周囲の凍りついた視線を努めて無視し、無表情のままフラフラとカウンターへと歩み寄った。
そこには、先ほど手続きをした男性職員が、魂の抜けたような顔で立ち尽くしていた。
「……これ、ワイバーン」
私は巨大な麻袋をカウンターの上にドサリと放り出した。中から零れ落ちたのは、間違いなく本物のワイバーンの鱗と、鋭利な牙、圧倒的な存在感を放つ竜の素材の数々だった。
――――
絶句ののち、ギルド内は爆発したような恐怖のざわめきに包まれた。
「……う、嘘だろ……?」
「ワイバーンだぞ……!? あの空の暴君を、たった一人で、半日もかからずに……!?」
「化け物だ……!あいつは、人間の皮を被った本当の化け物だ……!」
誰もが私に近づくことすら恐れ、蜘蛛の子を散らすようにじりじりと後ずさっていく。そんな中、男性職員だけが莫大な報酬を計算し、冷や汗を滝のように流しながら、震える足でカウンターにすがりついてきた。
「ま、待ってくれ……! お前、一体何者なんだ……!? いや、それよりも頼む、最近この周辺で厄介な魔物や異変が頻発しているんだ! ギルドとしてもお前のような……!」
「……無理。じゃあ」
職員の懇願を、私は冷淡な一言で遮った。
カウンターの上に投げ出されていた、目を剥くような量の金貨が入った報酬の袋をひったくると、私は二度と振り返ることもせず、逃げるようにギルドの扉を押し開けた。
夜のとばりが降り始めた町の路地裏を抜け、私は一目散にあの薄汚れた安宿へと戻った。そして、慌てる店主に無理やり金貨数枚を渡し、自分の部屋の扉に鍵をガチャンと固くかけ、ようやく訪れた静寂の中に身を沈める。
手に入れた大量の金貨が入った袋を床に放り出し、私はそのままロフトの薄汚い毛布の上にパタリと倒れこんだ。
「……ふぅ……」
外から聞こえるわずかな喧騒を遮断するように、ブカブカのフードを深く被り直す。
誰とも話さなくていい。誰も近づいてこない。
この暗くて狭い空間こそが、私にとっての唯一の居場所だった。
(これで、ずっとしばらくはあの面倒な群れと関わらずに済む……)
安堵という名の深い虚無感に包まれながら、私は重い瞼を閉じ、再び終わりのない引きこもり生活へと深く沈んでいくのだった。
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