第三話 群れと、歪んだ英雄
――視界が、パチンと切り替わった。
それと同時に、冷たい川底の濁りがスッと消え、代わりに明るい陽光が水面を通して眩しく差し込んでくるのが見えた。
今度の視点は、これまでにないほど低かった。短い手足、茶褐色で滑らかな毛並み、そして丸く愛らしい耳。私は、川辺の泥の上で四つん這いになっていた。
「きゅ、きゅっ……?」
喉の奥から漏れ出たのは、人間の言葉ではなく、幼い小動物の甲高い鳴き声だった。
しかし、それ以上に私の精神を激しく揺さぶったのは、肉体から伝わる感覚の質そのものの変化だった。
スライム、ウサギ、オオカミ――これまでの獣の記憶は、どれも孤独で、剥き出しの生存本能と殺意だけが支配する世界に生きていた。だが今回は違う。周囲の空気からは仲間たちの気配が満ちており、頭の中には「群れの存在」「安心感」「誰かと共にあることへの所属欲求」といった、極めて社会的な情動が染み込んできた。
私は、自らたちを「アクアウィーゼル」と名乗る、カワウソに似た魔物の子供の肉体に乗り移っていた。
――まただ。また、死ねなかった。
水中で溺れ、今度こそ完全に終わると思ったのに、世界は私の意志を嘲笑うように、別の命へと私を誘った。
(……どうして……どうして私を放っておいてくれないの……っ)
頭を抱えようとして、短い前足を上げたところで、背後からぽんと頭を優しく叩かれた。
「 こら、こんなところでぼーっとしてちゃダメでしょ。ほら、帰るよ」
振り返ると、そこには一回り大きな大人のアクアウィーゼルが立っていた。カワウソに似たその容貌の、つぶらな瞳には深い愛情と信頼の色が宿っており、私の体を慈しむように鼻先で小突いてくる。それは、温かなコミュニケーションだった。
直前まで私は、オオカミを狩ったその付き添いとして、この大人と共にいたらしい。脳内に流れ込んでくるこの肉体の記憶によれば、私たちは今、狩りの成功を祝うために仲間たちの待つ巣穴へと戻る途中だった。
やがて、川辺の土手に作られた大きな巣穴が見えてくると、何匹もの仲間たちがワイワイと騒ぎながら出迎えてくれた。その中心にいたのは、ひと際毛並みの美しい、母だった。
母は、私の姿を見つけるやいなや、トコトコと駆け寄ってきて、その温かい前足で私を強く抱きしめた。
「よくやったわね、怪我はない? すごいじゃない、立派な狩りだったわ」
母は優しく私の頭を舐め、愛しそうに抱き締めてくれた。付き添いの大人が、私が仕留めたオオカミの死骸を誇らしげに見せると、群れの仲間たちから称賛の歓声が上がった。
その瞬間、私の胸の奥で、音を立てて何かが崩れた。
――『母を笑顔にすることが、自分の唯一の価値だった。』
現実世界。父親の暴力におびえ、崩壊した家庭の中で、母から有り余る愛情とお金をもらって育った私の記憶。あのとき、ボロボロになった私を見て静かに涙を流した母の顔。母を安心させたい、笑顔のままでいてほしいという一心で、私は「マトモな社会人」の仮面を被り、更生を誓ったのだった。
あのとき失ったはずの温もりが、今、見知らぬ異世界の、一匹の獣の母親によって再現されている。
(……やめて……。私はこんな嘘の温もりなんて欲しくない……。私は、人間、こんなのお母さんじゃ……)
理性が必死に拒絶の声を上げる。しかし、この肉体に宿る本能と、幼い頃から飢え続けていた心の空洞は、その甘美な称賛に抗えなかった。
母に頭を撫でられ、体をすり寄せられるたびに、脳の芯がとろけるような強烈な陶酔感と快感が駆け巡る。私は涙が出そうになるのを堪えながら、その温もりにしがみついてしまった。
群れの掟に従い、仕留めたオオカミの肉は解体され、分配された。オオカミはどうやら、「シュタールウルフ」という魔物らしい。
私が「よくやった」と一番の功労者として受け取ったのは、オオカミの一番柔らかい上質な肉と、そして――赤く輝く魔核の一番大きな欠片だった。
自分の巣穴の隅に座らされ、目の前に置かれたそれを見た瞬間、私の全身から血の気が引いた。
――それは、他ならぬ「私がさっきまで生きていたオオカミの肉」であり、「その中にあった核」だった。
(嘘でしょ……また……またこれを食べるの……?)
背筋を這い上がる悪寒と、胃の腑がひっくり返るような激しい吐き気。
しかし、カワウソの肉体に宿る食欲と本能は、私の意思など完全に無視して動き出した。仲間たちに見守られ、母に「おあがり」と優しく促されながら、私は震える前足でその肉を引き裂き、口へと運んでしまった。
――美味かった。
舌に粘りつくような濃厚な旨味。ウサギ肉の比でないほどの圧倒的な肉質。
美味い。たまらなく美味い。自分の肉体を、自分がかつて宿っていた器を、群れの仲間たちと笑顔で分け合いながら「美味しいね」と貪り食っている。
その凄惨な事実に気づいたとき、私の精神は音を立てて粉々に砕け散った。
(あぁ……あぁぁぁ……っ!)
口の周りを血で真っ赤に染め、夢中で肉を咀嚼しながら、私は心の中で絶叫した。
私は狂っている。世界が私を狂わせているのか、それとも私が元から狂っていたからこんな呪いに嵌められているのか。自分だったスライムを食い、ウサギを食い、そして今度は大喜びでオオカミだった自分の肉を食う。どこまで堕ちれば気が済むのか。
しかし、それ以上に私の心を深く、決定的に抉ったのは、別の現実だった。
ふと、私を優しく見つめる母の顔を見たとき、醜悪な事実が頭を殴りつけた。
――この生き物には、明確な社会があり、家族があり、未来があった。
今、私がこの体を乗っ取って生き延びているということは、「この肉体に本来宿るはずだった、まだ幼く、未来のある小さな子供の命」を、私のこの呪いが完全に押し潰し、奪い去ってしまったということに違いなかった。
理性を持たぬ獣であれば、殺してきた相手なんぞになんの情もない。だが、この群れには、言葉があり、愛情があり、温かな絆があった。
その尊い日常の中に、何の罪もない小さな子供の命を奪うことで、私は入り込んでしまっている。
(私は……なんてことをしてしまったの……っ)
温かな母の笑顔が、急に針のむしろのように突き刺さる。
自分がここにいてはいけない。この優しい世界に、死を願うだけの泥人形のような化け物が混ざり込んでいること自体が、最大の罪悪だった。
頭を撫でられるたびに、自分が奪った命の重みがずしりと重くのしかかり、私の精神は崩壊寸前まで追い詰められた。
(……消えたい……消えてしまいたい……)
涙を流すことも許されぬまま、私はその日から、自分の存在価値に怯えながら日々を過ごすことになった。
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それから数週間が過ぎた。
私の精神はすり減り、いつしか「この群れのために何かをして、せめてこの命を帳消しにしたい」という歪んだ贖罪意識だけが、かろうじて私を立たせていた。
その日は、川上へ魚を採りに行くための群れでの小旅行だった。
母や他の子供たちを含む十数匹の一団が、川沿いの豊かな森の小道を賑やかに歩いていた。私もその列に混じり、重い足取りを引きずっていた。
――その平穏が、一瞬で引き裂かれたのは、突然のことだった。
「――グルオオオオオッ!!!」
突如として、小道の脇に広がる深い木立から、凄まじい地響きとともに巨大な影が飛び出してきた。
それは、深い森のなかでも上位の魔物――「ジャイアントグリズリー」だった。漆黒の毛皮を逆立て、血走った赤い目をぎらつかせるその巨熊は、縄張りを荒らされた怒りか、あるいはただの飢えか、有無を言わせぬ暴力のオーラを放っていた。
「キュイッ!? 」
「危ない、逃げてっ!」
群れに走ったパニック。大人たちが必死に威嚇の声をあげるが、相手があまりにも巨大すぎて、足がすくんで動けない者も多い。特に、母と幼い子供たちは、クマの巨体の真ん前に取り残される形になっていた。
――ガァッ! と、クマが巨大な前足を振り下ろす。
一撃で、数匹が吹き飛ばされ、血の華が散った。
(――っ!)
頭が真っ白になった。
逃げなければならない。本能が、一目散に川へ飛び込んで逃げろと叫んでいる。
だが、その直後、私の脳裏をよぎったのは、あの温かな母の笑顔だった。私を「自慢の子ね」と抱きしめ、頭を撫でてくれた、あの温もりだった。
(……そうだ。私は、この子の命を奪ってここにいるんだ)
(この子のお母さんの笑顔を、私が奪うわけにはいかない……っ!)
理性が弾き飛ぶような感覚だった。狂った自己犠牲に突き動かされ、「罪を償いたい。あの温もりを壊したくない」その一心で毛皮を奮い立たせた。
「キュイーーーーッ!!!」
私は群れの逃げ道とは逆の方向へ、ありったけの声で叫びながら飛び出した。
小石を蹴散らし、わざと大きな物音を立てて、その巨獣の注意を自分一人に引きつける。
「グルル……?」
血走ったクマの目が、ちょこまかと動き回る私を捉えた。次の瞬間、巨獣は重い地響きを立てながら、私目掛けて突進を開始した。
――狙い通りだ。
私は一心不乱に足を動かした。向かう先は、この小道のすぐ近くにある、森の深部――近づく者すべてを溶かすという、魔植物の湿地帯だった。
通常の生物であれば絶対に近寄らない、毒霧と禍々しい触手が這い回る死の領域。そこへ誘導すれば、この化け物をも足止めできるかもしれない。
後ろから迫る、巨熊の圧倒的な殺気。
地面を揺るがす足音が、背筋に冷たい恐怖を叩き込む。けれど、不思議と恐怖よりも、「これで償える」という奇妙な安心感と、歪んだ英雄願望のような陶酔が私を支配していた。
――もっと来い、化け物。
私は木々の間を縫うように走り抜け、ついにジメジメと湿った不気味な紫色の霧が立ち込める魔植物の湿地帯へと飛び込んだ。
ズプッ、と足が深い泥に取られる。
その瞬間だった。足元の沼から、無数の生気のない禍々しい緑色の蔓が、まるで蛇のように一斉に這い出してきたのは。
「キュッ……!?」
逃れる間もなく、私の足首に鋭いトゲを持つ蔓が絡みつき、凄まじい力で引きずり倒された。
冷たい泥の中に顔を突っ込み、身動きが取れなくなる。すぐ後ろまで追いかけてきていた巨大なクマもまた、突然の奇襲に驚き、低い咆哮を上げて暴れ回った。
「グアオオオオッ!!」
しかし、その巨体ゆえに、魔植物の群れにとっては格好の餌食だった。湿地帯のあちこちから、無数の太い触手や、肉食性の巨大な花びらが次々と飛び出し、暴れるクマの巨体を四方八方から締め付け、引き裂いていく。
――そして、それは私に対しても容赦なかった。
無数の棘が私のまだ柔らかい毛皮を突き破り、鮮血が飛び散る。皮膚を焼き焦がすような毒液が染み込み、骨まで砕けるような激痛が全身を駆け巡った。
「きゅ……ぐ、う……っ……」
声にならない悲鳴が、泥の中に消えていく。
全身の血が吸い取られ、肉が引き裂かれ、意識が急速に冷めていく。だが、思考の端で、私が作ったその隙間のおかげで、母カワウソや群れの仲間たちが安全な川の方角へと無事に逃げ切っていく幻想が見えた。
――あぁ、よかった。
あの母は、泣かずに済んだんだ。
私は、あの優しい笑顔を奪わずにすんだんだ。
全身が激しい苦痛に満ちているというのに、私の心は奇妙なほど軽やかだった。
早く楽になりたいという願いと、誰かのために役に立てたという歪んだ自己満足が混ざり合い、私の思考を優しく包み込んでいく。
薄れていく意識のなかで、私はトゲに貫かれた自分の肉体が、みるみるうちに周囲の禍々しい蔓と融合し、一つの「植物」の一部として溶けていくのを感じた。
――今度こそ、完全な死へ。
そう願いながら、私の意識はプツリと途切れ、生気のない魔植物の深い根底へと、吸い込まれていった。
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