第四話 不動の地獄と、少女の命
――視界が、パチンと切り替わった。
巨熊と自分の肉体が泥と血にまみれて溶け合う湿地帯の奥底で、意識は暗転し、そして再び浮上した。
だが、そこにはこれまでのような「手足の感覚」も「動くための筋肉」も存在しなかった。あるのは、冷たく湿った土に深く突き刺さる根の感覚と、視界の代わりに周囲の気配をぼんやりと捉える奇妙な知覚だけだった。
私は、禍々しい巨大な魔植物へと変異していた。
(――今度こそ……今度こそ、植物のまま動かずに、ただ枯れて消えよう……)
心の中で、私は深く安堵した。食物連鎖と切り離されたこの毒の湿地帯は、静かに獲物を待ち受動的に食らう植物たちが、物言わずに佇んでいるだけ。このまま獲物を見逃せば、私はただの植物として、誰にも邪魔されずに干からびて死ねる。
そう思った。――最初は。
数日が経ち、数週間が過ぎるうちに、その希望は絶望へと変わっていった。
「枯れて死のう」と、周囲の養分を一切断ち、日光を拒絶しようとした私だったが、過去の転生で獲得してきた数々の異質な肉体の記憶が、この植物の肉体内で勝手に変異し、異様な融合――キメラ化を起こしていたのだ。
巨木が枯れるのを待つ前に、どうにかしてこの動かない体で自殺できないかと試行錯誤するうち、私は自分の内部で奇妙な現象に気がついた。
スライムだったときのように体をドロリと液状化させたり、酸のようなものを分泌させたりする感覚。
ウサギのときに感じた爆発的な跳躍力や、オオカミの硬質な毛並み。
カワウソのように水を操り機敏に動く感触――それらの過去の肉体が残した「変異の記憶」が、の根や蔓の筋を通して、まるですべて自分の手足であるかのように再現できてしまうことに気づいてしまったのだ。
さらに、それらの異質な肉体の記憶と植物としての性質が混ざり合い、周囲の微細な気配を感知する網をどこまでも広げさせたり、触手を鋼のように硬化させながら強烈な毒を作り出したりと、環境適応能力が異常なレベルで暴走してしまった。
その結果、私は一切の捕食を拒絶し、ただ死にたいと願い続けているにもかかわらず、不気味な力を持った新たな魔植物――正真正銘の化け物へと進化してしまっていた。
(……死ねない。水の刃や牙のように硬質化させた蔓で自分を切り刻んでも修復される…枯れるまで待つしかない…か)
根や蔓の端は動かせど、本体の巨木は動くことすら許されず、ただ「枯れない独房」の中で空虚に浸り続ける日々。何年、もしかしたら何百年とかかるかもしれない――わたしは動けぬ絶望に染まっていった。
それから何年経っただろうか、その死の湿地帯に、一団の足音が響いた。
「気をつけろよ。ここからは毒と蔓の拘束で動物を捕らえる『魔植物』の生育地だからな。…まあ、変異でもしてなきゃ剣とさっき飲んだポーションで余裕なはずだがな」
「ちょっと、変異なんて不吉なこと言うもんじゃないよ!」
「ははっ、わりいわりい。念のためな」
錆びた防具に身を包み、剣を構えた冒険者の一団が、慎重に足場を選びながら私の領域へと足を踏み入れてきた。
その姿を根の感知網で捉えた瞬間、私の精神は激しい恐怖で逆立った。
(――最悪だ……!)
人間だ。よりによって、冒険者たちがここに来てしまった。
頭の中に、過去の悪夢がフラッシュバックする。もし彼らに私が破壊されたら、私はまた、人間の肉体に引きずり込まれてしまうのだろうか。
――いやだ。もう絶対に、人間の肉体には戻りたくない。こんな終わりのない呪いを引き継ぎたくない。かといって、罪のない人間を私のせいで死なせるのもごめんだ。
(来ないで……! 私にそれ以上近づかないで……っ! お願いだから、そのまま引き返して……!!)
心の中で必死に叫ぶ。人間を殺したくない。それ以上に、自分が人間の肉体に乗り移りたくない。
私の必死の願いとは裏腹に、冒険者たちは一歩、また一歩と歩みを進めてくる。そして、斥候が泥に足をつける。
――その瞬間だった。
私の意思とは完全に無関係に、キメラ化した肉体の記憶と植物の防衛本能が、勝手に「侵入者」を迎撃してしまった。
「なっ……!?こんな広範囲で!?… 変異種だ!!」
冒険者の一人が悲鳴を上げた。
私の意志は「やめろ」「動くな」と叫んでいるのに、根や蔓は勝手に動く。異様な速度の強化の感覚を伴って、地中から射出された無数の強靭な蔓が、泥を切り裂いて一斉に襲いかかった。
硬質化した鋭い棘が空気を切り裂き、分泌された溶解液の泡が周囲の空気を焦がす。
「ぐわっ……! あああっ!!」
逃げる間もなく、前衛にいた冒険者たちが次々と蔓に絡め取られ、その場で引き裂かれていく。
(やめろ……! 殺すな……! 私の体を勝手に動かさないで……っ!!)
心の叫びは、従属しない防衛本能の前にかき消された。
殺したくないのに、私の肉体が勝手に人間を惨殺していく。そのあまりにも残虐で、救いのない光景の中で、冒険者たちはなす術もなく次々と血の泥の中に沈んでいった。
「――ふざけるな……! 仲間を……みんな……っ!」
血まみれになった湿地帯の中で、一人の、橙の髪が眩しい少女が立っていた。
パーティーに指示を出していた、リーダー格と思わしき冒険者だった。彼女の目には、仲間を目の前で惨殺された絶望的な怒りと、それでも折れない強烈な意志の光が宿っていた。
少女は単身、無数の蔓の猛攻をくぐり抜け、泥を蹴ってまっすぐに私の本体――魔核めがけて突進してきた。
(来ないで……! 私を殺さないで……っ!)
防衛本能が再び少女を排除しようと、全方位から刺突の蔓を放つ。しかし、彼女は死力を尽くし、そのすべてを自らの剣と気迫で切り払った。彼女の纏う気迫が、これまでとは桁違いに跳ね上がっている。
それは、絶望の淵に立たされた人間の、魂の特攻だった。
「これで、おしまいよ……っ!!」
少女の叫びとともに、彼女のすべての力を乗せた渾身の一撃が放たれた。
植物でありながら、金属に負けぬ強固な装甲を、その剣気があらゆる防御を無視して強引に穿ち貫く。
――バキンッ、と。
私の体内で、生命の鼓動を打っていた核が、鮮やかに粉砕された。
(――っ……!!)
全身の魔力が一気に霧散し、植物としての肉体が崩れ去っていく。脳裏を支配したのは、全身の血が凍りつくような、耐えがたいほどの危機感と絶望的な焦燥だった。
(しまった……! 核が壊された……っ!いやだ、まさか、人間の体を奪ってしまう……!?)
心の中で狂おしく叫び、藻掻いた。
しかし、その必死の拒絶の叫びも虚しく、生の悪魔は容赦なく微笑んだ。
精魂尽き果て、膝から崩れ落ちる少女の肉体から溢れ出た意識の残滓と、私の剥き出しになった魂が、まるで磁石のように引き合わされる。
視界が急速に暗転していく中、私の意識は、目の前の少女――ソニアの肉体へと、強制的に植え付けられた。
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