第二話 死ねない肉体の絶望
粘つく液体となった、スライムの残骸。その気持ち悪い感触から逃れようと慌てて前足を振り、ついた粘液を散らす。
感触――そう、触覚があった。
それだけではない。無音だった世界に、草や風のざわめき、そして泥の生々しい匂いが、一気に脳内へ流れ込んできた。聴覚も、嗅覚も、触覚も――すべてが戻っている。
「……?!ピッキュイ…!」
突然増えた情報量に、思わず驚愕の声をあげると、それは人間の声ではなく、小動物の鳴き声のような声だった。
私だったスライムの残骸に、禍々しく尖った一本の角が映り込む。
私は人間でも、もはやスライムでもない。先ほどスライムの私を文字通り踏みにじり、引き裂いたあの不気味なウサギになっていた。
混乱の最中にありながら、私は意識の切り替わりと同時に、頭の中に濁流のように流れ込んできたウサギの記憶を整理する。
いつも通りに草を食みながら手ごろな獲物を探し、見つけたのがスライム――私だった。そして、不定形の体の中心に光る、鉱石のようなもの
――タベタイ…ハヤクタベナキャ
私は思い出した。スライムの残骸から剥き出しになった核を、狙っていたのだということを。そしてその「美味」を。
「キュッ……!」
――ボリッ…ボリッ…
思考が追いつくよりも早く、ウサギの肉体に宿った本能が勝手に動いた。
止める間もなく、前足が自分の抜け殻であるスライムの魔核を拾い上げ、口へと放り込む。
(…?!美味いっ…!甘い旨い凄い…!――なんだこれ??!)
これまでの人生で一度も味わったことのない、脳が溶けるような濃厚な甘みと、全身の細胞が歓喜に震えるほどの旨味が駆け巡る。
私は夢中で核を噛み砕き、その美味を享受した。そして、最後のひとかけらをゴクリと飲み込み、光悦に浸っていたそのとき、背筋を凄まじい悪寒が走り抜けた。
――自分の残骸を、自分の抜け殻を、美味いと感じて貪り食っている。
その残酷な事実を理解した瞬間、全身の血が逆流するような激しい嫌悪感が私を襲った。精神が音を立ててすり減っていく。
「ケホッ……カヒュー…」
どうにか吐き出そうと前足を口に無理やり突っ込んだが、出てきたのは少量の胃液のような液体のみ。およそ消化不可能に思える、鉱石のような核は欠片も見当たらなかった。
――私は、死ねていなかった。
それどころか、殺された相手の肉体に乗り移り、さらには本能のまま自分の残骸を喰らうという悪魔のような所業。
終わりのない転生への恐怖と絶望が、私の心を蝕んだ。
(なんで…?!トラックに轢かれて死んで…異世界転生ってやつ?!…それで、また殺されて、死んでなくて……まさか、私ずっとこうやって…)
早く、この苦しみから解放されたい。そう強く願った私は、自ら死を求めるように、危険な香りのする森の奥へと全速力で駆け出した。
息を切らしながら、奥へ、奥へ。
――ガサッ、ドシャァ…
そして、突如出現した強大な影――牙を剥いたオオカミに組み伏せられ、首元を噛み砕かれて倒れた。
鮮烈な痛みと、強者への恐怖。まだ息があるまま、狼は私の肉や内臓を食いちぎり始めた。
「ギュ…キキッ……」
絶叫を上げようとしたが、口からでるのは乾いた鳴き声のみ。そして、ブチュ、グチャと、自らが食されるのを聞きながら、――私は絶命した。
------------------------------
――視界が、パチンと切り替わる。それと同時に、記憶の波が私の脳を襲った。
「……ッハッハ……!」
激しい頭痛が治まったとき、理解した。私は、群れから巣立ったばかりの若い雄オオカミだ。狩場を探して森のなかを放浪していたところに、私だったウサギが顎に吸い込まれるように飛び込んできたのだ。
――私はまた、死ねなかった。
終わらない転生に、呆然とする私の鋭い鼻孔をくすぐったのは、芳醇な血と肉の香り。
――クラエ…エモノ…クラエ
私は響く本能に従い、私だったウサギの肉を噛みちぎった。滴る血の赤、牙を押し返す肉の感触。オオカミの食欲が捕食を止めることを許さない。
そして、内臓のなかに「それ」はあった。
赤く輝く鉱石のような、核
ウサギと、オオカミと、私――それぞれに刻まれた美味の記憶が呼び起される。
(これ、美味しいやつ!早く!食べなきゃ!!)
獣の本能に影響された思考で、逸る動悸とともに、核を銜え、噛み砕く。その一噛み、一噛みが極上の美味だった。ウサギの核はスライムの核よりもさらに味が濃く、骨の髄までしみわたるような幸福感が得られた。
(うまあああい!美味いっ…!!)
思考は美味に埋め尽くされ、夢中で貪る。しかし、最後のひとかけらを丸のみしてしまった時、私は興奮がスッと消え理性が息を吹き返したのを感じた。同時に、先ほどよりも強い絶望と嫌悪感が私の心を襲う。
(嘘…私、「私だった肉」を食べた…?…ぇっ……やだ…嫌だ嫌だ嫌だ…!!!)
意識を向ければ、噎せ返るほどの血の匂い、前足と口から滴る赤。私は猛烈な吐き気を催した。しかし、オオカミの体は得た獲物を吐き出すことを許さない。
私はせめて、自らの穢れを洗い流したくて、オオカミの記憶のある水場に向かって駆け出した。
------------------------------
水場に着くやいなや、私は前足と顔を勢いよく水に入れザバザバと洗った。一通り血は流れ、匂いもしなくなった頃それでも自分にこびり付いた「何か」を落としたくて、顔を水に突っ込んだ。
ボコボコッと気泡が上って行くのを眺めながら、私は絶望の底を感じた。
繰り返される死と転生、一つ、二つと重ねるごとに獣の本能によって、私の意識が少しずつ薄れていく。
(死にたい…)
私は、今までの人生で数えきれないほど抱いた気持ちを、これまでにないほど切実に願った。しかし、獣に殺されれば、別の肉体に乗り移ってしまう。この悪夢は永遠に終わらない。いつか、「私」が無くなってしまうかもしれない。
口から気泡が漏れ続け、息苦しくなってきたところで、ある解決方法を閃く。
(……溺死なら……水の中なら、……終わらせられるかもしれない……)
――ドボンッ
私はそのまま体の全てを水中へ投じた。そこは、森を流れる大河だった。私は濁流へと抗うことなく身を任せた。
冷たい水が全身を包み込み、呼吸が奪われていく。肺が焼けるような苦しみの中、私は「やっと終わる」という安堵に似た感情を抱いていた。オオカミの誇る鍛え上げられた筋肉も、硬質な毛皮も、水の中ではただの重りでしかなかった。
しかし――その水の中でも、生の悪魔は私を見逃さなかった。
水中で手足の自由を奪われ、意識が薄れていく無力な私の背後から、不意を突く水飛沫が迫る。
それは、一匹の小さなカワウソのような獣だった。あどけない好奇心か、あるいは獲物に見立てた遊びか。その鋭い一撃が、溺れかけて無防備だった私の急所を容赦なく貫いた。
――あぁ、まただ。
水面に自分の血が溶けていく中、私の意識はまたしても強制的に引き剥がされていく。死ねない絶望に引きずられるように、私はこれから乗り移る小さな獣の気配を感じながら、冷たい川底へと沈んでいった。
次話はこの投稿から10分後に掲載されます。是非ブックマークに追加してお待ちください!
ーー閲覧いただき、ありがとうございます!ーー
ブックマークへの追加、★★★★★評価をぜひお願いいたします!




