第一話 死にたがりの終着点、あるいは始まり
以前連載していたものをまるっと書き換えてみました。
「上田さん、ここ、データが少しズレてますよ」
課長の声に、私は反射的に愛想笑いを張り付けた。
「すみません、すぐに修正します」
画面に並ぶ無機質な数字。それを打ち込んで、度々鳴る、クレームの電話を取るだけの簡単なお仕事。周りの同僚たちは世間話に花を咲かせ、今日も平和に一日が過ぎ去る。
私は「マトモな社会人」という仮面を被りこなしていた。だが、その内側はとっくに腐り落ちている。
幼少期、父親からの暴力におびえて過ごした日々。両親の離婚。母から有り余る愛情とお金をもらって育ったものの、私の根底には物心ついた頃から「早くこの世から消えてしまいたい」というドス黒い希死念慮がこびりついて離れなかった。
学生時代は夜な夜な家を飛び出し、酒とタバコと快楽に溺れて自暴自棄な日々を送った。自分の体も、心も、どうでもよかった。誰かに殺してほしくて、死にたくて、腕や肩に何度も傷を付けた。
ーーある日、ボロボロになった私の姿を見て、母は限界を迎え静かに涙を流した。その姿に、心は癒されなかった。けれど、母を笑顔のままにすることが、自分の唯一の価値のように思えた。そして更生を誓い、大学を卒業して事務職に就いた。
世間一般から見れば、私は「立ち直った普通の人間」だ。けれど、どれだけ安全な椅子に座っていようとも、心底では「今、息が止まればいいのに」と毎秒のように願っている。生きることは、私にとってあまりにも苦痛な罰だった。
――そんな私に、転機をくれたのは、彼との出会いだった。
職場で出会った彼は、私の心の底に気づくわけでもなく、ただ自然体で隣にいてくれた。くだらない冗談を言い合い、少しずつ心を通わせていくうちに、私の硬直していた世界に微かな温度が灯るのを感じた。
(この人となら、未来を見たいのかもしれない…ただ、それでも――)
ある日の仕事帰り、居酒屋のカウンターで、私はうつむいたままぽつりと零した。
「ねえ……私、ずっと、死ねたらいいのにって思っちゃうんだよね。消えたいの、ずっと」
彼は驚いた顔をした。当然だ。普通の人間が突然そんなことを言えば逃げ出すか、変な気を遣うかのどちらかだ。けれど彼は、私の手をそっと包み込むように握りしめ、目を少しうるませながら優しくこう言ったのだ。
「そっか……一人でずっと、しんどかったんだね。話してくれてありがとう。……あのさ、精神科に行ってみない? ちゃんと話を聞いてもらおうよ。どんな結果でも、これからどんなに治療が長くかかっても、俺はずっと隣にいるよ。……だから、向き合ってみない?」
その言葉は、冷え切った私の胸に染み入るように温かかった。否定もせず、ただ私の苦しみを「そこにあるもの」として受け止めてくれた。
------------------------------
半信半疑で足を踏み入れた総合病院の診察室。白衣を着た中年の医師は、私の乱れた文字の問診票に目を通すと、淡々と、しかし一点の曇りもない確かな口調で言った。
「――大丈夫ですよ。上田さんのその症状は、現代の医療で十分に治療可能です。必ず寛解できますから、安心してください」
事務的な、けれど確信に満ちたその言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
――治る? 私のこのへばりついた希死念慮が、消える?
終わらせることばかり考えていた私に、「普通に生きる未来」という選択肢が突如として目の前に提示されたのだ。
病院を出たとき、視界がぐにゃりと歪んだ。
堰を切ったように、涙がとめどなく溢れ出た。悲しみではない。初めて知る、「希望」という名の安堵だった。
そうだ、私はもう死を願わなくていいんだ。あの人と同じ未来を歩いていいんだ。ぐしゃぐしゃに泣きじゃくりながら、私はバス停のベンチに腰掛けた。早く彼に連絡しよう。そう思い、スマホを取り出そうとした、その時――。
ビューッと、生ぬるい突風がアスファルトを舐めるように吹き荒れた。
直後、道路の向こう側で嫌な金属音が響き渡る。積載量オーバーの荷物を積んだ大型トラックが、突風に煽られてバランスを崩していた。
「――え?」
悲鳴を上げる間もなかった。
制御を失った鉄の塊がガードレールを突き破り、すさまじい勢いでバス停の待合スペースへと突っ込んできた。
激痛。――いや、痛みすら感じる暇すらなかった。世界が真っ赤に染まり、私の意識は音を立ててプツリと途切れた。
------------------------------
(……ん……?)
意識が浮上したとき、私は奇妙な違和感に包まれた。
視界が、おかしかった。「前」だけを見ているわけではない。前方、後方、真上、真下、そして自分の身体の内部に至るまで――あらゆる方向の景色が、一度に、歪みなく脳へ直接飛び込んでくる。360度すべてが同時に視覚化される、あまりにも気色悪く、平衡感覚が狂いそうな全方向の視界。
(泥の水たまりと、森?けど、なんか変――)
さらに、五感の大部分が欠落していた。
湿った土の匂いも、草木の香りも鼻腔をかすめない。風が吹いているはずなのに、それを肌で感じられない。そして何より、物音や自分の声が一切聞こえない。世界は完全に、気味の悪いほどの無音に閉ざされていた。
嗅覚も、聴覚もない。あるのはこの得体の知れない視覚と、自分の輪郭をなす半透明な塊の感触だけだった。
――ここは、どこ?
(たしか私はバス停で、トラックに……。ってことは、私、死んだんだ。じゃあ、ここは……天国?)
しかし、全方向の景色は、およそ想像していた「天国」ではなかった。鬱蒼とした森、そのなかに私はいた。だが、私にとって、そこは天国でも地獄であっても、あるいは、「異世界」なのだとしても、関係なかった。トラックに轢かれて死んだ。それだけは確かだと思った。
(死んだ…ほんとに死んだんだ…)
胸の奥がキュッと締め付けられるような、言いようのない悔しさがこみ上げてきた。
――嘘でしょ……?
(やっと、やっと「治る」って言われたんだよ。これから彼と一緒に、普通に生きられるかもしれないって、泣くほど安心したのに。なんで、よりによってあのとき死ななきゃいけないの……っ!)
母は、 彼はいま、病院のベッドで眠る私を見て泣いているだろうか。もう一度、あの人に会いたい。温かい手に触れたかった。死にたいと願っていたはずなのに、いざ本当に理不尽に命を奪われてみると、怒りと絶望と、どうしようもない未練がマグマのように渦巻いていく。
声を上げて泣こうとした。しかし、喉から音が出ることはなく、ただ思考の絶叫だけが空転した。
わけがわからないまま恐怖に震えていると、全方向の視界の端に、影が揺らめいた。
音は聞こえない。だが、草木を押し分けて、巨大な角を生やした赤目のウサギがヌッと姿を現したのが見えた。
恐怖の感情がピークに達した瞬間、ウサギが勢いよく飛びかかり、私の「それ」を容赦なく踏みにじり、引き裂いた。
音なき激痛の中で意識がブラックアウトする直前、私の頭の中に、ぶわりと「ウサギの記憶」が流れ込んできた。
――そこで、私は理解してしまった。
いま殺された私の肉体は、人間でも魂の抜け殻でもなく、半透明のドロドロとした魔物――「スライム」だったのだと。
そして、私はいま――前足でそのスライムの残骸を踏みつぶしている。
次話はこの投稿から10分後に掲載されます。是非ブックマークに追加してお待ちください!
ーー閲覧いただき、ありがとうございます!ーー
ブックマークへの追加、★★★★★評価をぜひお願いいたします!




