第二十二話 蹂躙の行軍、逃げ場なき絶望
ヴァルハルト帝国との国境付近に布陣していた遠征部隊が、魔王軍の最先鋒によって消し飛ばされてから数日。
それは戦いではなく、一方的な虐殺の幕開けにすぎなかった。
魔王軍が誇る最強の矛、『竜血突撃師団』。
そして、野戦の特務兵 『機動遊撃軍団』。この軍団は獣牙族により構成されており、その鞭のような肉体と、優れた嗅覚で、荒野や森林あらゆる地形を駆け抜け、標的をどこまでも追い詰める。
この二大部隊が結合した進撃路の南下において、人類に許された選択肢は絶望的な死しかなかった。
魔王軍の目的はただの前進ではない。
人類に、自分たちがかつて踏みにじった者たちの恐怖を骨の髄まで叩き込むこと、そして後方へ一切の伝令や生存者を逃がさないことであった。
帝国領の北方に広がる緑豊かな平原、その街道沿いに位置する小村――『オルタ村』。
その日の午後、村の広場では、農作業を終えた男たちや、今日の夕餉の支度をする女子供たちが、ごくありふれた平穏な日常を営んでいた。
「なぁ、聞いたか? 聖教国の騎士様たちが、北の山で魔人族の隠れ里とかいうのをぶっ潰したそうだ」
「ああ、うちの村の若者も、治安維持の遠征軍に志願して行ったっけな。どうせ今頃は、化け物崩れどもを相手に手柄を立てて、酒盛りでもしてる頃だろ」
「ははっ、魔人族なんてまだ生きてたんだな。まっ、王国や帝国が本気を出せば、一網打尽さ」
村人たちは笑い合っていた。
彼らにとって、魔人族との戦いとははるか遠い世界の出来事であり、自分たちの生活が脅かされるなどとは微塵も考えていなかった。国が守ってくれる。自分たちは安全な世界の中心に生きている――その慢心が、オルタ村の空気を甘い油断で満たしていた。
穏やかな村を切り裂いたのは、突如として空気を震わせた、地を抉るような重低音だった。
「――ん? なんの音だ……? 地震か?」
村の老人が鍬を置き、北の空を見上げた瞬間。
遠方の地平線が、異様な赤黒い色に染まっていることに気がついた。それは夕焼けではない。燃え盛る炎と、おびただしい数の砂塵が巻き起こす、死の濁流だった。
「ひ、人影が……! おい、なんか来るぞ――っ!?」
若い村人が叫んだ声の直後、轟音と共に村の入口を守る木製の柵と石壁が、爆風に粉砕された。
舞い散る木片と土煙の中から現れたのは、人間ではない。
常軌を逸した巨体と、全身を覆う硬質な紅色の鱗。そして、口元から覗く鋭い牙と、殺意に満ちた獣のような黄金の瞳。
「な……なんだ、あれは……! 怪物かっ……!?」
竜血族の戦士たちが、容赦なく村へと踏み込んできたのだ。
先頭に立つ竜血族の兵士は、恐怖に凍りついた村人を見据えると、冷酷な笑みを浮かべて片手を振り下ろした。その腕から放たれた高熱の火球が、村の象徴である古木を直撃し、一瞬にして爆発炎上させる。
「ひぃっ……! 助けて、子供が――!」
母親が幼子を抱きかえて逃げ出そうとしたが、その背後から、風よりも早く地面を蹴る影が迫っていた。
獣牙族の戦士たちだ。
狼や豹、虎などの獣の耳と尾を持つ彼らは、優れた五感と圧倒的な俊敏性を誇り、逃げ惑う人間をまるで脆弱な獲物を狩るかのように追い詰めていく。
「逃がすかよ。魔王様の命令だ、一匹たりとも生かして逃がすな!」
獣牙族の戦士が低く唸り声を上げ、瞬時に母親の目の前へ跳躍した。
逃走経路は完全に塞がれていた。村の周囲を囲むように展開した獣牙族の包囲網は、鳥一羽すら通さない完璧なものだった。
村の若者が恐怖に駆られて馬に飛び乗り、南へ向かって疾走しようとしたが、その馬の首筋めがけて、獣牙族の放った魔導槍が正確無比に突き刺さった。
馬ごと地面に叩きつけられた若者は、悲鳴を上げる間もなく、追いついた竜血族の大剣によって地面に縫い付けられた。
「伝令だと? ふっ、笑わせるな。お前らの首が都に届く頃には、国そのものが地図から消えてるわ」
突撃師団の圧倒的な暴力の前に、オルタ村はわずか十数分のうちに、地獄絵図へと変貌した。
逃げ惑う人々は容赦なく焼き払われ、助けを求める叫び声は、燃え盛る家屋の崩落音にかき消されていく。
平和を謳歌し、魔人族を嘲笑していた村人たちは、自分たちがその存在以下として、踏みにじられ、蹂躙されるという現実を味わいながら、次々と炎の中に消えていった。
オルタ村を灰燼に帰した魔王軍の二大部隊は、足を緩めることなくさらに南下を続けた。
その進路上にあるのは、帝国と周辺諸国を結ぶ交通の要衝であり、屈指の商業都市として知られる中継都市『ラベンダ』であった。
ラベンダの市街には、北の国境付近で起きた村の惨状を遠方から観測し、命からがら逃げ延びてきた巡回兵からもたらされた情報により動揺が広がっていた。
都市の長官や警備隊長は、青ざめた顔で緊急の防衛会議を開いていた。
「馬鹿な……! あの村の北方には帝都からの精鋭部隊が展開していたはずだぞ!? 落ちぶれた魔人族に全滅させられたとでも言うのか!」
「ち、違う! あれは落ちぶれなんかじゃない……悪魔だ! 赤い鱗の巨人が軍隊を紙くずのように引き裂き、獣の耳を生やした化け物どもが、馬よりも速く走って逃げる者を片端から狩り尽くしたんだ……っ!」
恐慌状態に陥っている巡回兵の証言に、会議室の空気が凍りついた。
都市の周囲には頑丈な石造りの環状壁がそびえ立ち、数千の兵士が常駐している。しかし、彼らの心にあるのは「この街の守りが万全である」という虚栄にも似た楽観と、隠しきれない動揺だった。
「お、おいあれ……! で、伝令――っ! 敵襲、敵襲――っ!」
環状壁の監視塔から、ひきつった絶叫が響いた。
長官たちが慌てて窓から外を覗き込むと、地平線の彼方から、赤黒い嵐のような軍勢が猛烈な勢いで迫ってくるのが見えた。
それは、魔王軍の血濡れた猛威――『竜血突撃師団』と『機動遊撃軍団』の連合部隊だった。
「迎撃準備! 投石機を構えろ! って――っ!」
警備隊長が必死の形相で号令を飛ばす。都市の防衛砲が大きな爆発音を鳴らし、魔王軍の群れに向けて一斉に発射された。
しかし、飛来した弾の嵐に対し、竜血突撃師団の先頭に立った竜血族の戦士たちは、怯むどころか不敵な笑みを浮かべた。
「愚図どもの足掻きが。その程度の玩具で、我らの鱗に傷がつくと思うな!」
彼らの硬質な鱗が纏う魔力が着弾の衝撃を防ぎ、直撃を受けた者ですら、わずかに衣服が焦げる程度で突撃の勢いを全く落とさない。
さらに、都市の頑丈な鉄の門と石造りの壁の前に到達した竜血族たちは、一斉に巨大な魔導大剣や戦魔斧を振り下ろした。
――ガシャアァァンッ!!
「不壊の門」と誇られていたラベンダの巨大な環状壁が、竜血族の腕力と武具に満ちた魔力によりまるで紙細工のように粉々に砕け散った。
衝撃波が市街地へと流れ込み、門の近くにいた兵士たちは吹き飛ばされ、血の霧と化した。
「ひ、ひぃっ……! 門が破られたぞ……!?」
「化け物だぁ……! 逃げろ、早く帝都へ伝令を――っ!」
パニックに陥った市民や兵士たちが四散して逃げ出そうとする。
しかし、それを許さないのが『機動遊撃軍団』だった。
獣牙族の戦士たちは、崩壊した城壁の隙間や屋根の上を軽やかに飛び回り、都市の外へ通じるすべての逃走経路を完全に封鎖していた。
「どこへ行く? 命拾いできるとでも思ったか」
鋭い爪と牙を持つ獣牙族たちが、逃げ惑う人間の背中を次々と捉え、地面に組み伏せる。
伝令を任され、秘密裏に抜け穴から馬で脱出しようとした騎士の一団も、街道の先で待ち構えていた獣牙族の斥候部隊に奇襲され、一瞬にして全滅させられた。
馬の首は刎ねられ、騎士たちの絶望に満ちた叫びは、無人の街へと消えていった。
助けは来ない。伝令も届かない。
自分たちが見下し、踏みにじろうとしていた魔人族の本当の恐ろしさを、住民たちはその身をもって知ることになった。
都市ラベンダは、その日の夜のうちに完全に沈黙した。
街全体が赤黒い炎に包まれ、かつて商業で栄えた往時の面影はどこにもない。残されたのは、崩れ去った石畳と、無数の骸、そして魔王軍の勝利を示す静寂だけだった。
竜血突撃師団の指揮官は、炎に照らされた大剣を地面に突き立て、冷ややかに周囲を見渡した。
「ふん、人間どもめ。あれほど威勢よく遠征軍などと気息を吐いていたくせに、いざ牙を剥けばこのざまだ」
その傍らで、機動遊撃軍団の隊長が、血に濡れた耳をピクピクと動かしながら言った。
「報告致します。周辺の村や小規模な砦からの逃走者は一匹残らず始末しました。王都や他の主要都市への伝令もすべて途絶させています。人間どもは、自分たちがどうやって滅ぼされているのかすら、まだ気付いていないでしょうね」
「よろしい。油断するな。我々の役目は、この南下ルートにあるすべての抵抗勢力を根絶やしにし、次の主力部隊が通る道を完璧な『死の荒野』に変えることだ」
「はっ!」
号令の下、竜血族と獣牙族の軍勢は、さらなる南下を開始した。
その背後には、かつて人間が築き上げた文明の痕跡が、ただの黒い灰となって積み上げられていく。
聖教国や帝国の上層部が、未だに事態の深刻さに気づいていないその裏で――。
魔王軍の容赦なき蹂躙は、音もなく、しかし確実にあらゆる逃げ道を断ちながら、人界の中心へとその黒い影を広げていくのだった。
人類が味わうことになる本当の絶望は、まだ始まったばかりにすぎなかった。
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