第十七話 迷妄の森の幻妖
零番隊の専用宿舎の一室。
灰皿から立ち上る紫煙をぼんやりと眺めながら、私はベッドの上でまたしても全裸で大の字になって転がっていた。
頭から離れないのは、あのときの奇妙な感覚だ。
――『黄泉喰らいの影獅子』との死闘の最中、呪いに呑み込まれ、私の魂が消えかけたとき、突如として脳内に響いた機械的な声。
『――システムエラー……オブジェクトの均衡演算ミス。……再試行します』
(……あれ、一体なんだったんだろ。神の声……的な? でも、『システム』とか『オブジェクト』とか…まるでAIとかのセリフみたい)
ぶつぶつと脳内で呟きながら首を傾げる。考えたところで分からないしいっか、と適当に思考を放り出した、その時だった。
ガチャリ、と乱暴に扉が開いた。
「――ちょっと、ウェタルカッ!!」
そこに立っていたのは、零番隊隊員・魅魔族のローザだった。彼女は部屋に一歩踏み込むやいなや、途端に顔をしかめ、手元に持っていた強力な消臭剤を私の顔面と体に向けて容赦なく連射した。
ぷしゅーっ! ぷしゅーっ!!
「げほっ!? なにすんの、冷たい! 」
「変態っ! くさいっ! 酒とタバコと、あとお風呂最後に入ったのいつよ! いい加減にしなさいよ!」
ローザはハンカチで鼻を押さえながら、呆れと怒りが入り混じった顔で私を乱暴に引っ張り起こした。そのまま雑居サロンへと引きずり出されそうになりながら、私は欠伸を噛み殺す。
「雑居サロンになんて行かなくてもいいでしょ。……あぁ、次の任務か」
「そうよ。次は、人間の生存圏――人界大陸の北方に広がる生い茂った樹海……『迷妄の森』よ。そこの近くに潜む獣牙族の居住地に転移するわよ。準備しなさい!」
「はぁ……また面倒臭そうなところ……」
こうして、不気味なシステムメッセージの余韻に浸る間もなく、私はローザに引きずられるようにして次の目的地へと向かうことになったのだった。
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私たちが次に向かったのは、その予告通り、人界大陸の北方に広がる生い茂った樹海――『迷妄の森』であった。
魔の大陸の西北に位置する、『人界大陸』。かつて魔人族を根絶やしにしようと各地で人間が蜂起した『聖戦』で、主神の信託を受けた『勇者』が王族の祖先であるとして、三つの国がいがみ合いをしている。
三つの国と山脈や『迷妄の森』を境にして、密かに生活圏を築いているのが、優れた五感と野性的な戦闘勘を持ち、荒野や森林での奇襲・追撃を統率する『獣牙族』である。
その獣牙族の本拠地に転移してすぐ、私は思わぬ危機に直面した。
「直轄特務遊撃隊・第零小隊の皆様。ようこそいらっしゃった。歓迎する」
生真面目そうな狼男――転移装置の前で待ち構えていた獣牙族の猟師長が、私たちを迎えてくれた。さっそく『迷妄の森』へ案内するというため、レイヴンを先頭にして、ゾロゾロと転移装置から離れていく。
私がローザに引き摺られながら歩き始めたとき、猟師長が、鋭い牙を覗かせながらピクリと鼻をピクつかせて告げた。
「――止まれ。貴殿、『煙草』と『酒』の匂いがするが、ここでは持ち込みと使用が禁止されている。帰還されるまで、預からせてもらう」
彼の背後には、同じく優れた嗅覚を持つ獣牙族の戦士たちが何人も並んでおり、一様に厳しい視線をこちらに向けている。
「……は?」
私はその場でピタリと足を止め、信じられないものを見る目で猟師長を見据えた。
「 煙草と酒がダメ? どういうこと?」
「俺たち獣牙族の嗅覚は貴殿たちの何百倍も鋭い。そんな不快で臭い煙草の臭いや、頭がどうにかなりそうなアルコールの匂いをこの森に持ち込まれたら、獲物が逃げる。何より俺たちの鼻がぶっ壊れる。ここの掟だ。絶対に許さん」
ガザルが「おいおい、それはウェタルカにとっては死刑宣告みたいなもんじゃねぇか」と苦笑し、ローザも「消臭剤じゃ誤魔化せなかったわね……」と遠い目をしている。
――プツン。
私の脳内で、何かが切れる音がした。
ニコチンとアルコール。この狂った任務で、私の精神の均衡をかろうじて保ち続けていた必需品だった。
「いやだ……。絶対に渡さない……」
「ウェタルカ、相手の領域にいるんだ。ルールには従え」
「レイヴン隊長、他人事だと思って……! 掟なんか知るか! こいつらは私にとって絶対必要なものなんだよ!」
私は暴れ出しそうになったが、ガザルに素早く腕を抑え込まれ、フィグ謹製の『能力を制限する魔道具』を首に装着させられ、渋々ながらもタバコの箱と、酒のスキットルを没収された。
「ここまで執着していたとは想定外だった。すまない、さっそくだが件の場所へ案内してもらえるか。こいつの我慢が効くうちに済ませてしまいたい」
レイヴンは獣牙族の猟師長にそう告げ、足早に私たちを引き連れて『迷妄の森』へと向かった。
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タバコも酒も取り上げられ、不機嫌のあまり周囲の空気を凍りつかせるような殺気を撒き散らしながら数時間の移動を経て、私たちは『迷妄の森』の奥深くへと足を踏み入れた。
木々が作り出す影が濃くなり、周囲の空気が急速に冷えていく。
今回の目的である幻妖――『夢幻泡影の魔蝶』の領域に近づくにつれ、空気中に奇妙な甘い香りが混じり始めた。
「全員、警戒しろ。あの蝶の出す鱗粉には強力な幻覚作用がある。精神防御の結界を張れ」
レイヴンの指示が飛ぶ。
私たちはそれぞれ身構えたが、アルコール切れで頭がガンガンと痛む私は、その警告をどこか聞き流すようにフラフラと歩いていた。
その時だった。
鬱蒼とした枝葉の隙間から、まるで夜空の星屑を散りばめたかのような、妖しく美しく輝く巨大な蝶の群れが姿を現した。
『夢幻泡影の魔蝶』。
その羽ばたきとともに、キラキラと輝く微細な鱗粉が霧のように周囲へと撒き散らされた。
「っ、甘い匂い……! 息をするな、鱗粉を吸うな!」
レイヴンが警告の声を上げるよりも早く、その微量の鱗粉が私の肺へと吸い込まれていた。
瞬間――。
世界の色がぐにゃりと歪んだ。
周囲の森の木々が溶け合い、冷たい湿った空気が、一瞬にして換気の悪い淀んだカビと安酒の匂いに満ちた空間へと塗り替わる。
「……あ……?」
私の足がピタリと止まった。
目の前に広がる景色は、もはや魔大陸の森ではない。そこは、私が現代日本で幼少期に過ごしていた、鬱屈とした狭いアパートの一室だった。
壁を打ち付ける鈍い音。地を這うような怒鳴り声。そして、聞き慣れた、だが一番聞いてはいけない母親の怯えた泣き叫ぶ声。
古びた畳の染み、散らかった空き缶、そしてあの男特有の体臭が生々しく蘇る。幼少期の私を毎日のように絶望の底に突き落とし、小さな体と心をすり潰してきた、あの暴力と恐怖に満ちた地獄の記憶が、鱗粉の幻覚となって容赦なく脳内を侵蝕していく。
『おい、ガキが……! 何泣いてやがる! お前のせいで俺の人生は狂いっぱなしなんだよ!!』
目の前に立ったのは、顔の輪郭がドロドロと溶け崩れ、怒気だけが赤く燃え盛る恐ろしい男の影――父親の姿だった。
その男が振るう太い腕が、私の視界を真っ暗に遮るようにして振り下ろされる。
逃げ場のない狭い部屋。頭をかきむしってうずくまる私に、容赦なく浴びせられる怒号と、硬い足元からの冷たさ。理不尽な暴虐が身体の芯を抉るような痛みを伴って再現され、私の呼吸が急激に浅くなっていく。
――違う。違う、ここは……。
私の意識の端で、それが過去の幻覚だと気づいている理性がかすかに叫ぶ。しかし、タバコと酒を奪われた禁断症状とストレスで限界を迎えていた私の精神は、その強烈なフラッシュバックを前に完全に抗力を失っていた。
脳内で鳴り響く怒号と、目の前の恐怖が混ざり合い、私のなかの制御が焼き切れる。
私の目に映っていたのは、目の前に立つ『父親』の狂気に満ちた顔。
――いや、それは現実の目の前に立って、私を心配そうに見つめていた隊長のレイヴンの姿だった。
「お前だ……お前が……私を……お母さんをッ!!」
私の喉から、獣のような狂気的な絶叫が飛び出した。
理性は完全に吹き飛び、生き残るための防衛本能と歪んだ殺意だけが暴走する。私は手加減なしの全魔力を込め、目の前にいる父親の幻影を映されたレイヴンめがけて、全身全霊の突撃を叩きつけた。
「ウェタルカっ…!? おい、正気を取り戻せ!」
レイヴンは突然の攻撃に驚きながらも、瞬時に魔力障壁を展開してその一撃を受け止めた。
ドゴォォォン!! と凄まじい衝撃波が森を揺るがし、周囲の木々がなぎ倒される。
「くっ……! 幻覚にやられているのか! 目を覚ませ、ウェタルカ!」
「殺す……お前なんて、いなくなればいいんだ……!」
私は完全に理性を失い、牙を剥き出しにしてレイヴンへと襲いかかる。手加減という概念は一切なく、私の持つすべての凶悪なスキルと破壊力が、目の前の「敵」を粉砕しようと暴れていた。
「隊長から離れろ、ウェタルカ!」
ガザルが巨大な双剣を構えて割って入り、私の攻撃を力任せに押し返す。しかし、今の私の暴走状態は、通常の特務隊員が抑え込めるレベルを超えていた。
だが、煙草と酒を奪われた私を抑え込むための対策が、ここで功を奏した。
――暴走を予測し、私の首元に装着されていた『能力を制限する魔道具』。
それがピキピキと音を立てて激しく明滅し、私の放つ圧倒的な魔力の奔流を無理やり封じ込めていく。
「いまだ、ローザ!」
「任せて!」
ガザルの防御と首輪の抑制によって生み出されたわずかな隙を突いて、ローザが素早く近づき、私の額に手を当てた。
ピリリと走る精神干渉の魔力が、私の脳内に直接流れ込む。それは影獅子のときのような酩酊とする感覚ではなく、冷たく澄んだ水のように、私の頭の中で荒れ狂うトラウマの幻影を無理やり洗い流していく。
『しっかりしなさい、ウェタルカ! 目を開けて、現実を見なさい! アンタの目の前にいるのは父親じゃない、レイヴンよ!』
ローザの必死の叱責が、私の意識の奥底を貫いた。
パキッ、と何かが割れる音がした。
目の前に広がっていた薄汚いアパートの幻影が霧散し、代わりに映し出されたのは、冷や汗を流しながら私を必死に抑え込んでいるレイヴンと、ガザルたちの顔だった。
荒い息を整えながら、私は自分の両手を見た。
私は今、何を……あのクソ親父とレイヴンを混同して、殺そうとしていたのか。
恥ずかしさと、自分の精神の脆さへの嫌悪感、そして何よりも――最悪な記憶を見せられた怒りが、一気に私の中で沸騰した。
「……許さない……」
私の低い呟きに、フィグやローザが「ひっ」とわずかに身を引いた。
幻覚を見せやがったあの蝶。私の最悪のトラウマを掘り起こし、あろうことかレイヴンを殴らせやがったあの羽虫を、私は絶対に許さない。ニコチン切れのイライラと、トラウマを刺激された怒りがすべて魔蝶への殺意へと変換された。
「こいつら全部ぶっ殺してやる……ッ!」
私は首輪の抑制を竜鱗で強化した腕で無理やり引きちぎり、凄まじい速度で宙を舞う魔蝶の群れの中心へと単身で飛び込んだ。
蝶たちが焦ったように風魔法の斬撃を浴びせかけてくるが、今の私にはそんなものは効かない。トラウマの怒りをエネルギーに変えた私の一撃は、森そのものを吹き飛ばすほどの暴力と化して魔蝶たちの群れを飲み込んだ。
バサァッ!! と、無数の蝶が地面に叩きつけられ、そのうちの一際巨大な女王蝶が私に直接体当たりを仕掛けてきた。
「っはは! お前の魂は戴くよ!」
私はその巨大な魔蝶の鋭い牙に自ら胸を突かせ、致命傷を受けて地面に崩れ落ちた。
ドサッ、と音がして、私の意識が闇に沈み込む。
――視界がパチンと切り替わる。
私は魔蝶の女王の体に乗り移っていた。まず、魔蝶の生き残りを女王の権能で呼び寄せ、全ての個体に自害を命じた。魔蝶が次々に自らの風魔法で散っていくのを最後まで確認したのち、私もスキル『流嵐水刃』を発動させて、荒れ狂う雷水に自らの魔核を破壊させ、体の再構成が始まった。
それからしばらくして。
意識を取り戻した私は、森の安全な野営地で、ぐったりと木にもたれかかっていた。
「……ふう。死ぬかと思った……精神的に」
「死ぬかと思ったのはこっちの方よ! いきなり目の色を変えて襲いかかってくるんだから! 本当に殺されるかと思ったわよ!」
ローザが両手を腰に当て、呆れと怒りが入り混じった顔で私を睨みつけている。レイヴンも、服の綻びを直しつつ、深い溜息をつきながら私を見下ろした。
「……すまなかったな。不確定要素への配慮が欠けていた」
「……別に。襲いかかった私が悪い。それより……煙草と酒は?」
私が虚ろな目で手を差し出すと、レイヴンは「没収した分は、任務が完全に終わるまで返さん」と冷たく言い放った。私はその場で盛大にため息をつき、地面に突っ伏した。
しかし、今回の収穫は大きかった。
数日後、同行していたフィグが、私が獲得したスキル『狂気の大号令』が持つ精神汚染の権能を徹底的に解析し、その力を部分的に封じ込めた「特殊な魔導防壁装置」の開発に成功した。
その装置は『迷妄の深い森』の要所要所に設置され、今後、人間の冒険者や帝国軍の調査団が魔人族の生活圏やこの森の深部に迷い込むのを強力に防ぐ、防壁として機能することになったのだった。
その間、零番隊の専用宿舎の一室に戻った私は、禁止されていた分を取り返すように酒と紫煙を浴びたのだった。
【名前】 ウェタルカ
【種族】 ???
【称号】 異世界からの転生者、死にたがり、生にしがみつく者
【能力値】
・魔力量: 測定不能(不定形数)
・筋力 : 測定不能(不定形数)
・耐久 : 測定不能(不定形数)
・敏捷 : 測定不能(不定形数)
【固有スキル】
・『不死転生』:対象(物質体、精神体を含むすべての生命)に殺害された際、その体を次代の器として転生する。
【既存スキル】
『不定形化』『溶解液分泌』『魔核捕食・魔力値上昇』『超跳躍(脚部強化)』『角貫通突撃』『魔核捕食効率化』『高速移動(韋駄天)』『動体視力強化』『気配遮断』『水中機動最適化』『異種肉体統合』『剣術・短剣戦闘(近接技巧)』『罠解除』『人間言語』『魔力感知』『丸飲み』『脱皮(代謝上昇)』『竜鱗硬化(高位物理・魔法耐性)』『飛竜の炎息』『竜の威圧』『重装分散被甲』『流嵐水刃』『無音幻翼』『剛力』『地響き』『光学的擬態』『痺毒壊蝕牙針』 『大気壊滅』『酸性瘴気噴出』『因果断絶』
【新規獲得スキル】
・『狂気の大号令』 (特性:視界に入る敵全体の精神を汚染し、パニック発作や仲間割れ・自死を引き起こす※聖女・勇者以外には抵抗不可能)
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