第十六話 黄泉戸の谷の影獅子
巨石族の荒野を後にした私たちが向かったのは、魔大陸の最南端に位置する、通称『黄泉戸の谷』と呼ばれる死の領域であった。
北部の温暖な鉱山地帯とは打って変わり、この一帯は光さえない深い渓谷の底に位置している。立ち込める冷ややかな空気には生気が一切感じられず、代わりに濃密な死霊の魔力が澱のように沈殿していた。
足を踏み入れるだけで、呼吸をするたびに肺の奥が冷やされ、生きていることそのものが拒絶されるような不気味なプレッシャーが肌を撫でる。
「……うう、なんかここ、すっごく嫌な感じがするわ……」
魅魔族のローザが、防護服の襟をギュッと掴みながら、大柄なガザルの背中に隠れるようにして震えていた。
周囲の岩肌には、魔人族たちの墓標が幾重にも並んでいる。だが、それらはただの墓ではない。真魔種の死体を葬ると、その肉体と魂に宿っていた莫大な魔力が地下の墓場へと蓄積されていく。そして、その溜まりに溜まった濁った死の魔力が歪な形で凝縮され、かつて『黄泉喰らいの影獅子』という災厄の霊獣を生み出してしまったのだ。
「黄泉喰らいの影獅子は、周囲一帯の生気を喰らい尽くす。本来であれば魔王国にとっても放置できない危険な魔物なのだが……」
レイヴンは冷徹な目を渓谷の奥底に向けながら、背後に控える私をちらりと一瞥した。
「真魔種の一族が自らこの地に残り、封印と監視を続けてきた。そして軍上層部は、ウェタルカのスキル獲得と、この厄介な影獅子の討伐を同時に成し遂げる。……まさに一挙両得の作戦というわけだ」
「ふぅん……ヒトの死を使って一石二鳥なんて、趣味悪いね」
私は気だるげに肩をすくめ、足元の石ころを蹴飛ばした。どうせ死ぬのは私だ。いつものように殺されて、新しい強大な能力を手に入れられるなら、理由は何だって構わない。
そんな私たちの前に、黄泉戸の谷の防衛と監視を担う真魔種の葬送司祭たちが姿を現した。漆黒の法衣を纏い、理知的な雰囲気を漂わせる彼らは、淡白な態度で私たちを迎え入れたが、過酷な任務の慰労にと、ささやかな食事の席を用意してくれていた。
迎賓館に設えられた豪奢なテーブルに、真魔種の伝統料理が並べられた。
その瞬間、私はピクリと鼻を動かした。料理の皿から漂ってくるのは、通常の生物が口にするような肉や野菜の香りではない。もっと根源的で、かつて魔核を貪り食っていた頃の本能をダイレクトに刺激する、濃厚な魔力の芳香だった。
「……おや?」
真魔種の司祭が差し出した料理を覗き込み、レイヴンが眉をひそめた。皿の上には、結晶のようなものが散りばめられた、深い黒色の煮込み料理と、スープが並んでいる。
「これは……『魔石の粉末』か。真魔種の伝統として、魔石を砕いて料理に加え、体内の魔力の保持増進を図るのだが……」
レイヴンは険しい顔つきで私たちを見た。
「真魔種以外がこの料理を口にすれば、許容量を超えた魔力が体内で暴走し、魔力過多による体調不良を引き起こす。お前たちには別の食事を用意させよう」
レイヴンが皿を遠ざけようとした、その瞬間だった。
「……待って」
私の喉の奥から、低く濁った声が漏れた。
じゅるり、と。自分の意志とは無関係に、口の中に唾液が溢れ出す。私のなかの魔物たちの記憶が、無数の魔物を狩り、その魔核を貪り食っていた飢餓感が、目の前の黒い煮込み料理によって一気に呼び起こされていた。理性ではなく、肉体と魂の深層がそれを欲している。
「ウェタルカ?」
「それを……ちょうだい」
「おい、話を聞け! 特に人間の体でなんぞ口にすれば死ぬやも知れんぞ!」
「うるさい。……大丈夫だから」
私はレイヴンが止めるのも聞かず、皿を力づくで引き寄せると、スプーンですらなく皿を抱えてその黒い煮込み料理を口に流し込んだ。
瞬間――。
ガツンッ!! と、脳髄をハンマーで殴られたような強烈な衝撃が走った。
舌の上でジャリッとした魔石の微粉末が弾け、膨大な魔力が、胃袋から全身の血管へと奔流のように駆け巡る。あまりの濃厚さと刺激に、視界がチカチカと明滅した。
(美味い! ……美味いっ! ……ウマい!)
私の中で鼓動する魔石がさらなる摂取を要求し、飢えた猛獣が餌にしゃぶりつくように貪り食った。
私は夢中で皿を舐め回すように、魔石の粉末がたっぷり入ったスープも一気に飲み干した。頭がくらくらするほどの極上の酩酊感に包まれる。
「……お前というやつは……本当に得体が知れないな」
レイヴンは呆れたように深い溜息をつき、ローザは「やっぱり変態よ、あの女……魔石を食べるなんて正気の沙汰じゃないわ」と青ざめながら皿を遠ざけていた。
しかし、満面の笑みで魔石料理を平らげた私は、大満足の状態で、いよいよ黄泉戸の谷の最奥へと歩みを進めたのだった。
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渓谷の最深部、死の魔力が渦巻く巨大な墓場の中心に、そいつはいた。
『黄泉喰らいの影獅子』。
その姿は、黒曜石のように硬質な漆黒の毛並みを持ちながら、輪郭が常にぼやけた影のように揺らめく巨大な獅子だった。四肢の足音すらなく、周囲の空間そのものを黒く染め上げながら、赤く光る二対の目で私たちを静かに睨みつけている。
「……おい、あいつ、普通の魔物と空気が全く違うぞ」
竜血族のガザルが、手にした巨大な双剣を構えながら、冷や汗を流して一歩後ずさった。
普段は恐れを知らずに敵陣へ突撃するガザルが、恐怖を感じるのは当然であった。この影獅子は、単に物理的な戦闘力が高いだけの怪物ではない。その存在自体が「死」と「因果の停滞」を司っており、近づく者の生命の歴史と魂そのものを削り取る特殊な領域を展開している。
「総員、距離を取れ! あいつの放つ呪いは、通常の防御魔法を無視して魂を侵食する。……ウェタルカ、準備はいいな?」
「……いい……行ってくる」
私は表情を変えずに、服をポイポイと脱ぎ捨て、影獅子へと近づいていった。今回ばかりはローザも悲鳴を上げずに静かに怯えているだけだった。
グルルルル……と、影獅子の喉の奥から地響きのような唸り声が響いた。次の瞬間、影獅子の姿がかき消えた。
「――速っ!?」
目で追うことすらできない超高速の空間跳躍と影の移動。私の背後に回り込んだ影獅子の巨大な前足が、音もなく振り下ろされた。
バシュッ!! と、私の胴体が真っ二つに引き裂かれた。
だが、ここまではいつも通りだ。「よし、これで次の体に――」と意識を切り替えようとした、その瞬間。
「……っ……? なんだ、これ……?」
私の全身に、これまでにない耐え難い悪寒と、強烈な拒絶反応が走った。
いつもなら発動するはずの『不死転生』の魔力回路が、まるで冷たい泥に阻まれたかのように、うまく繋がらない。影獅子の爪によってもたらされたのは、単なる物理的な斬撃ではない。――「死そのものを固定し、復活の因果そのものを断絶する」呪いの力だった。
「ぐっ……あぁっ、がっ……!?」
私の肉体の細胞が、ボロボロと砂のように崩れ落ちていく。魂の根底から存在を削り取られるような、今までのどんな死とも違う、底知れぬ恐怖と激痛。
私の体がもつ特殊な「死の概念」を、この怪物の力は根本から踏みにじり、永遠の消滅へと引きずり込もうとしていた。
「ウェタルカ!!」
遠くでレイヴンの叫び声が聞こえた。
ガザルが巨大な双剣を振るって影獅子の注意を引き付け、ローザが精神干渉の魔法で私の意識を繋ぎ止めようと必死に魔力を放っている。フィグもまた、解析した魔導装置を展開して影獅子の呪いの干渉領域を無理やりこじ開けようとしていた。
――ふざけるな。
私の意識の底で、ドス黒い怒りと、生にしがみつく執念が逆巻き始めた。
(こんなところで……死ねない! ……私は、元の世界に帰る……!)
――私は、私のものだ。お前ごときに、私の魂を勝手に断ち切らせるか――ッ!
「おあぁぁあああああ!! 」
獣のような咆哮を上げ、必死に体の崩壊を止めようと全てのスキルを無茶苦茶に発動した。今まで乗り移ってきた魔物たちの部位が体からメキメキと生え、私の継ぎ接ぎだらけの魂の形をむき出しにする。
周囲は毒と酸の瘴気に包まれ、私が起こした地響きで一体の土地に地割れが起こった。
角が生えては消滅し、巨大な四肢を生やしては消滅し、蔓を生やしては消滅し、竜鱗の光る尾を生やしては消滅し、歪な翼を生やしては消滅する。
膨張を続ける私の体は消滅と拮抗していたが、やがて限界が来た。魔力が底をつき、体の変異と再生が滞った。その間も砂のようにして私の体は崩れ落ちていく。
「は、ハハハッ……結構呆気なかったなぁ……」
私は獣に変異させた腕をだらりと垂らして絶望した。両目から静かに涙が伝う。生きることも、元の世界に帰ることも叶わない。抗うことを諦めた。
――その時、周囲一帯に「機械的な声」が響いた。
『――システムエラー……オブジェクトの均衡演算ミス。……再試行します』
鳴り響いた「声」に呆然としていると、突然、『不死転生』の魔力回路が繋がった。私は意味の分からない状況に戸惑いながらも、この好機を逃すつもりはなかった。
素早く意識を影獅子に滑り込ませる。
――視界がパチンと切り替わる。
その視界は今までに経験したことのないものだった。生き物の魂が揺れる炎のように視覚化され、それ以外のものはモノクロに映される。魂を刈り取る本能がレイヴンたちの姿によって刺激され、私は牙を食いしばって持ちこたえた。
また、雪崩れ込んできた記憶による、頭が割れるような頭痛が続いて襲ってきた。何千、何万という真魔種の人生の記憶を追体験させられる。その濁流は、私の自我を崩壊へ導き始めた。
「わ、ワタ……私ワ……アァぁ……」
自分の輪郭を見失い、魂を食らえという本能に従ってレイヴンたちに向かって飛びかかろうとした――その瞬間、ローザの精神干渉が、心地よい歌のように脳内に響き渡った。
花畑を歩くような幸せな感覚。視界が霞み、幻影が浮かび上がる。そこに見えたのは、母と、愛しい彼の姿だった。
『流花、流花。貴女は…流花』
(私、ㇵ……ルカ……ワタシ……)
『ルカ……タルカ……ウェタルカ! アンタはウェタルカよ! しっかりしなさい!』
母と彼の姿がかき消え、代わりにローザの必死な呼び声が、明瞭に私の意識を貫いた。
(私は……私だ!)
自我を取り戻した私は、再び意識が移ろう前に、この体を殺すことにした。霧喰らいの巨神から奪い取った、『大気壊滅』を自分の周囲に限定して展開。酸素と魔力が枯渇していくなか、影獅子の魔核が機能を停止し、絶命に至る。
身体が再構成され、私は私の体を取り戻した。影獅子の残骸からは、大量の魂が天に上っていった。
ゆらゆらと揺れる炎の群れ、それらが全て空に消えたのを確認して、私はその場に大の字になって寝転がった。本当に死にかけるという稀有な恐怖体験のせいで、魔核がバクバクと鳴っている。
「……はぁ、死ぬかと思った……マジで死ぬかと思った……なにあれ……」
遠くから駆け寄ってきたローザが、私の全裸の姿を見て「心配したのよ! この変態!」と真っ赤になって叫びながら、上着を投げつけてきた。
その上着を面倒臭そうに頭から被りながら、私は空を見つめ続ける。
死の恐怖の冷たさを感じながら、第二段階調整の二つ目の関門も、どうにかこうにか突破されたのだった。
【名前】 ウェタルカ
【種族】 ???
【称号】 異世界からの転生者、死にたがり、生にしがみつく者
【能力値】
・魔力量: 測定不能(不定形数)
・筋力 : 測定不能(不定形数)
・耐久 : 測定不能(不定形数)
・敏捷 : 測定不能(不定形数)
【固有スキル】
・『不死転生』:対象(物質体、精神体を含むすべての生命)に殺害された際、その体を次代の器として転生する。
【既存スキル】
『不定形化』『溶解液分泌』『魔核捕食・魔力値上昇』『超跳躍(脚部強化)』『角貫通突撃』『魔核捕食効率化』『高速移動(韋駄天)』『動体視力強化』『気配遮断』『水中機動最適化』『異種肉体統合』『剣術・短剣戦闘(近接技巧)』『罠解除』『人間言語』『魔力感知』『丸飲み』『脱皮(代謝上昇)』『竜鱗硬化(高位物理・魔法耐性)』『飛竜の炎息』『竜の威圧』『重装分散被甲』『流嵐水刃』『無音幻翼』『剛力』『地響き』『光学的擬態』『痺毒壊蝕牙針』 『大気壊滅』『酸性瘴気噴出』
【新規獲得スキル】
・『因果断絶』 (特性:相手の治癒、再生、魂の復活を一時的あるいは恒久的に阻害する)
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