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第30話:狩りの時間

 パーレ領滞在2日目。

 澄んだ青空の下に広がる果樹園で、私は籠を抱えてはしゃぎ回っていた。


「りんごだ~っ‼ 収穫だ~~ッ!」


 人生初めてのりんご狩りだ。王都にはたくさんの果実が売られているが、こうして実際に実っているところを見る機会などなかった。果樹園全体から甘酸っぱい香りがするようで、その場にいるだけで幸せな気分になる。


 パーレ領主は快く、好きなだけ採ってくれてかまわないと言ってくれたので、私はスイーツ向きの酸味の強そうなりんごを探していた。キリッとした甘酸っぱさは、甘いスイーツとの相性が抜群なのだ。


(領主様によると、皮に張りがあって、色の濃いものがいいとか……。あっ! あれがいいかも!)


 木に実る艶々と美しい実を見上げ、私は「よっ」と、右手を伸ばした。けれど私の背よりも少し高くて、背のびをしても届かない。


(よし! 飛ぼう!)


「採れたぞ」


「え」


 膝にぐぐっと力を溜め、高くジャンプをしようとした私の背後から、黒い影が落ちて来た。そうかと思うと誰かの腕がにゅっと伸びて、お目当てのりんごを軽々ともいでいく。


「楽しそうで何よりだ」


「旦那様……!」


 振り返るようにして見上げると、すぐ後ろに旦那様が立っていた。声が耳のそばで聞こえ、息がかかりそうな距離。りんごを手渡してくれる彼が太陽の明るい光を浴びているからか、なんだか上手く直視できなくて、私の目は思わずお魚のように泳いでしまう。


(恥ずかしい……。はしゃいでるとこ、見られちゃった……)


「美味しそうだな」


 私の手に採ったばかりのりんごをのせる旦那様。

 その際、手と手が軽く触れ合ったせいで、私の心臓はドクンッと特大の太鼓を鳴らした。


(ダメ……! 優しくされると、変に意識しちゃう!)


「高い場所だって、ジャンプすれば届きますからーーっ‼」


 旦那様は、雇用主なのだから。

 私と彼は、契約結婚の関係なのだから。


(とにかく、クールダウン!)


 そう言い聞かせ、私は逃げるようにびゅーんっと果樹園の奥地へと走り去った。


 ◆◆◆


 私が足を止めたのは、果樹園の片隅にある木製の小屋だった。りんごの木を世話する農具が納められているが、人は誰もいない様子である。

 そのことにほっとしながら、乱れた息を吐き出す。


(はぁ~……おかしいな……これくらいで動悸なんてするはずないのに……)


 分かっている。呼吸を浅くさせる胸の早鐘は、全力で走ったからではない。

 先ほど耳元で聞こえた旦那様の声や、手に触れた感触を思い出すと、体がどうにもままならなない。

 そして、心も。


(たくさん剣を握られた手……大きくて、あったかくて……もっと……触れたかった……。って、私ってば何を……。旦那様が優しいからって、勘違いしたらご迷惑になっちゃうのに)


 胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気がして、思わずりんごの入った籠を強く抱きしめた。甘酸っぱい。そんな香りが私を包む。


「……っ」


 不意に人の気配がして、私はパッと後ろを振り返った。背後を取られていたことにヒヤリとしてしまうのは、【剣姫】の癖が抜けきらない証拠だった。


「領主夫人様」


「りんご狩りは楽しんでいただけていますか? ランドブルム辺境伯の姿が見えませんが……お一人ですか?」


「えっと……りんごを採るのが楽しすぎて、うっかりはぐれてしまって」


 両手に作業手袋をはめ、頭に麦わら帽子を被ったパーレ領主夫人が、のんびりとこちらに向かって歩いてきていた。おっとりと淑やかな空気を漂わせる彼女は、私の誤魔化し笑いを受け入れたのか、「まぁ、熱心ですわね」と言って微笑んだ。

 パーレ領主夫人もりんごを収穫していた様子で、背中に背負っている籠には赤々と美しい実がこんもりと入っている。


「果樹園は広いですから、後でわたくしと一緒に屋敷に戻りましょう。きっとそこで合流できますわ」


「いいんですか? お仕事の途中だったのではありませんか?」


「まぁ、仕事といえば仕事ですけれど。わたくし、品種改良したりんごを世話しにきていましたの。まだ世には出せない段階ですが、よければ試食なさいます? シャキシャキとした食感と、たっぷりの蜜が絶妙ですの」


「わぁ! やったー!」


 喜ぶ私にパーレ領主夫人が一つりんごを取り出して、差し出す。一番上に乗っていた紅色の大玉は、私たちの顔を映すほどに輝いている。すんっとりんごの香りを吸い込む。花のように甘い香りの奥に、ほのかに感じる青臭さ――。


「…………」


「どうぞ、忌憚ない感想をいただけると嬉しいですわ」


 目を細めるパーレ領主夫人が浮かべた妖しい笑み――艶やかなりんごに映り込んだ一瞬のそれを、私は見逃さなかった。


「これ……毒入りですよね?」


「な、何をおっしゃいますか」


「王妃教育で履修したので間違いないです。毒特有の匂いがかすかに……あれっ」


 パーレ領主夫人が動揺の色を見せた。そう確信すると同時に、私の視界がぐにゃりと歪んだ。

 想像していた毒は、独特の青臭さのある花の根を煎じたものだ。武器に仕込んで使用し、傷口から体内に入ると、途端に全身を麻痺させる。

 私の症状はまさにそれで、手から転がり落ちたりんごを追うようにして、私は地面に膝を突いた。


(体が……痺れて……)


「う……」


「言っただろう? 品種改良したんだ」


 パーレ領主夫人の淑やかな声が、耳障りな低いものに変わった。私を見下ろす「彼」は、肩を揺すって笑っていた。


「触れるだけで皮膚から浸透する神経毒だ。闇市で出回ってはいるが、お城のお勉強だけじゃあ、知りようがねぇだろ? 残念だったな」


「あ……う……」


 顔の筋肉も痺れてきたのか、上手く舌が回らない。相手が何者かは分からないが、時間が経てば経つほど不利になることは間違いない。そう踏んだ私は、こっそりとブーツの裏に仕込んでいる刃を抜き出そうとしたのだが。


「おっと、余計なことすんな!」


「!」


 私は肩口を蹴り飛ばされ、あっさりと地面に倒されてしまった。体が言うことを利かず、呻き声を上げるのが精いっぱい。蹴られた痛みと背中を打ち付けた痛みの両方で呼吸がままならず、当然、力が入らないので起き上がることもできない。


「う……うぅ……」


(まずい……反撃も逃走もできない。……こんな奴に後れを取るなんて)


「どんなバケモノかと思っていたが、世話ねぇな。【剣姫】も所詮人間。毒には敵わねぇってか? どれ、殺す前に楽しませてもらおうか」


 パーレ領主夫人に似合わない下卑た声音の主は、「へへっ」とニタつきながら、指を鳴らした。パチンッという音が聞こえると共に、パーレ領主夫人の周囲で淡い光が弾けて消えた。

 すると魔法が解け、黒の僧衣に軽装の鎧をまとった男の姿が現れる。


 ミュルグレス王国民は魔法が使えない。

 使うことができるのは、アロンダイト帝国とアウス神国の民だ。そして僧兵が主力であるのは、アウス神国――。


(どうしてアウスの僧兵がパーレ領主夫人に化けて――)


「あぅっ!」


 私が思考を巡らせるよりも早く、僧兵がどすんッと馬乗りになり、腹部に鈍い衝撃と重みが広がった。蹴られて痛みの残る肩に手で体重をかけられ、「ひぐっ」と、情けない声が漏れてしまう。毒のせいで身動きがまったく取れず、見下ろしてくる僧兵のしたり顔から目を背けることもできない。


 ひんやりとした嫌な予感が、血の気をぐんと引かせていく。


 私は【剣姫】をやめて、ランドブルム辺境伯家に嫁いだ。

 そこで初めて、剣を持たなくていと言われ、パティシエだと認めてもらえて、妻だと呼ばれて。守ってもらったり、助けてもらったり、綺麗だと言ってもらったりして。


(ずっと剣士として生きてきたから、普通の女の子みたいに扱ってもらえて……すごく……すごく、嬉しかったのに)


 僧兵はニヤリと口の端を持ち上げ、「狩りの時間だ」と言った。


「オレはガタイの良い女が好きでよぉ。アンタ、いい体してんじゃねぇか」


「や……め……」


「優しくしてやるぜ、剣のオヒメサマ」


 びりびりと不快な音を立て、私のブラウスは引きちぎられた。露わにされた胸元がひんやりとした空気に触れ、みるみる恐怖と羞恥心がせり上がる。

 僧兵は目に喜色を浮かべ、たまらないと言わんばかりに舌なめずりを見せつけると、両手のグローブを取り去った。


 私は必死にもがいたが、僧兵にさらに強く肩を押さえつけられてしまい、まるで歯が立たない。痺れた足を無意味にジタバタとさせ、潤んだ瞳で相手を睨みつけることしかできない。


(悔しい……毒さえくらわななければ、こんな奴……)


 胸元に這うざらついた男の手の感覚が、私の思考力を奪っていく。気持ちが悪い。今すぐ逃げ出したいのに、体が動かない。

 毒のせいだけではないのかもしれない。この後何をされるのか、嫌でも想像してしまい、怖くて震えが止まらないのだ。


「ん……っ。いやぁ……っ」


「いいねぇ。強気な女が怯える顔。分からせがいがある」


 ぞくぞくとした興奮を覚えたのか、僧兵はブラウスをさらに破りながら、私の耳元でねっとりとした声を聞かせてきた。


 こんな奴に女扱いされたくなかった。

 こんなことで、女だと思い知らされたくなんてなかった。


「んんっ」


 情けない声が漏れるたび、自分が自分でなくなるような感覚がひたひたと満ちていく。

 苦しくて、惨めでたまらない。

 気持ちのせいか、それとも体の反射が分からないが、瞳からはポロポロと涙が零れ落ちる。

 僧兵はそんな私に言った。


「せっかくだ。アンタだってイイ思いしてぇだろ? 『アナタの女になります』って言えば、とびきり良くしてやるぜ?」


「……ふざけた、ことを……」


「真面目だっつうの」


 僧兵のがさついた両手が私の首を締上げる。途端に呼吸が苦しくなり、私は酸素を求めてはくはくと口を動かした。


「う……あっ」


「そらそら、言えよ。『可愛がってください』ってな!」


 言わなければ、このまま首を締上げられて死ぬのだろうか。

 死にたくない、と咄嗟に思う。

 走馬灯のように頭を駆け巡るのは、私を鍛えてくれた母や兄たち、可愛い弟。切磋琢磨したキース。お菓子をくれた魔術師の女の子に、技術と知識を与えてくれた宮廷パティシエの師匠。そして――。


(私をパティシエとして受け入れてくれた……あの方の喜ぶ顔をもっと見たい……。私のお菓子で……たくさん、口福にして差し上げたい……)


 私にそっと触れる大きな手。

 丁寧に感想を述べてくれる、優しい声。

 お菓子を食べる時に見せる、幸せそうな表情。


 それは、私が大好きになったもので、これからも大好きでいたいものだ。


「い……やだ……」


(旦那様以外、考えられない。私は……旦那様がいい……っ)


 脳裏に浮かぶ、仮初の夫の姿。

 幻想のアルビオ・ランドブルムが、地底に静かに響くような声を発した。


「――俺の妻に何をしている……⁉」


 カサリ……と、草を踏む足音がして、私は涙の溜まった瞳でそちらを見上げた。

 作業小屋の近くに立つ旦那様は、凍てつくような鋭い眼差しを僧兵に向け、怒りを全身から漲らせていた。これまで感じたことのないほどの大きな殺意が、ヒリヒリと肌を刺す。僧兵がゾッと震え上がり、息を吞んだ感覚が伝わってきた。


(来て……くれた……)


 氷点下のような空気の中で、私は一人安堵した。

 旦那様がいてくれたら大丈夫。もう、私だけで頑張らなくていい。一人で耐えなくてもいい。私はこの人を頼っていいのだから。


「だん……さ……ま」


 張り詰めていた糸が切れてしまい、意識はそこで一気に遠くなった。痺れに抗って開いていた瞼は限界を迎え、思考も手放し――私は深い深い眠りについた。



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