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第29話:私にとってのあなたは

「ご、ごめんなさい‼」


 息がかかるほどの距離に旦那様の整ったお顔があり、驚いた私は弾かれるようにして体を起こした。お尻の下には旦那様のお腰。私は彼を床に押し倒してしまっていた。


(戦闘なら顔面パンチ連打の姿勢だけど、今のこれは……違う! これは破廉恥!!)


「う……、問題ない……。君は大丈夫か?」


 旦那様が声を絞り出す。少し苦しげに眉が寄せられているが、笑顔を作って私を見つめてくれている。床に頭や背中を打ち付けたかもしれないのに、上に乗っている私の方を案じてくださるなんて、旦那様は優しすぎる。

 そしてこちらを見上げてくる視線がなんとなく熱っぽい。その色気が私を容赦なく襲ってきていて、思わず呼吸を忘れそうになってしまった。


「わ、わわわわ私は旦那様のおかげで平気です! 旦那様こそ、お怪我は……って、すみません! すぐどきます!」


「あ……待って」


「へ?」


 これ以上近くにいると、心臓のバクバクを悟られてしまうかもしれない。

 けれど、慌てて横に飛び退こうとした私に向かって、旦那様が手を伸ばした。彼の指が、私の頬をすり……と撫でた。


「レジィナが無事でよかった」


 不意打ちのオーバーキル。旦那様の温かい指の感触と、細められた紅眼の破壊力の恐ろしいこと。

 ポポポボンッと、私の顔は茹でだこのように真っ赤に染まり、脳は蒸気を上げて思考不可能になってしまった。

 私の意識はふっと遠くなっていく。


 もしこれが戦場なら、私はあっという間に死んでいただろう。まさかかつて【剣姫】と呼ばれた私が、乙女のように恥じらい、男性に少し触れられただけで気をやってしまうなんて……。

 あ、でも待って。相手がただの「男性」なら、私は動じることなんてない。兄弟と組手をしてもへっちゃらだし、キースがキザな仕草でエスコートしてきても何も感じなかった。宮廷パティシエの師匠に「ほっぺにクリームがついとるぞい」と、布でごしごしと拭われた時も、「あはは!」で済んだ。


 揺れる意識の中に、ふんわりと甘い香りが漂う。

 甘いお菓子たち――チーズケーキ。苺のトライフルケーキ。シュークリーム。キャロットケーキ。フレジエ。チョコサンドクッキー。作りたいと願っているタルトタタン、ガトーインビジブル、シャーベットにアップルパイも現れた。


 すべて私の大好きなもの。もっともっと欲しくなるもの。

 その向こうに、誰かが立っている。

 逞しくしなやかな体。艶やかな黒髪の間から紅の瞳がこちらを見つめている。


「旦那様……」


 私の大好きなものと一緒にいるあなたは、私にとってどんな存在なのでしょう。


(ドキドキするのは、もしかして……)






「う~~……だんな……さま……」


「呼んだか?」


「ふえっ⁉」


 むにゃむにゃとしながら瞼を持ち上げると、旦那様の美顔が私を見下ろしていた。私はソファの上で、旦那様に膝枕をされていたのだ。


「な、なんで⁉」


「急に倒れただろう。体調に異常はなさそうだから、少し様子を見ていた」


「私、そんな痴態を……っ」


「もうしばらく横になっていた方がいい。晩餐会まで、まだ時間がある」


 起き上がろうとすると、旦那様が半ば強引に私の体を押し戻す。再び自分の腿に私を寝かせると、優しい手つきで頭を撫でてくれた。

 その子どもをあやすような触れ方が気恥ずかしく、けれど嫌ではなくて。

 私は顔がカッカッと熱くなる感覚に浮されながら、「恐れ……多いです……」とだけ言葉を返した。旦那様の体から伝わる熱が、私の温度をじんわりと上げていく。


「顔が赤い。熱があるのかも……」


「……ない、です」


(体を心配されるなんて、【剣姫】時代じゃ考えられない……っ。こんなこと初めてで、どうしたらいいか……)


「……俺のせいですまない。ドレスのことで、君を動揺させてしまった」


 私が恥ずかしさのあまり両手で顔を覆っていると、旦那様の落ち込んだ声が耳に滑り込んできた。

 ドレスといえば、旦那様が「だ、駄目だ! こんなドレス……!」と私を見るなり叫んだ件だろうか。

 私が自分の体に意識をやると、肩には旦那様の外衣が掛けられていた。大きく露出していた肩や腕、背が隠されている。


(私の体が見るに堪えないから……。だから、隠してくださったんだ……)


 ふわふわのスフレがしゅん……と萎むような気持ちになり、顔に押し付けたままの手の力を強めた。

 たとえ【剣姫】をやめて、パティシエになっても、変わらないものはある。私が生まれた頃から鍛え上げてきた体は、決して華奢でも柔らかくもない。


「いえ……お見苦しいものを晒してしまってすみませんでした……」


 泣き出しそうになるのを堪えながら、必死に平静を装って声を絞り出す。

 けれど、謝ったところで旦那様が気まずい思いをするだけだと、すぐに気づいて罪悪感に襲われた。こんな謝罪をしても、彼を困らせてしまうのに――。


 ところが、旦那様の反応は私の想像とは異なっていた。


「違う! 『駄目だ』と言ったのは、似合っていないという意味じゃなかったんだ。その……君が綺麗すぎて、誰にも見せたくなくて……俺だけのものに、しておきたかったんだ」


「え……?」


 旦那様の長い指が、私の金色の髪をするりと梳いた。サラサラと流れ落ちる髪にそっと触れられる感覚は、彼の言葉が真実か偽りか、私を激しく混乱させた。


 顔を覆っていた両手をそっとずらすと、指の隙間から旦那様のお顔が見えた。普段は険しい色を浮かべている双眼には、戸惑っている私の姿だけが映っている。

 とろけるような甘い眼差しに射抜かれ私は、身動き一つ取れずに、ただ自分の胸が打つ早鐘の音を聴いていた。


「旦那様……それは、どういう――」


「ご主人様、ブラッドにございます。こちらにおいででしょうか?」


「もうっ! いいところだったのに!」


 言い換えたタイミングで聞こえたのは、部屋の外から呼びかけてきたブラッドさんと、部屋の奥から現れたニコラさんの声だった。


「ぶ、ブラッド! そこで待っておけ!」


「ニコラさん⁉ 見てたんですか⁉」


 動揺した私と旦那様は、同時に素っ頓狂な声を上げた。

 私は弾かれるようにして旦那様から離れると、「ありがとうございました! もう大丈夫ですので!」と、ぺこぺこと頭を下げた。旦那様は「そうか」と小さく頷くと、手早く衣装の皺を整え始めるが、ギロリと険しい視線をニコラさんへと向けた。


「盗み見とはいい趣味だな」


「うふっ。私の気配にお気づきになられないくらい、盛り上がっておいででしたので」


「……レジィナに別のドレスを」


「はい! 心得ております」


 悪びれないニコラさんは、実に度胸がある。さすが、辺境伯家に仕えるメイド長だ。

 この後、結局旦那様もドレス選びに立ち会ったのだが、私はというと、彼に「綺麗だ」と告げられた衝撃の余韻で、終始ぽやぽやとしていたのだった。



 ◆◆◆


 パーレ領主夫妻との晩餐会を終えると、どっと疲れに襲われた。私は、寝支度を済ませると、早々にベッドにもぐりこんでいた。

 客室のベッドはふかふかで心地いい。少し冷える夜を温かく過ごすためか、厚めの毛布も気持ちがいい。

 けれど、香りがなんとなく落ち着かない。慣れたランドブルム家のベッドが恋しい。


(あ……私、ランドブルムのお屋敷が、ちゃんと自分の居場所になってたんだ……。きっと、旦那様が契約妻の私を大切にしてくださるから……)


 ぎゅっと目を閉じつと、食事の席での旦那様の発言が蘇る。


 名産のりんご料理のフルコースにはしゃいでいた私に、パーレ領主夫人が「可愛い方ね」とおっしゃった。私は「いえ、そんな」と社交辞令対して首を横に振っていたのだが、旦那様は堂々と言い切ったのだ。


「可愛いでしょう。私の自慢の妻です」


 妻! 妻! 妻! 自慢の妻!

 私は旦那様を二度見どころか、三度見した。彼は何てことのない様子でワイングラスを傾けていたので、私はその演技力に感服せずにはいられなかった。


(契約結婚だとバレないようにするための演技。そのはずなのに……こんなに甘過ぎたら、勘違いしそうになるじゃない……)


 ドレスのこともそうだ。

 私が「綺麗」だなんて。きっと、「素晴らしく綺麗な筋肉美」だとか、「俺だけのものにしたい上腕二頭筋」みたいな意味に違いない。

 契約妻が気持ちよく働けるように努めている旦那様は、雇用主の鑑だ。私は大変恵まれている、うん。きっとそう。


 そんなことを言い聞かせながら、私はゆっくりとまどろみの沼に落ちていった。

 仮にも夫婦なので、旦那様と同室で夜を明かすことなどすっかり忘れ、呑気にすぴすぴとりんごスイーツを作る夢を見て。


「頑張ってみたが、やはり手強いなぁ…」


 いつの間にか部屋に入って来ていた旦那様が、私の額に優しく落とした口づけ――。


「おやすみ、俺のレジィナ」


 隣で眠る旦那様の存在に、目覚めた私が絶叫をあげ、「鼓膜が破れる」とたしなめられたのは翌朝の話――。


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