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第28話:そうだ、パーレ領に行こう

「ここが果物の名産地――パーレ領……! フルーツ天国と名高いこの地に来れるなんて、感激です……っ!!」


 開かれた馬車のドアから流れ込む爽やかな空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。なんだが空気までフルーティな気がして、私の目は無意識に高揚感たっぷりの輝きを放つ。


 眼下に広がる緑色の丘陵地帯。広大な果樹園。古風な街並みが田園風景に溶け込む、一枚の絵葉書のような土地――パーレ領は、クレラント領の隣に位置する美しい田舎町だ。


 ミュルグレス王国では「国の果物カゴ(フルーツバスケット)」と呼ばれるほど、果物生産が盛んであり、王家御用達の果物農家が名を連ねている。

 私は王城にいながらも、ほぼ毎日、鶏むね肉とブロッコリー生活を送っていたため、パーレ領の果物を口にできたのは、指で数えられる程度だった。夜中にこっそり宮廷パティシエの師匠と作った、パーレリンゴのコンポート――その上品で瑞々しい甘酸っぱさに、身を稲妻で打たれたような衝撃が走ったことは忘れられない。


(りんご……りんごりんごりんごりんご‼ 旦那様のストレスを吹き飛ばすような、最高のりんごスイーツを作るんだから‼)


 私は国一番のりんごを求め、遠路はるばるパーレ領を訪れていた。

 疲れた時には、甘いもの。ニコラさんとクレイヴさんが、旦那様の只ならぬ精神を旬のりんごを使ったお菓子で労わってはどうかと、親身になって勧めてくれたのだ。


(それに他領に行くのも、いい気分転換になるかもって……)


「あっ」


 その時、びゅうっと強い風が馬車の傍を吹き抜け、私の日除けの帽子をさらっていった。青空にふわりと舞い上がった若草色のつば広帽子を目で追い掛け、慌てて手を伸ばすと――ぐらり。

 ちょうど馬車から下りようとしていた私はバランスを崩し、うっかり「きゃっ!」と、乙女のような悲鳴を上げてしまった。


「レジィナ……!」


「!」


 助けてくださったのは、私と共にパーレ領に来てくれた旦那様だ。


 私であれば、「きゃっ!」からの「……っと、危ない! こけると思いました? 私の体幹、舐めちゃいけませんよ、えっへん!」と、鍛え上げられた筋肉で元の体勢にまで戻ることができたはずだった。

 けれど、私がそうするよりも早く、旦那様が腰に手を回して支えてくれたのだ。まるで、大きく仰け反った女性を支えるダンスのポージングのよう。逞しい大きな手が、私の体に触れている。じんわりと伝わってくる手の温度が、彼の存在を強調し、何より良すぎるお顔が目の前にある。


(ち、ちかい……っ。お顔が良すぎ! 刺激が強すぎ……!)


 濡れ羽色の髪の間から覗く、炎のような紅の双眼。長い下まつ毛。スッと通った鼻筋に形のいい薄い唇――そう、唇だ。

 否が応でも脳裏によぎる指先キッスの記憶が、すでにカッカと熱を帯びていた頬の温度をさらに熱くした。心臓が騒がしく暴れ出し、今にも果樹園の彼方に飛んで行ってしまいそうな気さえする。


「すすすすみません! お手を煩わせてしまいました!」


「かまわない。だが、あまりはしゃぎすぎるな。りんご狩りは明日だぞ?」


 旦那様は、切れ長の目から柔らかい視線をこちらに注ぐ。私を地上で自立させる動作も、まるでメレンゲを掬い上げるかのように優しく丁寧だ。

 短い時間に予想以上の糖度を摂取させられた私は、情報処理が追い付かず、されるがままになってしまっていた。


「そ、そうですね……っ。私ってば、嬉しくてつい……」


(ひぃ~っ! 旦那様の一挙一動が心臓に悪い……。雇用主として私を気に掛けてくださってるだけなのに、変に意識しちゃうなんて。契約妻としてあるまじき行為だわっ)


 どんな相手と対峙したとしても、冷静であれ。

 私は母にそう叩き込まれてきたはずだったが、胸の鼓動はドッドッドッと、鈍い音の早鐘を鳴らすが如く騒がしい。耳までおかしくなってしまったのか、音が二重になって聞こえてくるほどだ。


「………行くか」


「………行きましょうか」


 もじもじと目を泳がせていた私を見つめていた旦那様は、紳士らしい仕草で私の手を取り、いつもより少しゆっくりと歩き始める。触れ合う指先が緊張しているのは、果たして私だけなのだろうか。

 馬車のドアを閉めるブラッドさんとニコラさんの「まるで新婚旅行に来た夫婦のようですな」「そういうことでいいんじゃないです?」という、ちょうど私たちの耳に届く大きさの声は、田園風景に似合うのどかなものだった。


 こうして、私の旦那様のりんご狩り遠征もとい、疑似新婚旅行が幕を開けたのだった。


 ◆◆◆


 私たちがまず訪れたのは果樹園ではなく、パーレ領主の館だった。

 辺境の領主の身分ともなれば、気軽に「ちょっとりんごを狩りに小旅行に」などとはいかない。旦那様は自領の果物栽培の参考にしたいため、視察させてほしいという申し出をパーレ領主に事前に行い、内容の詳細を綿密に調整してくださった。

 おかげさまで、私の目的――りんご狩りが見事にプランの中に組み込まれているのだが、それは2日目のこと。

 今晩は馬車旅の疲れを癒やすため、パーレ領主と領主夫人の好意でお屋敷に泊めてもらうこととなっていた。


 パーレ領主と夫人は40代くらいの人のよさそうなご夫婦で、私と旦那様のことを厚く歓迎してくれた。私の【剣姫】の悪評もご存じの上で、「アルビオ殿が選んだご令嬢なのだから」と、どんと受け入れてくださったのだ。

 夫妻の好感度はそれだけで天を突き抜ける勢いだったが、聞いていると、彼らは先代ランドブルム卿と深い交流があり、会食や狩りなどを楽しむ間柄とのことだった。


「後継のアルビオ殿がご立派になられて……。きっと、卿も主の元でお喜びでしょう」


「いえ、まだまだ若輩の身です。あの方に拾っていただけた誉に見合うだけの働きをせねばと、日々必死ですよ」


 聴き慣れない改まった口調が新鮮で、つい内容を流しそうになったが、どうやら旦那様は先代ランドブルム卿の養子らしかった。

 元々、先代と旦那様は辺境騎士団の上官と部下という関係。子どもを持つことができなかった先代が、将来性を見込んで旦那様を家門に迎え、辺境伯と騎士団長の座を譲り渡したのだとか。残念ながら、先代は隠居間もなく病で亡くなられてしまったのだと、私は後にブラッドさんから聞いた。


 けれどブラッドさんは、それ以上詳しくは教えてくれなかった。


「ご主人様にとっては、泥臭い過去でございますから。爺めの口から、勝手にお伝えするわけには」


 と、意味深に口の端を持ち上げて、逃げられてしまったのだ。


 まぁ、それならいつか聞きやすい空気になった時にでも、尋ねてみよう。

 契約結婚の関係で、どこまで相手のプライベートに踏み込んでよいのかは悩みどころではあるが、私は旦那様のことがもっと知りたかった。この感情は、ランドブルム家の屋敷に来た当初には、持ち合わせていなかったはず。けれど、近頃、私の胸の中で熱を帯び始めているものだった。


(一緒に暮らしてはいるけど、分からないことがほとんどだもの。どこで生まれて、どんな家族がいて、どうして辺境の騎士になったのか、お菓子が好きになった理由とか……、ドレスの好みとか……!)


「ねぇ、ニコラさん。このドレス、旦那様はお気に召されるでしょうか?」


「奥様が本体の時点で、何でも大喜びだと思いますけど?」


「そんな適当な! お好きな色だけでも知りませんか⁉」


 領主館の客室にて。私はドレスをとっかえひっかえしながら、ニコラさんに青い顔を向けていた。

 パーレ領主夫妻が晩餐にお誘いくださり、そのための衣装まで貸してくださったのだ。私が着ているのは夫人が若い頃に着ていたというドレスなのだが、きっとボディラインに自信のある方だったのだろう。胸元や背中などが大きく空いたデザインのものが多く、なかなかに筋肉質の私は見え方が気になって仕方がない。


 私は普段、なるべく体形が分かりにくくなるような服を着るようにしているのだ。母親譲りのがっしりとした肩幅や、努力の結晶である逞しい腕、大地を力強く踏みしめられる脚……。【剣姫】としては望まれる体は、令嬢としての価値には結びつかない。

 王国では強さが歓迎されるものの、結局多くの男性は、自分が一番強くありたくて、パートナーは庇護対象であってほしいと願うことがほとんどだ。ちょうど、私の亡き父がそうだったように。


(女の子って、もっとマシュマロみたいに柔らかいんだろうなぁ……)


 磨き上げられた姿見の鏡に映る私は、剥き出しの腕をぎゅっぎゅっと揉んでみる。知っていた、ちゃんと硬い。


「うぅ……長袖が着たい……」


「まったく問題ないですよ~! 今着ていらっしゃるブルーのドレス、とてもお似合いですよ。奥様の瞳の色と近いですし、可愛らしいデザインがよくお似合いです」


 そう言うニコラさんの体は、メリハリのある魅惑のボディだ。


「本当ですか? でも肩と胸元が出すぎでは?」


「そんなに気になるなら、ショールでも羽織りましょう。たしか、お借りしたものの中にあったはず……」


 ニコラさんは形の良い顎に指を添えながら、奥の衣裳部屋へと入っていった。その直後だった。


「着替えたか?」


 乾いたノック音と共に聞こえてきたのは、旦那様の声だった。

 私はびくっと体を跳ねさせ、反射的に「はいっ‼」と力強く答えてしまった。母親から、「返事は短く! 正確に!」と刷り込まれてきた弊害だ。

 たしかに着替えているか否かと問われると、着替えてはいる。けれど、まだドレスは確定ではないし、ショールも手元にないし、アクセサリーもこれから付けるところだった。


(ひぇ~っ! 思いっきり未完成! ニコラさん、助けてぇ!)


 しかし、衣裳部屋からニコラさんが戻ってくる気配はない。それどころか、息を潜め、存在を薄めようとしている空気を感じる。いったいなぜに。


「入るぞ」


 ガチャリとドアが開き、窺うような表情で旦那様が姿を見せた。


「あ……」


 思わず、ため息を漏らしたのは私だ。

 見慣れた騎士服と違った、夜の闇を凝縮したような漆黒の礼装。肩から床に向かう外衣には英雄然とした武人らしさが垣間見え、彼の鍛え上げられた長身を完璧に縁取っている。

 普段は無造作に流している前髪は、今はきっちりと撫でつけられ、露わになったその貌に私は無意識に目を奪われてしまう。整いすぎていると表現したくなるほどの美しい相貌の中で、唯一の熱を帯びた紅の瞳が、ほぅと呆けた私を映していた。


 ――かと、思いきや。


「…………!」


 私の碧眼にも、呆けた表情を浮かべる旦那様が映っていた。薄い唇は何か言いたげに、しかし声が出ないのか、はくはくと動かされており、目線は上へ下へと忙しく泳いでいる。


(め……めちゃくちゃ見られている‼)


「あ、あの……旦那様……」


 ニコラさん、ショールはまだですか!?


 そう念じたところで、彼女が駆けつけてくれる気配はない。

 耐えきれなくなった私が声を掛けると、旦那様はハッと我に返ったのか、ようやく視線が重なった。同時に、彼の声帯が仕事した。


「だ、駄目だ! こんなドレス……!」


「ガーン!!!!」


(断言……された……)


 旦那様の動揺で揺れる声に弾かれるようにして、私の特大の衝撃ボイスが炸裂した。「ガーン」なんて、普段口に出す擬音語ではないと思っていたけれど、本当にショックを受けた時はするりと出てくるらしい。

 実に新しい発見。そして、旦那様のお目を汚してしまったことへの罪悪感で、くらくらと眩暈がした。私はよほど、見苦しい姿をしているに違いない。


(私なんかが、可愛いドレスを着るべきじゃなかったんだ。りんご狩りの浮かれた空気に呑まれて、こんな痴態を……!)


「やっぱり変ですよね⁉ 背筋も腹筋もバキバキな私が、こんな可愛いドレス……っ。すぐに交換をお願いしてきます……!」


「ちが……待て! その恰好で行くな! せめて隠して――」


 顔から火が出そうなほど恥ずかしくてたまらない。

 そう思い、部屋から逃げ出そうとした私に、旦那様は慌てて駆け寄ろうとした。彼の手にはいつの間にか外されていた外衣があり、ドタバタとしているうちにバサッと風を含むと――。


「ひえっ⁉」


 逃げまどう私の頭に、旦那様の外衣が絡まるように被さってしまった。唐突に視界が遮られ、驚いた私はバランスを崩して大いによろけた。上半身が床に近づく気配がし、思わず「きゃっ!」という乙女のような悲鳴が口を突く。

 けれども、そこは日々トレーニングを欠かさない私である。一瞬の間で、「……っと、危ない! こけると思いました? 私の体幹、舐めちゃいけませんよ、えっへん!」と、鍛え上げられた筋肉で元の体勢にまで戻ることができると踏んだ――それなのに。


「……っと、あぶな――ふえぇっ⁉」


「ぬわッ!」


 私と旦那様の裏返った声が重なると同時に、鈍い痛みが走った。


(あ、そうか。私、誰かに助けられることに慣れてないんだ。今では、自力でどうにかしてきたから……)


 感覚としては、相手の剣を見切った時と似ていた。周囲の時間が限りなくスローに感じられるのに、頭は冷静に考え事をしている。

 この角度はまずい――そう思った時には、私の体幹は、予想外の衝撃にあっけなく敗北していた。

 私は床ではない何かの上に跨っていた。臀部に伝わってくるのは、熱を帯びた人体。布越しでも分かる、鍛え上げられたシックスパック。そして、「う……」という無駄に色気のある呻き声が、私の全身を急激に沸騰させた。


「ひゃぁぁぁっ‼ すすすすみませぇぇぇんっっっっ!!!!」


 絶叫に等しい謝罪を口にしながら、顔に絡みついていた外衣を手刀で取っ払う。部屋のシャンデリアの光を受けて明るくなった視界に飛び込んできたものは、私に押し倒され、床と背中が仲良しになっている旦那様の姿だった。


(男性を倒したことはあるけど、押し倒したことはないんだってばーっ!)


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