第31話:甘酸っぱい心とアップルパイ
***(SIDEアルビオ)
大切な女性が、目の前で泣いている。
見知らぬ下衆に汚い手で触れられている。
(相手の素性や経緯なんて、どうでもいい。消す理由はそれだけで十分だ)
相手の男は「くそっ! もう来やがった!」と悪態をつくと、馬乗り状態のままレジィナの首筋にナイフを押し当てた。
レジィナは上衣を破られ、白い肌を無理やり晒されていた。傷はなさそうに見えるが、本人の意思に反して弄ばれたことは容易に想像できる有り様だった。とても、許すことなどできなかった。
コイツはどうやら、酷い死に方をしたいらしい。意識を失った様子のレジィナの身が気がかりで仕方ない俺には、手段を選ぶ余裕など微塵もなかった。
「動くな! 近づいたら、てめェの嫁の首が飛――え?」」
無意味な脅し文句など、最後まで聞いてやる必要はない。
俺は男に向けて、指を一度だけ鳴らした。
乾いたパチンッという音と重なったのは、肉を裂く鈍い音だった。
「ぎゃぁぁッ! いでぇぇぇッ!」
耳障りな絶叫だった。
突如地面から隆起した氷の塊――さながら氷の槍が、男の腹部を勢いよく貫いている。どくどくと緑の大地を濡らす赤い液体は、あっという間に大きな血だまりを作り上げ、反対に男の顔色を真っ白にしていった。
「ま、魔法……⁉」
「だからどうした」
同等以上の魔法でなければ、この氷の槍は砕くことはできない。そもそも、この槍が抜けた瞬間、男は出血多量で命を落とす。
回復の術など使わせるものか。俺はお前を活かす気など毛頭ない――その意思を込め、再び右手の指先を男の胸に向けた。
「次は心臓を凍らせる」
「よ……よせッ! 雇われただけなんだよ! だからオレは悪くなくて――」
「下衆の遺言に興味はない」
無数の氷の槍が肉塊を生み出す壮絶な光景――。鉄臭さと生臭さが立ち込め、呼吸をするのも躊躇われるような空気に辟易とする。
レジィナが起きていなくてよかった。
そう思いながら、俺は彼女をそっと抱き上げた。
いつも明るく、笑顔を絶やさない。努力に裏打ちされた抜群の身体能力と剣技を備えている反面、それらが心の枷になってしまう――強さと繊細さを持つ令嬢。
俺にとってはどこまでも“守りたい女性”なので、素直に守られてほしいと常々思っていたのだが。
「すまなかった、レジィナ……」
レジィナの透き通るような白い頬に付着した、男の血を指の背で拭う。涙の痕の残る寝顔だけでは、まさか彼女が最強の【剣姫】であったとは思えない。折られたら枯れてしまいそうな、小さく弱々しい花のようだった。
(早くいつもの笑顔が見たいと願う俺は、傲慢だろうか)
◆◆◆(SIDEレジィナ)
揺れる馬車の窓から、私は外の景色を眺めていた。昨日は悪天候だったらしいが、今日は一部雲がかっているにとどまり、辺境伯家の馬はそれなりに軽快に走ってくれているように思う。
「はぁ~……。まさか丸一日眠ってしまうなんて」
「不意打ちだったんだ。気に病むな」
「でも、お城にいた時は、暗殺者なんて秒で成敗してたんですよ?」
バスケットを抱きしめ、大袈裟に肩をすくめる私。旦那様は「状況が違う」と言ってくれたが、なんとなく言葉が少ない。
分かっている。旦那様は、僧兵に襲われた私に気を遣ってくださっている。
一昨日、果樹園で気を失ってからの出来事は、旦那様がかいつまんで教えてくれた。
僧兵は彼が捕縛し、パーレ領主に引き渡したこと。雇い主がいるようで、その存在は調査中であること。そして私は一日深く眠り、毒はその間に抜いてもらえたこと。
旦那様は、パーレ領主からしばらく館で療養する許可を得ていてくれたが、私は首を横に振った。
「大丈夫です。皆さんにご迷惑をかけしたくありませんから」
作った笑顔は、不自然なものだったかもしれない。
けれど私は、一日も早く日常に戻りたかった。今まで通り、ランドブルム家のお屋敷で旦那様にお菓子を作り、筋トレをして、使用人や騎士団の皆さんとお茶をしたり、お話をしたりしたい。私は何も変わっていないのだと、実感したかった。
旦那様はそんな私の心中を察したのが、すんなりと意思を尊重してくれた。
けれど、私には彼の心が読めない。
静かに燃える紅の瞳には、怒りや哀れみ、後悔といった感情が複雑に入り混じっているように見え、私をどのように捉えているのかが分からなくて怖かった。
(どうしよう……。もし、失望されていたら……汚いと思われていたら……。もう、これまでみたいに気さくに接してもらえないかも……。私のお菓子も食べたくないかもしれないし、そばにすら置きたくないと思われてしまったら――)
「…………っ」
「レジィナ⁉」
「う……、なんでも…ないです……っ」
暗い思考を抑えきれなくなり、必死に堪えていた涙がぽろっと流れ出てしまった。
次々に溢れ出す大粒の雫を隠そうと両手で顔を覆うが、正面に腰掛ける旦那様を誤魔化すことなど不可能だった。肩を小刻みに震わせ、「目にごみが……」と言い訳した私の隣に、彼はそっと座り直し、黙って肩を抱いてくれた。
私は旦那様に促されるままその胸に顔をうずめ、少女のように泣きじゃくった。「うっうぅ……っ」と、繰り返される嗚咽が静かな馬車に響き、私の膝の上のバスケットが小さく揺れる。
この人から嫌われたくない。離れたくない。ずっとおそばにいたい――。
私は波打つ感情に呑まれそうになりながら、旦那様の騎士服を振るえる手で握りしめ、ぎゅっとしがみついていた。
どれほど時間が経ったか。手の震えが止まる頃には、旦那様の大きな手や逞しい胸の温度が、冷え切っていた私をじんわりと温めてくれていた。
「旦那様……すみませんでした……」
私はゆっくりと顔を上げ、濡れた目元を手の甲で拭った。こちらを見つめる旦那様と視線が重なると、怖くてまた震えそうになる。けれど、伝えなければ――と、勇気を振り絞って唇を動かす。
「たくさん……ご迷惑をお掛けしました……。私が頼んで、りんご狩りに連れて来ていただいたのに。気が……緩んでいたんだと思います。旦那様との旅行が楽しくて、つい……はしゃぎすぎてしまって……」
嫌な想像が頭をよぎり、耐えきれず目の奥が熱くなる。
私はこんなに弱い人間だったのか。感情ですべてが狂ってしまうような、このままならない感覚が厭わしくてたまらなかった。
「わ、私……、これからも、旦那様にお菓子をお作りしたい……です。け……汚らわしく見えるかもしれませんが、私……、ほんとに何も……何もじゃ、なかったですけど……。でも、それでも……まだ、旦那様の“妻役”でいたい、です」
たどたどしく胸の内を吐き出す私を見て、旦那様は眉の形をわずかに歪めさせ、視線を所在なげに彷徨わせた。
やはり、私の存在が嫌になってしまったのだろうかと、胸にズキズキとした痛みを覚えた。
僧兵に身の自由を奪われ、体に這わされたおぞましい手の感覚は、今でも鮮明に残っている。自分が以前とは別の生き物になってしまったのだと、思い知らされるような気がして、旦那様の次の言葉が恐ろしかった。
(だめ……旦那様を困らせるわけには……)
「申し訳ございません……こんな自分勝手なことを――」
「レジィナは綺麗だ。晩餐会の夜も、そう言っただろう?」
「え……」
旦那様は私の目尻に滲んでいた涙を指の背でツイとさらっていくと、穏やかな声音でそう告げた。
「俺は君を美しいと思っているよ。金糸のような髪も、空を映したような瞳も、眩しい笑顔も、そして心も……、ずっと変わらず……。手放しなんてしない。レジィナ・ランドブルムの居場所は、俺の隣だ」
「旦那……さま……、本当に、いいんですか?」
「あぁ。俺は嘘や世辞が嫌いなんだ。……そうだ。このパーレ領旅行……トラブルがあったが俺も楽しかった。柄にもなく、はしゃいでしまった。君と同じだな」
旦那様の優しい言葉と笑みが、私の胸にすっと溶けていく。温かい感情がトクトクと流れ出す、その感覚が愛おしかった。
(私……旦那様と出会えてよかった。また二人で出掛けたい。たくさんお話がしたい。お菓子もたくさんお作りして、もっともっと喜んでもらいたい。これからもずっとずっと――)
多幸感の奥。そこにある気持ちに触れた私は、もう目を背けることができなくなっていた。
(私、いつの間にか旦那様のこと、こんなに好きになってたんだ――……!)
「大丈夫か?」
「ひゃっ! な、なんでもないです!」
旦那様に顔を覗き込まれそうになり、私は慌てて膝上のバスケットを持ち上げ、盾にした。頬だけでなく耳までカッカッと熱くなっているので、とても見せられる顔ではなかった。
「おおおやつにしましょう‼ 領主館を出る前に、厨房を借りて作ったんです‼」
ふーふーっとのぼせる熱を吐き出しながら、私はバスケットを差し出した。
中には、こんがりと艶やかな黄金色に色づいた三角形のパイが鎮座している。芳醇なバターを贅沢に練り込んだ生地からは、食欲をそそる芳醇な香りと、りんごのほのかな酸味を漂わせていた。
「アップルパイだな」
「はい。パーレ領のりんごは煮崩れしにくく、ほどよい酸味もあってアップルパイにぴったりなんです。シナモンとの相性も抜群で、これだけでも十分美味しいんですけど、持参していたランドブルム領の小麦粉やバターで作ったパイ生地がベストマッチでして。甘酸っぱいりんごのフィリングとバターたっぷりのパイ生地のマリアージュが最高なので、ぜひぜひたくさん食べてください旦那様っ!」
オタクの早語りをぶちかまし、赤面を高揚感でカムフラージュ……できただろうか。ある意味いつも通りだと感じてくれたのか、旦那様はフッと小さく口の端を持ち上げた。
「ありがとう」
三角形のアップルパイを愛おしそうに見つめる旦那様の姿が、私の胸をぎゅんっと握りつぶしにきた。心臓を患ったのかと思った。
「う……っ!」
(アップルパイ、その場所代わって……!)
「顔が赤いぞ。やはりまだ毒が…?」
「だ、大丈夫です! ぜんっぜん大丈夫ですから‼」
旦那様が私の額に手を当てて熱を測ろうとするので、再びバスケットを盾にして逃げ回る。
馬車の御者席では、ブラッドさんとニコラさんが「難儀ですなぁ」「ですねぇ」と微笑みあっていたのだが、私と旦那様の知るところではなかったのだった。




