第17話:誘惑のキャロットケーキ
(SIDEアルビオ)
翌日――。
辺境騎士団の訓練所から戻った俺は、夕刻からの幹部会議に備え、束の間の休息――という名の自主トレーニングを屋敷の庭で行っていた。
少し離れた場所で、ブラッドが花の世話をしながら、時折俺の剣の素振りに目を細めている。何か思うことがあれば、言ってくれたらいいというのに。
俺の頭には、先日町で目の当たりにしたレジィナの剣技が焼き付いている。彼女の風のようにしなやか、かつ一切の無駄のない剣は、俺が今まで相手にしてきた王宮剣術使いたちとは一線を画すものだった。
(美しく、鋭かった……。王妃になるために――国のために磨かれた剣は、あれ程の覇気を纏うのか……)
負けていられない。いや、上回らなければならない。
レジィナの花が咲くような笑顔を思い出し、心をぎゅっと引き締めた。
振り抜かれた剣は鋭く空気を切り裂き、音が遅れて耳に届く。調子は悪くない。だが、まだまだ足りない。
俺は元々体が弱い子どもで、がむしゃらに鍛え、剣を振り、下級騎士としての下積みを経て、ようやく辺境騎士団の長の座を得た。前ランドブルム辺境伯の養子になったのもその頃だが、今の自分に領主としての器が満足にあるとは思っていない。
地位や名誉はただの飾りだ。現状は通過点でしかないのだから、俺は止まるわけにはいかない。
(彼女に剣ではなく、笑顔で泡だて器を握らせてやらなければ――)
「旦那様ぁぁぁーーーーっ!!」
「な、なんだ⁉」
俺がレジィナのことを考えていると、ドドドドドッと大地が唸る音が周囲に響き渡った。猪でも迷い込んできたのかと後ろを振り返ると、足の回転が肉眼で追えないほどの速度で走りくるレジィナの姿があった。
一瞬で俺の目前に到着し、ブーツと地面の間に火花を散らしながら急停止した彼女の右手には、水平を保った銀色のトレイがある。トレイの中身は、白地に青色の薔薇の絵がデザインされたティーセット一式、そして赤みがかった茶色い生地に白いクリームがのったケーキだ。
ケーキはパウンドケーキのような長いものから切り出したのだろうか。程よい厚さのものが二切れ、美しい角度で皿に盛られている。派手な見た目ではないが、独特な甘い香りがふんわりと香り、食欲を刺激してくる。
「今日の菓子だな。感謝する。慌てて走って来なくても、俺は逃げたりしないぞ?」
「本当ですか? よかったです~。これ、キャロットケーキなんですよ!」
「なッ!」
剣を鞘に納めていると、衝撃の一言が浴びせられた。思わず、顔が固まってしまう。
言われてみれば、ケーキの生地に細かいオレンジ色の何かがたくさん混ざっている。まさか、菓子にニンジンを混ぜ込んだというのか。
(天使の顔で、悪魔の所業を……‼)
俺はニンジンが大嫌いだ。子どもの頃、一生分のニンジンを無理やり食べさせられたのだから、もう十分だ。あの土臭さとえぐみを思い出すだけで、大人になった今でも頭痛がするほどだ。
というわけで、俺はくるりと踵を返した。
「いくら君のお菓子であっても、ニンジンは断る! すまない、レジィナ!」
「あーっ! 逃げないっておっしゃったのに!」
「逃げてはいない! 戦略的撤退だ!」
大人げないのは承知の上だが、レジィナの菓子を食べて、嘔吐などしてみよう。そちらの方が何倍もまずい。彼女に情けない姿を晒すだけでなく、一生好きになってもらえなくなるかもしれない。
俺が未来のために駆け出すと、レジィナが「もうっ!」と可愛い声を発して追ってくる。可愛くても、ダメものはダメだ。ニンジンは俺の天敵だ。
「逃がしません……っ!」
レジィナは地面に両手をつくと、低い姿勢を取ってグッと足に力を溜めた。彼女を纏う空気が張り詰め、俺は振り返りながら息を吞んだ。
よーいドンッ!
レジィナが青い芝生を思いっきり蹴り上げると、地面が抉れ、芝と土が舞った。庭師の悲鳴が幻聴として聞こえるのと同時に、レジィナの姿は金色の閃光となっている。刹那、目を開けていられないほどの突風が、俺のそばを通り過ぎた。
あまりのスピードに俺は身動きが取れず、その場に立ち尽くしてしまっていた。おそらく、一般人であれば腰を抜かすことだろう。
俺は正面に回り込んできたレジィナを見つめながら、「敵わないな……」と呟きを漏らした。
一方レジィナ本人はというと、何事もなかったかのようにけろりとした表情だ。相変わらずトレイは水平を保っており、これだけの動きをしてよく載っているものが落ちないなと感心してしまう。
「さぁ、旦那様! 味は保証いたしますので、思い切ってどうぞ!」
「う……うぅ……」
今はもう、ニンジンが原因で躊躇っているわけではなかった。
俺の口元に差し出されているのは、レジィナの持つフォーク。その先にはキャロットケーキ。つまり、「あーん」のシチュエーションを突きつけられていることが、とてつもなく恥ずかしかった。きっと耳まで赤くなっている。感覚で分かる。
まるで愛し合う恋人同士のようなやり取りに、レジィナは何も感じないのだろうか? それとも、子どもの食事を手伝う感覚なのだろうか?
(う~~、ダメだ! レジィナの善意が眩しい……ッ)
「はい、どうぞ♪」
大空を映したような瞳が俺を期待いっぱいに見つめ、俺はついに口を開けた。
キャロットケーキを口に含んだ瞬間、癖のある香りが鼻に抜けた。しっとりとした生地が舌の上でほぐれ、ゆっくりと甘みが広がった。
その甘さは砂糖の直線的な甘味ではなく、どこか優しくて丸みのある甘さだ。
噛むたびに、刻まれたクルミが小さく音を立てて存在を主張し、柔らかな生地に愉快な異物感を忍び込ませる。
そして舌の上に最後まで残るのは、濃厚でどこか牧歌的なクリームチーズの塊。ほのかな塩気が全体の甘さを引き締め、後を引く余韻を残していく。
(ニンジンの臭みやえぐみを感じない……。この優しい甘さが本当にニンジンなのか?)
正直、この美味しさは感動ものだ。実家で出されていたニンジン料理とは印象がまったく違う。
俺が黙ってキャロットケーキを味わっていると、なぜかレジィナがそわそわし始めた。頬が濃い桃色に染まり、動きに落ち着きがない。どうやら、味の評価が気になるというだけではなさそうだ。
俺がキャロットケーキの感想を述べようとすると、レジィナが勢いよく頭を下げた。
「もっ、申し訳ございません……! 私、旦那様にニンジンの美味しさを知っていただきたくって、つい無礼な真似を……! 故意でも恋でもないんです。だから、解雇や離婚は勘弁してくださいっ!」
やらかしてしまってから、我に返ったらしい。
まぁ、そうだろう。俺の口元は思わず緩むが、熱を帯びた頬と一緒に手で覆って隠すことにした。
「かまわない。俺も、つい口を開けてしまったから……。ありがとう、とても美味しいよ」
「気に入っていただけてよかったです……!」
俺が怒っていないことが分かり、レジィナがほっと肩を撫で下ろした。
俺はそんな簡単に結んだ契約を破棄する男に見えるのだろうか。軽薄な振る舞いはしていないつもりだが、しかしたら彼女は自分に自信がないのかもしれない。
(人のために、こんなにも一生懸命になれる……素晴らしい女性なのにな……)
「……しっとりしているが、食べ心地は軽い。ニンジンの臭みを感じない上に、このいい香りはなんだ?」
「きっとスパイスですね! 今回はシナモンとナツメグが入っています。あと、ニンジンはすりおろしたもの以外に千切り状のものも。食感がいいアクセントになっているかと思います。フロスティングにもこだわっていて――」
照れを誤魔化すために問い掛けると、一瞬でレジィナの菓子オタク語りが始まった。早口でまくし立てるようにして話す彼女の声音は、何度聞いても飽きないものだった。
俺は無意識に彼女をじっと見すぎていたらしい。視線のくすぐったさを自覚した様子のレジィナは、「続きを召し上がれますよね⁉」と慌てて言葉を切った。
「あちらにテラス席を用意しているんです。紅茶も入れますね。よければそちらへ!」
「あぁ。ぜひ頼む。……だが、ひとつだけ言っておく」




