第12話:大嫌い
「領主様。もしやお隣のご婦人は、“悪の【剣姫】”……では? 王都に商いに行った時に、そのような噂を耳にいたしまして……」
町人の男性に声をかけられ、旦那様の濡れ羽色の眉がピクリと動いた。
「“悪の【剣姫】”って、気に食わないご令嬢に剣を向けたっていう……」
「そりゃ、おっかねぇ。なんでクレラント領にいるんだよ」
「お城から追い出されたからでしょう。領主様、なんてことしてくれたのよ」
「きっと領主様、あの女に弱みか何かを握られて……」
旦那様の返事を待たずに、悪意を孕んだ囁きが漏れ出す。
小声だというのに、耳の奥に滑り込んで来るのはどうしてだろう。
「皆さん、だ――」
「ひぃっ! 剣を抜く気か⁉」
旦那様の「弱み」と言えば、お菓子がお好きなこと。それは重要機密なので、「旦那様に『弱み』なんかありません!」と言おうとしたのだが、どうやら私は選択を誤ってしまったらしい。
私が口を開いただけで、町の人々は震え上がり、周辺の空気は凍ったように冷たくなってしまった。
私の“悪の【剣姫】””
の噂は、王都から辺境にまで広がっていた。
旦那様を冷血者だと思い込み、勝手に怯え、身構えていた私には、そんな悪評を否定する権利もきっとない。冤罪を訴えたところで、嘘つき女扱いを受けるだろう。ここには私の潔白を証明してくれる人は誰もいない。
私は視線を向けることも赦されないことを悟り、唇をかみしめて地面を見つめた。
婚約破棄をされたばかりの時は、自由になったことに舞い上がっていたし、そばには優しい家族がいた。だから、世間から自分がどう見られているのか、本当の意味で理解していなかったのだ。
私が自由と引き換えに負わされた傷は、決して軽いものではなかったことが、今さらになってじくじくと肌に染みた。
(どれだけ遠くに来たって、私は“悪の【剣姫】”なんだわ……。まだ清算が叶っていないんだから仕方がない。でも、無関係の旦那様が悪く思われてしまうこと……それに、町の人たちにそう思わせてしまうことは、とても耐えられない――)
私が俯いていた顔をわずかに上げると、旦那様と視線が重なった。
旦那様の瞳には、感情を必死に抑え込もうとしている私が映っていた。
「……ごめんなさい。町の空気を濁してしまいました。買い物は今度ニコラさんに頼んで、私はもう帰りますね……」
「それは認められない。君は領主夫人――俺の妻なんだ」
背中を丸めて立ち去ろうとした私に浴びせられた声は鋭かったが、それだけはっきりと周囲に響いた。
彼の「俺の妻」宣言は町人たちを驚かせたのはもちろん、当事者の私を一番仰天させた。
「旦那様……」
「ここは俺の町だが、君の新しい居場所でもある。どうか、胸を張ってくれ」
「でも……」
言い淀む私を見て、旦那様は柔らかく目を細めると、皆に聞かれないように耳元で「仮初めだが、夫の俺が傍にいる」と囁いた。脳が痺れるほど優しい眼差しと、甘さを孕んだ声音だった。普段の険しい言動との差に、私の頬は一人でに熱を帯びてしまう。
婚約者だったキースには、いい意味でドキドキするようなギャップはなかった。彼はいつでも誰にでも優しくて、笑顔を絶やさない人だった。
民の上に立つ立場としては、あらゆる者に対して公正平等に人に接することが望ましい――私はそう思ってきたのだが。
(上下の関係じゃなくて、隣に立つなら……ちょっと違うのかも)
「お気遣い、ありがとうございます!」
丸めていた背中をしゃっきりと伸ばすと、視界が明るく広がった。
穏やかで温かな日差しに愛された町。
ここは、契約妻の私を気にかけてくださる優しい旦那様の領地だ。初めから後ろ向きでいたら、誰も心を開いてくれるわけがない。きっと善意で接していけば、いつか誤解が解ける日も訪れる。
それに正々堂々、愚直にいくのがハートヴァルド家の生き方。体当たり上等だ。
「いや、気遣いでは――」
言葉を継ごうとした旦那様の声を、轟音がかき消した。
通りの奥で悲鳴がはじけ、荷馬車がこちらに一直線に突っ込んできたのだ。
「レジィナ! 危ない!」
旦那様が咄嗟に私の手を取ろうとした。
けれど私は、スッと体を引いてしまった。彼の手が自分の手に触れることを反射的に拒んでしまったのだ。
旦那様の瞳の紅色がかすかに揺れたのを、私は見逃さなかった。
(あ……私、また……)
上半身を器用に捻り、ヒールのあるブーツで力強く大地を蹴り上げると、私の全身は重力を無視したかのように宙にふわりと浮き上がる。
私が王妃になるべく受けて来た修練を思えば、目で追える速度の物体を回避することなど実に容易い。馬車の荷台の高さの跳躍も然りだ。
けれど、旦那様に気づかれてしまっただろうか。
申し訳ない気持ちで胸をひりひりとさせながら、視線を眼下の暴走荷馬車に落とす。
馬車を操る男一名と、荷台に二名。傭兵崩れの窃盗団だろうか。荷台には檻に閉じ込められた家畜詰まれているが、彼らはどう頑張っても酪農家には見えない。鍛えられた体躯を持て余し、手入れの行き届いていなさそうな武具を脅すように振りかざしている。
(家畜泥棒だ……!)
そこまでの視覚情報を1秒足らずで整理し、地面に軽やかに着地を決めた。
「高級家畜はいただきよぉっ!」
「オラオラ! どけどけぇぇいっ!」
荷馬車が市場をうねりながら駆け抜ける。
町の人々は慌てふためき逃げ出そうとするが、窃盗団は彼らをもてあそぶかのようにして、荷馬車を走らせている。
悲鳴が波のように押し寄せ、市場はたちまち混乱に突き落とされた。
旦那様の大切な領地を、人を――私の「新しい居場所」になるはずの町を好き勝手に侵されて、黙っているわけにはいかない――。
そう思った時には、私は再び荷馬車の前に躍り出ていた。
大嫌いな自分の手を爪が食い込むほどに、ぎゅっと握って。
「女ァ! ひき殺してやるよ!」
窃盗団の荷馬車が暴走の勢いで迫りくる。
人々泣き叫ぶ声が遠く聴こえ、私の周囲をひんやりとした空気が包む。
肌を刺すような緊張感と相反する落ち着きが指先にまで行き渡ると、私は握っていた手を懐に差し入れた。
同年代の可憐な令嬢たちとは似ても似つかない。もともと女性にしては大きいことはもちろん、何度も潰れた手豆の箇所はすっかり固くなっているし、消えない傷跡も一つや二つではない。私が【剣姫】であることを物語る、そんな“手”だ。
「私、自分の手が大嫌いなんです。鍛錬ばかりしてきたこの手は、硬くて、傷だらけで……調理器具よりも断然、剣が馴染んでしまうから――!」
捨てたいくらいの右手ですらりと引き抜いた短剣。それを構える私は、【剣姫】の顔をしていた。




